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矢代寸神社
大阪府岸和田市八田町358
祭神--武内宿禰・波多矢代宿禰・建御名方命・素盞鳴命
・市杵島比売命・武甕槌命・菅原道真
                                                      2019.11.21参詣

 延喜式神名帳に、『和泉国和泉郡 矢代寸神社二座』とある式内社。

 社名は“ヤシロキ”と読む。なお、社名の“寸”を“村”の略字とみて、“ヤシロムラ”とする資料(神社覈録等)もあるが、古老の口承では古来からヤシロキ神社と称したという(式内社調査報告・1986)

 JR阪和線・東岸和田駅の南東約2.3km。駅西から府道39号線を南下(南東方)、神須屋南交差点を過ぎて400mほど先の右側(西側)に鎮座する(年寄りの足で徒歩約1時間)

※由緒
 境内の由緒碑(石版)には、
 「当社は継体天皇元年の創建と伝えられ、当地に居住した波多氏が祖神を祀ったものとされている。
 延喜式内社にして、延喜式神名帳に矢代寸神社二座とある。
 (一座は本社にて一ノ宮と称し、一座は諏訪宮又は矢代寸下社と称し神須屋町にあったが、明治40年(1907)に本社に合祀)

 寬治4年(1090)正月、白河上皇熊野御幸の折 当社に参拝。
 江戸時代、岸和田藩主代替の際、領内の各神社に礼拝するのを例としていたが、後に当社のみを礼拝するようになった。

 近世の一時期、御祭神不祥となり、元文2年(1533)8月京都・吉田家に願い出て、『一宮 牛頭天王』の神号を賜る。
 明治6年(1873) 郷社に列せられた。

 古代から現在まで、阿間河(アマカ)の一ノ宮として氏子の篤い信仰を受け、平成19年には御鎮座1500年の大祭が盛大に行われた」
とある。

 また、式内社調査報告には、
 「延喜式内 矢代寸神社二座のうち、一ノ宮は現在地の大字八田字宮内にあった。諏訪社は矢代寸下社と呼んで、もと大字神須屋字諏訪にあった。
 八田は波多(ハタ)と同音である。古事記の孝元天皇の条に『武内宿禰(タケウチスクネ)の子 波多矢代宿禰(ハタヤシロ)は波多臣(ハタオミ)の祖也』とみえる。
 この地は波多氏の居住地で、当社はその祖神を祀ったとされる。
 渡会氏神名帳考証(1733)にも、建内宿禰子・矢代宿禰とあり、神社覈録・神社志料・大日本地名辞書等おおむね説を等しくしている。
  (中略-一ノ宮牛頭天王の神号授与、白河上皇の参拝を記す)
 くだって江戸時代になって、岸和田藩主交替の際には、領内の各社に拝礼したが、中頃からこれを略して一ノ宮のみに参拝して、領内各社の祭を執行せしめたと伝えている。(以下略)
とある。

 これによると、当社は、明治末期の神社統廃合によつて、八田にあった一ノ宮(当社)に神須屋にあった諏訪神社(矢代寸下社)を合祀したもので(明治40年)、八田の一ノ宮が本来の矢代寸神社とみるべきであろう。
 (延喜式には矢代寸神社2座とある。2座とは通常は祭神が2柱あることを指すが、当社では神社2社を指している)


 案内には、当社の創建を継体天皇元年(507)として、平成19年(2007)に鎮座1500年祭を催したとあるが、継体元年(507)創建を裏付ける史料はない。
 一般に継体天皇は6世紀前半頃の天皇といわれるが、その時期の神マツリが如何なる形のものだったかは不明で、よしんばあったとしても、それが当社に連なるかどうかは不明。

 継体天皇とは第26代天皇で、25代武烈天皇が皇嗣を残さず崩御したことから、畿内の有力豪族の推戴をを受けて越前から迎えられた天皇で(書紀には男大迹王ーオオドオウとある)、応神天皇5代の孫ということになっている。
 なお、この天皇は応神天皇5代の孫とはいうものの、越前国から招かれたということ、即位後も永らく大和に入れなかったことなどから、この天皇から、それまでの応神に始まる所謂河内王朝に替わって、新王朝が始まったとする説がある(王朝交替説)

 八田の当社は一ノ宮と呼ばれたようだが、これは岸和田藩内で最も格式が高い神社ということであって、通常いわれる○○国一之宮とは異なる。

 また、江戸中期以降、領主交替に際して当社のみに参拝したというのは、律令時代、新任の国司はまず国内の神社を巡拝する決まりであったが、時代を下るに従って最も格式の高い神社(一ノ宮)のみの参詣でこれに替えたということと同じで、いってみれば国司による神社巡拝の簡略化といえよう。

 ただ、Wikipediaには、当社を一ノ宮と称する由来として
 「古来より阿間河荘惣社として一ノ宮と呼ばれていた。
 江戸時代になり、岡部宣勝が高槻藩より岸和田藩に入封した際、領内には一ノ宮がなかった。
 このため、領内で古く格式の高い神社を探したところ、矢代寸神社が該当し、これを岸和田藩の一ノ宮とし、藩主交替や参勤交代の際には、藩主自らが菩提寺である泉光寺とともに参詣された」
とあり、藩主・岡田宣勝が岸和田入府の際(寛永17年・1640)に当社を一ノ宮としたというが、これでは由緒碑の記述と整合しない。


