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波 太 神 社
大阪府阪南市石田167
祭神--角凝命・応神天皇
付--鳥取神社
                                                        2019.10.04参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国 日根郡 波太神社』とある式内社。

 南海本線・尾崎駅の南約2km、駅西側から南へ向かい、男里(オノサト)交差点を過ぎ集落内を道なりに進み、府道261号線・石田交差点を渡った南に広がる森の中に鎮座する。


※由緒
 境内に立つ案内には、
 「鳥取氏の祖神である角凝命(ツノコリ)を桑畑に祭ったことから『波太』の名がついたものと思われます。
 正確な創建の年代はわかりませんが、927年に完成した延喜式には、鳥取郷の総社として記録がみられることから、その当時には既に創建されていたようです。
 桑畑から現在の地に移されたのは何時の頃なのかはわかっていませんが、貝掛の指出森神社を合祀し、神々をひとつの神社に祭ることとしたため、本殿には波太宮(祭神:角凝命と八幡宮(祭神:応神天皇)が祭られ、末社三神社には天湯河板挙命(アメノユカワタナ)・神功皇后・武内宿禰が祭られています。(以下略)
とある。

 また、頂いた由緒略記には
 「当神社は古来鳥取大宮と称し、波太八幡宮ノ社等の称号あり。
 波太神社は鳥取氏の祖・角凝命を主神として相殿に応神天皇を祀り、延喜式内の旧社にして国内神名帳に神階正四位下波太社とあり、鳥取大宮の称は鳥取郷の総社たるを以てなり。
 御鎮座年代詳かなならざるも社伝(妙法院二品堯延親王の撰したるもの)に曰く、(中略)

 古・紀その他の史書に曰く、垂仁天皇の時 角凝命三世の孫・天湯河板挙、皇子・誉津別の為に鵠を出雲(或は但馬と云)に捕へて之を献ぜしかば、天皇其の功を賞して鳥取連の姓を賜ふ云々。
 時に天湯河板挙一族の居住地たる大字桑畑の奥の宮に祖霊・角凝命を奉祀す。之れ波太神社の起源なり。波太は畑の義にて鎮座地を社名としたるものなり。

 八幡宮は昔神功皇后新羅を征し凱旋のとき、偶忍熊王反し住吉に屯するとき、武内宿禰に命じ皇子を懐きて南海に起かしむ、宿禰御船を鳥取の玉津に繋ぎ、皇子を懐にして海辺を逍遙せられし縁により、後に其の地に社殿を設け応神天皇を祀れり、今の下荘村大字貝掛指出森神社是也。

 其の年間詳かならねど、桑畑邑の畑神社兵火に罹りしを以て郷の老宿力を合わせ私財を抛て今の地に社殿を造営し、桑畑邑より波太神社を是処に移し、指出森神社より応神天皇の神霊を迎へ相殿に合祀せり、当時神領数ヶ所ありしも、歳月の移り行くままに社運漸く傾き、元亀年間に至り最も甚だしく、殿堂いたく朽廃せしかば公方の保護の下に再興し、仁和寺一品仁助法親王を導師として遷宮式を行へり。
 天正年間織田信長紀州征伐の時 当社をよぎり内陣に入らんとしけるに社殿大に震動し其の目的を達し得ざりきと云ふ。
 後豊臣秀吉の根来征伐に際し其の余殃にかかり殿堂社宝一時に灰燼に帰し、昔平重盛熊野詣の時当社に奉納したる大刀を始め其の他の什宝悉く失せたりと云ふ。
 其れより慶長年間豊臣秀頼片桐且元を奉行として営繕せしめたるは現在の社殿なり。されど社領の多くは収公せられ僅に御供田をしゃいきにの一部に遺し、以て維新に至る」
とある。

 大阪の地誌には次のようにある。
*大阪府全志(1922)
 「波太神社は南方字池の内にあり。延喜式内の神社にして角凝命を主神とし、相殿に品陀別命を祀れり。鳥取郷の惣社にして、鳥取氏の其の祖神を祀りしものならん。
 今の大字桑畑なる字奥の宮にありて鳥取大神と称せしが、南北朝の戦いに鳥取氏の南朝に加わりしが為め、天授年中名氏に滅ぼされ、当社及び波太八幡宮並びに宮寺たる神光寺も総て劫火に罹りて焦土と化せり。

