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日 根 神 社
付-比売神社
大阪府 泉佐野市日根野631
祭神--鵜葺茅葺不合尊・玉依姫命
                                                  2019.11.12参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国日根郡 日根神社 鍬靫』とある式内社で、境内には、同じく日根郡の式内社・比売神社が鎮座する。

 JR阪和線・日根野駅の南約2km、駅東の府道247号線を東南方に進み、日根野東上交差点を右後ろに折り返して約西へ約500mほど行った左側にみえる「日根野羽倉崎線」との道路標識(反対側の空き地に「P日野神社」がある)を左に入った処に、二の鳥居が西面して建ち、鳥居をくぐって東へ進んだ先が境内。
 なお、交差点から約450m程行った左側にある慈眼寺西側の塀に沿って左に入ると三の鳥居前に出る。

※由緒
 頂いた由緒略記(以下。略記という)には
 「日根神社は大井堰大明神と称して、延喜式や国内神名帳にも名がでている古い神社です。
 神社の創建には、いくつかの伝承があります。
 ①神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ、神武天皇)が、紀州熊野から大和へ入る途中、日根野の地に神を祭り戦勝を祈願したのが、この神社のはじまりとします。

 ②神功皇后が、朝鮮との戦いの帰途、岡本の船岡山に上陸し、皇后に助力して共に帰ってきた神を祭ったのが溝口大明神(比売神社のこと・現在は日根神社摂社)で、この神社が日根神社のはじまりといわれます。

 ③樫井川流域を開発した日根造(ヒネノミヤツコ)は新羅からの渡来人の子孫で、神祇志料には、この日根造が日根神社の主神として祖先の億斯富使主(オシフミノオミ)を祭ったとされています。
 慶長7年の日根神社縁起由来には『当社大明神は、古く三韓新羅国修明正覚王一天四海之御太子にて』とあり、この節を取っています。

 ④天武天皇の時代に、大鳥神社より分霊を勧請し、神殿を造ったのがはじまりといわれます」
とやや簡単に記している。

 一方、当社HPには、
 a 神武東征
 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコ)は、河内国を通り大和へ入ろうとしましたが、激しい抵抗にあい進むことができなかった。
 命は「日の御子である自分が、太陽に向かって戦うのは良くない。日を背にして戦おう」と一旦退却し、広野に根城を構え、天照大御神と須佐之男命を奉って戦勝を祈願しました。

 この時、命が戦勝を祈願した地は『日』(天の国)の神である天照大御神と、『根』(黄泉の国)の神である須佐之男命をお祀りした野原であること、或いは『日の御子が根拠地とした野原』であることから『日根野』と呼ばれここに天照大御神と須佐之男命の二柱を『日根大明神』としてお祀りしたのが始まりであるといわれています。

 b 三韓征伐
 神功皇后が、天神地祇に冥助を祈って出兵したところ、『正覚太子』なる者が現れ、皇后に神通の矢を授け、討伐成功に助力した。
 この太子は『溝口大明神』の化身であり、帰途の途中に当地に立ちより、この神をお祀りしたのが『比売神社』だとされています。
 また、このとき上陸した場所は『船岡山』であったと言われ、かつては日根神社の御旅所がありました。

 c 豪族の祖先
 樫井川流域を開拓した『日根造』(ヒネノミヤツコ)は新羅からの渡来人の子孫であり、日根神社に祖先の『億斯富使主』(オシフミノオミ)を祀ったとされています。

 d 神鳳伝説
 白鳳元年(673)、神鳳が大島の郷(現堺市)の空に現れ、「我は天照大御神である。この地に五社大明神を祀りなさい」と告げた。
 そこで天武天皇は、白鳳2年、大井関山に社殿を造営し、大鳥神社より御分霊を勧請したのが『日根神社』(大井関大明神)てあるとされています。

 或いは、仲哀天皇2年(192)、白翁が大鳥に姿を変え日根野の空を数日にわたり飛び続け、「我は鵜葺草葺不合命(ウカヤフキアヘズ)である。ここに祠を建てなさい」と告げた。 
 次いで女神が現れ、「我は玉依毘女命(タマヨリヒメ)である。ここに共に祀りなさい」と告げた。
 そこで村人が力を合わせて祠を作り、この2神をお祀りしたのが始まりであるとされています。
とあり、①とa、②とb、③とc、④とdがそれぞれ対応しているが、記述内容に些少の相違がある。


