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和泉(和泉郡)の式内社/兵主神社
大阪府岸和田市西ノ内町
祭神−−天照大神・八幡大神・管原道真
                                                            2011.03.26参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国和泉郡 兵主神社』とある式内社。兵主はヒョウズあるいはヒョウスと読む。

 南海本線・和泉大宮駅の北東約700m、府道227号線(和気岸和田線)に面して鎮座する(西側)。道路の反対側(東側)に岸和田市中央公園が拡がる。

※由緒
 当社の創建由緒・年代など詳細不明だが、延喜式(927)にある“和泉国和泉郡 兵主神社”を当社に比定する限り、9世紀以前からの古社といえる。

 当社縁起書によれば、
 「天正年間(1573--91)に兵火に遭い縁起帳や多くの古記録が焼失したため、創建の年代は詳にかできないが、延喜式や神祇志料などの諸文献にも、当社が古来から建立されていたとの記録がある」(大意)
とあり、
 社頭の由緒記には
 「旧掃守郷の総社として、西ノ内他12ヶ村を氏子区域として禰宜一人ずつを出して奉祀していたが、天正年間の社殿焼失以降、各村がそれぞれの氏神を勧請したため、以後は西ノ内村のみが奉祀した。ただ雨乞いの際には、従前の通り12ヶ村村から庄屋年寄が出仕するのを例とした」(大意)
とある。ただ、これらは室町・江戸期以降の経緯と思われ、それ以前についての資料はない。

※祭神
 今の祭神・アマテラス以下三座は、応永20年(1413・室町前期)の当社由緒書や享保3年(1718・江戸中期)の岡部長富の奉納文によるといわれ(大阪府全志-1922)、これを受けてか大阪府神社名鑑(昭和46年−1971)も上記三座という。

 管見した資料に、これら当社由緒書および奉納文の内容がみえず確認不能だが、奉納文と同じ享保3年6月付けの“雨降面袋献記”(当社所蔵の古面を納める袋に付く奉納記)には、
 「泉州南部西内邑に祠有り。天照皇大神宮・八幡宮・天満天神社をして一社と為す」
とあり(大阪府全志-1922)、当社祭神をアマテラス以下の三座とするのは古くからのものらしいが、アマテラス以下とする根拠は不詳。

 これに対して、社名・兵主に注目して
 ・八千鉾大神・日本武尊(付記−−管原道真・品陀別命)−−大阪府神社明細帳(昭和22年)
 ・八千鉾大神(相殿−−日本武尊・天照大神・品陀別命・菅原道真)−−同上(昭和27年)
とする異論もある。

 この異論について、大阪府全志には、
 「大阪府神社明細帳に八千鉾大神(ヤチホコ)・日本武尊(ヤマトタケル)となせるは、明治8年神社調の際兵主の社名に依りて誤りしものなりといふ」
とあり、
 また、社頭・道路脇に立つ由緒記(石板)には
 「明治6年に郷社に列格し兵主神社と改称」 
とある。
 当社由緒記他の諸資料に社名改称の記述は見えないが、明治6年(1873)に改称したとすれば(旧社名不明)、この限りではない。

◎兵主神(ヒョウズ)
 兵主とは、中国古代の伝説上の神で、兵器の神・兵器製造の神であり、そこから鍛冶の神ともされる。史記・高祖本記によれば、漢の高祖が兵を挙げたとき(BC200頃)、蚩尤(シユウ・兵主の別名)を祀って勝利を祈ったという。

 蚩尤について、貝塚茂樹氏は
 「蚩尤は、人語を解する半獣半人の怪物で、両鬢は逆立って剣の切っ先のように鋭く、頭の真ん中に角があったといわれ、その食べ物は世の常の人と異なり、砂と石、一説によると鉄石だったともいう。
 中国の古書・世本には、『蚩尤が兵つまり武器を創造した』とあり、又、盛んに新鋭の武器を製造し、その武力によって中国を制覇したともいう。
 砂・石・鉄石を食するとは、砂鉄をあつめて精錬し鉾・剣などの兵器を製造することを意味し、タタラ鍛冶に必要な風を支配した蚩尤は、フイゴ技術の発明者であり、その技術によって青銅兵器の製造をおこなった部族の代表者であり、古代において神秘的な神業とされた青銅器製作の秘密を知る巫師の祖神と仰がれる人物であったろう」(大意)
という。

