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和泉(和泉郡)の式内社/聖神社
大阪府和泉市王子町
祭神--聖神他5柱
                                                       2011.03.06参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国和泉郡 聖神社』とある式内社。
 泉州五社(大鳥・穴師・聖・積川・日根)の一社として和泉国三ノ宮の社格をもつ。“聖明神”・“信太大明神”・“信太聖社”などの通称あり。

 JR阪和線・北信太駅の南東約1.2km、信太山丘陵の北西端・信太の森の中に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる由緒および諸資料によれば、
 「当神社は延喜式内の旧社であって聖神(ヒジリ)を祭る。今から約1300年前、白鳳3年(674)8月15日、天武天皇の勅願により信太首(シノダノオビト)が国家鎮護の神として創建したと伝える」(大意)
という。
 白鳳との年号は私年号であって公的年号ではない。その実年代については諸説があるが、そのひとつに天武朝とする説(672--685・麗気記私抄)があり、それによれば、白鳳3年(674)とは天武天皇2年に当たる。
 天武紀2年条に神祀りに関する記述はないが、天武朝に於いて、天照大神を頂点とする神祇体制が整備されたといわれることから、これに付会した伝承かと思われる。

 当社参拝の栞は、
 「往古、この付近は荒地で、田を耕しても雑草の繁茂や害虫の発生などで稲が育たず、人々が困窮していた。為に、時の天武天皇が、この地の首長に聖神を祭るよう勧請された。
 ここに神社を創建すると、ご利益があってかそれ以降、稲が“信(ノ)び信び太(フト)く”育つようになり、そこから、地名を信太(シノダ)と呼ぶようになった」(大意)
とあり、聖神を農耕神として勧請したとある。

  なお、創建にかかわったとされる信太首については、新撰姓氏禄(815)
  「和泉国諸蕃(百済) 信太首 百済国人百千之後也」
との百済系渡来氏族があり、信太を名乗ることから当地付近に居住していたと思われる。

 正史に見える当社の初見は、三代実録(901)
  ・貞観元年(859)5月7日壬戌 和泉国聖神を官社に列す
  ・同年8月13日丙申 和泉国従五位下聖神に従四位下を授く
の記事だが、、
 ・聖武天皇・天平4年(732)--泉州五社とともに行った祈雨の功によって神領1100石を給う。
 ・醍醐天皇・昌泰元年(898)--宇多上皇(醍醐帝の先代)の行幸あり、管原道真供奉す。
などの記録があり、8世紀には実在していたらしい。

 その後の経緯として、参拝の栞には、
 ・天正3年(1575)、織田信長から朱印地の寄進があり、全盛を極めた。
 ・天正13年(1585)、豊臣秀吉の根来討伐軍の兵火により社殿焼失、社領没収。
 ・慶長9年(1604)、豊臣秀頼による社殿再建 →現在の本殿
とあり、明治初年の神仏分離によって神宮寺(萬松寺)を廃寺とし、神社単独となったという。

※祭神
 今、主祭神を聖神(ヒジリ)とするが、諸資料によれば、
 ・泉州志(1700)・和泉名所図会(1796)・大阪府全志(1922)--聖神を祀る。
 ・大阪府誌(1903)--別雷神・天児屋根命・保食神を祀る、大年神の御子に聖神あり、関係あるにあらざるか
 ・大阪府史蹟名勝天然記念物(1929)--別雷神・天児屋根命・保食神の三柱を祀る。
                社家の説には、瓊瓊杵尊・天照大日孁貴尊・饒速日命・木花咲耶姫命・磐長姫命の五神なりとす。
                泉州志には聖神とあり、證するに足るべし。
などの諸説があり、聖神を祭神としないものでも、関連は示唆している。

 聖神とは、スサノヲの御子・大年神(オオトシ)が神活須毘神(カムイクスビ)の娘・伊怒比売(イノヒメ)を娶って生んだ5柱の神(大国御魂神・韓神・曾富理神・白日神・聖神)の末子で(古事記・大年神の神裔段、書紀には見えない)、渡来人が齋き祀った神と推測され、通常、聖(ヒジリ)=“日知り”(ヒシリ)として、“暦の神”とされる。

 上記参拝の栞では、聖神を稲作の守護神・農耕神として勧請したというが、日知りとは、
 “太陽の動きによって冬至・夏至あるいは春分・秋分といった農耕に必要な季節の動きを知ることで、支配者が行う日知神事は、農耕の開始あるいは収穫の時期などを知るための重要なマツリゴトであった”
といわれ、聖神は暦の神であるとともに農耕の神ともいえる。
 また、聖神の父神・大年神の“年”が“稲”を意味することからこれも農耕神といわれ、聖神は、その父神の神格を引き継いでいるともいえる。