 当社に4っの由緒があることは、これを逆に考えれば、当社には確たる創建由緒がないことを意味する。
 当社創建に関連して、大阪府誌(明治36-1903)
 「日根野村大字日根野に在り、俗に大井堰大明神と称し、祭神は鵜我茅葺不合尊・玉依姫命の二座にして延喜式内の旧社、和泉五社の一、日根野荘の惣社にして現今郷社たり。

 今、その由来を聞くに、神武天皇の戌午歳の二月舟師を率いて浪速より河内を経、大和に入らんとして生駒山に到りし給ひし時長髄彦衆を尽くして向かえ撃ち、皇軍利あらずして庶兄五瀬命も流矢に中らせ給ひしかば、乃ち路を転じて紀伊に向はんとして此の地を過ぎり、且、神霊を祀りて戦勝を祈り、遂に紀伊より大和に入り悉く凶賊を誅戮して中洲を平定し給ひしより、名づけて日根の神社と称せり。是れ本社の権輿なりと。aに対応、①は熊野から大和へ入る途中というが、記紀の記述では当地を経由したとは読めない)

 或はいふ、昔神鳳郷に降りしかば社を建てて之を祭りき。是れ天照大神の権化にして初めて此処に勧請せしは、聖武天皇の御宇なりと。(④・dに対応)
 何れが是なるか詳かならず」
とあり、他の資料も略同意の由緒を記していることから、明治の頃には由緒として略記①及び④があるものの、いずれが是なるかは不祥とみられていたらしい。

 確かに、略記①及び④には傍証となるものはなく、特にd にいう“大明神”との尊称は、仏教側からみた神への尊称であって、三代実録・光孝天皇2年(886)8月7日の止雨祈願のお告げ文にいう
 「かけまくも畏(カシコ)き松尾大明神の広前に・・・」
が初見ということから、大明神の尊称は9世紀頃にはじまったもので、これを創建由緒とするのであれば、④及びdは9世紀以降に作られた伝承とみるべきであろう。

 またdにいう「五社大明神」の“五社”とは、天平勝宝9年(757、ほとんどの資料には霊亀2年-716とあるが、資料によれば、これは河内国から一部を別けて和泉監を置いた年次であって、その後天平12-740年に一旦元に戻し、天平勝報9年に改めて和泉国が置かれたという)に和泉国が設置された後、国司が必ず巡拝すべき重要な神社として、大鳥神社(堺市)・泉穴師神社(泉大津市)・聖神社(和泉市)・積川神社(岸和田市)及び当社を和泉五社として定めたもので、dで五社大明神ということは、この由緒がが8世紀以降(大明神の呼称からみると9世紀以降)に作られたものであることを示唆する。

 なお、②及びbは、当社というより摂社・比売神社の由緒であり、これも神功皇后伝承に付託して作られた伝承とみるべきであろう(ただ、神功皇后摂政前紀に当地の名はみえず、その記述からも当地に立ち寄ったとは読めない)

 ③・cにいう在地の豪族・日根氏について、新撰姓氏録(815)に、
  「和泉国諸蕃(新羅) 日根造 新羅国人億斯富使主より出る也」
とあることから、9世紀の和泉国に日根造との一族が居たことは確かなようで、その一族が、祖とする億斯富使主を祀ったのが当社の創祀とみるのが妥当かもしれない。
 なお、戦国時代以降の資料に散見される武家・日根野氏は、日根造の後裔で、その本貫は日根野村ということから、日根造なる一族が当地に居たことはほぼ確実かと思われる。


 諸資料によれば、当社は別名を大井堰大明神と称していたというが、大井堰の由縁について、大阪府誌は
 「当社は今尚1,500坪の領域を有し、鬱蒼たる山を負いて西南に大井堰川を繞らし、河には千石嵒と称する一巌横たわり、河水是より分岐し混々として社内を流過し、且つ其の下数村の灌漑をなせり。
 巨巌のの水を支ふる処瀑をなし、銚子の口と称して水の落つるが如くなりしが、20年前岩墜落して今はなく、只名のみを存せり。
 大井堰の名は蓋し此の巨巌に起こり、大井堰神社の称も随ひて是より出でたり」
として、当社南を西流する大井堰川(現在の樫井川か)の中に巨巌があり、これが堰のようになっていたことからの呼称という。

 このように、当社創建由緒として確たるものはないが、略記には
 「伝えられ歴史
 伝えられる由緒から推測すると、最初に樫井川から水を引き、上之郷と日根野の一帯を開発した人たちが、溝口大明神(比売神社)を祭り、後に新しい井堰・水路をつくり、樫井川流域の開発をすすめた豪族(日根造)が、樫井川の水を押さえる重要な場所に大井堰大明神(日根神社)を祭り、やがて溝口大明神を吸収したのでしょう。
 そして大鳥神社などと共に和泉国を代表する神社となっていきます」
とあることから、③及びcにいう在地の豪族・日根造による創建説が有力かと思われる。


