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和泉(大鳥郡)の式内社/日部神社
大阪府堺市西区草部
祭神−−彦坐命
                                                          2011.02.03参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 日部神社』とある式内社。今、社名(日部)をクサベと訓むが、日下部と書いてクサカベとも訓む。

 JR阪和線・富木駅の東約1.4km、住宅地の中に鎮座する。府道30号線から分岐する同36号線を南へ約600mほど進んだ東約250mほどに位置するが、曲がり角の目印はない(横断信号はある)

※由緒
 社頭に掲げる案内(堺登美丘ライオンズクラブ設置)には、
 「延喜式内社であるが、明暦年間(1655--57)に火災にあって、旧記・社宝等を焼失したため創建年代・社歴などは明らかでない」
とある。
 当社に関する諸資料をまとめると、
 「当社は、当地に居住していた日下部首(クサカベノオビト)が、その祖・彦坐命(ヒコイマス)を祀ったもので、もと大鳥郡草部村輪の内に鎮座していたが、その地が墳墓(御山古墳・大塚山古墳ともいう)であることから、墓と神社との同居を不敬として、明治44年(1911)、八坂神社・菅原神社・熊野神社を合祀し、八坂神社のあった現在地(寺山)に遷座した」
となる(由緒略記などの資料はない)

 “墓と神社との同居は不敬”とは後知恵の理屈であって(古墳と神社が一緒というのは各地にある)、明治末年に強行された神社統廃合政策によるものであろう。
 なお、当社の旧鎮座地とされる輪の内の御山古墳(当社宮司は大塚山古墳と云っておられた)は、日下部氏祖先の陵墓といわれるが、当社遷座時に民間に払い下げられ、今、当社の南約500mにその一部(円頂部)が残っている(下記)

 当社の祭祀氏族とされる日下部首とは、神饌姓氏禄(815)
 「和泉国皇別 日下部首 日下部宿禰同祖 彦坐命之跡也」
とある氏族で、昔の日下部郷(旧鶴田村・取石村・直石村の範囲という)に居住していたという。
 なお同族として、山城国・摂津国に日下部宿禰、河内国に日下部連などが見える。

 しかし日下部氏の出自については、
 ・仁徳天皇の御子、大草部王・若草部王の御名代部(皇后・皇子・皇女の名を残すために天皇が定めた直属の部民)・大日下部の後裔
 ・雄略天皇の皇后・草幡梭皇女の御名代・大草香部(大日下部)の後裔
 ・大吉備津彦(吉備氏)の子・大屋田根子の後裔 
 ・孝謙天皇の皇子、表米親王の後裔(但馬の日下部氏のことで当地の日下部氏とは無関係らしい)
などの諸説があり、出自・事蹟とも謎の多い氏族という。

※祭神
 社頭に掲げる案内には、祭神:彦坐命(ヒコイマス)一座を記しているが、他に日臣命(ヒノオミ)とする説もある。
 ・彦坐命(日下部氏祖神を含む)−−泉州志(1700)・和泉名所図会(1796)・大阪府誌(1903)・大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)
 ・日臣命(=道臣命)−−神社明細帳(1879)・大阪府全志(1922)
 なお、当社の古い社頭掲示板には、「神武天皇・日臣命・彦坐命を祀る」とあり、彦坐命を最下位に記していたというが、今の案内には神武天皇・日臣命の名は見えない。

 ヒコイマス命とは、開化天皇と和邇氏(のちの春日臣)の娘・意耶都比売(オケツヒメ)との御子で、ヒコイマス命の孫・沙本毘古王(サホビコ)が日下部連の祖先とある(開化記・新撰姓氏禄)

 ヒノオミ命とは、神武東征のとき、八咫烏の導きのまま軍を先導して、熊野の山中から宇陀までの道を通したといわれ、この功により、神武から道臣(ミチノオミ)の名を賜ったという(書紀・神武即位前記)。大伴氏の先祖とされる人物。

 神武天皇・日臣命を祭神としたのは、日向から東征してきた神武が上陸した河内の“日下”、あるいは神武に従った日臣命の“日”を、社名・“日部”と関連つけたものと推測されるが、語呂合わせ的色彩が強いという。
 なお、神武が上陸した“日下の蓼津”は、生駒山の西麓・東大阪市日下町の辺りとするのが定説だが、古事記伝(本居宣長)には当地の辺りとあり、これが当社を神武と結びつける一因とも思われる。

 資料によれば、明治44年に八坂神社(素盞鳴命・元は牛頭天王)・熊野神社(伊奘冉命)・菅原神社(菅原道真)を合祀しているが、これらの祭神が今どうなっているか不明。

※社殿等
 道路脇に立つ鳥居から続く参道奥に神門(瓦葺・四脚門、曾ての宮寺・行興寺の遺構らしいという)が建ち、境内北寄りに拝殿(入母屋造・瓦葺・間口5間・奥行2間)、その奥、透塀に囲まれた中に本殿(入母屋造・瓦葺・方3間)が、いずれも南面して建つ。なお、本殿は国の重要文化財(昭和25年指定)

日部神社/二の鳥居
日部神社・二の鳥居
日部神社/拝殿
同・拝殿
日部神社/本殿
同・本殿

◎古石燈籠
(重文)
 本殿の向かって右前に、古い石燈籠が立っている。
 境内に立つ案内によれば、南北朝時代に製作された石燈籠で国の重要文化財(昭和25年指定)という。(ただ、現物は収納庫に保管され、社頭のそれは複製品)
 燈籠の方形棹石の両側に、
   和泉国 大島郡草部上條 牛頭天王燈籠也
   正平24年(1369)巳酉卯月八日
との銘文が刻されている。

 この石燈籠が、式内・日部神社に奉納されたものかどうかは不詳。
 銘文にいう地名・草部上條(上条)と当地(寺山)との関係は不明だが、
 ・銘文に“牛頭天王燈籠也”とあること、
 ・大阪府史蹟名勝天然記念物に、“今社のある処には牛頭天王を祀り八坂神社と称せり”とあること
から、当地(寺山)にあった八坂神社(旧称・牛頭天王社か)に奉納されたもので、式内・日部神社への合祀に際して引き継がれたものであろう。 
日部神社/古石燈籠(重文・レプリカ)
 しかし、古書・和泉名所図会(1796)
 「(日部神社) 草部村にあり延喜式内也。日部の祖神を祭る。今牛頭天王とす。
   石燈籠 牛頭天王の社内にあり。相伝ふ楠正儀(楠正成の3男)の寄進也。柱の銘云ふ、和泉国・・・」
とあり、(輪之内にあったと思われる)式内・日部神社には、日部氏祖神とともにゴズテンノウが祀られ、そこに当石燈籠が寄進されたともとれる。

※旧鎮座地
 当社の南約500m、住宅に囲まれたなかに、旧鎮座地といわれる御山古墳の一部(墳形不明・円墳か)が残っている。
 日部神社の宮司さんに、この地が旧鎮座地と聞いて訪れたが、周囲を簡単な土留め石垣で囲われた旧古墳は雑木に覆われ、頂上には何もない。
 南側裾部に祠が鎮座し、鳥居には“大山霊山”とある(市販の地図には「大山神社」とある)
 祠の傍らに、“信太山城主久保田家 軍師大山武勇明王”との石碑が立つ。祠の奉斎者と関係ありか。
 この地は民有地であって、その所有者が祀った祠のようで、日部神社とは無関係であろう。

御山古墳残滓
御山古墳・残滓(側面)
御山古墳上の大山神社
大山神社

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