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和泉(大鳥郡)の式内社/等乃伎神社
付−式内・大歳神社
大阪府高石市取石2丁目
祭神−−主祭神:天児屋根命
                  相殿神:大歳大神・壺大神・菅原道真公・誉田別尊
                                                           2011.02.03参詣

 等乃伎神社(トノキorトノギ)は、延喜式神名帳に『和泉国大鳥郡 等乃伎神社(トノキ) 鍬靫』とある式内社で、祭祀氏族とされる殿来連(トノキムラジ)に由来して殿来神社とも書く。
 当社に合祀されている大歳神社(オオトシ)も、同神名帳に『和泉国大鳥郡 大歳神社 鍬』とある式内社で、明治42年(1909)2月に綾井村から遷されたもの。

 JR阪和線・富木駅の東約600m、住宅地の中に鎮座する。府道30号線(大阪和泉泉南線)を西へ少し入った処にあり、富木北交差点付近の各処に案内標識あり。

【等乃伎神社】

※由緒
 社頭に掲げる案内(高石市)によれば、
 「等乃伎神社は、古代よりこの地に祀られています。古い歴史があることは、延喜式神名帳に名が記されています。
 そして、この土地には「殿来連」という氏族が居住していたことが、続日本紀のも書かれています。また、古事記にも記録されています。
 仁徳天皇の時代に、兎寸河(トノキカワ)の西に一本の巨木があり、朝日を受けるとその影が淡路島に達し、夕日を受けるとその影は高安山を越えるほどであった。この巨木から船を造ったところ、速度が速く「枯野」(カラノ)と名付けられ、淡路島より天皇の使われる水を運んだといわれています。巨木伝説のひとつです」
とある。

 これとほぼ同じ由緒を、大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)には、
 「式内神社にして今村社たり。天児屋根命及び菅原道真を祀る。
 この地は姓氏禄和泉国神別に、
  『殿来連、大中臣之同祖、天児屋根命之後也』
と見え、
 又続日本紀孝謙天皇天平勝宝4年(752・奈良中期)5月の条に、
  『無位中臣殿来連竹田売授外従五位下』
と見ゆる殿来氏の居住せし地なれば、その祖神を祀りたるものならん。

 社伝には、孝謙天皇天平勝宝5月(4年脱落か)、殿来連この地に祖神の霊を河内の枚岡神社より迎えて奉祀す。この歳太政大臣・藤原武智麻呂(680--737、由緒略記には、「その子・大納言恵美押勝(仲麻呂・706--64)も来住したという此処に来りて住せし故に殿来と云ふと」
とある。高貴な人(殿)が来住したので殿来と称したということか。

 ここでは、殿来の由来として藤原武智麻呂・同仲麻呂の来住を挙げているが、“この歳”が天平勝宝4年を指すのであれば、仲麻呂はいざ知らず、武智麻呂の来住は疑問(武智麻呂は天平勝宝4年には死亡している)。いずれにしろ、当社が藤原氏と関係があったことを誇示する伝承であろう。

 これらのことから見みて、大阪府誌(1903)及び大阪府全志(1922)が、
 「創建の年月は詳ならず」
というように、創建年不詳というのが実態であろう。

◎巨木伝承
 社頭案内の後段にいう仁徳天皇の時代云々とは、古事記・仁徳天皇条にある、
 「この天皇の御代に、兎寸河の西に一本の高い樹が生えていた。その樹に朝日がさすと樹の影が淡路島に達し、夕日がさすと、その影は河内国の高安山を越えるほどであった。
 そして、この樹を切って船を造ったら、たいそう速く走る船だったので、枯野(カラノ)と名付け、この船で、朝夕淡路島の清水を汲んで運び、天皇の御飲料水として奉った。
 この船が破損したので、その船材で塩を焼き、その焼け残った材木を用いて琴を作ったところ、その琴の音は七つの村々に響きわたった」(大意)
との説話をうけたもので、兎寸河とは、今、当社の東南を流れる冨木川であり、そこから“兎寸河の西”とは当社の地を指すという(異論もある)

 これに関係して、当社由緒略記には、
 「古代において、当神社には楠の巨木が茂り、海岸線が接近して、仁徳記に示すように、淡路島の清水を汲んで高津の宮に帰ってくる時には、その聳える楠の巨木が船路の遠くから目印になったのでしょう」
という。
 ただ、今の境内には楠を主とする樹木が繁茂しているものの、周りは住宅に囲まれていて、仁徳記にいうような面影はない。

、上記説話は、夏至の朝高安山(右図の右上)に昇る朝日によってできる高木の影が淡路島(由良の門−現洲本市由良、右図の左下)にまで延び、由良に沈む冬至の夕日による高木の影が高安山を越えたというもので、高木の影云々というのは、影による日読みを神話的に語ったものであろう、という。
 また当地は、右図に示すように、冬至の朝日は金剛山山頂(右下)に登り、夏至の夕日は武庫の水門(左上)に沈み、春分秋分の朝日は二上山岩屋から昇るという。

 このような立地条件を持つ当地は、冬至・夏至・春分・秋分の太陽の動きによって、古代農耕に必要な季節の節目を知る日読み(日知り)の地であり、冬至・夏至の日には太陽の復活を願う、あるいは太陽の恵みに感謝する神事がおこなわれていたとの伝承もあり(由緒略記)、単に中臣系の殿来連がその祖神を祀った地というより、それ以前からの太陽信仰に係わる聖地であったことを示唆している。

日読み模式図(資料転写)