 波太八幡宮は当時今の下荘村大字貝掛の指出森にありて、昔神功皇后の新羅より凱旋し給ひしとき、務古の水門より紀の國に至らんとして御船を鳥取の玉津浦に繋がれ、武内宿禰皇子を懐にして其の海辺を逍遙せし縁あるに依り、同皇子即ち品陀別命を其の地に祀りしものに係り、

 神光寺は貞観年中(859--77)南都大安寺行教和尚の其の祖紀船守の墓に詣づる為め淡輪村に行かんとして、鳥取郷を過ぎけるとき、鳥取隼人正の一寺を創立して宮寺と為し(神光寺)、同和尚を開山たらしめたるものにて、・・・

 鳥取氏已に滅び、当社及び波太八幡宮並びに神光寺も烏有と化せしかば、郷の耆宿之を歎じて、永徳年中(1381--84)其の36人力をあわせ私財を抛ち、地を南山の麓に卜して社殿を再建し、波太八幡宮の祭神を相殿に合祀し、神光寺を再建したるは即ち当所なり。(以下略)

*大阪府史蹟名勝天然記念物(1929)
 「波太神社は、明治41年3月東鳥取村各大字の神社を合祀し、同42年5月新に一社を創建したる後も、もとの社名を襲用したるものにて、以前は波太神社の外に、鳥取大宮又は波太八幡宮の称あり。

 波太神社は鳥取氏の祖・角凝命を祀り、延喜式内の旧社にして、国内神名帳に正四位下波太社とあり、もと大字桑畑字奥の宮に鎮座ましまししを、今の処に遷し奉りて後も、もとのまま其の名を波太神社と称し奉りしなり。
 波太は畑の義にて鎮座地を社名となしたるなり。鳥取大宮の称は鳥取郷の総社たるを以て、波太八幡宮の称は下花村大字貝掛差出森神社の祭神品陀別命を相殿に祀りしを以てなり。
   (中略)
 其の由来を案ずるに、垂仁天皇の時角凝命三世の孫、天湯河板挙、皇子誉津別の為に鵠を出雲(或はいふ但馬)に捕へて之を献ぜしかば、天皇其の功を賞し鳥取連の姓を賜ひ、且鳥取部・鳥養部・誉津部を定め給ひき、時に鳥取地方は天湯河板挙一族の居住地たりしを以て、その祖角凝命を大字桑畑の奥宮に奉祀す、これ波太神社の起源なり。

 昔神功皇后新羅を征し凱旋のとき、偶忍熊王反し住吉に屯するときき、武内宿禰に命じ、皇子を懐きて南海に趣かしむ、宿禰御船を鳥取の玉津に繋ぎ、皇子を懐にし海辺を逍遙せられし縁により、其の地に社殿を設け品陀別命を祀れり、下荘村大字貝掛の指出森神社是なり。

 貞観年間南都大安寺行教和尚故ありて鳥取郷を過ぎけるとき、鳥取隼人及び郷の耆宿と図り、地を南山に相し、社殿を造営し、大字桑畑の波太神社をここに移し、併せて品陀別命の霊を指出森神社より勧請し、且つ宮寺神光寺を建て、ここに波太八幡宮の創立を見るに至れりといふ。

 一説に、弘和年間(南朝年号、北朝年号・永徳に同じ)鳥取氏吉野朝に属し、桑畑の波太神社兵火に罹りしを以て、郷の耆宿36人力をあわせ私財を抛ち、今の地に社殿を造営し、其の神霊を遷すと共に、品陀別命を相殿に合祀したるなりといふ。(以下略)


 これらを簡単にまとめると
 ・当社は、主祭神・角凝命を祀る波太神社(別称・鳥取大宮)と、合祀神・品陀別命(応神天皇)を祀る波太八幡宮(旧称:指出森神社)から成っている