 その後の経緯について、参詣の栞より主なものを抄紀する。
 *霊亀2年(716)--和泉国の大鳥・穴師・聖・積川・日根神社を和泉五社と称す
 *天平4年(732)--大旱魃発生、和泉五社での降雨祈願に功あったとして神領6800石が与えられ、当社は500石が分与さる
 *鎌倉時代--日根野が九条家の荘園となって溜め池・水路を造られ開発が進み、大井堰大明神と呼ばれるようになる
 *正平8年(1353)--南北朝騒乱の兵火により社殿等焼失、2年後に再建
 *戦国時代末--朱印地500石を受ける
 *天正4年(1576)--織田信長の一向宗徒攻撃に際し、兵火により炎上 
 *天正13年(1585)--豊臣秀吉により神領地を没収さる
 *慶長5年(1600)--豊臣秀頼により社殿復興、現在に至る


※祭神
 略記には
 「当社の祭神は
   鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアヘズ)と玉依比売命(タマヨリヒメ・鵜葺草葺不合の后)
 です。この二神は神武天皇の祖にあたり、合わせて
   五瀬命(イツセ)・稲冰命(イナヒ)・御毛沼命(ミケヌ)・若御毛沼命(ワカミケヌ、神倭伊波礼毘古とも、後の神武天皇)
 の4王子を祭ります。
 他に億斯富使主(オシフミノオミ、日根造の祖で新羅より渡来)などを祭ります」
とある。

 これら祭神は、由緒にいう神武東征説を根拠に祀られたと思われるが、神武東征そのものが神話であり、この祭神は賢しら人によって持ち込まれた祭神であって、当社本来の祭神とは思われず、
 当社創建に日根造一族が関係するとすれば、今、配祀神となっている一族の祖・億斯富使主が本来の祭神であったと推測される。


※社殿等
 今の当社は樫井川沿いの幅の狭い区域に鎮座しているが、嘗ては大きな社地を有していたようで、泉州名所絵図登載の大井堰明神との古絵図には、樫井川の北岸に、瑞籬に囲まれた広い境内に社殿・仏閣が描かれ、
 参詣の栞登載の「和泉国五社第五日根大明神社図」との古絵図にも、名所図会と略同様の社殿・仏閣が描かれている。

 
大井堰明神・古絵図(下が北)
 
栞登載の古絵図

 当社境内は、樫井川北岸にそって東西に長い敷地を有し(南北は狭い)、西の一の鳥居から続く長い参道の途中に二の鳥居・三の鳥居が立つ。

 
日根神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居

同・三の鳥居 

 三の鳥居を入った参道の先、低い石段の上に朱塗りの神門(四脚門)が建ち、その左右に白壁が延び、境内に入る。
 境内中央には、千鳥破風及び唐破風付き向拝を有する入母屋造・瓦葺きの拝殿が西面して建つ。

 
日根神社・神門

 
同・拝殿
 
同・内陣

 拝殿の背後、瑞籬で区画された中に、春日造・朱塗りの本殿が西面して鎮座し、参詣の栞には
 「日根神社本殿 大阪府指定文化財
  慶長5年(1600)の改築とされ、隣接する慈眼院には、この時の棟札が残され、建築に係わった大工・屋根葺き・彫師などの名を書き連ねています。
 春日造の檜皮葺きで、正面の向拝を唐破風にし、彫物を付けて極彩色を施し、豪華絢爛な桃山時代らしい様式をもっています。規模は大きく14坪もあります」
とある。


日根神社・本殿 
 
同・本殿正面 

◎境内社

 当社二の鳥居と三の鳥居間の参道南側に、境内社5社が鎮座し、参詣の栞によれば
 向かって右(西)から
  比売神社(摂社)・野々宮(丹生神社)・野口恵毘須神社・岡前神社・赤之宮
と東西に並んでいる。

 この5社について、参詣の栞には
 「明治41年に明治政府の一村一社の命令によって、日根野村の集落毎にあった神社はすべて日根神社に集められました」
とある(今も、祭祀等は日根神社とは別に個別に行っているらしい)。 

