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和泉(大鳥郡)の式内社/高石神社
大阪府高石市高師浜4丁目
祭神−−天照皇大御神・少彦名神・熊野坐三社
                                                       2011.01.22参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 高石神社』とある式内社。

 南海本線から分岐した羽衣線・高師浜駅の東に隣接して鎮座する(プラットホームから本殿背後がみえる)
 駅の東を南北に走る府道204号線(堺泉南線)に面して、二の鳥居(入口)が立つ。今、社名は“タカシノ神社”と訓む。、

※由緒
 当社由緒略記によれば、
 「祭祀の歳月確かならず。或いは云う、白雉元年(650)なりと。
 醍醐天皇延喜の御代制式の小社に列し(927)
、堀河天皇の御代、、寛治年間(1087--94・院政期)社殿の再建あり、国内神名帳に云う、従五位上高石大歳社、高石倉立社と見ゆ。今天神と称す(式内考に載る)
とあるが、式内社調査報告(1977)は、
 「白雉元年の創建、寛治年中の社殿再建については未詳」
という。
 しかし、延喜式神名帳(927)に載ることから(延喜の御代、制式の小社に列し)、それ以前からの古社であることは確かといえる。
 *国内神名帳−−国司祭祀の対象となった神社を記した国別の神名帳をいう(成立時期は個々で異なる。今、幾つかの国内神名帳が残るというが、和泉国国内神名帳の残存は未確認。

 創建由緒などの詳細は不詳だが、泉州志(1733・江戸中期)には
 「式内、今天神と称す」
また、和泉名所図会(1796・江戸後期)には、
 「高石莊海道の西側にあり。延喜式内社にして、高志の祖王仁を祭る。今天神と称す」
とあり、降って、明治末期に編纂された大阪府誌(1903)には、
 「高石村大字高石南 紀州街道の西に在り。式内の神社にして少彦名命・天照皇大神・伊射奈美命を祀れり。創建の年代詳かならず。或書に高石神社は王仁を祭るとあり、或ひはもと本社の境内地に王仁の一社ありしにやあらん」
とあり、わが国に論語・千字文を伝えたとされる王仁(ワニ・応神記)との関係を推測している。

 当社に係わる氏族は不詳だが、古く、和泉国に居住していた氏族として、
 ・高志連−−「和泉国の人で外従五位下の高志毘登若子麻呂(コシビトワコマロ)ら52人に高志連の姓を賜る」(続日本紀・称徳天皇天平神護2年-766-12月条)
 ・古志連−− 「和泉国諸蕃(漢) 古志連 文宿禰(アヤノスクネ)同祖 王仁之後也」(新撰姓氏禄-815)
の2氏族があり、同じ系譜に属するという。

 高石市ホームページによれば、高石市の成り立ちとして
 「音に聞く高師浜の・・・と歌われた高石の地は“高脚”とも書かれ、・・・
 又、上古に百済の博士・王仁がその一族の工芸技術家たちをつれて来朝した関係で、本市大工村(高師浜の一部)の村民の大半は大工を家業とし・・・」
と記し、高石とは高師浜(高脚)から転じた地名で、古くは王仁の一族が居住していたという。

 当地に居住し、当社の祭祀氏族とされる高石連(古志連・高志連)は、百済系渡来人西文氏(カワチノフミ)に連なるといわれ、その祖・王仁を氏神として祀ったものであろう、という(日本の神々3所載・高石神社-1984)

※祭神
 今の祭神は、天照皇大神・少彦名命・熊野坐三神とするが、これらの奉斎由緒・時期は不詳。
 ただ、当社が曾ての熊野詣の道(紀州街道)の途中に位置することから、熊野詣の盛期の頃(平安末期以降)に熊野三神(古くはイザナミ−下記)を勧請した神と思われるが、主祭神ではない。