 ・波太神社は、当地を居住していた天湯河板挙一族(鳥取氏)が、その祖・角凝命を祀ったもの
 ・当社は、もと近接する桑畑の地にあったが(今、当社の西に桑畑の地名がある)、貞観年間(859--77)もしくは永徳年間(1381--84)に現在地に社殿を造営して遷った
 ・延喜式神名帳に列する式内社で、案内には「延喜式に鳥取郷の総社との記録がみられる」とあるが、延喜式にそのような記録はみえない
 ・律令制の頃、新任の国司は先ず領国内の神社を総て巡拝するのが最初の仕事とされたが、後になると、領国内の神社を国府近くの一社に集約し、之を拝することで巡拝に替えたといわれ、これを総社と呼んだ
 ・その総社が延喜式制定時にあったかどうかははっきりしないが、多分なかったであろう
 ・しかし、当社が延喜式に列していることから、10世紀に桑畑の地にあったのは確かであろう

 ・波太八幡宮は、神功皇后新羅からの凱旋の折、当地に立ちより、その時、武内宿禰が皇子・品陀別命(後の応神天皇)を懐に抱いて逍遙したとの縁によって祀られたという
 ・ただ、書紀・神功皇后摂政前記に当地に立ち寄ったとの記述はみえず、これは神功皇后伝説の一つにしか過ぎない
 ・当宮は、もと下荘村貝掛(箱作ともいう)の指出森にあって指出森神社と称したが(当社の西約2.5kmに貝掛の地名があり、指出森神社かある)、波太神社が当地へ遷座した時に合祀され、波太八幡宮と改称した
 ・八幡宮の全国展開は、貞観元年(859)の石清水八幡宮創建以降というのが一般の理解で
  とすれば、当宮が貞観年中に現在地に遷座し八幡宮と改称したというのは、このとき八幡神を勧請したのであって、それ以前の祭神は別神だったかもしれない
 ・なお、現指出森神社関連資料には、現在地への遷座は南北朝時代とあり、永徳年間の遷座というのが実際かもしれない
となる。

 波太神社創建に関連する天湯河板挙について、書紀・垂仁23年条に
 ・天皇の皇子・誉津別(ホムツワケ)は、30歳になって長い顎髭が伸びても泣いてばかりいて、声を出して物を言うことがなかった
 ・10月8日、天皇と皇子が大殿の前に一緒におられると、白鳥の鵠(クグイ)が大空を飛んでいった
 ・それを見た皇子は「あれは何物か」といわれた
 ・皇子が口をきいたことを喜んだ天皇は、まわりの人にクグイを捕らえて献上するようにといわれた
 ・鳥取造の祖・天湯河板挙が名乗りをあげ、出雲(但馬ともいう)まで追いかけて之を捕らえ、11月2日に献上した
 ・皇子は、このクグイを弄んでいるうちに物が言えるようになった
 ・天皇は湯河板挙に賞を与え、鳥取造という姓を授け、鳥取部・鳥養部を定められた
とある(大意)

 誉津別皇子とは、古事記に、
  「垂仁の后・佐保姫は、肉親の情から兄・佐保彦の反乱に従い、天皇に攻められて兄と共に亡くなったが、落城のとき、燃えさかる稲城の中で生まれた御子・誉津別を天皇に引き渡した。火中に生まれたことからホムツワケと呼んだ」
とある皇子を指す(大意)

 ここでは、誉津別皇子が白鳥(鵠)を見て物をいったというが、古代人の感性では、白鳥(あるいは鳥)とは魂を運ぶもの(装飾古墳のなかには、鳥が喪船の先端に止まって先導している絵が幾つかみられる)、あるいは魂そのもののともいわれ(日本武尊は白鳥と化して大和に帰ったという)、この伝承は、誉津別が白鳥を得ることで本来の魂を取り戻し、それによってはじめて物をいったことを示唆するとも解される。

