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和泉(大鳥郡)の式内社/桜井神社
付−−式内・国神社、同・山井神社
大阪府堺市南区片蔵
祭神−−応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
                                                        2011.02.07参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 桜井神社』・『同 山井神社 鍬』(合祀)・『同 国神社』(合祀)とある式内社。

 桜井神社は、南海高野線につづく泉南高速鉄道・星ヶ丘駅の南南西約1.5kmに鎮座する。
 駅南のバス停(南海バス)から23系統で桜井神社前下車・すぐ前、又は24系統では片蔵下車・片蔵交差点の東約250mに鎮座する。ただ両系統とも1時間に一往復(平日)と便数は少ない。
 なお、泉北高速鉄道・栂美木多駅の東約1.5kmに当たるが、バス便なし。

※由緒
 当社の創建由緒・年代は不詳だが、由緒略記には、
 「当社の創立は悠遠の時代で、社記諸文献には古代当地方に居住の桜井朝臣一族が、その祖先武内宿禰を奉斎したことを伝えている。
 推古天皇5年(597)八幡宮を合祀、上神谷(ニワダニ)八幡宮とも称し、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を奉斎している」
とある。

 江戸中期初の古書・泉州志(1700)には、
 「式内 片倉村に在り。境内に井有り、之を桜井と云ふ。・・・
  余按ずるに、桜井社は武内宿禰、後に八幡を合祭か」(大意)
とあり、由緒略記とほぼ同じことを記しているが、明治の古書・大阪府誌(1903)には、
 「片倉の中央に鎮座せる式内社にして、誉田別命・足仲彦命・息長比売命を祀り、・・・社伝によれば、推古天皇5年8月8日、神、此の地に示現し給ひしかば、郷民喜びて神祠を建て、直ちに之を祀る。
 時に亀乙と称する老翁あり、忽然現れて三柱の神像を刻み、終わって又忽然その形を失せりと、・・・」(大意)
とある。今、祭神を八幡三神とし、武内宿禰を末社祭神とするのは、これを受けたものであろう。

 曾ての当社が上神谷八幡宮と呼ばれていたことは、境内に“八幡宮”と刻した手水槽があることなどから確からしいが、推古5年の創建というのは疑問がある。
 八幡宮の総本社とされる九州の宇佐八幡宮の創建は聖武天皇・神亀2年(725)といわれ、一地方神である八幡大神が中央に広く知られたのは、聖武帝が進める東大寺大仏鋳造への全面協力を約した八幡大神が、その開眼供養(天平勝宝4年・752)に際して上京したことからという。
 当社に八幡神が勧請されたのは、清和天皇・貞観2年(860)の石清水八幡宮創建以降ではないか、と思われる。

 由緒略記前半にいう桜井朝臣とは、新撰姓氏禄(815)に、
 「左京皇別 桜井朝臣 石川朝臣同祖 蘇我石川宿禰四世孫稲目宿禰大臣之後也」
とある(石川朝臣は「孝元天皇皇子彦太忍信命(ヒコフトオシマコト)之後也」という)蘇我氏の傍系氏族で、
  孝元天皇−彦太忍信命−○−武内宿禰−蘇我石川麻呂−○−○−稲目−桜井臣(朝臣は天武朝での賜姓)
とつづく系譜(稲目は、蘇我氏本流・馬子の父)から、当社祭神を武内宿禰とするのであろう。

 ただ姓氏禄には、この蘇我系桜井朝臣以外にも、桜井を名乗る氏族として
 「右京諸蕃(漢) 桜井宿禰 坂上大宿禰同祖 都賀直(阿智使主)四世孫東人直之後也」
との渡来系氏族があり(坂上大宿禰−−後漢霊帝男の延王より出る、とある)、当地一帯に大規模な古代陶器竈跡があることから、その技術を移入した百済系渡来人がその祖神を祀った、とする説もある(日本の神々3所載・桜井神社・2000)

 創建後の経緯については不詳ながら、由緒略記によれば、
 「古来、和泉国大鳥郡上神(ニワ)郷の総鎮守として、歴代皇室をはじめ中世武家の崇敬が厚かったが、天正5年(1577)織田信長の紀伊根来寺征伐の兵火にかかり、神宝古記録を焼失、神領も没収されて一時荒廃した。
 その後、加藤清正らの発願により再建されて旧に復したが、明治初年の神仏分離により神宮寺を廃寺とし、明治5年郷社に指定され、同43年に旧上神谷村内の9社を合祀し現在に至る」(大意)
という。
 なお、当社が武士階級の崇敬をうけたのは、式内・桜井神社としてではなく、武家の守護神としての八幡大神に対する崇敬であろう。

