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意賀美神社
大阪府泉佐野市上之郷45
祭神--高龗神
                                                         2019.11.12参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国日根郡 意賀美神社』とある式内社。
 社名は“オガミ”と読む。

 JR阪和線・長瀧駅の南南東約1.6km 、駅西の府道248号線を南下、上之郷小学校の南から集落内の小径を進み、樫井川を渡った先の山麓に鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞によれば、
 「延喜式の古社ながら、創建の年月は未詳である。
 社伝によると、古は社司十軒あり、年長者を推して祭主としたとある。
 社地はかつて上之郷字布都の山中にあったが、天正年間に焼失したといふ。
 末社には、奥神社・堂ヶ谷神社がある。
 堂ヶ谷神社は、字堂ヶ谷(現滝の池近く)にあってもと『奥ノ院』と称したが、のちに当社に移転せられたのである。
 意賀美神社は、雨を掌る神として崇敬され、明治5年に村社となり、同40年1月に神饌幣帛供達社に列し、同41年6月字池尻の村社・若宮神社・字正法寺の村社彌栄神社と合祀し、さらに大正14年7月に郷社に昇格した」

 また、大阪府全志(1922)には
 「意賀美神社は字上村の武塔山下字天神代にあり、俗に武塔の天神と称せらる。
 延喜式内の神社にして高龗神(タカオカミ)を祀れり。創建の年月は詳ならず。
 古は宮司拾軒ありて、年歯の高きものを推して祭事を掌らしめしといふ。(以下略)
とあるが、いずれも、創建由緒・時期等についての記述はない。

 古く、上之郷村布都(場所不明)の山中にあったといわれ、祭神を水神・高龗神とすることから、山の神であるとともに、人々の生活・農耕に必要な水を司る神を祀った古社と思われる(山の神は水神でもある)

 なお、泉州志(1700)・和泉名所図会(1812)には、社名を「武塔天神社」とあるが、これは背後の武塔山山麓に位置するによるという。

※祭神
  高龗神(タカオカミ、山の龍神)
 イザナギがイザナミ逝去の因となった火の神・カグツチを斬ったときに成りでた神で、水神(古事記)
 龗(オカミ、雨の下に龍)とは水を司る“龍”の古称で、高龗神とは水源となる山中に坐す龍神を意味する。

 参詣の栞には、
 「大阪府史蹟名勝天然記念物(1929)には『祭神は神祇宝典(1646)に伊弉諾尊、式社考(1873)に素盞鳴尊とするも、
  神名帳考証(1813)・神祇志料(1871)・特選神名牒(1876)・大日本神祇志(1873)の諸書に、龍神とし、社伝も亦之と同じ」
とあり、高龗神説に異論はない。


※社殿等
 当社は、西流する樫井川左岸の田畑の中にこんもりと盛り上がる小丘・武塔山の東麓に鎮座し、樫井川に架かる意賀美橋を渡ってすぐの右手、小さな天神川に架かる朱塗りの天神橋を渡った処に一の鳥居が北面して立ち、石段(40段ほど)を上り二の鳥居をくぐて境内に入る。

 
武塔山・遠望
(武塔山の左下に社殿がみえる)
 
天神橋
(渡った先に一の鳥居がみえる)
 
意賀美神社・一の鳥居

 二の鳥居を入った先が境内(南北に長く東西は狭い)で、その中央に横長の下拝殿(入母屋造・瓦葺、間口11間・奥行3間)が東面して建つ。


同・二の鳥居
 
 
同・下拝殿(側面)

同・下拝殿(前面)
 

 下拝殿裏に接するように築かれた石垣の上が本殿域で、石垣上の朱塗りの瑞籬の奥に5社(内2社は小祠)の社殿が並列して鎮座する。
 なお、各社殿前の石段(3ヶ所)下にはそれぞれ鳥居が立ち、石段の上には、それぞれ朱塗りの拝所がある。

 
本殿域全景
(参詣の栞より転写、左下は下拝殿の屋根)
 
意賀美神社・本殿域の瑞籬
(社殿は、右から・弥栄・意賀美・若宮と並ぶ)

