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楠 本 神 社
大阪府岸和田市包近町(カネチカ)1448
祭神--楠本大神・菅原道真
                                                          2019.09.14参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国和泉郡 楠本神社』とある式内社。

 大阪市と泉北ニュ-タウンを結ぶ泉北高速鉄道の終点・和泉中央駅の西約2.6mに鎮座する。
 駅西から府道223号線を西へ、府道40号線へ出てフタツ池信号を左折、南へ進んだ次の交差点(包近公園南)を左折直進、牛滝川に架かる包近東橋を渡ってすぐの小道(入口に駐車場あり)を右折した先に鎮座する。

※由緒
 拝殿内に掲げる案内には、
 「楠本神社は包近村に鎮座する延喜式内社にして、楠本大神・菅原道真公を鎮座し奉る社なり。
 創立年月祥ならずと雖も、国内神名帳及其他諸史より考証するに、古事記仁徳天皇の段に、此の御代兎寸河(トノキ)今の牛滝川の西方に一高樹有り、其木の影朝日に当れば淡路島に及び、夕日に当れば高安の山を越えきかし、是の樹を伐り船を作れるに甚と倢く行く船にぞ有ける。
 時に其の船の名を枯野(カレノ)とぞ謂ひけるかし。其の船を以て朝夕に淡路島の寒水をくむみて大御水に献りきと有りて、
 即ち当社の祭神楠本大神は其の大樹の伐りたる跡に大樹の威霊を祭祀せるものにして、旧事記に楠本神社・舩玉鳥之石楠船神又名天鳥船神とも称え奉り、神階従三位を賜はり。境内広大社殿壮麗にして七堂伽藍も建立し、神威赫々遠近諸人の信仰浅からず。

 天正年間(1573--92)に菅原大神をも相殿に祭祀して、俗間、之を天神と称え奉り、霊験弥々顕著なりき。
 然るに後水尾天皇の慶長年間(1596--1615)兎寸河今の牛滝川数日の大水に殿宇並に七堂伽藍古書類計及付近民家十八戸男女三十二人流失して悉く荒野となる。氏子包近の村民蜂屯蟻集して社殿を改築し、代々氏神と仰ぎつつ社僧の奉仕する所となれり。
 明治元年社僧を廃して神職を置き、明治5年村社に列し、乃ち氏子の崇敬神社なり。右国内神名帳による
とある。

 また、大阪府全志(1922)には、
 「楠本神社は北方字宮山にあり、延喜式内の神社なれども、祭神詳ならず。後世菅原道真を併祀せり。俗に天神と称せらる。
 古老の伝説によれば、其の道真を併祀とたるは織田信長の時代なりとし、且つ参詣道なる畑の中にはもと鳥居ありて、包近の捨鳥居と呼び、白河法皇宸筆の額を掲げたりしに、烈風暴雨の為牛瀧川に吹き流され、勢州白子里(三重県鈴鹿市という)に上がりて今も同所に存し、其の額には白鬚大明神と書せりといふ。

 旧祭神の詳ならざる為め、神名帳考証(1733)には舩玉神なりとし、神社覈録(1870)には、古事記・仁徳天皇の段に、『兔寸河(トノキ・当社の東を流れる牛瀧川に比定)の西に一高樹有り』と見ゆる高樹は楠なるべく、当社は其の楠の木にありて木霊を祀り、摩湯村の淡路神社は其の水霊ならんかとし、大日本史もまた之と同様の説を記している。(以下略)
とある(拝殿にも同じものが掲げてある)

 案内の前半・全志の後半にいう古事記・仁徳天皇段云々とは、
 「この天皇の御代に、兔寸河の西に一本の高い樹が生えていた。その樹に朝日が射すと、その影は淡路島に達し、夕日が射すと、その影は河内国の高安山を越えるほどであった。
 この樹を伐って船を作ったところ、たいそう速く走る船であった。当時、その船を名付けて枯野といった。
 そこで、この船で朝夕淡路島の清水を汲んで運び、天皇の御飲料水として奉った。・・・」
というもので、
 これを受けて神社覈録(1870)
 「此の高樹は決めて櫲樟(クス)なるべく、当社は其の楠の本にありて木の霊を祭り・・・」
として、その高樹は当地にあったという。

 これは、兔寸河を当社のすぐ横を流れる現牛瀧川に比定し、その西にある高樹(楠)の下に当社があったとしたものだろうが、現牛滝川が兔寸河と呼ばれていたとする傍証はなく、当社創建をこの高樹伝承に付託した根拠は不明。
 なお、この高樹伝承にかかわる神社としては、同じ泉南の高石市にある等乃伎神社とする説が有力という(別稿・等乃伎神社参照)

 この高樹伝承の後日談として、古事記には
 「この船が破損したので、その船材で塩を焼き、残りの材木で琴を作ったら、その琴の音は七里に響き渡った。
 歌って曰く
   枯野を 塩に焼しが余り 琴に作り かき弾くや 
      由良(ユラ)の門(ト)の 門中(シナカ)の海石(イクリ)に 振れ立つ 浸漬(ナヅ)の木の さやさや」
    (枯野の船材を焼いて塩を作り また琴を作って搔き鳴らすと
        その音は由良の門の海底の岩に 波に揺れながら生えている海藻のように さやかに鳴り響くことよ)

