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和泉(和泉郡)の式内社/泉井上神社
付-式内・和泉神社、和泉国総社
大阪府和泉市府中町6丁目
祭神--泉井上神社-神功皇后・仲哀天皇・応神天皇他45柱
  和泉国総社-和泉大明神(独化天神)他68柱

                                                            2011.03.06参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国和泉郡 泉井上神社』とある式内社で、同じ和泉国式内社『和泉神社』を合祀している。また境内には和泉地方の五大社の分霊を合祀した『和泉国総社』(五社総社ともいう)が鎮座している。
 なお泉井上神社には、和泉大社・四十八神社・井ノ八幡・井戸ノ森八幡宮・水内ノ宮などの別名がある。

 JR阪和線・和泉府中駅の西約400mの市街地の中に鎮座する。曾ては和泉国府の略中心に位置していたという。

【泉井上神社】
※由緒
 当社の創建年代・由緒など不詳だが、当社参拝の栞によれば、
 「神武天皇はご東征をお祈りになり、神功皇后が仲哀天皇即位2年(200)4月に行幸された時、急に泉ができ清い水が湧き出したので瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉といい、宮として祀られた。これより“和泉”の国名が付けられた」
とあり、社伝には
 「神功皇后が朝鮮から帰還した際、一夜にして泉が湧出したので、皇后はこれを瑞祥として喜び、霊泉と名づけてここに行宮を設け、後に、その畔に社殿を造営された」(大意)
とあるという(日本の神々3所載・泉井上神社・2000)

 明治以降の諸資料も略同意の由緒を記しており、その一つ・大阪府全志(1922)には、
 「泉井上神社は字馬場町の清水の上にあり。延喜式内の神社にして井ノ八幡又は水内社とも呼び、社名は清水に因めり。
 創建の年月は詳ならざれども、清水湧出して征韓の首途に嘉瑞を表したる所なるを以て、凱旋ののち紀伊国に至り、御舟により下り此の水を見て大に賞し、其の上に石壇を設けて天神地祇を奉斎し給ひしもの、是れ其の初めならんといふ」
とあり、いずれも神功皇后の朝鮮出兵伝承に仮託した創建伝承を記している。

 これらの伝承からみて、当社は和泉清水にかかわる水神信仰・農耕神信仰が発端と思われるが、これを神功皇后に結びつけるのは、記紀の記述を史実としていた時代につくられた仮構の伝承であって、ましてや神武天皇云々は論外。

 創建後の経緯については、諸資料間で細部に異同があるが、大略、次のようになる。
 ・元正天皇・霊亀2年(716) 天正天皇行宮・茅渟宮(和泉宮とも)造営に伴い、河内国から大鳥・和泉・日野3郡を割いて
                 和泉監(イズミノゲン)を設置し、その監衙(役所)を当社近傍に造営
                 和泉地方の五大社の分霊を合祀した“和泉国総社”を、当社東に隣接して創建(下記)
 ・同・養老4年(720)    九州の隼人反乱鎮圧後の戦没者慰霊のために諸国で行われた放生会を、総社と当社でも執行
 ・聖武天皇・天平4年(732) 夏の旱魃に際して、当社および和泉国総社において降雨祈願
 ・同・天平12年(740)     和泉監を廃止し、河内国に併合
 ・孝謙天皇・天平法字元年(757) 再び河内国から3郡を分割して和泉国として設置、
                 その国衙(役所)を当社近傍(府中町4丁目付近か)に造営
 ・戦国時代末期       織田信長、当社所領を1200石に減ず
 ・正親町天皇・天正13年(1605) 豊臣秀吉、当社全所領を没収
 ・後陽成天皇・慶長10年(1605) 豊臣秀頼、当社および和泉国総社の社殿再建
 ・明治3年(1870)       天災のため社殿大破、当社を和泉国総社に合祀
 ・同28年(1895)        和泉国総社より当社を分離・両社併立とし、当社社殿新築
 ・同41年(1908)        和泉国総社を当社の摂社とし、現在に至る