 因みに、等乃伎・兎寸は“トノキ”あるいは“トキ”と読むが、“トキ”(都祁・都祈・土岐・都畿)とは、古代朝鮮語で“日の出”を意味するという。三国遺事(半島の古書)によれば、新羅に“迎日県・都祈野”との地があり(延烏郎・細烏女渡海伝承)、そこは“日の出を迎え祀る聖地”だったという。(以上、神社と古代王権祭祀所載・等乃伎神社、1989)

 当社が等乃伎(殿来)神社と称するのは、祭祀氏族・殿来連に因む呼称ということに加えて、当地が古来からの迎日祭祀の聖地であったことによると思われ、そこには朝鮮半島からの渡来人(新羅人)の影も見え隠れするという。(神社と古代王権祭祀-1989-所載・等乃伎神社)

※祭神
 主祭神を天児屋根命とするが、これは中臣氏に連なる殿来連がその祖神を祀ったもので、諸資料とも異論はみえない。

 今、本殿には以下の4座が合祀されている。明治末期の神社統廃合によって、大阪府全志(1922)によれば、明治42年(1909)、近傍各村から合祀されたものという。[ ]内は由緒略記記載の説明
 ・大歳大神[須佐之男命の御子]
   大字綾井および大字新家の大歳神社2社を合祀したものだが、うち大字綾井の大歳神社は式内社(下記)
 ・壺大神[太陽神]
   大字大園の壺神社を合祀したもの。略記では、壺大神は太陽神というが、詳細不明。
 ・菅原道真公[天神さん]
   大字土生の菅原神社(祭神:菅原道真)を合祀したものというが、「道真は、延宝7年(1679)11月17日社殿改造の時、二殿となりて右殿に配祀せしものなりといふ」との資料もあり(大阪府全志)、江戸時代から祀られていた菅原道真に加えて、大字土生から合祀したものであろう。

 ただ、当社は、江戸時代には“天神社”と呼ばれていたようで、江戸中期の古書・和泉志(1733)には、
    「式内 殿来氏祖神也 今天神と称す 俗に菅函相と為すは訛なり」
とあり、“天神とは称するものの菅原道真ではない”と注記している。当社が日神祭祀に係わることから、天神社(アマツカミのヤシロ)と呼ばれたと思われるが、上記資料によれば、和泉志編纂時には既に道真が祀られていたともみえ、混乱している。
 ・誉田別尊[応神天皇]
   八幡宮と思われるが、諸資料とも、明治末年の合祀社の中に八幡宮の記載はなく、詳細不明。

※社殿等
 境内正面に入母屋造割拝殿(間口5間・奥行2間、瓦葺)、その奥、透塀に囲まれた中に朱塗りの本殿(流造・平入・銅板葺)が、西面して鎮座する。
 透塀の隙間が狭く全貌は見えないが、本殿左前に“旧本殿跡”との狭い一画がある。延宝改造時の社殿2殿のうちの一殿跡かもしれない。

等乃伎神社/拝殿
等乃伎神社・拝殿
等乃伎神社/本殿
同・本殿

◎摂末社
 由緒略記には
 ・摂社−−宇賀之御魂神[お稲荷さん](ウカノミタマ)
 ・末社−−天御中主神[高天原の主宰神](アメノミナカヌシ)
とある。
 本殿の右に接して鎮座する春日造の社殿が摂社だろうが、稲荷社とはいうものの社頭に狐像などもなく、社名の表示も見えず詳細不詳。なお、稲荷社であれば、明治42年に大字綾井から合祀された稲荷神社であろう。

 境内右手(南側)の疎林の中、低い石積み基壇の上に小さな石祠があり、
  「祓宮(ハライノミヤ) 祭神−天御中主神 高天原の主宰神で、一番最初にお生まれになった神です」
とある。これがアメノミナカヌシを祀る末社であろう。
 アメノミナカヌシは混沌の中から最初に成り出た神というが(古事記)、記紀には何らの事蹟も記されておらず、これを禊祓(ケガレハライ)の神として祀る由緒は不詳。また、祠の右前に小さい馬の像があるが、これも不詳。

 境内南西の隅に注連縄を張った岩があり、その横に
  「祓岩(ハライイワ) 社殿にお参りの前に穢れを祓われる方は、この祓岩にお参りください」
とある。古代からの磐座かとも思われる。神社参詣の折、身を浄めるために手水を使うのは普通だが、磐座に向かってのそれは初見。

等乃伎神社/摂社
摂社・宇賀之御魂神社
等乃伎神社/末社
末社・天御中主神社
等乃伎神社/祓岩
祓 岩

【大歳神社】
  祭神−−大歳神(大年神、オオトシ)
   スサノヲ命とオオヤマツミ命の娘・オオイチヒメの御子で、兄弟神のウカノミタマ(稲荷神)、また御子の御年神(ミトシ)とともに穀物守護の神とされる。ただ、大年神は古事記にのみ登場する神で、日本書紀には見えない。

 当社に関する資料が少なく詳細不詳だが、大阪府誌(1903)によれば、
 「大字綾井の東南に鎮座せる神社にして、延喜式内の旧社なりと伝ふれども、其の他にも同名の社なほ五社(大鳥郡内に11社あったという)ありて、孰れが真の式内社たるを知らず。大歳神はスサノヲ命の御子、聖神(ヒジリカミ)の御父なり」
とあり、明治42年2月に等乃伎神社に合祀され、旧鎮座地は清高小学校敷地内(高石市西取石8丁目・等乃伎神社の南南西約1.6km)に取りこまれ消滅しているという。

 今、相殿神のなかに大歳神がある以外に、式内・大歳神社合祀を示唆する痕跡はみえない。

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