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和泉(大鳥郡)の式内社/大鳥神社
大阪府堺市西区鳳北町1丁
祭神--日本武尊・大鳥連祖神
                                                               2011.01.11参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 大鳥神社 名神大 月次新嘗』とある式内社で、和泉国一の宮。

 JR阪和線・鳳駅の北約500m、線路の西側に見える大きな森の中に鎮座する。この森には、昔、神が鳥となって飛来したとき一夜にして種々の樹木が生えたという伝承があり、“千種の森”と呼ばれる(下記)
 なお、和泉国大鳥郡は、現在の堺市の堺区・西区・中区・南区および高石市の全域に相当する。

※由緒
 社頭に掲げる由緒によれば、
 「日本武尊(ヤマトタケル)は景行天皇の皇子にして、勅を奉じ熊襲並に東国を平定、帰路伊吹山の賊を平らげたとき、病を得て伊勢国能褒野(ノボノ)に薨じ給うた。御屍は白鳥と化し御陵を出で、大和国琴引原次で河内国古市にとび、最後に此の地に留り坐したので社を創建、之が当社の起源と伝える」
とある。

 この原典とおぼしき大鳥五社大明神并別当神鳳寺縁起帳(849・平安前期、以下大鳥五社縁起という)は、その冒頭に、
 「旧記を案ずるに、当社は、則、日本武尊遊化の叢祠、大日孁貴(オオヒルメムチ=アマテラス)降臨の霊地也・・・」
と記し、
 同第一宮大鳥神社条には、
 「(ヤマトタケル尊は)帰洛の時伊勢国能褒野に崩じ、能褒野陵に葬った。しかし尊は白鳥と化して倭国を指して飛び、倭琴弾原に停ったので陵を造ったが、白鳥は更に飛んで河内旧市(古市)邑に止まったので、また陵を作った。此三陵を白鳥之陵と云ふ。
 最後には高く飛翔して天に上り、高天原〈今の社之地〉に止まった。群臣が之を尋ねたが、所在不明のため、衣冠のみを葬った」(大意、なお、オオヒルメムチ云々については別稿の大鳥美波比神社参照)
とあり、これがヤマトタケルを当社祭神とする根拠という。
(今、ヤマトタケル関連の3陵墓として、能褒野陵-三重県亀山市田村町、白鳥陵(琴弾原)-奈良県御所市富田、白鳥陵(古市)-大阪府羽曳野市軽里の3ヶ所が治定されているが、いずれも異論がある)

 このヤマトタケルの白鳥伝説は、記紀・景行紀にいうヤマトタケル伝承をうけてのものだが、記紀には、ヤマトタケルの霊が化した白鳥は
 「能褒野(伊勢鈴鹿)から倭の琴弾原(コシヒキハラ・奈良県御所市)を経て河内の古市邑(大阪府羽曳野市軽里)に留まり、そこから高く飛んで天に上った。それでただ衣冠だけを葬った。この年は景行天皇43年である」(大意)
とあり(景行紀)、その行き先は記されていない。
 その記されていない行き先を高天原とし、そこを当社の鎮座地としたのが上記縁起帳の最後尾に記す注記(今の社之地)といえる。

 当社由緒および大鳥五社縁起には、当社創建の年次は明記されていないが、景行紀にいう白鳥3陵造陵(景行43年)以降と思われ、元禄4年(1691)の寺社改帳には
 「大鳥大明神 景行天皇54甲子年鎮座 無神主」
とあるという。ただ、これらは伝承であって確証はない。

 記紀におけるヤマトタケルは、景行天皇の第2皇子・小碓命の別名で、父天皇の命により西は熊襲、東に蝦夷を討伐した英雄とされるが、実在の人物ではなく、4世紀から5・6世紀にかけて、古代ヤマト朝廷の全国治定に尽力したであろう多くの武将たちを総合した伝説上の人物とされている。

 このヤマトタケルの白鳥伝承は仮構の伝承であって、これを以て当社創建由緒とするには疑義があり、本来は、諸先学がいうように、当地(大鳥郡大鳥郷)に勢力を張っていたと推測される大鳥連が、その祖神を祀ったのが始まり、とするのが自然であろう。
 なお大鳥連とは、新撰姓氏禄(815)
 「和泉国神別(天神) 大鳥連  大中臣朝臣同祖 天児屋根命之後也」
とある中臣氏系の氏族という。