◎桜井古跡
 当社の西を流れる妙見川の西岸に“桜井古跡”があり、鳥居の奥に、生け垣に囲まれて井戸一基が見える。
 鳥居脇に掲げる案内には、
 「桜井井戸と呼ばれ、悠久の昔より桜井神社御祭神に深い縁故を有し、・・・和泉名所図会(1796)にも登載の古跡である。
 常に清水湧出して枯渇することがなかったが、明治18年(1885)の大洪水により河川氾濫し埋没、大正4年(1915)復元、更に平成元年(1989)妙見川拡幅・宮橋掛け替え工事の竣工により、整備保存されたが、井戸は現存しない」
とある。

 これは社名の由来とされる“桜井”を想定復元したもので、古資料にも
 ・境内に井戸有り。之を桜井と云ふ−−泉州志(1700)
 ・桜井址 古来有名なる桜井は境外にあり。今は全く井の形なし」−−大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)
とある。ただ、曾ての桜井と称する清泉が当地にあったかどうかは不明。

桜井遺跡
桜井古跡
桜井遺跡・井戸
同・井戸

※祭神
 今の祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后とするが、これは上神谷八幡宮(別宮八幡宮ともいう)としての祭神であり、当社本来の祭神ではない。

 当社本来の祭神については、 
 ・武内宿禰−−蘇我系の桜井朝臣一族がその祖神を祀ったとするもの
 ・阿知使主−−渡来系の桜井宿禰一族が、その祖神を祀ったとするもの(神名帳考証・1733or1813)
があるが、武内宿禰が八幡大神と関係が深いこともあって、武内宿禰とする説が有力という。
 (武内宿禰−−孝元天皇の曾孫で、景行・成務・仲哀(神功)・応神・仁徳に仕えたという伝説的人物)

 しかし、当社付近に古代陶器製造に係わる遺構が多いことからみると、渡来系氏族がその祖神(阿知使主は一例)を祀ったとする説も棄てがたい。

 また、当社の遠縁を桜井の井戸とすれば、古代農耕に必要な水を司る水神とみることもできる。

◎末社
 当社には式内・国神社・同山井神社の他に末社13社がある。社名・祭神は以下の通り。
 八坂神社(須佐之男命)・若宮神社(仁徳天皇)・高良神社(高良大神)・武内神社(武内宿禰)・多賀神社(伊射奈伎命)
 ・玉桂屋神社(玉桂姫命)・住吉神社(住吉大神)・市杵島神社(市杵島姫命)・春日神社(天児屋根命)・菅原神社(菅原道真)
 ・稲荷神社(保食神)・戎神社(蛭子神・事代主命)・招魂社(氏子戦死者183柱)
  これらの諸社のうち、武内神社(当社本来の祭神で、八幡大神勧請により末社化されたと思われる)を除く諸社は、明治末期の神社統廃合によって合祀されたもので、山井神社と国神社は桜井神社本殿の(向かって)左右に、稲荷・戎・招魂社は境内にそれぞれ別社として祀られているが、他の10社は本殿に合祀されているらしい。

※社殿等
 当社には、道路脇に寺院山門のような神門(四脚門)があるだけで、鳥居はない。
 境内正面に拝殿が、その奥、中門から左右に延びる透塀に囲まれて桜井神社本殿と、
 その左右に山井神社と国神社の社殿(流造・銅板葺)が並んでいる(由緒・祭神等は下記)
 ・本殿−−正面に大きな千鳥破風・唐風破風を有する流造・銅板葺・間口3間・奥行2間
 ・拝殿(国宝)−−切妻造・瓦葺・間口5間・奥行3間
    正面から見て、一直線に伸びた屋根の軒瓦の下に、朱塗りの壁面に白い柱が映える簡素な拝殿。
    中央1間を馬道(通り抜けできる土間の通路)とし、左右の各2間に床を張る所謂“割拝殿”形式で、
    鎌倉初期の特徴をよく残すという。同形式の割拝殿が石上神社の摂社にもある。

桜井神社/神門
桜井神社・神門
桜井神社/拝殿
同・拝殿
桜井神社/中門
同・中門
桜井神社/本殿
同・本殿
桜井神社/社殿
同・社殿
(桜井社本殿の右に国社の祠が見える)