◎和泉清水
 和泉清水について、社頭に掲げる案内には
 「古くから“国府清水”または“和泉清水”とよばれ、霊泉として祭られるとともに、農業用水として周辺の農地を潤してきた泉である。
 社伝によると、泉は、神功皇后の新羅出兵の際、一夜にして湧き出したことから霊泉として祭られるようになったという。
 水は常に清らかに澄み、その味は甘露であるとして広くその名を知られ、豊臣秀吉も大阪城に運ばせて、茶の湯に用いたという。
 和泉という地名も、泉井上神社の社名も、この和泉に由来すると伝えられている」
とある。

 また、大阪府誌(1903)
 「泉井上神社の後ろに在りて十数歩の小池なり。池畔に古杉あり。蟠根半ば池中に入り、冷泉混々その下より湧出して池に湛へ、後、一川を為して流る。・・・・今、付近民家の飲料たり。側に“清水の石祠”と称するものを安して之を祀れり。故に此の地を井の里と称し、和泉の国名亦是に起因せり」
という。

 今、白壁に囲まれた神域内にみえる古木の下に、『和泉清水』と刻した石碑が立ち、奥の方に小さな石祠が見える。清水の石祠か。
 泉は昭和30年代に涸れたともいわれ、周りに泉があったという痕跡は見えない。

※祭神
 社頭の案内によれば、
 「神功皇后・仲哀天皇・応神天皇のほか、神功皇后に従って朝鮮に渡った神々45座を加えた計48座を祭神とし、その神像48躰を蔵す」
とある。

 これらの祭神は、当社の創建を神功皇后の朝鮮出兵伝承に付託したものだが、延喜式には“祭神一座”とあることからみると、延喜式編纂以後の何時の頃か、上記創建伝承が作られたときに持ちこまれた祭神かと思われる。

 とはいえ、当社本来の祭神を窺わせる資料・伝承はない。ただ、当社の創建が和泉清水にかかわることから、“水神”あるいは“農耕神”かと思われるが、これも推測であって確証はない。

※社殿等
 道路脇の鳥居から長めの参道を過ぎた先、境内正面に拝殿、その奥、白塀に囲まれた神域内に本殿が鎮座するが、高い白壁に開けられた挾間が狭くて実見困難。
 資料によれば
 ・本殿--和泉大社造、間口二間・奥行三間という。
        本殿が外からみえないため様式は不明だが、出雲大社に代表される切妻造・妻入の大社造に類似すると思われる。
 ・拝殿--入母屋造・間口七間・瓦葺

泉井上神社/鳥居
泉井上神社・鳥居
泉井上神社/拝殿
同・拝殿

◎摂末社
 参拝の栞によれば、配祀社として
 ・事代主神社 ・大国主神社 ・菅原市邊磐坂神社(市邊磐坂神・菅原道真) ・小竹神社(神功皇后)
 ・白鳥神社(天照大神・日本武尊) ・和泉神社(五瀬命・元正天皇・聖武天皇) ・春日神社(天照大神・天児屋根命)
 ・勝手神社(髪授大神・美容理容の紙) ・熊野神社(伊耶那美命)
の8社を挙げているが、今、境内にみえるのは勝手神社と熊野神社の2社のみで、他は神域内に小祠として並んでいるらしいが確認不能。

 ただ、大阪府誌によれば、事代主神社・大国主神社・菅原市邊磐坂神社・白鳥神社・春日神社・熊野神社の6社は、和泉国総社の末社というから、当社の末社は明治41年(1908)に御館村から合祀した和泉神社と字馬場からの勝手神社のみとなる
 なお大阪府全志は、上記以外に明治3年の合祀として馬場天神(管原道真)・東天神社(管原道真)・南天神社(管原道真)・天神社(管原道真)・宇多神社(天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)、同41年の合祀として王子神社(井口王子)・肥子神社(管原道真)、同42年の合祀として菅原神社(菅原神社)を挙げるが、これらが今どうなっているか不詳。

泉井上神社・末社/勝手神社
末社・勝手神社
和泉国総社・末社/熊野神社
末社・熊野神社


【和泉国総社】
 今、境内の一画(東側)に『和泉国総社』(五社総社ともいう)と称する大きな社殿が鎮座する。

※由緒
 和泉国総社とは、元正天皇・霊亀2年(716)、河内国から大鳥郡・和泉郡・日根郡を割いて“和泉監”(イズミノゲン、国府に匹敵する特別行政組織)が置かれたとき、国司等の参拝の便をはかるために和泉国五大社(大鳥神社・泉穴師神社・聖神社・積川神社・日根神社)の分霊を合祀して、和泉国の総社として泉井上神社の東に創建された神社。