 これに関連して、谷川健一は
 ・ホムチワケは髯が長く垂れる年頃になっても唖のままであった。ただ空高く飛ぶ白鳥の声を聞いたとき、口をパクパク動かしたという
 ・これは、白鳥がタタラの作業をする人たちの神であったことをおもわせる
 ・鳥が羽ばたくこと、羽を振るうことを、古語では“はぶく”という。“羽振鳴く”とか“羽振鳥”という語が万葉集にもみえている
 ・この“はぶく”は古代には“フイゴ”の意味にも使用されている。つまりフイゴの動作が鳥の羽ばたく姿を連想させたのであろうか
 ・いずれにしても、白鳥の飛び立つ場所がそのまま、タタラ製鉄の跡と重なり合っていることは注目に値する
として、白鳥とタタラ製鉄、ホムツワケとタタラ製鉄、ひいてはタタラ製鉄と当地の関係を推測している。


 上記伝承での天湯河板挙は鳥取氏の始祖というが、このユカワタナについて、折口信夫は
 ・ユカワタナのユカワとは斎河(ユカワ・禊ぎの場)であって、古くは川のほとり或いは海辺などにあった
 ・そこには湯河板挙と称する棚をつくられ、神の妻となる乙女が神の訪れを待った。いわゆるタナバタツメである。
 ・このユカワタナを人格化したらしい人名に天湯河板挙があり、彼が鵠を追って出雲まで行ったということは、禊ぎの場を求めてのことである
という(水の女・1927、大意)

 これに対して谷川健一は
 ・鳥取氏の祖・ユカワタナの本拠は和泉国日根郡鳥取郷(現鎮座地の辺り)といわれる
 ・その地に鎮座する式内・波太神社は、主祭神として鳥取氏の祖・ツノコリ命を祀り、摂社にはアメノユカワタナを祀っている
 ・波太神社の社伝によると、波太は畑の意で、アメノユカワタナ一族が居住していた大字桑畑の奥の院に、祖神の角凝命を奉祀したのが波太神社の起源という
 ・鳥取郷史によると、奥の院の所在地は桑畑の入口にあったという
 ・一方、垂仁天皇の皇子・印色入日が一千本の剣を鍛えさせて、石上神社に奉納したという鳥取の河上宮は、阪南町の自然田の辺りとされ(当社のすぐ北に接する)、その南の玉田山に比定され、泉州志によれば、そこは命の陵墓との説があるという
 ・こうしてみると、アメノユカワタナは金属精錬に関係する人物で、アメノユカワタナが白鳥を追いかけたというのは、ミソギの場所を探し歩いたという折口説とは異なり、鍛冶神が白鳥となって飛んでいく後を追いかけたというのが、真相であろう
として、天湯河板挙は金属精錬に関係する一族の長で、白鳥を追いかけたというのは、金属精錬に相応しい場所を探しての旅ではなかったか
というが(白鳥伝説・1997)、当地付近にタタラ製鉄関連の遺蹟は確認されていない。

 天湯河板挙の後裔という鳥取氏について、新撰姓氏録(815)には
 「和泉国神別(天神) 鳥取  角凝命三世孫天湯河桁命之後也」
とあり、鳥取氏一族が当地に居たことは間違いはなさそう。
 (他に、右京神別・鳥取造、山城神別・鳥取造、河内神別・鳥取があり、いずれも角凝命三世孫天湯河桁命之後也とある)


※祭神
 本殿--角凝命・応神天皇
 摂社・三神社--神功皇后・武内宿禰・天湯河板挙命

 角凝命の出自は不祥。
 ただ、齋部宿禰本系譜との資料に、“神皇産霊神(カミムスヒ)の御子”とあるが、これは鳥取氏が始祖を神皇産霊神に求めて作った系図であり信用はできない。

 応神天皇は、合祀されている波太八幡宮の祭神をそのまま残したものだが、八幡宮創建の由緒とする、武内宿禰が皇子(応神天皇)を懐に当地の海辺を逍遙したというのは所謂神功皇后伝説の一つであり、その信憑性は皆無。

