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和泉(大鳥郡)の式内社/多治速比売命神社
付−−式内・坂上神社、式内・鴨田神社
大阪府南区宮山台2丁
祭神−−多治速比売命・素盞鳴尊・菅原道真
                                                 2011.02.07参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 多治速比売命神社』とある式内社で、合祀されている坂上神社・鴨田神社も延喜式内社。社名はタジハヤヒメと訓むが、俗に荒山(高山)(コウゼン)ともいう。

 南海鉄道高野線に連なる泉北高速鉄道・泉ケ丘駅の北側バス停から、12・14系統にて宮山台2丁下車(駅の北西約1.4km)。バス停すぐ北、宮山2丁信号の左側に多治速比売神社との標識が立つ。

※由緒
 当社案内紀によれば、
 「当社は和泉国大鳥郡の延喜式内社24社のひとつで、西暦530年の頃(社頭の案内には宣化天皇-535〜39-の頃とある)創建と伝えられている。明治初年までは総福寺と併存した神宮寺であったが、神仏分離の際神社のみとなった」
とある。

 当社の創建に関する資料は少なく、大阪府誌(1903)・大阪府全志(1922)には
 「創建の年月詳ならず」
とあり、式内社調査報告(1986)には、
 「創祀不詳なるも、・・・付近には陶器の窯跡多く、社有林内の“高蔵寺73号”は最古の登り窯とされているから、当社は古来より広範な陶邑に居住し、陶器生産を専業とした渡来人系集落の守護神として、5世紀中頃に創祀された・・・」
とある。
 渡来人創建説の信憑性は高いが、この場合、社名・祭神のタジハヤヒメとの繋がりはみえない。

 当社創建を、当社案内は6世記前期・調査報告は5世紀中頃というが、古墳時代末期に当たるその頃に常設の神社があったとは思えず、創建の時期はもっと後であろう。

※祭神
 今の祭神は上記三座だが、本来の祭神は多治速比売命(タジハヤヒメ)一座か。

 社伝によれば、タジハヤヒメとはヤマトタケルの妃・橘姫命が転化したものというが、ヤマトタケルにタチバナヒメなる妃名は見えない。
 和泉国式神私考(発刊時期不明)
 「多治速名媛命 穂積押山宿禰之女 日本武尊之妃神也」
とあり、景行紀に穂積氏忍山宿禰の娘とある弟橘姫命(オトタチバナヒメ)を指すというが、特選神名牒(1925)は「(タジハヤヒメは)橘姫に非ず」とあり、はっきりしない。

 このタチバナヒメ説以外に、“丹比乃波夜姫”とする説(神社覈録・1870)、“丹治比君の祖”とする説(神名帳考証・1813)などがあり、タジハヤヒメの出自についての定説はない。

 なお丹治比(タジヒ)君とは、宣化天皇と皇后・橘仲皇女(タチバナノナカツヒメミコ・仁賢天皇の皇女)との間に生まれた“上殖葉皇子”(カミツウエハ)の後裔で(宣化紀)、天武天皇のとき真人の姓を与えられている。、
 上殖葉皇子の母を“橘仲皇女”ということから、社伝にいうタチバナヒメとは、この皇女を指すのかもしれない。
 (丹治比・丹比とは上殖葉皇子の子が臣籍降下して与えられた氏名で、9世紀中頃に多治と改名している。丹治比氏の本拠地は河内国丹比郡−羽曳野市辺り−というから、当地に関係していた可能性はある)

 併祀されているスサノヲ命・菅原道真は後世の合祀で、当社に残る“高山記”(コウゼンキ・1518・室町時代)との古文書に、
 「中古、日蔵上人が感得した牛頭天王、天満大自在天神、蔵王権現を祀る」
とあり、元禄4年(1691)の寺社改帳にも
 「同村高山 天神社 牛頭天王・蔵王権現 三社相殿」
とあるように、室町以前から牛頭天王・天満大自在天神・蔵王権現を祀るとされていたといわれ、この3神が、明治の神仏分離によって神名を替えたのが、今のスサノヲ命と菅原道真(何故か蔵王権現は消えている)

◎末社
 案内記によれば、境内には13の末社、坂上神社(式内社)・鴨田神社(式内社)・大神社・住吉社・天照社・八幡社・春日社・熊野社・白山社・弁天社・稲荷社・福石社・水天宮があり、あわせて荒山宮(コウゼンノミヤ)と呼ばれている、とある。いずれも明治末期に合祀されたものと思われるが、詳細不明。