 本殿域には、向かって右から弥栄神社・大国神社(小祠)・意賀美神社・奥神社(小祠)・若宮神社の本殿5宇が横に並んで鎮座する。

◎意賀美神社
 本殿域の中央が意賀美神社の本殿で、朱塗りの鳥居から上った石段上に建つ横長の上拝殿の奥に、朱塗りの社殿が鎮座する。
 この本殿について、参詣の栞には、
 「本殿は一間社春日造、屋根は優美な檜皮葺きで、正面向拝の唐破風や木鼻・蛙股などの彫刻は近世初頭の泉州地域の建築様式を余すことなく残しています。
 建立後、江戸期から昭和期まで何度か修理事業を経ていますが、昭和11年の解体修理の際、この社殿が室町時代の嘉吉2年(1442)の建立であり、泉佐野市に現存する最古の社殿であることが判明しました。
 その後、昭和25年8月に重要文化財の指定を受け現在に至っております」
とある。


意賀美神社・社頭 
 
意賀美神社・本殿

同・上拝所 

◎弥栄神社(ヤエイ)
 意賀美神社本殿の向かって右、石段を上った上に唐破風を有する朱塗りの拝所が建ち、その奥に一間社春日造の本殿が鎮座するが、その鎮座由緒・時期等は不明。
  祭神--素盞鳴尊

 当社への石段中程の両側に「牛頭天王」と刻した石灯籠が2基据わっている。
 参詣の栞には、当社名・弥栄に“ヤエイ”とのフリガナを振っているが、通常は“ヤサカ”と読むことからみると、
 ・江戸時代までの当社は「牛頭天王社」と呼ばれ、防疫神・牛頭天王を祀っていたと思われ、
 ・それが、明治初年の神仏分離で仏教色が強い牛頭天王が排斥されたことから、
 ・社名を弥栄神社(ヤサカ、京都では八坂神社と変更)に、祭神を同じ神格をもつとされる素盞鳴尊に変更したものと思われる。
 
 なお、意賀美神社本殿と当本殿の間に、『大国神社』との小祠が鎮座するが、鎮座由緒等は不明。
  祭神--大己貴命


弥栄神社・社頭
(下段の石灯籠に「牛頭天王」とある) 
 
牛頭天王と
刻した石灯籠
 
同・本殿
 
大国神社

◎若宮神社
 意賀美神社本殿の向かって左、石段上の朱塗りの拝所の奥に一間社春日造の本殿が鎮座するが、この社も鎮座由緒・時期等不明。
  祭神--菅原道真

 なお、意賀美神社本殿と当社との間に、『奥神社』との祠があるが、鎮座由緒等不明。
  祭神--意賀美大神


若宮神社・社頭
 
 
同・本殿
 
奥神社

◎堂ヶ谷神社
 当社二の鳥居を入ってすぐの右側の山腹に鎮座する小祠で、登り口の案内には
 「堂ヶ谷神社(足の神様)
   祭神--猿田彦命
 起源--今を遡る2000有余年前、当神社より約6町、山に入った滝のノ池から殿尾山お菊松に通じる山間に村落を形造して生活を送った祖先の足跡があり、その人々が生活の上に信じた神を敬った所に鎮座されていたと言われるのがこの堂ヶ谷の神社である。
 当意賀美神社に合祀されたのは、約70年前(大正6年頃)であると言われ、現在は社暦を知る由もないが、お社は鶴を描いた立派な岩絵具の彩色であったと言われている。
 猿田彦とは、天孫降臨の案内役をした道開きの神で、交通安全等の信仰が厚いが、当社では特に道の神様として御神徳がある」(一部省略)
とある。

 案内にいう「今を遡る2000年前」とは弥生時代中期に当たるが、ネットで調べたかぎりでは、泉佐野市に堂ヶ谷との遺跡があったとする資料は見当たらず、上記由緒の根拠、祭神を猿田彦とする由縁は不明。

 山麓の入り口から緩やかな坂(簡単なコンクリート舗装)を上った右手に朱塗りの一の鳥居が、石段を上った上に二の鳥居が立ち、その奥、木造の瑞籬に囲まれた中に一間社春日造の小祠が鎮座する。


堂ヶ谷神社・一の鳥居 

同・二の鳥居 
 
同・社殿

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