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男 神 社
付--浜宮(男神社元社)
大阪府泉南市男里3丁目16
祭神--彦五瀬命・神日本磐余彦命
                                                    2019.10.04参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国日根郡 男神社二座』とある式内社。
 社名は“オノ”と称する。

 南海本線・尾崎駅の東約1.7km、駅前から南下して府道204号線へ出て黒田交差点を左折、東へ進み男里川橋を渡り、男里交差点を右折して南へ入った先、男里川北岸に鎮座する。隣りに小学校あり。

※由緒
 社頭の案内には、
 「元府社・男神社は、大阪府泉南市男里(オノサト)即ち古への呼唹郷(オノサト)の地にある延喜式式内社で、本殿には彦五瀬命(イツセ)・神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ・神武天皇)を祀り、相殿には天児屋根命・熊野速玉神を祀る。
 境内15,000㎡(5,000坪)老樹鬱蒼として幽邃絶塵の神域をなしている。
 その北方1km余りの処に摂社・浜宮がある。本来の元宮で境内9,000㎡(3,000坪)松樹茂って海風に鳴っている。聖蹟・雄水門(オノミナト)は即ち此の地である。

 神武天皇御東征の砌、孔舎衛坂(クサカエノサカ)で長髄彦(ナガスネヒコ)と激戦した。
 此時、皇兄・五瀬命(イツセ)が賊の流矢にあたって肱脛(ヒジ)に瘡(キズ)を負はせられ、『吾は日神の御子として日に向かひて戦うこと良からず。故に賤奴が痛手をなも負ひぬ。今より行き廻りて日を背負いてこそ撃たむ』と仰せられた。
 よって血沼(チヌ)の海即ち今の大阪湾を南進し紀伊に向わせれよとして、紀元前3年5月8日(太陽暦6月20日)此の地に着き給ふたが、彦五瀬命の御瘡いよいよ重らせられた。
 命は劔の柄を堅く握られ、『慨哉(ウレタキカヤ)、大丈夫(マスラオ)にして披傷於虜手(イヤシキヤッコノテオヒテ)報いずして死なむや』(残念だ、大丈夫が賊に傷つけられ、報いないで死ぬとは)と雄詰び(オタケビ)給ふた。よって此の地を雄水門(男水門、オノミナト)といふ。

 即ち彦五瀬命雄詰の遺蹟・雄水門、今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀ったのが当地で、社伝によれば、貞観元年(859)3月、今の地に御遷座し奉ったという。
 毎年10月11日の例祭には、本社より聖蹟・雄水門の地に御輿渡御の儀が行われる」
とある。


 この由緒は、書紀・神武天皇即位前記の戊午(ツチノエウマ)年条をもとにつくられたもので、書紀(岩波文庫版1994)には、
 「戊午(ツチノエウマ)年 五月の丙寅(ヒノエトラ)の朔(ツイタチ)癸酉(ミヅノトノトリノヒ)に、軍、茅渟の山城水門(ヤマキノミナト、亦の名:山井水門)に至る。時に五瀬命の矢の瘡傷みますこと甚だし。
 乃ち剣を撫して雄詰(オタケビ)して曰わく、『慨哉 大丈夫にして虜が手に被傷(オ)ひて 報いずしてや死みなむとよ』とのたまふ。
 時人、因りてその処を名付けて雄水門と曰ふ。進みて紀国の竃山(カマヤマ)に至りて 五瀬命 葬りまつる」
とあり、
 茅渟の山城水門(雄水門)について、
 「泉南郡樽井(泉南町樽井)には山井の遺蹟と伝えるものがあり、同郡雄信村大字男里(泉南町男里)の天神森の地には府社男神社があり、上古の船着場と思われる」
と注記している。

 書紀での五瀬命は、雄水門で亡くなったかどうかはっきりしないが、古事記には
 「紀国の男之水門に到りて、『賤しき奴が手を負ひてや死なむ』と男建(オタケ)びして 崩りましき」
として、注には「男之水門 泉南市男里の船着場で男神社がある」とある。

 これらからみると、当社は、孔舎衛坂の戦いで傷を負った五瀬命が当地で亡くなったことに因んで創建されたとなるが、これはあくまでも記紀にもとづいて作られた伝説であって、当社本来の創建由緒は別にあったと思われるが、それが如何なるものかは不明。

 なお上記由緒には、この年次を“紀元前3年”とある。
 確かに紀元前3年は干支でいう戊午の歳ではあるが、五瀬命が当地で亡くなったのは神武東征時(即位前)の出来事であることから、由緒がいう紀元前3年は即位前3年(戊午、紀元前663年)としなければ記紀の記述と整合しない。誤記であろう。


※祭神
 上記案内には
   御祭神--彦五瀬命(皇兄)・神日本磐余彦命(神武天皇)
   相殿神 --天児屋根命・熊野速玉命
とある。

 祭神・五瀬命と神日本磐余彦命は、当社由緒によるものだが、配祀されている天児屋根命・熊野速玉命を祀る由縁は不明。
 ただ、宝暦4年(1755)の寺社帖に「新宮・天神・春日」とあり、新宮とは熊野新宮(熊野速玉神)、天神とは五瀬命・神武天皇、春日とは春日神社(天児屋根命)を指すとあり(式内社調査報告)、既に江戸時代には4座の神が祀られていたと思われる。

 なお、延喜式に祭神二座とあることから、資料によっては“一座は当社”・“一座は浜宮”の祭神とするものがあるが、浜宮が当社の元社であることから、両社共に五瀬命・神日本磐余彦命二座を祀るとみるのが順当であろう。


