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和泉(大鳥郡)の式内社/石津太神社
A:石津太神社−−大阪府堺市西区浜寺石津町中4丁
祭神−−蛭子命・八重事代主命・天穂日命・建御名方冨命・誉田別命・靫大神宮
B:石津神社−−大阪府堺市堺区石津町1丁
祭神−−八重事代主命・大己貴命・天穂日命
                                                           2011.01.11参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 石津太神社』とある式内社だが、今、堺市西区にある石津太神社と同市堺区にある石津神社が、共に式内・石津太神社を名乗り論社となっている(両社間の距離、約800m)
 石津太は“イワツタ”、石津は“イシヅ”と訓む。

[石津太神社]
 南海本線・石津川駅の南南東約300m、駅東側の道を少し進むと、左手に鎮守の森が見える。当社は民家に囲まれた中に鎮座し、数本の楠の巨木が目印となっている。旧紀州街道の西側にあたり、旧地名は浜寺町大字下石津。

[石津神社]
 石津太神社の東南東約1km。石津太神社から南へ出て、石津川沿いの道を東へ、国道26号線の地下道をくぐった左手(国道東側)に鎮座する。小栗街道の東にあたり、旧地名は神石村大字上石津。

※祭神
 両社ともに「わが国最古の戎社」と称し、エビス神と習合した蛭子命(ヒルコ)・八重事代主命(ヤエコトシロヌシ)を主祭神としている。

 石津太神社由緒略記によれば、
 「我国最古の戎社と称せられる当社は、イザナギ命・イザナミ命夫婦となり、蛭子神(ヒルコ)をお生みになられたが、命は三歳になられても尚立ち給うこと能はざりしかば、天磐樟船に乗せて順風に放ち棄て給ひしに、船は波に従ひ飄々として海岸に漂着し、命は其の携へ来たりし五色の神石を此に置き給い、此の地を石津という、云々」
とあり、エビス神と習合したヒルコ命を主祭神とする。

 一方、石津神社の由緒によれば、
 「当宮は延喜式神名帳にも見られる日本最古の戎神の宮として、・・・
 往古、事代主命、此地に降臨のとき五色の神石を携え来りて此の地に置き給う。故に石津と名づく」
とあり、ヒルコ命とは見えないものの、同じくエビス神と習合したコトシロヌシを主祭神とする。

 これは記紀にいうヒルコ流離譚に仮託したもので、
 ・古事記−−イザナギ・イザナミの国生みに際して、最初に水蛭子(ヒルコ)を生んだが、この子は不具だったので葦の船に乗せて流し捨てた。
 ・日本書紀−−イザナギ・イザナミ双神は、日の神(アマテラス)・月の神(ツクヨミ)の次ぎに蛭子を生んだ。三年経っても足が立たなかったので、天磐樟船(アメノイワクスフネ)に乗せて風のまにまに放流した。
とあり、いずれも足萎えの子・ヒルコを船に乗せて流し棄てたとはするが、その漂着先などは記していない。

 そのヒルコと同体とされるエビス神の原姿は、海の彼方の異界からやってくる“寄り神”・“来訪神”・“漂着神”に対する漁民信仰の一つといわれ、始めは豊漁をもたらす神として信仰されたという(夷・戎には異国の神的ニュアンスがあり、総本社・西宮神社の祭神は、漁民が海からあげた神像・ヒルコ命との伝承がある)。それが庶民の豊かになりたいという願望をうけて拡大したのが、今の豊饒の神・福の神としての市神・エビス神といえる。

 その海から寄り来るエビス神が、海に流しやられたヒルコ命が何処かの海岸に漂着したのでは、という信仰(願望)と習合したのが、エビス・ヒルコ同体説だが、そのはじまりが何時の頃かははっきりしない。
 文献上、エビス神の初見は伊呂波字類抄(色葉字類抄・1144--81頃−平安後期、これを鎌倉時代に増補したのが伊呂波類字抄)といわれ、そこには「夷 エビス 毘沙門」とあり、エビスは毘沙門天を本地仏とする神として信仰されたというが、この時点ではヒルコとの習合はみられない。これからみると、エビス=ヒルコ説は、それ以降、鎌倉時代頃に成立したともいえる(鶴岡八幡宮には、鎌倉時代から市神としてのエビスが祀られていたという)

 エビス神と習合しているコトシロヌシは、元々神の意志を伝える託宣の神であって、エビス神との関係はない。
 ただ、国譲り交渉のために高天原の使者が来たとき、海釣りに出かけていたことから、同じ海・漁業と関係するエビス神と習合したもので、明治の神仏分離に際して、ヒルコ神・エビス神が軽んじられ、記紀の神が求められたとき、祭神をコトシロヌシへ変更した神社は多いという。石津神社もその一社かもしれない。

 石津太・石津両社ともに第3座とする天穂日命(アメノホヒ)は、当地附近に勢力を張っていた石津連の祖神といわれ、新撰姓氏禄(815)には、
 「和泉国神別(天孫) 石津連 天穂日命十四世孫野見宿禰之後也」
とある。
 アメノホヒは、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた五男神の第2子で、出雲臣の祖神という。記紀では、国譲り交渉の使者として出雲に派遣されるが、オオクニヌシに媚びて3年経っても報告しなかったとされ、出雲国造神賀詞では交渉を成立させたという。

 上記したように、ヒルコ命(エビス神)が平安あるいは鎌倉期以降の加上とすれば、延喜式当時の当社(祭神一座)は、石津連がその祖神・天穂日命を祀った氏神社だったと思われる。本来の祭神が、著名神・流行神の勧請によって脇に追いやられた事例は多い。