※社殿等
 宮山台2丁バス停のすぐ北・左側(西側)に、荒山公園(梅林あり)への入口があり、脇に当社の大きな標識が立っている。公園内の園路に沿って大きく東へ回りこんだところに当社鳥居が立ち、広い境内の東側奥に朱塗りの拝殿が、その奥、透壁に囲まれた中に朱塗りの本殿および末社の祠が鎮座している。
 ・本殿−−三間社入母屋造・間口3間・奥行1間・檜皮葺・朱塗り・正面に千鳥破風、軒唐破風を有する向拝あり。
        室町後期の流麗華美な様式を残す社殿で、国指定重要文化財。
 ・拝殿−−三間社切妻造・瓦葺・朱塗り、正面に千鳥破風・軒唐風破風を有する。

多治速比売命神社/鳥居
多治速比売命神社・鳥居
多治速比売命神社/拝殿
同・拝殿
多治速比売命神社/本殿
同・本殿

 社頭に掲げる絵地図によれば、、本殿の右に式内・鴨田神社と天照社が、左に式内・坂上社と大神社の小祠が見えるが、翼廊と透塀に阻まれて実見困難。
 また、拝殿の左右・翼廊の背後の、右に八幡社、左に住吉社・春日社・熊野社・白山社の小祠が鎮座し、境内左手(北側)の脇門(朱塗りの四脚門)の両側に稲荷社と福石社が、左翼廊の左に弁天社が、鳥居の外に水天宮がある。

 社殿・祠のほとんどが朱塗りのため、境内全体に明るい雰囲気が漂っている。

多治速比売神社/脇門
多治速比売命神社・脇門
多治速比売命神社/末社合祀殿
同・末社合祀殿
(左から白山社・熊野社・春日社・住吉社)
多治速比売命神社/末社・八幡社
同・末社(八幡社)

【坂上神社】
 明治末期の神社統廃合により、同43年、多治速比売命神社に合祀された式内社。社名はサカノウエと訓む。

 創建由緒など不詳だが、大阪府誌には
 「延喜式内社にして久世村大字平井にあり。祭神詳ならず。蓋、坂上氏の其の祖を祀りしものか。坂上氏の光は漢の霊帝より出たり」
とあるが、式内社調査報告は
 「祭神は社名に由来する“阿知使主”(アチノオミ)であること、諸説一致している」
という。

 社名に由来するという坂上氏(サカノウエ)とは、新撰姓氏禄(815)
 「右京諸蕃 坂上大宿禰 後漢霊帝男の延王より出る也」
とある渡来氏族で、続日本紀・桓武天皇延歴4年(785)5月条には
 「右衛士督・従三位で下総守を兼任する坂上大忌寸苅田麻呂(サカノエノオオイミキ カリタマロ)らが上表文を奉って、『臣等は、もと後漢霊帝の曾孫・阿知使主の後裔です』と申し出た」
とある。

 阿知使主とは、応神紀に
 「20年秋9月 倭漢直(ヤマトノアヤノアタイ)の先祖、阿知使主がその子都加使主、並びに17県のともがらを率いてやってきた」
とある人物で、これらをうけて式内社調査報告は、
 「当社が坂上氏の祖神である阿知使主を祭神とするならば、これは渡来人中の漢氏の氏神でもあり、その氏人の一部は陶器生産にも励んだことであろう」
という。

 当社の旧社地は、多治速比売命神社の北約2kmの現西区平井付近にあったというが、旧社地の確定不能。

【鴨田神社】
 坂上神社と同じく、明治43年に多治速比盗_社に合祀された式内社。延喜式写本によっては、社名を“鴨”と記すものもあり、多治速比売神社では“鴨田”と称している。

 創建由緒不詳。
 祭神については、大阪府誌に
 「俗に住吉神と称すれども、祭神は加茂別雷命」
とあり、大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)は、
 「古来祭神について定説なし。・・・大阪府誌には別雷命とせり。
 鴨は姓氏禄に『加茂県主 鴨県主 神魂命(カミムスビ)孫武津之命(タケツヌミ)之後也』とあり。この附近に居住したる和田首・大村首・荒田直、皆神魂命の後なれば、この地方は其の一族の根拠地なるべく、従って、この社は其の祖先を祀れるものなるべきか」(大意)
と記し、加茂別雷命(カモワケイカヅチ)かと推測している。
 なお加茂別雷命以外にも
 ・住吉神(泉州志・1700、和泉名所図会・1796)
 ・事代主命
 ・武内宿禰命(和泉国式神私考)
 ・大田田根子
 ・大己貴命
などが挙がっているが、根拠不詳。

 当社旧社地は、多治速比売神社の西北約1kmの現西区太平寺の辺りにあったらしいが、今、その痕跡はないという。

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