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方 違 神 社
付--反正天皇陵
大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2-2
祭神--八十天万魂神・素盞鳴命・三箇男大神・息気長足媛命
                                                      2019.09.20参詣

 南海高野線・堺東駅の東約400m、駅西をはしる市道30号線を北へ、北花田口交差点を右折し、南海線の跨線橋を渡って次の信号(田出井町)を過ぎた右側(南)に鎮座する。
 反正天皇陵の北東部に接している。式外社。

 社名は、かつて“カタタガエ”と称した頃もあったが、明治40年(1907)に“ホウチガイ”が正式名称となったという。




 

方違神社周辺住宅地図

※由緒
 頂いた参詣の栞(有料)には、
 「創建
  当神社の起源は古く、人皇十代崇神天皇8年12月29日、勅願により創建される。
  創建後、時を経て神功皇后三韓より凱旋後、住吉大神の御神教に従い此地に天神地祇を祀り、応神天皇の御代、素盞鳴尊・三筒男神及び神功皇后を合祀、方違大依羅神(カタチガエオオヨサミ)と号す。
  明治40年村社水天宮・郷社向井神社を合祀、同41年に境内社八幡宮及び武内社を合祀し、現在に至る。

 御由緒
  社伝によると、崇神天皇5年、国内に疫病が流行し多くの民が死亡した。同床共殿の神勅によって宮中に祀られていた天照大神を、同6年倭の笠縫邑に遷す。また神託によって大物主大神と倭大國魂神(ヤマトオオクニタマ)を祀り、さらに、8年12月29日に物部大母呂隅足尼(モノノベオオモロスミノスクネ)物部氏8世の孫、矢集連(ヤツメノムラジ)等の祖-を遣わして、此地に素盞鳴尊を祀らせ給うたところ、疫病は途絶え、五穀は豊穣となった。

 その後、神功皇后が新羅から凱旋の途次、皇子(後の応神天皇)とは異腹の麛坂(カコサカ)・忍熊(オシクマ)二王の叛乱に遭い、住吉大神の御神教により、神武天皇川上御斎祷の故事に倣わせられて、五月晦日この地において御自ら八十平瓮(ヒラカ・平たい土製の容器)を作り、天神地祇を祀り、菰(コモ)の葉に埴土(ハニツチ)を包み粽(チマキ)として奉り、皇軍の方災除を祈り、勝利に導いた。

 その後、今の住吉に住吉大神を奉斎することによって、この垂迹の地を明神と崇拝し、後世、方災を除かんが為にこの地に神霊を留めて方違社と尊み奉った。
 以後、その境内の土と菰の葉にて作られた粽は、悪い方位を祓うという信仰を以て、家土蔵を建てる時あるいは住居を転ずる時、また旅に出る時、当神社に詣で方違いの神符・粽を受けるようになった」
とあり、
 当社HPには
 「明治元年には、東京遷都の折に17日間の祈祷の命を蒙り、明治6年3月郷社に列し、明治40年2月水天宮社(村社)を合祀、同年10月向井神社(郷社)並びに境内社(愛宕神社・神明社・小祠4社)を合祀して方違天王神社と改称したが、同年11月方違神社に複号した。
 また、明治40年12月に八幡社および武内社を合祀し、近年には大規模な境内整備がなされ現在に至る」
とある


 参詣の栞は、当社創建を崇神天皇8年というが、書紀・崇神8年条に神マツリに関する記事はない。
 ただ、崇神紀に
 ・5年 国内に疫病多く、民の死亡する者、半ば以上に及んだ
 ・7年11月13日 大物主大神と大国玉神を祀り、あわせて八十万の群神を祀った。ここで疫病は収まり国内は静まり、五穀はよく稔って百姓は賑わった(大意、8年条に関連する記事はない)
とあり、栞がいう崇神8年とは、これを拡大したものかと思われるが、

 ・7年に祀られた八十万群神とは特定の神社を指すものではなく、当社が八十万群神の一社であった確証はない
 ・また物部大母呂隅足尼との人名がみえるが、先代旧事本紀に、饒速日命8世の孫に物部大母隅隅連(モノノベオオモロズミノムラジ)なる人物がみえ(矢集連の祖とある)、読みが同じことから同一人物かと思われるが、旧事本紀には成務天皇(4世紀末頃)に仕えたとあり、時代が合わなない。