 兵主神とは、一義的には兵器の神・兵器製造の神だが、それは鍛冶の神でもあり、それにかかわる風の神でもある。
 当社が兵主を名乗る限り、その祭神は“沢山の鉾”との意味をもつ八千鉾神とするのが自然であろう(同じ兵主を名乗る奈良・桜井の穴師坐兵主神社のご神体は日鉾とされる)
 ただ、当地に鍛冶にかかわる渡来系氏族が居住していたとの痕跡は見えないが、当社の東約1.8kmにある泉穴師神社(泉大津市豊中町、穴師とは鍛冶技能者を指す)と何らかの関係があったかもしれない。

※社殿等
 府道沿いの北・中・南に3基の鳥居が立っているが、最南部・橋の袂に東面する一の鳥居から、川添いの参道を進んだ右手に二の鳥居が南面して立つ。
 境内奥の中央に拝殿(唐破風付き入母屋造・瓦葺)が、その奥、白壁内に朱塗りの本殿が南面して鎮座する。桃山時代の再建という。
 ・本殿−−三間社流造・正面唐破風付・檜皮葺−−国指定重要文化財

兵主神社/二の鳥居
兵主神社・二の鳥居
兵主神社/拝殿
同・拝殿
兵主神社/本殿
同・本殿

◎末社
 社殿の右手奥の疎林のなかに
 ・龍神社(豊玉姫命) ・三宝荒神社(奥津彦命・奥津姫命-竈の神・土祖神) ・寝牛像 ・午王神社(牛頭天王)
が並び、境内右手には
 ・戎神社(事代主命) ・稲荷社(豊受姫命) ・厳島神社(市杵島姫命)
が鎮座する。

兵庫神社・末社/石祠群
末社・石祠群
兵主神社・末社/戎神社
末社・戎神社
兵主神社・末社/厳島神社
末社・厳島神社

※天降の面
 当社には、室町時代の頃と思われる古い能面9面が保存されている。

 当社由緒記によれば、
 「寛永6年(1629・江戸前期)の古文書に、『昔より奈良・大阪より能役者を雇い、氏子とも相加わり、正月17日・8月1日、一年に二度ずつ祭礼をよろこび能仕り候』とあり、その時使われた面で、この能楽奉納が何時の頃に始まったかは記録がないが、永禄10年(1567・室町末期)頃まで続いていた」
という。

 後年の旱魃に際して、この面を神前に飾り降雨を祈願すれば必ず験があったことから「天(雨)降の面」と呼ばれ、寛保3年(1743)、面を素のまま保存するのは不敬として、時の岸和田藩主から金襴の面袋および桐箱が寄贈され、それぞれの面を袋に入れて社殿に納められているという。

 由緒記に載る写真によれば相当古いもので、女面1面・男面8面らしいが、実見不能のため、初期の能面か、それ以前の猿楽面(田楽面)かは不明。写真を見たところでは後者の可能性が高い。
兵主神社/天降の面
天降の面(由緒書より転写)

※蛇渕
 社殿の右手裏に東西に長い池がある。曾て、旱魃時の雨乞祈願がおこなわれた池で、“蛇渕”と称する。中央部に黄色く塗った小橋が架かり、その両側の池中に龍頭を象った吐水栓が立つ。
 由緒記によれば、江戸時代の古文書を引用して
 「境内に蛇渕之有り。鵜葦草不合尊の御母豊玉姫御座まします龍宮渕に御座候。郷内雨乞祈願の節は、別当久米田寺多門院を相招き、陰陽榊木赤白弊をもって蛇渕にて読経修行仕り候。
 猶又、天降り給ふ御面之有り。雨乞いの度々神前に錺置候へば日々に競水之有り候」
とあり、降雨に対するお礼として、種々仮装を凝らし太鼓を打ちながら舞う笹踊り(花笠踊)が奉納されたという(明治初年頃まで)

 豊玉姫とは、なくした釣り針を求めて龍宮を訪れたホホデミ(山幸彦)と結ばれウガヤフキアヘズ(神武天皇の父)を生んだ海神の娘で、小橋を渡った疎林のなかに、その豊玉姫を祀る龍神社(石祠)が鎮座している。


蛇渕−1

蛇渕−2

龍神社

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