境内5社

●比売神社
 延喜式式内社に、『和泉国日根郡 比売神社 鍬』とある式内社だが、今は日根神社の摂社として祀られている。

 参詣の栞には、
 「比売神社は東上の溝口にあった溝口大明神で、いつのころか日根神社に移され、本殿と向かい合って建てられ『下の御前』と言われていました」
とある。

 当社に関する古資料・泉州志には「大井堰社(現日根神社)鳥居の辺りに在り」、同・和泉名所図会には「大井堰社鳥居の東にあり」と記され、当社を描いた図会に「日根社馬場先」とあるように、嘗ては日根神社に隣接する独立社だったが、明治41年に日根神社に合祀されて境内摂社となったという。

 祭神--大日靈貴命(オオヒルメムチ)・素盞鳴命

 上記の日根神社略記②が当社の創建由緒であろうが、これは神功皇后説話に付会した伝承であって、本来の由緒は不明で、また祭神を大日靈貴・素盞鳴とする由縁も不明。

 当社が嘗て「溝口大明神」と呼ばれ、大井堰川からの溝口(導水口)付近にあったことから、生活や農耕に必要な水を司る水神を祀ったのが本来の始まりかと思われる。

*社殿
 境内5社の右端、樹木に覆われた下に鳥居が立ち、その奥に、春日造・朱塗りの社殿(大阪府指定有形文化財・昭和47年指定)が鎮座する。
 当社本殿について、鳥居脇の案内には
 「日根神社の創建は明らかではないが、元正天皇・霊亀2年(716)に制定された和泉五社のうちに数えられ、また延喜式式内社日根郡十座のうちに列している。 
 現在の本殿は、社伝によれば、天正年間兵火に焼失したものを豊臣秀頼が再建したものといわれる。
 向拝・縁側廻りに修理の部分が認められるが細部の手法は桃山時代の特徴をあらわし、斗挟などみるべきものがある。
 社殿としてはひかくてき大きな部類に属し、堂々として雄大な風格を示している」
とあるが、社殿には近寄れず詳細の実見は不能。

 なお、泉州名所図会の「日根社馬場先の図」には、結構広い社域の中に鳥居と春日造の社殿がみえ、上に比売社との書き込みがあるが、この絵図の地形と今の現地とは大きく変わっていて、この馬場先との場所が何処なのかは不明。

 
比売神社・鳥居

同・社殿
 
日根神社・旧鎮座地
馬場先の古絵図

 当社に関して、大阪府誌(1903)は、
 「本社(日根神社)の近くに比売神社あり。式内の神社にして三代実録貞観元年(859)5月条に『7日和泉国比売神官社に列す』とあり、同8月条に『13日無位比売神に従五位下を授く』のあるもの即ち是なり。なれど祭神祥かならず。

 泉州志には、
 「俗に曰く、下御前、茅渟宮の旧跡此社に近し。比売神は衣通姫(ソトオリヒメ)か。
 茅渟宮は允恭天皇の其の后・衣通姫を置き給ひし処なれば、或いは衣通姫(ソトオリヒメ)を祀れるならん。
 然れども日根・比売両神は思ふに関係し給へる神なるべく、若し、比売神社にして衣通姫にましまさんには、日根神社は或いは允恭天皇にてはおははさずや。
 然れども確証あるに非ざれば明らかに定め難し。況んや、前記の二座に定まり給へるをや」
として、
 比売神社は允恭天皇の后・衣通姫が住んだ茅渟宮に関係する社で、その祭神は衣通姫ではないかと思われるが、確証はないという。
 しかし、当社の旧称が溝口大明神であり水神を祀ったと思われることから、衣通姫祭神説は成立しないであろう。

 衣通姫とは允恭天皇の后で、書紀・允恭天皇段によれば
 ・允恭天皇の皇后・忍坂大中姫(オシサカオオナカツヒメ)の妹で弟姫(オトヒメ)と称し、容姿絶妙で身体の輝きが衣を通して外に現れることから、衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)と呼ばれた
 ・天皇に呼ばれたが、実姉である皇后の気持ちを思いやって辞退するも、7回ものお呼びがあったため止むなく天皇に仕え寵愛をうけた
 ・しかし、実姉である皇后が心穏やかでなく過ごされていることを知って、皇后と離れた処に住みたいと天皇に願い出られ、
 ・それを受けた天皇は、河内の茅渟に宮室をたてて衣通姫を住まわせ、しばしば遊猟にかこつけて日根野に出かけ衣通姫とお逢いになった
という(大意)