とある。

 また、全志にいう、白河法皇執筆の額が流れ着いたという勢州白子里とは、今の三重県鈴鹿市の白子町付近とされているが、この地は伊勢湾の奥部であり、額は大阪湾(岸和田沖)から紀伊水道を抜けて紀州半島南岸を回流し、熊野灘を経て伊勢湾へと流れたということになり、海流に乗ったとはいえ遠い回流である。


※祭神
 本殿に掲げる扁額には楠本大神・菅原大神とあるが、楠本大神について、大阪府全志には、
 ・舩玉神(神名帳考証・神社明細帳s27)
 ・高樹の霊即ち木霊(神社覈録)
とあり、具体の神名ははっきりしない。

 舩玉神とは、兔乃伎川の西に生えていた高樹を伐って枯野という船を作ったら、とても速かったということから、その船・枯野の霊を舩玉神として祀ったものと思われる。
 ただ、当社は由緒・祭神ともに仁徳記にいう高樹伝承によっているが、これが創建当初からのものかどうかは不明で、本来は別のものだったかもしれない。

 菅原道真は天正年間(室町末期)の勧請というが、それが如何なる神格(怨霊神・学問の神など)をもって祀られたかは不明。
 時代からみて、怨霊神変じて疫病除けの神としての奉祀かと思われるが・・・。


※社殿等
 包近東橋・西詰めを右折、小径を北へ進んだ先に二つの石灯籠が立ち、その先に当社鎮守の森が見える。
 当社入口には鳥居はなく、森の入口、玉垣に囲まれた中に「式内 橋本神社」との社標が立つのみ。

 
楠本神社への
小径の途中に立つ石灯籠
 
同・鎮守の森入口

同・社標 

 森の中の参道を進んだ左手(西側)の低い石垣の上、白壁に囲まれた中が社殿域で、石垣南側の石段の上に小さな鳥居が東面して立ち、石段を上り鳥居をくぐつた右側(北側)に入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して建つ。
 なお、社務所はなく、清掃等は行き届いているものの人の気配はない。


楠本神社・社殿域全景
(左:拝殿、右:本殿) 
 
同・社殿域前の鳥居

 
同・拝殿

 拝殿の奥、白壁に囲まれた区画が本殿域だが、中には入れない。
 拝殿内からみたところでは、正面に間口三間の大きな社殿(覆屋)があり、その中に別棟の本殿が鎮座しているが、内部が暗く、且つ覆屋前面に張られた網に遮られてよく見えない。
 式内社調査報告によれば、春日造・間口一間・奥行1.5間、柿板葺きとあるが、目をこらすと正面の唐破風向拝部分がかろうじて見えるだけで、春日造かどうかははっきりしない。

 覆屋鴨居に掛かる扁額には、中央に楠本大神・菅原大神、右手に春日大神、左に住吉大神とある。
 式内社調査報告には、境内社として、春日神社(武甕槌命・経津主命・天児屋根命)・住吉神社(表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯姫命)とあり、左右の扁額はこれを指すと思われるが、この2社が独立した社殿かどうかは不祥(写真を拡大しても本殿の左右にそれらしき社殿は見えず、本殿の中に合祀されているらしい)

 本殿覆屋の右に、小さな覆屋があり、中には末社とおぼしき小祠(春日造)が鎮座し、扁額には「八■田宮」とあるが、■部分は判読できず、この小祠の祭神等は推測不能。

 なお大阪府全志には、
 ・大正4年(1915) 字垣外の八幡神社(品陀別命)を合祀
 ・同社は楠正成の祈願所で、正成の寄附したる武具・菊水旗などがあったが、後に兵火に罹るのをおそれて河内の天野山に納めたと伝える
とあるが、今 それらしい社殿はみえない。
 あるいは上記小祠が之かもしれないが、■部分は阝(コザトヘン)の字であり、幡とは読めない。

 拝殿は古いが、覆屋・本殿・末社ともに近年の再建のようで、調査報告がいう昭和初期の社殿形態とは異なっているかと思われる。


同・本殿覆屋 
 
同・側面
 
同・末社
 拝殿の向かい側に、小石を並べて区画された低い高まりがあり、注連縄を張った小ぶりの石が置かれ、数本の樹木が立っている。
 傍らの案内には
 「伊勢神宮及皇居遙拝所跡
 ここは昔、小高い丘かあり、伊勢神宮及び皇居遙拝の大切な場所であった。 
 丘には、遙拝のための祠(御神殿)か東方に向かって立てられていたが、昭和初期に、御神殿が古くなったことや、交通の便がよくなかったことから取り除かれ、土地も平らに整地されたものである」
とある。
 今、祭祀等が行われているかどうかは不明。 

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