 石津太神社の第二殿に祀られている3座のうち、建御名方冨命(諏訪神社)と誉田別命(八幡神社)は明治41年(1908)に、靫大神宮(アマテラス・トヨウケ・イザナギ・イザナミ合祀)は昭和23年(1948)に合祀されている。
 その由緒などは不詳だが、社務所の方のお話では、当社近くに諏訪氏と名乗る方がおられ、その氏神・タケミナカタトミ命を合祀したという。

※由緒
 当社創建由緒は、上記由緒略記のとおりだが、その原典とされる“泉州石津大社略記”(1737・江戸中期)には、
 「当社は人王五代孝昭天皇七年八月十日勅して、初て宮柱ふとしく建給ふ。十日をもつて祭る事このことのもと也
 延喜式に所載石津大社神社とあるは是なり。石津上下に宮建あり 所祭の神は恵美酒大神なり。往昔此大神此地に降臨のとき五色の石を携きたり、此所に置給ふゆへに石津といふ。彼神石社地に神封して現存 云々」
とあるという(式内社調査報告・1977)

 孝昭天皇7年というのは伝承であって信ずるに足りないが、これに代わる創建関係資料はない。
 ただ略記に、“石津上下に宮建あり”と注記しているのをみると、江戸中期には上石津(現石津神社)・下石津(現石津太神社)両村に式内・石津太神社を称する神社があったことがわかる。

 この両社のいずれが本来の式内社かについては、
 ・現石津太社とするもの−−泉州志(1700)・神祇史料(1871)
 ・現石津社とするもの−−大阪府誌(1903)・大日本地名辞典(1907)
 ・両社併存とするもの−−和泉名所図会(1796)・特選神名牒(1925)
などの諸説ずあるが、
 大阪府全志(1922)
 「地理上からみると、上石津以西である下石津の低地は、往古の海面が次第に埋まって陸地となった所で、縁起にいうように孝昭天皇の御代に祭られたのであれば、それは石津太神社の所ではなく、石津神社の場所ではないか。
 海辺の泥沙の地が陸地となるに従い、住民が移転するとともに石津太神社は下石津に移り、その旧址に小祠として残ったのが現石津神社ではないか。・・・後世の精査を待つ」(大意)
と石津神社寄りの説を記し、
 大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)には、
 「石津村が上と下に別れたとき(時期不明)、一方に本社があり、一方に御旅所などがあったが、分村するとき各々それを氏神として対立したのではないか。
 堺県のとき(明治初年)両社の正閏について紛議があったが、県も裁断を下しきれず共に式内社と認め、共にコトシロヌシを祭ったものという」(大意)
と両社併存説を記しているように、決着をみていない。(以上、式内社調査報告)

※社殿等
[石津太神社]
 阪堺鉄道のひとつ西を南北に走る旧紀州街道に面して一の鳥居が、民家に挟まれた参道の西に二の鳥居が立ち、境内に入る。境内正面には大きな唐風破風2基を有する横長の拝殿が、その奥、白壁に囲まれた中に本殿2棟が並列して、いずれも東面して鎮座する。周囲には民家がひしめいている。

  本殿−−右社:一間社流造・銅板葺−−祭神:蛭子命・八重事代主命・天穂日命
        左社:一間社春日造・銅板葺、−−祭神:建御名方冨命・誉田別命・靫大神宮
        両社とも江戸前期の造営で、間口一間二尺・奥行一間三尺、
  拝殿−−横長の入母屋造・割拝殿(中央に通り抜け可能な通路をもつ拝殿)で、間口十間・奥行二間、宝暦頃(18世紀中頃)の造営

石津太神社/一の鳥居
石津太神社・二の鳥居
石津太神社/拝殿
同・拝殿
石津太神社/本殿
同・本殿

 境内には、末社・八幡宮(明治41年-1908-勧請)と巨木の根元に白蛇社(時期不詳)・磐山稲荷社(弘化4年-1847勧請)があり、紀州街道の向かい側の町角に、ヒルコ命が携えてきたとする神石(五色の石、花びら紋様を持つ自然石)が祀られている。
 参詣したのが“残りエビス”の日だったことから、境内・参道脇には縁起物・福笹が並べられ、参詣者も多くみられた。

石津太神社・末社/八幡宮
末社・八幡宮
石津太神社・末社/白蛇社
末社・白蛇社
石津太神社/神石(五色の石)
神石(五色の石)

[石津神社]
 阪神高速道路・堺線の終点から伸びる国道26号線東側に面して朱塗りの鳥居が立つ(歩道上に、「日本最初の戎宮 石津神社」と大書した標柱が立つ)。ここもまた、周囲に民家が迫っている。
 境内正面の巨木の下に、大きな唐風破風をもつ鉄筋コンクリート造・平屋建・銅板葺の社殿が建つ。本殿は弊殿と一体化した構造で、詳細不明。いずれも平成3年10月新築の社殿。

石津神社/鳥居
石津神社・鳥居
石津神社/拝殿
同・拝殿
石津神社/本殿
同・本殿

 境内左手に、末社・野見宿禰社・天満宮が並列し、右手に猿田彦社が、東側大木の下に社名不明の小祠がある。
 いずれも鎮座由緒・時期など不明だが、野見宿禰社(石津連の祖神)・天満宮(菅原道真は野見宿禰の子孫)は祭祀氏族・石津連との関係からか。

石津神社・末社/野見宿禰社・天満宮
末社・左:野見宿禰社、右:天満宮
石津神社・末社/猿田彦社
末社・猿田彦社
石津神社/社名不明社
末社・社名不明

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