 江戸時代のある時期には、当社の氏子・舞町の人々が暦発行の特権を許されていたといわれ、曾て当地に居住した渡来系(信太首)陰陽師による日知りの技を引き継いだものともいえる。
 陰陽師といえば、安倍清明の誕生伝承(葛の葉伝承)の舞台は当社ともいう。略記すれば、
 「父安倍保名(ヤスナ)が、妻の病気恢復と子授けを願って当社に参籠していたが、ある日、境内の鏡池の畔で猟師に追われた白狐を助けたことから、妻に化けて訪れた白狐との間に一子をもうけたが、ある朝、妻(白狐)は『恋しくば尋ね来てみよ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉』との一首を残して消えていた。その後、元気になって帰ってきた本当の妻とともにその子を大切に育てた。この子が陰陽博士として天下に知られた安倍清明である」
というもので、今も保名が白狐を助けたという鏡池が、当社の北東部に隣接して残っている。

 聖神以外の併祭神として、参拝の栞によれば(カッコ内は栞が記す説明)
 ・天照大御神(皇祖神・太陽神)
 ・饒速日命(力、軍事を司どる神)
 ・瓊瓊杵尊(五穀豊穣の神)
 ・木花咲耶姫命(安産の神)
 ・磐長姫命(延命長寿の神)
を祀るという。
 大阪府史蹟名勝天然記念物(昭和4年)にいう“社家の説”に相当し、勧請時期は不明ながら、昭和初期以前からの祭神といえる。

※社殿等
 当社の北西約700mを略南北に走る旧小栗街道脇に一の鳥居が立ち、傍らに“式内 聖神社”と刻した石碑および“信太宮拝前”と刻した石燈籠2基が立つ。
 道なりに東へ進むと右手に信太の森が拡がり、葛の葉伝承を伝える鏡池を過ぎて南(右)へ曲がり、森沿いの道を進んだ先、南東の角に朱塗りの二の鳥居が立つ。 二の鳥居をくぐり、森の南側の道を西へ進むと三の鳥居が立ち、境内に入る。
 広い境内の中央に南面して拝殿、その奥、白壁に囲まれた神域内に本殿が建つ。

 ・本殿(国指定重文)--慶長9年に豊臣秀頼によって再建された安土桃山風の華麗な社殿。
              三間社入母屋造(間口三間・奥行三間)・正面に千鳥破風、軒は唐風破風付きの向拝あり。檜皮葺。
              曾ては極彩色に飾られていたというが、今は色もあせている。
 ・拝殿--入母屋造(間口五間・奥行三間)・瓦葺

聖神社/一の鳥居
聖神社・一の鳥居(小栗街道脇)
聖神社/二の鳥居
同・二の鳥居
聖神社/三の鳥居
同・三の鳥居(境内入り口)
聖神社/拝殿
同・拝殿
聖神社/本殿(正面)
同・本殿(正面)
聖神社/本殿(側面)
同・本殿(側面)

◎末社
 ・三神社--境内右手の白壁に囲まれた中に、瀧神社と並んで鎮座する。
   祭神--保食神(ウケモチ)・天児屋根命(アメノコヤネ)・別雷神(ワケイカヅチ)
          上記・大阪府誌にいう聖社祭神に相当する
   安土桃山様式で、三間社春日造、国指定重要文化財
 ・瀧神社--三神社の左に鎮座する。
   祭神--伊耶那岐命・伊耶那美命
   安土桃山様式で、一間社春日造、国指定重要文化財
 ・平岡神社--境内右手奥に鎮座する末社
   安土桃山様式(本殿と同時期)で、一間社春日造、大阪府指定有形文化財
 ・厳島神社--祭神:市杵島比売命
 ・琴平神社--祭神:大物主命、宝暦4年(1854)造営

 なお境内には、不動明王・稲荷大神などの石碑数基が点在する。

聖神社・末社/瀧社・三神社
末社・瀧神社(左)・三神社(右)
聖神社・末社/瀧神社
末社・瀧神社
聖神社・末社/三神社
末社・三神社
聖神社・末社/平岡神社
末社・平岡神社
聖神社・末社/厳島神社
末社・厳島神社
聖神社・末社/琴平神社
末社・琴平神社

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