 ただ、大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)が、
 「古来祭神明瞭を欠きたるものの如く、遠くは泉州志(1700)近くは和泉国地誌(?)に、皆不詳とせり。
 今は少彦名命・天照皇大神・伊射奈美尊を祀るといふは高石連の祖が王仁の後なり、といへる姓氏禄に基きしものなり」
というように、ほとんどの古史料は、熊野坐三神に代わって伊射奈美命(イザナミ)を挙げている。
 ここでいうイザナミとは、熊野那智大社の主祭神・イザナミと解され、とすれば、それが熊野三神に替わってもおかしくはない。
 *熊野三神とは、本宮−家津御子(ケツミコ)大神、新宮−熊野速玉(ハヤタマ)大神、那智−熊野夫須美(フスミ)大神をいうが、神々習合により、それぞれスサノヲ・イザナギ・イザナミともいう

 ただ、“スクナヒコナ・アマテラス・イザナミを祀るといふは高石連の祖が王仁の後なり云々”というが、これら3祭神と渡来人・王仁あるいは高石氏との繋がりは見当たらず、この一文の根拠は不明。

 これらのことから、本社本来の祭神は、
 「恐らく、当初は高石莊の鎮守神として鎮祭され、・・・」(式内社調査報告)
というのが妥当で、時期不明ながら、古志連・高志連あるいは高石氏のいずれかがその祖神・王仁を祀ったのが始まりとも思われる。 ただ、今の当社に王仁祭祀を示唆するものは見えない。

 由緒記他には「今、天神という」とあるが、ここでいう天神とは菅原道真を祀る北野のそれではなく、天つ神を意味する一般呼称らしい(同じく「今天神と称す」という男神社などの古史料には、天神とは“天之尊貴神”・“天つ神”・“非北野”とある)。当社主祭神をアマテラスとすることから、この社名を称したのかもしれないが、詳細不明。

※社殿等
 府道に面する二の鳥居を入った参道先に一の鳥居が立ち、境内正面に拝殿・弊殿・本殿と続く社殿が東面して建つ。
 由緒略記によれば、昭和9年(1931)の室戸台風により被災、その後、同11年に再建されたという。
 ・本殿−−大鳥造を模したもののように見えるが、塀が高く、且つ正面(妻側)が弊殿と連なっているため、詳細不明。
 ・拝殿−−入母屋造・唐風破風付

高石神社/一の鳥居
高石神社・一の鳥居
高石神社/拝殿
同・拝殿
高石神社/本殿
同・本殿

◎末社
 境内左手に、末社5座の合祀殿が建つ。
 間口3間半の拝殿後ろ、玉垣に囲まれた中に流造の祠が鎮座している。

 ・八幡神社(応神天皇)−−元高石村小高石鎮座
 ・八坂神社(素盞鳴命−−元は牛頭天王だったのでは)−−元高石村北鎮座
 ・春日神社(天児屋根命)−−元高石村北鎮座
 ・船冨神社(神功皇后)−−元高石村南鎮座
 ・弥榮神社(素盞鳴命−−牛頭天王か)−−元高石村北鎮座
  いずれも元高石村内からの遷座で、明治41年8月当社に合祀されたものという。
  明治政府による神社統廃合政策によるものであろう。

末社合祀殿
 なお、これらの他に、
 ・新井神社(少彦名命・大己貴命・事代主命)−−元高石村新より明治42年、本社に相殿として合祀
があるという。この社のみが本殿に合祀された理由は不明。

 また、境内右手の樹木下に社名不明の小祠、切石積みの壇上に遙拝所(鳥居のみ−熊野権現遙拝所か)があるが、詳細不明。

◎歌碑
 当地は、古来から風光明媚な高師浜として知られ、多くの和歌が詠まれている。
 境内にも歌碑3基ほどがある。

 境内左手の社務所前に、その中の一首(小倉百人一首収録)
 「音に聞く 高師の浜の仇波は かけしや袖の ぬれにこそすれ」(祐子内親王家紀伊−金葉集)
を、自然石に刻した歌碑(H≒2m)が立つ。
高石神社/歌碑

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