 その衣通姫が住んだという茅渟宮は日根野の辺りにあったといわれ、今当社の西約2km、上之郷町の中村児童公園内(ジャングルジム1基だけの小さな広場)内に“茅渟宮跡”・“衣通姫の墓”との伝承地がある。

 南北に長めの公園で、その左側(西側)に「茅渟宮旧跡」との石碑が立ち、その奥(北側)、植え込みの中に「衣通姫の墓所」という史跡がある。
 公園に立つ案内には、 
 「衣通姫の伝説と宮跡
   とこしへに 君も逢へやも いさな取り 海の浜藻の 寄る時々を
   (允恭紀にある衣通姫が歌った歌で、歌意は、「いつも変わらず貴方にお逢いできるのではありません。海の浜藻が波のまにまに岸辺に近寄り漂うように、稀にしかお逢いできません」)
 允恭天皇がしばしば行幸された衣通姫在住の史跡(書紀による)で、その後も茅渟宮として泉州行政の中心であった。 
 郷人が今に伝え、毎年春秋の彼岸に墓前祭を催し、歌人(衣通姫を指す)の徳を偲ぶ」
とある。(ネット地図では、茅渟宮跡を道路の南側に記しているが、実際は北側で、訂正が必要)


中村児童公園(南側部分) 
 
茅渟宮旧跡の石碑 

衣通姫墓所・遠景 
 
衣通姫墓所
 
同・墓石

●野々宮(丹生神社)
 比売神社の左に鎮座する社で、社頭の案内には「丹生神社(野々宮)」とある。
  祭神--丹生都比売大神(稚日女尊)・丹生高野御子大神(狩場明神)
  由緒--聖武天皇代天平3年 勧請
とあり、和歌山県かつらぎ町に鎮座する丹生都比売神社を勧請したもので、参詣の栞には
 「旧日根野村の神社で、ゆ川沿いにあった。祭神は丹生都比売
  一間社春日造 江戸時代の17世紀末」
とある。

 
丹生神社(野々宮)・鳥居
 
同・社殿

●野口恵毘須神社
 丹生神社(野々宮)の左に鎮座する社で、社頭の案内には
  「恵毘須宮(丹生神社末社)
  祭神--事代主尊(恵毘須宮)
  由緒--不祥なるも、天保11年遷宮以降 恵毘須宮を改称。正月十日南北両座神酒座拝
        明治41年現在地に丹生神社へ三神合祀さる」
とあるが、遷宮以前の社名、その時の祭神名(三神らしいが)など詳細不明
 参詣の栞には
  「日根野野口にあった。 祭神は事代主命」
とある。

 
野口恵毘須神社・鳥居
   
同・社殿

●岡前神社
 野口恵毘須神社の左に鎮座する社
  祭神--素盞鳴命
 参詣の栞には「旧俵屋村の神社」とある。
 鳥居の奥に、一間社流造の小祠が鎮座し、鳥居神額及び祠前の石柱に「岡前神社」とあるだけで詳細不明。

 
岡前神社・鳥居
 
同・社殿

●赤之宮
 岡前神社の左に鎮座する社で(5社の東端)、鳥居の奥に一間社流造の小祠が鎮座する。
  祭神--丹生都比売
 社頭に社名表示・案内なく、参詣の栞に「日根野辻花にあった。祭神は丹生都比売」とあるだけで、詳細不明。

 
赤之宮・鳥居
 
同・社殿

●新道の宮
 上記5社の他に、拝殿の左奥、瑞籬及び白壁に囲まれて「新道の宮」と称する一画があり、中に小祠3宇が鎮座する。
 社頭の案内に、
 「新道の宮
  又の御神名  菅原の大神
  古より学問の神として仰がれてきました。現在も入学・就職・試験合格祈願の神として崇められています」
とあり、参詣の栞には、「日根野と母山の一部が氏子 祭神は菅原道真」とあるだけで、詳細は不明。

 鳥居後ろの二つの門を有する瑞籬の奥に、小祠3宇が鎮座するが、社名等の表示なく、案内にいう「新道の宮」がどれに当たるのか(最も大きく、唐破風向拝付き春日造である右の小祠が新道宮か?)、他の2宇が如何なる神社名・祭神名なのかは不明。

 
新道の宮・社頭
 
瑞垣内の小祠3宇

左の小祠 
 
中央の小祠
 
右の小祠(新道の宮か)

 なお、当社拝殿の向かって右に、古びた小祠一宇が鎮座するが、案内表示等なく詳細不明。
 また、当社に隣接する慈眼院は、嘗て当社の神宮寺だった寺院で、多くの文化財と当社関係の文書等を保管するという。

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