※祭神
 今の祭神は日本武尊・大鳥連祖神の二座となっているが、延喜式は一座であり二座とはなっていない。
 ヤマトタケル祭神説は上記の白鳥伝承によるもので、これについて、特選神名牒(1925)は、
 「本社祭神、社伝にヤマトタケルと云れど、こは大鳥を白鳥の故事に思いよせて後人の云出たる説と聞え、又大鳥明神縁起帳にもヤマトタケルを祭る由云れど、此縁起は後人の偽造なること著ければとらず。・・・
 此神社の大鳥連の祖神なること明か也故、今社説を訂せり」
と記しているが(式内社調査報告・1977)、これが順当な解釈であろう。

 大鳥連祖神とは、上記・姓氏禄にある中臣氏の祖・“天児屋根命”(アメノコヤネ)を指す。
 この大鳥連祖神を祭神にしたことについて、式内社調査報告は、
 「社伝によれば、古来より祭神はヤマトタケルであったが、明治9年(1876)の官社祭神考証に依り大鳥連祖神に確定し、明治29年(1896)の内務省社寺局長の通牒以後は、祭神を大鳥連祖神とするが、昭和36年(1961)、ヤマトタケル増祀の許可を得、・・・爾来、ヤマトタケルを主祭神とし、大鳥連祖神と合わせ祭ることとなった」
という。

 当社由緒にいうヤマトタケルの白鳥伝承は仮構の伝承であることから、当地・大鳥郡大鳥郷を中臣氏系の大鳥氏の本貫地と考え、一族の祖神を祀ったのが当社の始まりとする説を入れて、一旦は大鳥連祖神を祭神とはするものの、当社からの強い要望を受けてヤマトタケル合祀を認めざるを得なかったというのが、実情らしい。

 アメノコヤネとは、記紀の天岩屋戸説話・天孫降臨説話などに登場する神(人物)で、アマテラスの命により宮廷祭祀を携わったとされる。その実在性については疑問符が付くが、中臣氏の祖神といえばアメノコヤネとするのが通常であり、異を唱える要はない。

◎大鳥五社大明神(大鳥五社ともいう)
 和泉国大鳥郡には“大鳥”を冠する神社として、大鳥神社(本社)・大鳥美波比神社・大鳥北浜神社(旧称:大鳥神社鍬靫)・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社の5社(いずれも式内社)があり、これらを総称して“大鳥五社大明神”(大鳥五社ともいう)と呼ばれた。

 上記・大鳥五社縁起帳には、
 「日本武尊白鳥と化して曽彌里に鎮座、大日孁貴(オオヒルメムチ=アマテラス)白鳳と化して現れ千種森に飛来す。是に三妃を合わせ祭り、大鳥五社大明神と号す」(大意)
 「文武天皇慶雲3年(706)勅使菅生朝臣小村が幣帛を奉じ、始めて三妃を祀る。神宮を営造し大鳥五社大明神と号し奉る」(大意)
とある。
 これらの伝承によれば、大鳥五社大明神は8世紀初頭に成立したとなるが、これらの4摂社が同時に創建されたというのには疑問もある。それまで各処にあった神社を大鳥五社明神として統合した由緒を記したのかもしれない。

 なお菅生朝臣(スゴウ アソン)とは、新撰氏名録に
 「河内国神別(天神) 菅生朝臣 大中臣朝臣同祖 津速魂命二世孫天児屋根命之後也」
とある中臣氏系の氏族で、同じ中臣氏系である大鳥氏とも関係があった、と思われる。(続日本紀・文武天皇大宝2年(702)条には、「正七位下・菅正朝臣国鉾の位階を一階昇進させた」とあり、飛鳥朝時代に菅生氏が実在したことは確認できる)

 大鳥美波比神社以下の4社は、本来各社それぞれの創建由緒・祭神を持つ独立した神社ではなかったかと推測されるが(大阪府史蹟名勝天然記念物-1931には、「大鳥五社中の四社は、もと独立の神社なりしも・・・」とある)、五社大明神として統合されたことで一体化し、その祭神も大鳥神社本社の祭神・ヤマトタケルにかかわりをもつ神々とされ、各社本来の由緒・祭神は不明となっている。

 ヤマトタケルに関係する祭神としては、アマテラスとヤマトタケルの3人の妃があげられている。
 摂社のうち大鳥美波比神社の祭神・アマテラスは、その旧鎮座地とされる大野峯(鉢ヶ峯)がアマテラス降臨の地という伝承によるのだろうが、残る大鳥北浜神社・大鳥井瀬神社・大鳥浜神社は、ヤマトタケルの3人の妃、書紀(景行紀)にいう両道入媛(フタジノイリヒメ)・吉備穴戸武媛(キビアナトタケヒメ)・弟橘媛(オトタチバナヒメ)を、延喜式の記載順に割り当てたともいわれ、為に、資料によって異同があり、そこに必然性はない。