※社殿等
 男里交差点から南への小道の突き当たり近くにある小学校と、男里川北岸堤防に挟まれた処に朱塗りの一の鳥居が西面して立ち、傍らに、「府社 男神社」との社標が立つ。
 一の鳥居を入り、川に沿った長い参道の途中に朱塗りの二の鳥居が立つ。

 
男神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居

同・参道 

 参道突き当たり左に朱塗りの三の鳥居が南面して立ち(方角が90度変わっている)、境内に入る。
 境内の正面、木立に囲まれて切妻造平入りの拝殿が南面して建つ。

 
同・三の鳥居
 
同・拝殿(正面)
 
同・拝殿

 拝殿背後、弊殿を介して本殿が建つ。
 資料によれば“流造”(桁行四軒半・梁行二間半)というが、周りが高塀に囲まれていて屋根の一部が見えるだけで、全容は見えない。

 なお、拝殿の右に小祠が鎮座し、資料によれば“若宮神社”(祭神:事代主命)というが由緒等は不明。

 
同・本殿(見えるのは屋根のみ)
 
境内社・若宮神社

 社域の殆どが鬱蒼たる樹木に覆われ静かな雰囲気を漂わせてはいるが、人の気配も社務所もなく閑散としている。



【摂社・浜宮】
 泉南市男里7丁目35
 男神社の北約1km強にある小社で、当社の元鎮座地という(本社より徒歩約30~40分)

 南海本線・樽井駅の西南西約800m、駅南の線路沿いの道を西へ、高架道路をくぐり線路を渡り西へ行った二つ目の辻の左奥に朱塗りの鳥居が立ち(表示はないが、辻から鳥居が見える)、その奥、東西に長い天神の森の東寄りに鎮座する。
 宮前の石灯籠の台座に「男神社 摂社 浜宮」と刻してあるだけで、案内表示等はない。

◎由緒
 大阪府史蹟名勝天然記念物(1929)には
 「浜の宮は南海鉄道樽井駅を距たる四町、男里の北方に位し、松樹蓊鬱として風光明媚なり。
 浜天神といひ又下の宮ともいふ。下の宮は上の宮即ち男神社に対したる名なり。
 今は神社の境外摂社なれども、彦五瀬命の雄詰し給ひし旧址にして、その縁由により命を斎き給ひしが、海に近く波濤の冒す処ありしかば、何時の頃よりか、神霊を男神社に遷し奉りたれども、史上の霊区は依然として今日に存したりしなり。
 されば毎年10月11日の男神社例祭には、御輿この地に渡御し、必ず海を背にして安置する定めなり。
 蓋し命の神武天皇と共に長髄彦を征し給ひて利あらざりし時、日神の子として日に向ひて戦ふことの不可なるをさとり給ひしゆかりなるべし」
とある。

 鳥居から森へ入った右手、白いブロック壁に囲まれて鎮座するのが浜宮で、前にステンレス製の鳥居が南面して立っている。
 白壁の中に瓦葺きの覆屋があり、中に一間社流造・檜皮葺の小祠が鎮座する。


浜宮・鳥居 
 
天神の森
(右の鳥居が浜宮、左奥に神武聖跡の石碑がある)
 

浜宮・正面 

浜宮・社殿
 
浜宮・覆屋側面


◎雄水門の碑
 浜宮社殿の左前に石碑が立ち、先端が尖った自然石(高:約1.2mほど)に碑文が刻まれている(摩耗していて拝読不能)

 史跡名称天然記念物には
 「境内にあり。高さ四尺三寸、底辺二尺五寸、上方次第に狭く遂に先端を為す自然石にして、・・・碑文左の如し。」
として、碑文を記しているが、当て字が多く読みがたい。(推測を加えて読めば次のようになる)
 「此国の浦は遠く茅渟としもいひ こは雄水門といふは かけまくもあやにかしこき天つ御世つきましゝ天皇の大和に初国しらしゝ そのふしの御軍 茅渟の此の水門にいたるとき 五瀬命矢傷甚だ傷み 乃ち剣を撫でて をたけびして神去りましゝ地なるをもて 時人こを雄水門となもいひ やがて五瀬命を斎ひ祀る御社もありける
 未だ茅渟てふ名などもまさしくなゝに見えたるなり かかるゆへよし(由縁)のある地になもあれど くれ竹の世々経つれば 今はその布(シルシ)ともしる人なく 神の御名さへ違えるを いとも哀と成りしため 徳の石にえ良ぬと 古布の末にいささか書きつ なほくはしくは 御国の文どもを見やるこそあれ  
  御世の名は天保 としは四とせ 月はみな月(天保4年-1833-6月) 堺浦源良材撰 伯太邑菅淳一書 尾崎邑成子為徳建
とある。

     

◎神武天皇聖蹟の碑
 浜の宮から少し離れて、低い石垣の上に『神武天皇聖蹟 雄水門顕彰碑』と刻した石碑が立ち、
 傍らの案内には
 「雄水門  天神の森一帯は、往昔における海面であり、当時は水深もあり、船舶の停泊に適していた地で、山城水門(ヤマキノミナト)と言われた。
 日本書紀に、皇兄・五瀬命が『敵に報いることなく、手傷を負って死ぬとは残念きわまりない』と雄々しく叫ばれたとあり、そのことから雄水門と呼ばれている」
とあり、往昔、この辺りまで海が迫っていて船着場があったという。

   

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