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和泉(大鳥郡)の式内社/大鳥神社(鍬靫)
別称−−大鳥北浜神社
大阪府堺市西区浜寺本町3丁
祭神−−吉備穴戸武媛命
                                                          2011.01.11参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 大鳥神社 鍬靫』とある式内社で、同じ大鳥神社を名乗る名神大社(大鳥本社)があるため、これと区別して“大鳥鍬靫神社”とも呼ばれたが、明治6年(1873)以降“大鳥北浜神社”に改称している(以下、大鳥北浜神社という)。所謂・大鳥五社大明神の一社。
 なお、当社を同じ大鳥郡の式内社で大鳥大五社明神の一社である“大鳥浜神社”に比定説もあるが、式内・大鳥浜神社は高石市にもあって何れとも判別しがいという(大阪府史蹟名勝天然記念物・1931)

 南海本線・浜寺公園駅の東約600m、駅南を東西に通る大阪高石線の浜寺公園5丁交差点を左折約400m北上した右手(東側)の住宅地の中に鎮座する。案内表示などなく見つけにくい。大鳥神社本社の西北西約1km強。

※創建由緒
 当社に関する資料不足のため創建時期・由緒などの詳細不明だが、
 大阪府全誌(1922)には、
 「(大島五社の内、大鳥神社−本社−を除いた)4社とも、延喜式内の神社にして、文武天皇の慶雲2年(705)勅使管生朝臣小村の奉幣して祭りし所なりといふ」
とあり、
 平安前期の大鳥神社関係古書・大鳥五社大明神并別当神鳳寺縁起帳(849、以下、大鳥五社縁起帳と略記)
 「慶雲3年勅使管生朝臣小村幣帛を奉じ、始めて三妃を祭り、神宮を営造、大鳥五社大明神と号し奉る」
とあるなかの、三妃を祀るうちの一社が当社という。

 この伝承からみると、当社は飛鳥朝末期頃の創建となるが、縁起帳に“始めて三妃を祀る”とあることから、当社とともに大島井瀬神社・同浜神社が同時に建立されたととれ、疑問がある。
 以前からあった神社を、この頃、大鳥五社としてまとめた由緒を記すものかもしれない。
 (大鳥五社大明神−−大鳥神社・大鳥美波比神社・大鳥北浜神社・大鳥井関神社・大鳥浜神社の総称。大鳥五社ともいう)

※祭神
 現在の祭神・吉備穴戸武媛命(キビアナトタケヒメ)は、ヤマトタケルに従って蝦夷討伐に赴いた吉備(臣)武彦(キビノオミタケヒコ)の娘で(古事記は武彦の妹という)、ヤマトタケルの妃の一。

 ただ、当社の祭神については
 ・キビアナトタケヒメ−−現在・泉州志(1700)・神社覈録(1870)・和泉国五社明神并惣社八幡宮縁起帳(?)
 ・両道入媛(フタジノイリヒメ):垂仁天皇の皇女でヤマトタケルの妃、仲哀天皇の母−−大鳥五社縁起帳(849)・大鳥神社流記(922)
 ・月夜見御子神−−和泉国式神私考(編纂時期不明)
などの諸説がある。

 このうちキビアナトタケヒメとフタジノイリヒメは、いずれもヤマトタケルの妃で、これらを祭神とするのは、大鳥神社祭神をヤマトタケルとすることから、その妃3人(フタジノイリヒメ・キビアナトタケヒメ・オトタチバナヒメ)を摂社3社に振り充てたものともいわれ、資料によって異同があり、当社を含めて確定したものではない。

 月夜見御子神というのは、大鳥美波比神社の祭神・天照大神に対比した伝承と推測され、
 式神私考には
 「殿木氏の家説に云ふ、月夜見御子神神人に懸かりて、日本武の魂を大野之地に祭らしめ、御子神も亦た同地に鎮り坐せり」とあるが、これは別系統の異伝承であろうという(式内社調査報告・1977)
 殿木氏とは、新撰姓氏禄に
 「和泉国神別(天神) 殿来連 天児屋根命之後也」
とある氏族と思われる。
 とすれば大鳥連と同族となることから、上記の家伝があるのだろうが、その意味するところは不詳。

※社殿
 南面する鳥居を入った境内正面の〆柱の奥に、ガラス張り縦長の近代風拝殿(切妻造・妻入り・銅板葺)と、それに続く弊殿、その奥、白壁に囲まれた内に簡素な本殿小祠(神明造・平入り・銅板葺)が建つ。いずれもまだ新しく見えるが、建造時期不明。社務所などは見えず。

大鳥北浜神社/鳥居
大鳥北浜神社・鳥居
大鳥北浜神社/拝殿
同・拝殿
大鳥北浜神社/本殿
同・本殿
 境内入口、〆柱横のちょっとした広場に、
  「官弊大社大鳥神社御旅所」(側面に、昭和5年5月5日建之とある)
との社号標が立っている。

 資料によれば、「戦前までは現在の浜寺公園内の御旅所に建てられていたが、戦後、進駐軍が公園を接収したため、この社号標のみをかろうじて移動させた」とある。
大鳥北浜神社/御旅所石柱

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