【国神社】
 延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 国神社』とある式内社で、明治末期の神社統廃合政策によって式内・桜井神社に合祀されたが(1910)、その旧址とされる南区鉢ヶ峰寺には小さな祠が残っている。

 泉北鉄道・泉ヶ丘駅の南約2km、堺公園墓地の一画に鎮座する。南海バス24系統に乗車、鉢ヶ峰下車、バス停のすぐ前(バスは平日・時間1往復のみ)

 当社の創建由緒・年代等は不明だが、大阪府全志が引く社伝によれば、
 「垂仁天皇8年、天照大神鳳凰と化して襲峯に降臨あり。景行天皇24年、神託により、武内宿禰に命じて社殿を造営した。同55年、神鳳が千種森に移った。今の大鳥神社(大鳥美波比神社)之なり」(大意)
とあり、大鳥神社の元社とみられるような伝承が残っている。

 全志は続いて、
 「当社が天照大神を祀るのに国神社ということから、オオクニヌシ命が連想される。
 オオクニヌシには、大鷲に乗って茅渟県に行って大陶祇の娘・イクタマヨリヒメを妻にしたとの伝承があり、その大陶祇の居住地は当地に近い古の陶邑であったことから、この地にオオクニヌシが天降ったとして、当地を大和の三輪と同じく神郷(ミワゴウ)と呼び、オオクニヌシを祀って国神社と称したのであろう。
 その後、アマテラスを配祀したことから祭神・オオクニヌシが忘れられ、単にオオクニヌシに因む社名・国神社のみが残ったのではないか」(大意)
と記している(オオクニヌシ妻問い伝承の出典不明)

 桜井神社由緒略記によれば、当社祭神は、天照皇大神・熊野大神・山王大神・金峰大神・白山大神とあるが、本来の祭神はアマテラス一座という。
 当社の5座について、元禄4年(1691)の寺社改帳によれば、
 「当社は、神宮寺・長福寺の鎮守として“五所権現”と称して、天光神(アマテラス)・金峰・熊野・白山・山王各権現五所の相殿で、弘仁5年(814)嵯峨天皇の勅により伝法大師が勧請したもの」
と記されているという。

 また、今、桜井神社の本殿前にある石燈籠(府指定文化財)には
 「鉢嶺山長福寺五所権現 応永19年(1412)3月17日勧進良秀」
の銘があり、旧国神社の合祀に伴って移されたもので、同じく桜井神社に蔵されている鎌倉初期の作という神像3躰(府指定文化財、男神像・菩薩像・明王形造、H≒24〜21cm、元は5躰一揃いだったという)も当社からの移転という。

 これらのことからみて、当社は鎌倉以前から五所権現として崇敬されていたことがわかり、今、由緒略記に記す祭神は、この五所権現をそのまま踏襲したものといえる。

 国神社の旧祉は、鉢ヶ峰バス停の反対側、泉公園墓地の一画、小高い丘の上に残っている。
 道路脇の鳥居をくぐり、雑木にはさまれた石段を登った頂きに、小さな祠(一間社流造・瓦葺)が鎮座するだけで、社名を含めて何らの標示もない(公園墓地の案内絵地図には、小さく“国神社”とある)
 訪れる人もないようだが、境内はそう荒れてはおらず、祠にはシキミが捧げられていたから、氏人は居られるらしい。

国神社旧祉/鳥居
国神社旧祉・鳥居
国神社旧祉/社殿祠
同・祠
国神社旧祉/参道石段
同・参道石段

【山井神社】
 延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 山井神社 鍬靫』とある式内社で、明治43年(1910)、式内・桜井神社に合祀されたという。社名は“ヤマイ”あるいは“ヤマノイ”と訓む。

 当社の創建由緒・年代等の詳細は不明だが、大阪府史蹟名勝天然記念物によれば、
 「大字栂部落の南方にある村社なり。俗に天神と称す。式内神社にして傍らに清泉あり。山の井の称此より起る。明治43年2月を以て桜井神社に合祀す。
 祭神は美豆波之女神(ミズハノメ)なるべしといふ。イザナミ命の生みませる水神なり。山井といふ名より推し量りていへる説なるべし」(大意)
とある。
 諸資料ともに“傍らに清泉があった”とし、祭神・ミズハノメは是に因むものだろうが確証はなく、大阪府誌・大阪府全志は“祭神不詳”という。

 旧鎮座地は、桜井神社の西約200mの南区栂町の辺りにあったというが、今は住宅地化していてその痕跡はないという。

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