 神功皇后が“神武天皇斎祷の故事に倣い云々”というのは、書紀・神武即位前記に、
 ・宇陀の地に敵兵が布陣していて、天皇は大和へ入れなかった。
 ・ある夜、天皇の夢に「天香具山の土を採って平瓮を作り、天神地祇を祀ったならば、敵は自然に伏するだろう」との神託を受け、その通りにすると敵は平らげられた
とある伝承を指すのだろうが、書紀にいう神功皇后(応神天皇)と忍熊王の皇位継承戦のなかに当地の名はみえない。

 これに関連して、大阪府全志(1922)
 「伝えにいふ、神功皇后の三韓を征し給ひしとき、天神地祇参千七百五拾余座を勧請し、就中住吉大神を魁将として容易く追討の功を奏して御凱陣あらせられ、堺津の地守の浦に着岸し、五月晦日葦の葉に埴を包み、方違の祓を為し給ひてのち、今の住吉の地に鎮座なさしめらる。
 後世 方祟の災を除かんか為に、此の地に神霊をとどめ方違社と崇め奉る。
 世人の家屋を建築し、又は住居を転ずる時に、方違の神符及び葦の葉の粽を受くるは是に因れりと」
として、神功皇后が当地で方違の祓いをされたのに因んで創建されたのが当社であって、旅立ちのみでなく家屋の建築・転居などの際にも当社に詣って神符・粽をうけ方位神の災いを除いたという。

 また、大阪府史蹟名勝天然記念物(1929)には、
 「崇神天皇の8年冬12月、物部大母呂隅足尼を遣わし、此処に素盞鳴尊を奉祀せしめ、
 神功皇后の摂政2年三韓より凱旋し給ひし時、此神堺に於いて畝傍山の埴土を採り、自ら八十平瓮を作り天神地祇を祀りて皇軍の方忌除災を祈り、
 応神の朝、素盞鳴尊・三筒男神及び母后を合祀せしめ、方違大依羅神と号し、又茅渟中長峡に坐す三筒男和魂の社とも称せりと伝ふ」
とある。

 これらの由緒は、いずれも当社創建を崇神天皇あるいは神功皇后に付託しているが、書紀によれば、神功皇后は
 ・忍熊王が住吉の地に布陣していると聞いた皇后は、紀伊水門から真直ぐに難波に向かうも、船が海中で回転して進まず浪速の地に入れなかったので、武庫の港に還って占われた
 ・すると住吉の三神から、「吾が和魂を大津の渟名倉の長峡(現住吉大社の地)に祀れ・・・」との御告げがあったので、お告げに従って住吉三神を祀った
とはあるものの(大意)、当地に上陸して神マツリをおこなったとの記述はない(当地と住吉の地とが近接していることから、住吉三神の奉斎を拡大解釈したのかもしれない)

 また、崇神・皇后の神マツリは方忌除災の祭というが、方違い思想が伝来したのは6世紀と推測されることから(下記)、よしんば当地で神マツリをおこなったとしても、それが方忌除災の祭であったとするには疑問がある。

 これらの由緒は、当社の創建を古くみせようとする作意によってつくられた伝承であって、そこに信憑性はない。

 なお、崇神天皇・神功皇后ともに須佐之男命を祀ったとあるが、これは、備後国風土記(逸文)・疫隅(エノクマ)国社条に
 ・北海の武塔神(牛頭天王の別名とされる)が南海の海神の娘に求婚の旅におもむかれた往路、日が暮れて宿を借りようとされたが、蘇民将来兄弟のうち富み栄えていた弟は断り、貧しい兄は宿を貸ししてそれなりに饗応した
 ・武塔神は、妻を連れての帰路も兄の宅に泊まり、往路宿を貸さなかった弟一家を皆殺しにされた。
 ・その時、武塔神は「吾は速須佐雄の神である。後の世に疫病がはやったら、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰に着けた人は免れるであろう」といった(大意)
との伝承によるものだろうが、ここでの須佐之男神は武塔神(牛頭天王)と習合した疫病除けの神であって、そこに方除け・方違えという神格はみえない。

 因みに、武塔神(牛頭天王)自体が強烈な疫病神であって、これを祀れば、その神威を以て配下の疫病神を押さえつけてくれるとして、これを疫病除けの神として崇めたものだが、伝承の中で、武塔神が「吾は速須佐之雄の神である」と名乗っているから、武塔神(牛頭天王)=須佐之男説は古くからあったと思われる(上記の名のりは後世の追記とする説もある)


◎方違え
 方違え(ホウチガエ・カタチガエ)とは陰陽道にもとずく風習で、特に平安時代に盛んだったといわれ、外出・旅立ちなどに際して、目的地の方角に災いをもたらす神がいる場合(禁忌の方角)、一旦別の方角へ行って一夜を過ごし、翌日そこから目的地へ向かうことによって禁忌の方角へ直行することを避け、それによって災いを避けたという。