 創建後の経緯については、上記・泉井上神社の経緯参照。

※祭神
 当社参拝の栞によれば、総社の祭神は
  ・和泉大明神(独化天神)
  ・天照大日孁貴尊(アマテラスオオヒルメムチ) ・天忍穂耳尊(アメノオシホミミ) ・天瓊瓊杵尊(アメノニニギ) 
  ・彦火火出見尊(ヒコホホデミ) ・鵜茅草葺不合尊(ウガヤフキアヘズ) ・御諸別命(ミモロワケ)
  ・和泉国六二座
とある。

 オオヒルメムチは大鳥神社(堺市)、オシホミミは泉穴師神社(泉大津市)、ニニギは聖神社(和泉市)、ヒコホホデミは積川神社(岸和田市)、ウガヤフキアヘズは日根神社(泉佐野市)の祭神で、総社本来の祭神はこの五座を指し、アマテラスにはじまる皇室の祖神を網羅している。

 和泉大明神およびカッコ内に記す独化天神は、いずれも出自不明。ただ、独化天神を“ヒトリナリマセル アマツカミ”と読んで、古事記・天地開闢の段にいう天之御中主神(アメノミナカヌシ)・高御産巣日神(タカミムスヒ)・神産巣日神(カムムスヒ)を指すともいうが(古事記には、「天と地が初めて別れた開闢の時、高天原に成り出た神の名は、・・・この三柱の神は、皆単独の神として成り出た神で、姿形を現されなかった」とある)、その真偽および総社に祀る由縁など不詳。
 ミモロワケとは、下記する和泉神社に関係するらしいが、和泉神社の祭神を総社に祀る由縁もみえず、詳細不詳。

※社殿等
 泉井上神社への参道右に拝殿、白壁に囲まれた神域内に本殿(実見不能)が建つ。
 ・本殿--三間社流造(間口三間・奥行二間半)・萱葺--慶長10年、豊臣秀頼再建という
 ・拝殿--入母屋造(間口七間)・瓦葺き
 神域内に、末社が建つというが実見不能

和泉国総社/拝殿
和泉国総社・拝殿
和泉国総社/本殿
同・本殿(栞より転写)


【和泉神社】
 延喜式神名帳に、『和泉国和泉郡 和泉神社』とある式内社だが、今、式内・泉井上神社に合祀され末社となっている。

※由緒
 当社の創建由緒・時代等不明。
 式内社調査報告(1986)によれば、
 「和泉国国衙(泉井上神社を中心に約500m四方ほどあったという)に南接する和泉寺の近くにあったが、廃寺となったあと、国衙南端の御館森(ミタチノモリ)に移った。
 御館森の地は古くは泉井上神社の境内に接続しており、泉井上神社・和泉国総社・和泉神社が近接して鎮座、時代によって主客の変化があった。
 江戸時代には総社が主神のようだったが、明治初年では主客逆転して、社地の2/3強は和泉神社に属し、1/3弱が総社の神域で、泉井上神社は一摂社の観があった。
 しかし、御館森が泉井上神社の御旅所であったことから再転、明治41年12月泉井上神社の境内に移され、末社となった」
とある。
 当社の旧社地・御館森の位置・現状など不明。泉井上神社神域内に並ぶ小祠の一つがそれだともいうが未確認。

※祭神
  明治42年(1909)の神社明細帳には祭神不詳とあるが、当社の古い社地が、古代豪族・珍県主(チヌノアガタヌシ、茅渟・血沼とも書く)の勢力範囲であった上泉郷にあったことから、当社祭神は“珍県主の祖神”ではないかという。(以上、式内社調査報告)

 珍県主とは、新撰姓氏禄(815)
 「和泉国皇別  珍県主  (崇神天皇皇子)豊城入彦命三世孫御諸別命之後也」
とある氏族だが、和泉寺の推定地(府中町4丁目付近)を発掘調査した際(2010)、“珍県主廣足”(ヒロタリ)と墨書した瓦片が出土している(和泉市広報)ことから、当地辺りに珍県主一族が居住し、その氏寺が和泉寺で、当社は、その祖神(トヨキイリヒコあるいはミモロワケ)を祀った氏神社ではなかったかと推測される。

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