※祭神
  武内宿禰・波多矢代宿禰・建御名方命・素盞鳴命・市杵島比売命・武甕槌命・菅原道真

 延喜式に祭神2座とあること、当社が波多氏関連の神社であることから、
 ・この2座は、波多氏の祖神とされる武内宿禰・波多矢代宿禰であって、
 ・残る5座は、明治末期の神社統廃合によって近傍の小社を合祀したものと思われ、
  Wikipediaによると
  ・建御名方命--神須屋社(諏訪神社)より合祀
  ・素盞鳴命--真上社(弥栄神社)より合祀
  ・市杵島比売--極楽寺社(厳島神社)より合祀
  ・武甕槌命--流木社(鹿島神社)より合祀
  ・菅原道真--神須屋社(天神神社)より合祀
という。ただ、この5社の旧鎮座地が何処にあったかは不祥
 なお、Wikipediaによると、上記以外に四十九神社(落合神社・祭神不祥、戦いに敗れた49人の首を埋めたとの伝説ありが合祀されているというが、詳細不明

 武内宿禰とは、古事記・孝元天皇段に
 ・孝元天皇の御子・比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコト) 木国造の祖・宇豆比古(ウヅヒコ)の妹・山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶りて生みし子・武内宿禰(孝元の孫)
とあり(書紀によれば孝元の曾孫で景行14年生まれという)、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇(12代から16代)に仕えたという伝説上の人物で、200歳を越える超長寿であったという。
 その系譜として、同じ段に
 ・武内宿禰の子は合わせて9人(男7人、女2人)あり、その長子・波多矢代宿禰は波多臣の祖なり
とある。

 この波多矢代宿禰に関して、書紀・応神3年条に
 「この年、百済の辰斯王(シンシオウ)が位につき、日本の天皇に対して礼を失することをした。
 そこで、紀角宿禰(キノツクスクネ)・羽田(波多)矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰(ツクノスクネ)を遣わして、その礼に背くことを責めさせた。
 そこで百済国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは阿花(アクエ)を立てて王として帰ってきた」
とある。
 なお、ここで百済に派遣された紀角宿禰以下の5人は全て武内宿禰の子供であり、9代景行朝に生まれた武内宿禰の子供らが15代応神朝で活躍しているから、彼らも超長寿の人物とになる。

 波多臣(後に朝臣、八多とも記す)について、新撰姓氏録(815)には武内宿禰の後裔氏族として
 ・右京皇別   八多朝臣 石川朝臣同祖 武内宿禰之後也
 ・河内国皇別 道守朝臣 波多朝臣同祖 武内宿禰男八多矢代宿禰之後也
 ・  同     道守臣  道守朝臣同祖  同上
 ・和泉国皇別 道守朝臣 波多朝臣同祖 八多矢代宿禰之後也
がみえる。
 当地一帯に居住した波多氏とは、和泉国皇別の道守朝臣一族とおもわれ、彼らが、その祖である武内宿禰と波多矢代宿禰を祀ったのが当社ということになる。

 この波多氏にかかわる神社として、延喜式には、当社以外に『和泉国和泉郡 波多神社』があり、今 岸和田市畑町に鎮座する同名社(祭神:波多矢代宿禰)に比定されている(別稿・波多神社参照)

 なお、由緒碑は「祭神不祥となったので、京都の吉田家から牛頭天王の神号を頂いた」というが、祭神不祥というより、当時の流行にのって防疫神・牛頭天王を祀ったもので、京都・吉田家(中世以降の神道界を壟断していた)云々というのは格付けの為の行為であろう。


※社殿等
 府道39号線・神須屋南の信号から次の信号を過ぎた右(西側)、低い玉垣に囲まれた一画に『式内郷社 矢代寸神社』との社標が立ち、その左の小道を入った先に鳥居が東面して立つ(境内南と西にも鳥居あり)
 入口に社標が、境内に由緒碑(石版)が立つだけで、社務所は無人。

 
矢代寸神社・東側入口
 
同・東側鳥居
 
同・南側鳥居(これが正面鳥居かと思われる)

 東側鳥居を入り直進して右に回り込んだ処に、千鳥破風付き向拝を有する入母屋造・瓦葺きの拝殿(コンクリート造)が南面して建ち、その前に低い鳥居が立っている。

 
同・境内(左にみえるのは西側鳥居)
 
同・拝殿(正面)

同・拝殿 

 拝殿背後の白い塀に囲まれた中に、弊殿を介して本殿が鎮座する。
 本殿は二間社流造・銅板葺と思われるが、高い塀と樹木に阻まれてよく見えない。

 
同・本殿
 
同・本殿(側面)

◎境内社
 拝殿の向かって左に接するように境内社2社が並んで鎮座する。
 ・稲荷社--赤い鳥居数本の奥に鎮座する。
 ・辯才天社--赤い鳥居奥の覆屋の中に『辯才天』と刻した小さな石碑が立っている。
 なお、資料によれば、この2社の他に「道祖神社」があるというが気がつかなかった。


境内社・稲荷社
 
同・辯才天社

同・石碑 

 境内北側の玉垣の中、鳥居の笠木を土止めとした後ろに古い狛犬2基が相対して据わっている。
 全体が摩耗していて表情等細部はわからず、案内等なく之が何なのかは不明。


狛 犬 
 
狛 犬 

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