 ここで災いをもたらす神とは、“方位神”とよばれる一群の神で、
 ・天一神(テンイチジン)--同じ方角に5日間留まり、順次方角が変わる
 ・太白(タイハク)--毎日方角が替わる
 ・大将軍(ダイショウグン)--3年間同じ方角に留まる
 ・金神(コンジン)--一年間同じ方角に留まる
 ・王相(オウソウ)--1ヶ月半同じ方角に留まる
などがみえ、いずれも時によって方位を変えるという。

 この方違え風習の基となった陰陽道(陰陽五行説)とは中国から伝わったもので、その伝来時期ははっきりしないが、書紀に、
 ・継体7年(512)6月--百済が五経博士・段楊爾を奉った
 ・欽明15年(554)2月--百済は易博士・施徳王道良・・・を奉った
とあり、6世紀頃(飛鳥時代)の五経博士・易博士らの渡来と共に、陰陽道およびその一部としての方違え思想も入ってきたのではないかという。

 この伝来時期からすると、当社由緒がいう崇神天皇あるいは神功皇后の時代に方災除神(方位神)を祀ったというのは疑問があり、その点からみて、当社創建由緒・時代は不明とみるべきであろう。

 ただ、何時頃からかは不明だが、方位神の有無によって、別方向へいって一夜を過ごすという煩わしさを避けるために、ある神社に参拝して凶方を解除し災いを避けようとする風習がうまれ、その最たる神社が当社という。

 当社を方違神社というのは、当社が嘗ての摂津国・河内国・和泉国の境界地点(国境)に位置したことからで、
 例えば、河内国からみて和泉国は西に当たるが、西が凶方であった場合、そこに行くために一旦当社に参拝して、境内から一歩西北の方向に踏み出せば、そこは摂津国であり、そこから南の和泉国に行けば禁忌を犯さずに目的地へ行くことができるというもので、今の理解では可笑しな風習だが、これに縛られた当時の生活は、何をするにも方位を気にしなければならないなど煩わしいものだったと思われる。

 また、当社の鎮座地を摂河泉三国の境界というが、和泉国の設置は
 ・霊亀2年(716)3・4月--河内国の出水郡・日根郡・大鳥郡を別けて和泉監を設置
 ・天平12年(740)8月--河内国に復帰
 ・天平勝宝9年(757)5月--再度分割して和泉国を設置
という経緯をたどったという。

 また、今の大阪市(摂津国)と堺市(和泉国)の市境は大和川となっているが、江戸時代までの国境は、大和川の南約1.5kmほどにある現堺市の主要道路・堺大小路(堺市役所前の東西道路)付近だったといわれ、そのすぐ北に位置する当社は三国の境界地点であって(河内・和泉の国境が何処辺りかははっきりしない)、名葦探杖(メイイタンジョウ・1778)
 「是攝河泉州三ヶ国の堺なり。此宮河州にもあらず、また攝州にもあらず、打余の地なり。国の外なれば無東西也といふ」
とあるように、方位のない土地と考えられ、
 参詣の栞には
 「三国の境で何処の国にも属さない、又方位のない清い土地であるという考え方により、方角の吉兆を知らずとも、方違神社に参詣すれば一挙に三国の土を踏めることから、自ずと方違になるとして、古くより民衆の不安を解消してきた」
とある。(大和川が市境となったのは明治4年)

 これからみると、当社が最初から方違神社として創建されたのであれば、その時期は、早くても8世紀以降であり、その点からも、当社の創建を崇神天皇・神功皇后に付託するのには無理がある。


※祭神
 参詣の栞には
  御祭神
   方違幸大神(ホウチガエサチノオオカミ)
    八十天万魂神(ヤソアマヨロズノミタマ) 天神地祇
    素盞鳴命(スサノオ) 天照大神の御弟神
    三筒男大神(ミツツオ) 住吉大神(表筒男神・中筒男神・底筒男神)
    息気長足媛命(オキナガタラシヒメ) 神功皇后
  合祀御祭神
   向井大神
    大鷦鷯天皇(オオササキ) 仁徳天皇
    去来穂別天皇(イザホワケ) 履中天皇
    瑞歯別天皇(ミツハワケ) 反正天皇
    菟道稚郎子命(ウジノワキイラツコ) 仁徳天皇の御弟君
    百済王仁(クダラノワニ) 菟道稚郎子命の学問の師
   水天宮外十二柱神
とある。