 摂社・三神殿の祭神は、由緒等にみえる当社祭神に関係する3柱の神を祀ったもの


※社殿等
 石田交差点の南側にこんもりとした森があり、神社はこの奥に広がる鎮守の森の中に鎮座する。

 この森には江戸時代までは神光寺との神宮寺があったといわれ、柵前に立つ案内板には
 「神光寺(蓮池)遺蹟
  明治時代の初めまで波太神社の神宮寺として神光寺というお寺が この付近に存在していました。また蓮池の地底から有茎尖頭器と呼ばれる槍の先につけた石器が発見されていることから、神光寺(蓮池)遺蹟として知られています」(以下略)
 案内によれば、当遺蹟は縄文草創期から中期にかけての石器や石鏃・方形周溝墓などが出土しており、古墳時代にも出土遺物からみて集落が営まれていたと推測され、平安以降になると、神光寺の存在を裏付ける亙などが大量に出土しており、
 「この神光寺(蓮池)遺蹟は、阪南市でもその性格が知られている数少ない遺蹟のひとつです」
とある。
 今は、樹木に覆われているだけで、寺院・蓮池等の痕跡はみえない。

 
波太神社・鎮守の森
 
同・神社への入口 

 入口を入って少し進んだ右手に鳥居が立ち参道が延び、その突き当たり、小さい端を渡った先の低い石垣の上が境内。

 
波太神社・鳥居
 
同・参道
 
同・社頭(境内入口)

 石段を上った境内正面に唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が建つが、屋根中央部の上部に楼閣を重ねた珍しい構造となっている。
 拝殿内陣は簡素な造りで、素通しの中央奥に本殿正面にかけられている幕が見える。

 
同・拝殿
 
同・拝殿

同・内陣(奥に本殿の一部が見える) 

 当社本殿は三間社流造と呼ばれる建築様式で、社頭の案内には
 「重要文化財 波太神社 本殿・末社三神社本殿
 波太神社は、神社形式からいうと『三間社流れ造り』といわれるものです。
 拝殿奥の正面に本殿があり、向かって左側奥に末社三神社があります。

 本殿は両側に階段があり、その上部は普段では幕で覆われています。この幕の奥は3っに仕切られていて、両脇の間が神座となっています。
 中央に設けられているのは『相の間』で、2柱の神を合わせて祀る場合、その間に設ける間のことで、このように3っの間が設けられているものを『三間社』といいます。
 流れ造りというのは屋根の形式のことで、屋根の流れが、後ろに比べて前を長く伸ばして反りを付けたもののことです。
 なお本殿は寛永15年(1638)に建てられたことが、棟木に打ちつけられた木札に記されています。

 末社三神社は小型の三間社流れ作りで、細かい造りなどは本殿とよく似ているため、本殿と同じ時期に建てられたものと考えられています。

 江戸時代初期の特徴がよく残されていること、本殿と末社が揃ってといることなどから、平成5年(1993)12月9日に国の重要文化財に指定されました。阪南ライオンズクラブ
とある。

 前面に建つ拝殿が大きく且つ裏へは立入り禁止のため、本殿は、拝殿屋根越しに屋根の一部が見えるだけで、全体を見ることはできない。
 ただ、拝殿を右へまわりこんだ隙間から本殿側面の一部がみえ、前面の屋根が伸びた流造であることが確認できる。

 本殿の向かって左に末社・三神殿があり、拝殿の左拝所からその正面を見ることができ、全体は見えないが本殿と同じ三間社流造らしい。
  祭神--左:武内宿禰 中:神功皇后 右:天湯河板挙命
 なお、案内には末社・三神殿とあるが、頂いた由緒には『摂社・三社殿』とあり、お逢いした神主さんも摂社と云っておられた。
 祀られている祭神と本殿祭神との関係からみて、摂社とみるのが順当かと思われる。

 
同・本殿(屋根の一部と千鳥破風)

同・本殿側面 

末社・三神社本殿(右:本殿の一部) 

 拝殿内陣の上部に、「波太神社御本殿及び旧拝殿」との絵馬が奉納されており(平成25年奉納)、それをみると、拝殿は今とは異なるものの(楼閣がない)、本殿は唐破風向拝と千鳥破風2基を有する横長の社殿と見える。