 また、大鳥美波比神社以下の4社は、大鳥神社が官弊大社に叙せられた明治4年(1871)に当社の摂社とされ、大鳥美波比神社は明治12年(1879)本社境内(旧神鳳寺跡)に遷されている。

※社殿等
 千種の森の西側、府道28号線(大阪高石線)の東端に立つ二の鳥居を入り、石畳の参道を進んだ先、左側に立つ一の鳥居奥に南面して社殿が建つ(参道突きあたりが大島美波比神社)
 ・本殿--拝殿裏、中門(切妻造平入り・檜皮葺の四脚門)から左右に続く高い塀に囲まれた中に鎮座するため、全姿の実見不能。
    資料によれば、大島造と称する特殊な構造で、出雲大社の大社造から発展した様式という。
    切妻造妻入・銅板葺・素木造、間口・奥行ともに二間、正面(妻側)中央に入口が付く。
 ・拝殿--切妻造妻入・銅板葺・素木造、方三間、正面に一間の向拝が付く。
 なお、社殿前に立つ一の鳥居は、素木造りの神明鳥居だが、六角形の柱が特徴

大鳥神社/一の鳥居
大鳥神社・一の鳥居
大鳥神社/拝殿
同・拝殿
大鳥神社/中門
同・中門
大鳥神社/本殿(正面)
同・本殿正面(中門から)
大鳥神社/本殿
同・本殿
大鳥神社/本殿・模式図
大鳥造・模式図

◎摂末社
 当社由緒略記には、摂社として大鳥美波比神社(天照大神・菅原道真)・大鳥北浜神社(吉備穴戸武媛命)・大鳥浜神社(両道入媛命)・大鳥井瀬神社(弟橘姫命)を記すのみで、末社についての記述はない。(摂社については、別稿参照)

 しかし、境内東側・大鳥美波比神社の鳥居を入った左に、稲荷大明神と記した赤い幟を立てた一社があり、社殿に掲げる神額には、
 ・火鎮大神--(火の神・カグツチ、あるいは火伏の神・愛宕神か)
 ・宗像大神--(宗像三女神、あるいは厳島神社の祭神・イチキシマヒメか)
 ・稲荷大神--(ウカノミタマあるいはウケモチか)
 ・織姫大神--(不明)
とある。案内などなく、祭神名・鎮座由緒・時期などの詳細不明。

 なお、拝殿基壇の右隅に小祠があり、社務所の巫女さんは“巳さん”(蛇神)といっていたが、詳細不明。
大鳥神社/末社・合祀殿
末社・合祀殿
大鳥神社/末社・巳さんの小祠
巳さんの小祠

※神石
 本殿が建つ神域背後の東北端(右側)に、古びた木造覆屋があり、玉垣に囲まれて高さ1.5mほどの立石1基が収められている。

 大阪府志(1922)に、
 「神石。拝殿の後、東北封土の上に在り。柵を繞らし一に影向石と云ふ。石河土佐守利政の堺刺史たれしとき自邸に移して庭に置きしに、一夜異声ありしかば畏れて返納し、直ちに今の如く奉祀さしものなりと云ふ」
とある神石が之だと思われる。注連縄は張ってあるものの、何らの案内表示もない。
 当社創建以前の古代祭祀がおこなわれた磐座の跡とも思われるが、詳細不明。
大鳥神社/神石覆屋
神石・覆屋
大鳥神社/神石
神石

※千種の森(チグサノモリ)
 大鳥神社を覆う森をいうが、大鳥五社縁起帳によれば、この森には
 「景行天皇54年11月、表・中・底筒男の三神が竜池に現れ、善き宮地を求めて神鳥と化して飛びまわり、徳が輝いていた曽祢里に降った。
 そこの豊田の中に一老父がいて田を耕していた。神鳥が『此の地は神国湧出の緑地で、降臨の地なり。我ここに棲もうと思う』と、田を譲るよう告げたが、老父は承諾しなかった。しかし神が再三乞うたので、老父は遂に許諾した。
 その夕べ、彼の田に諸々の木が生え、俄に高い林となった。故に千種森と名付けた。是即ち今の社の地・大鳥是也(意訳大意)
との伝承がある。

 ここで鳥と化したのは表・中・底筒男神すなわち住吉三神となっているが、住吉三神とシオツチノオジとを同体とする信仰からいえば、大鳥神社の祭神・シオツチノオジ降臨に際する伝承と解される。

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