 祭神・方違幸大神とは、上記諸由緒に関係する神々を併せ祀ったもので、八十天万魂神とは、崇神天皇が祀ったという八十万の群神を指す。

 合祀祭神である向井大神とは、明治末期の神社統廃合によつて同40年に合祀した向井神社の祭神で、
 大阪府全志・旧向井神社の項には
 「向井神社は一に楯井原神社と称し、方違神社の東南約半町の所にありて、仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・菟道王子・百済の王仁を合祀し、孝徳天皇の大化6年(650)正月に大紫冠太古族小乙下朝臣鳥麿を神主として、斎き祀らせ給ひし所なりと云ふ。
 是れ近くに三天皇の長に眠り給へる御陵あるに依り、其の霊を祀り給ひしものならん。
 王仁は応神天皇の16年春2月に来朝し、太子菟道稚郎子之を師として典籍を学び給ひしを以て、かくは皇子と共に配祀せられしなるべし。
 其の称して向井神社といへるは、向井(井戸の名)に因めるの称なり」
とある。

 向井神社は、当社東の南北道路・“けやき通り”の辺りにあったといわれ、
 今、通りの中程、西側歩道の中にクロガネモチの古木が立ち、資料によれば、この古木は向井神社の境内にあったという。

 ただ、傍らの案内には
  大阪府指定天然記念物(昭和48年指定)
   樹種  クロガネモチ
   樹高  6.8m  幹廻  3.5m
 この地はかつては方違神社の参道脇にあたり、現在は樹勢にもやや衰えがみえるが、当時は豊かな緑に包まれていました。大阪府・堺市教育委員会
とあるだけで、向井神社については記されていない。

 今、大きな幹の途中から上部が切断され、そこから新しい枝が延び、倒木防止のためか鉄製の枠で支えられている。幹の大きさから推定すれば、嘗ての相当の樹高を有していたと思われる。

クロガネモチの古木



※社殿等
 北花田口交差点から東へ延びる道路の右側(南)に石製の鳥居が立ち、境内に入る。

 
方違神社・社頭
 
同・鳥居
 
同・境内

 境内正面に、唐破風向拝を有する入母屋造・銅板葺きの堂々たる拝殿が西面(正確には西北西)して建ち、その奥、弊殿を介して神明造妻入り・銅板葺きの本殿が鎮座する。
 本殿の周囲は社殿等が取り巻き、境内北側から東側へ回り込んだ処から側面がみえるだけで、内陣がどうなっているかは不明。
 なお、社殿は近年になって全面改築されたようで、本殿・拝殿共に新しい。


同・拝殿 
 
同 左
 
同・本殿(側面)

◎末社
 本殿の向かって左奥、境内北東隅の狭い区画に末社5社が鎮座するが、○○大神とあるだけで鎮座由緒等詳細は不祥。
 ・楠木姫社--楠木姫大神
 ・大年・鈴山稲荷大明神社--大年大神・鈴山大神
 ・白鬚社--白鬚大神
 ・末次社--末次大神--祭神名からみて稲荷社と思われる。
 ・八幡社--八幡大神--参詣の栞に「明治41年、境内社八幡社を合祀し」とあるのが是かと思われる。


楠木姫社 
 
同・社殿 
 
大年・鈴山稲荷大明神社
 
白鬚社
 
末次社

八幡社 

◎その他
 境内北側、鳥居を入った左手に詠草塚・神明社が並ぶ。
 ・詠草塚--樹木に囲まれた中に“詠草塚”と刻した小さい石柱が立ち、その側面に
        「寛政四子歳成 芝山公歌道門人 従来の詠草が取り散らかることを恐れて 此処に納む」(漢文意訳、一部読めず)
        とある。
        芝山公門下生らが歌を納めた塚らしいが、石柱の後ろに石灯籠・古井戸はあるものの、塚らしき高まりはない。

 ・神明社(神明造・銅板葺)--詠草塚の右手に鎮座する境内末社だが、由緒・祭神等は不明。
                社名からみて天照大神他を祀るかと思われる。

 
詠草塚・全景
 
石柱側面

神明社 

 ・神功皇后馬繋之松旧蹟
 拝殿左前の植え込みに、自然石に「神功皇后 御馬繋之松 旧蹟」と刻した石碑が立ち、その後ろに、まだ若い松樹が立っている。
 神功皇后が当地で神マツリをされたとき、馬を繋がれたであろうとして作られた旧蹟で、伝承にしか過ぎない。

 
馬繋ぎの松・石碑
 
馬繋ぎの松(背面より)