 境内向かって右手に横長吹き放しの建物がある。当社HPには“疔屋”とあるが如何なる用途に使われるのかは不明。
 境内左手には舞殿が建っている。


奉納絵馬(拝殿内陣) 

疔 屋 
 
舞 殿

◎境内末社
 *厳島神社
  参道右手の池らしきものの中に鎮座する小祠だが、雑木林に囲まれていて社殿の様子はよく見えない。
  祭神--市杵島姫命・国常立命

 *門神社
  参道右手、手水舎の脇にある小祠
  祭神--豊磐門戸命(トヨイワマト)・櫛磐門戸命(クシイワマト)  所謂門番の神

 
末社・厳島神社・鳥居

同・社殿 
 
末社・門神社

 なお、由緒略記には、末社・山神社とあるが、境内にそれらしき小祠は気づかなかった。

[付記]
 【鳥取神社】
  参道の左(南側)に『鳥取神社』との小社が東面して鎮座する(阪南市石田164)
  その立地から、一見、波太神社の末社かと思われるが、由緒略記に記されておらず、鳥取神社由緒からみても当社とは無関係の別社と思われる。

 波太神社鳥居の左(南側)に鳥居が立ち、「鳥取神社」との神額が掛かっている(波太神社参道の途中にも小鳥居が立つ)
 参道奥に千鳥破風2基を有する横長の拝殿が建ち(拝所は左右2ヶ所)、その奥に本殿及び末社5社(内4社は石祠)が鎮座する。

 拝殿前には、右に「鳥取神社」左に「鳥取戎神社」との立て札が立ち、
 ・鳥取神社 祭神:天忍穂耳命(元山中神社祭神)
   紀州街道は山中の宿場に祀られていた。
   往時は山越えする旅人等が健脚を祈願したことから、今も『足神さん』と親しみ信仰が厚い
   (旅人等が健脚を祈願したというから、旅人の安全を守る道祖神に類する小社だったと思われる)
 ・鳥取戎神社 祭神:蛭児命(ヒルコ)
   七福神の中の惠比壽はこれという。家業繁栄・豊漁・家内安全の守護神であり、『福の神』として広く信仰されている
とある。
 
 鳥居脇に立つ案内には
 祭神 本殿--天忍穂耳命(山中地区)・角凝命(桑畑地区)・天照大神(黒田地区)・素盞鳴命(下出地区)・菅原道真(石田地区)
          ・五十瓊敷入彦命(自然田地区)・品陀和氣命(鳥取中地区)・祭神不祥(鳥取中地区)
      末社--素盞鳴命(石田地区)他10柱
とあり(括弧内は旧鎮座地)、説明文によれば、
 ・当社は、明治末(明治41年)の神社合併政策にもとずいて、近傍各地区にあった小社を統合合併して創建されたもので(明治42年)、明治末から大正初期にかけて推進された政府・地方官主導の神社合併政策によって創立された神社である
 ・現鎮座地は、元波太神社の神主・田島家の屋敷跡で、当時田畑になっていたのを買い上げて神社用地にあてた
 ・神社合併政策とは、維持経営に困難な小規模の神社や祠を統廃合して、神社の体面を保持できるようにした政策をいう
  (今まで慣れ親しんだ地元の鎮守社がなくなることから、紀州における南方熊楠の反対運動にみるように各地で反対運動が起こったが、政府によって強行されたという)
という(大意、以下統合された各社についての説明が続く)


鳥取神社・鳥居 
 
同・拝殿

同・社殿配置略図
(案内より転写) 

 拝殿奥には、中央に朱塗りの鳥取神社が、その左に鳥取戎神社が鎮座し、右に末社4社(石祠、配置略図の末社壱~四)が鎮座する。
 なお鳥取戎神社は、上記配置略図の左側にみえる末社五にあたる。
 これは、末社五の祭神6柱の筆頭神が蛭児命(旧鎮座地:下出地区)であることから戎社と称するのであろう。


左:鳥取戎神社
右:鳥取神社(朱塗り) 

鳥取戎神社・社殿

鳥取神社・社殿

末社・石祠4社

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