[付記]
 反正天皇陵
  堺市堺区三国ヶ丘町2丁
  当社の南西方に接して反正天皇陵(ハンゼイ)があり、百舌鳥耳原北陵(モズミミハラキタノミササギ)として宮内庁が管理している。
  考古学上では田出井山古墳・楯井古墳(タテイコフン)というが、これは地名による呼称。

 当古墳は前方後円墳で、拝所脇の案内板には
 ・時代 5世紀中頃
 ・規模 墳丘長:148m 後円部径:76m 同高さ:13m 前方部幅:110m 同高さ:6.8m
 反正天皇陵は田出井古墳とも呼ばれ、百舌鳥古墳群の北端に築かれた前方後円墳です。
 造られた場所は大阪湾を望む台地の端にあたり、古墳の向きが海岸線に沿っていることから、古くは海からよく見えるように築かれたと考えられています。
 墳丘は3段に築かれ、西側のみに造り出しがあります。
 かつては現在の濠の周囲に外濠が巡っていましたが、遅くとも14世紀には埋まったようです。
 外濠からは埴輪や須恵器・勾玉が見つかっています。
 東側に天王古墳と鈴山古墳があります。
とある。
 いま、古墳の周囲は民家が密集しており、方違神社の境内から後円部の一部が、南側の拝所から前方部の一部が見られるだけ。


反正天皇陵・位置図(案内板より転写)
後円部右上に方違神社
前方部右側に天王・鈴山の小古墳がある
 
 
反正天皇陵・航空写真
(案内板より転写) 

反正天皇陵・後円部
(方違神社境内より) 
   同・拝所(前方部)

 反正天皇(第18代)とは、16代仁徳天皇の第二皇子で、17代履中天皇の同母弟という。
 当天皇は別名・瑞歯別天皇(ミズハワケノスメラミコト)というが、その由縁について、書紀には
 「生まれながら歯が一本の骨のようであり、容姿うるわしかった。瑞井(ミズイ)の井戸で産湯をつかわれたとき、多遅の花(タジノハナ、虎杖-イタドリの花という)が井戸のなかにあったので、太子の名とした」
とあるのみ、皇妃・皇女の名は記載されているが事蹟の記載はない。
 その陵について、古事記には「毛受野」(モズノ)、書紀には「耳原陵」(允恭天皇5年条)とあり、いずれも当地に比定されている。

 なお治世期間は、書紀編年によれば5世紀初頭(406--410)とあるが中頃ともいわれ、とすれば当古墳の築造時代と年代的にはほぼ合致するが、天皇陵ということから未調査のため反正陵である確証はない。

◎反正天皇陵陪冢
 反正天領陵前方部とけやま通り間の民家密集地の中に、反正天皇陵の陪冢(バイチョウ、中心となる大型古墳に関連すると思われる小古墳)と思われる小さな古墳が2基残っている。

 *鈴山古墳
  ケヤキ通り西側にある交番所北側の小径を西へ入り、次の辻を右(北)へ、更に次の辻を左(西)に曲がった先の右側(北側)にあり、金網に囲われている。
 傍らの案内板には、
 ・規模  方墳 一辺22m 高さ3m 
 ・時代  5世紀中頃
 鈴山古墳は反正天皇陵古墳の東側にあり、近くにある天王古墳と共に、反正天皇陵古墳と関わりのある古墳(陪冢)と考えられています。
 当古墳の西側での発掘調査では反正天皇陵古墳の外濠や円筒埴輪が見つかりましたが、濠は見つかっていません。
 当古墳の周囲には三国ヶ丘遺蹟が広がっており、発掘調査では中世の溝や墓地が見つかっています。
 これらの遺蹟は、かつてこの辺りにあり、後に方違神社に合祀移転された向井神社に関連する遺構と考えられています。
 とある。

 
鈴山古墳
 
同・航空写真(案内板より転写)

 *天王古墳
  鈴山古墳南の小径を一旦戻り、次の角を左折して北へいった右側(東側)、金網に囲われた中にある。
 傍らの案内板には
 ・規模  方墳 一辺11m 高さ(現存)3m
 ・時代  5世紀
 天王古墳は反正天皇陵古墳の東側にあり、近くにある鈴山古墳と共に反正天皇陵古墳に関わりのある古墳(陪冢)と考えられています。
 墳丘の周りに濠があったかどうかはわかりませんが、百舌鳥古墳群の中では数少ない方墳の一つです。
 天王という名称は、この辺りにあった向井神社の別称である「牛頭天王社」に由来すると考えられています。
とある。


天王古墳 
 
同・航空写真(案内板より転写)

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