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赤猪岩神社(改訂)
鳥取県西伯郡南部町寺内232
主祭神--大国主命
相殿神--刺国若姫命・素盞鳴尊・稲田姫命

                                               2012.08.28参詣 2019.07.27再訪

 JR山陰本線・米子駅の南約6km、駅西の国道180号線(南部バイパス)を南下、国道の東側に迫る山地の山麓に鎮座する。鳥取県の西端、島根県との県境近くにあたる。

 和名抄(937)にいう「伯耆国会見郡天万郷(テマノサト)」が当地で、出雲国風土記(733)・意宇郡条に、「通道(カヨヒヂ) 国の東の堺なる手間の剗(セキ)に通ふ、三十一里百八十歩」とあり、そこには壕や柵を備えた一種の関があったという。

※由
 社頭に掲げる案内には
 「大国主神を主祭神とし、須佐之男命と櫛名田比売を合祀する。
 古事記によれば、大穴牟遅神(大国主神)には八十神といわれる多くの庶兄弟があった。
 八十神たちが八上比売に求婚するため稲羽へ旅する途次、後から従っていた大穴牟遅神は、気多の前(現在の伯兎海岸か)で素菟を救い、八上比売と結婚したので、八十神たちの恨みをかった。
 出雲への帰途、『伯伎の国の手間の山本』で、八十神たしちは『赤き猪この山に在り、故、われ共に追い下しなば、汝待ち取れ。若し待ち取らずば、必ず汝を殺さむ』といい、猪に似た石を真っ赤に焼いて転げ落とした。大穴牟遅神はその石を抱いて焼け死んだ。
 母 神刺国若比売は泣きながら天上に上がり、神産巣日之命に訴えたので、キサガイ比売(赤貝の神)とウムギ゛比売(蛤の神)を遣わされた。
 二神は、石に張り付いた大穴牟遅神の身体きさげ集め、貝殻を削った粉を清水で母乳のように練って塗ったところ、たちまち蘇生して麗しい男子となり、元気に歩き回られた。
 『伯伎国のてまの山本』を現在地(南部町寺内字久清)として、赤猪岩神社は祀られている。南部町・南部町観光協会
とある。


 案内にいう八十神の迫害とは、神話・因幡の白兎から続く一連の物語で、古事記には、概略
 ・八十神に求婚された八上比売は、それを拒否し、大名牟遅神(オオナムチ・大国主)に嫁ぐと告げた。
 ・それを聞いて怒った八十神はオオナムチを殺そうと謀り、伯耆国手間の山本(当地)にやってきて、『赤い猪がこの山に居る。皆で追い落とすから、お前は下にいてこれを捕らえよ。もし捕らえそこねたら、お前を殺す』といって、猪に似た大石を火で真っ赤に焼いて転がし落とした。
 ・オオナムチは、その赤い猪(焼石)を捕らえようとして抱きついたところ、その焼けた大石に焼かれて死んでしまった。
 ・これを知った母神(刺国若姫命・サシクニワカヒメ)が、高天原に上って神産巣日命(カミムスヒ、造化三神の一、出雲系神話では御祖神として登場)に救いを求めたので、カミムスヒは、ただちに蚶貝比売(キサカヒヒメ-赤貝の女神)と蛤貝比売(ウムギヒメ・ウムカイヒメとも、蛤の女神)を遣わして治療させた。
 ・キサカヒヒメが貝殻を削って粉とし、それをウムギヒメが蛤の汁と母乳で溶いて作った薬を火傷の箇所に塗ったところ、オオナムチは麗しい男として蘇生し、元気に歩き出された
とある(続けて、八十神が細工した割木の股にはさまれての死と蘇生、追いすがる八十神からの逃走、スサノヲのいる根の国への逃避行とそこでの試練、最後に、スセリヒメを得て葦原中国への帰還と続く)

 なお、古来から貝殻の粉は火傷の薬として利用されていたようで、平安時代の医書・大同類聚方(808)には、出雲国意宇郡に伝わる薬として
  「神戸薬  出雲国意宇郡育方  
         支差加比(キサカヒ) 一味を焼きて粉とし 知の於母(チノオモ)に練り合わせ附くべし」(想像を加えた意訳)
とあり、あるいは出雲国造家伝来の薬だったのかもしれない。

 この八十神による迫害について、松前健氏は、
 ・八十神による迫害の話は、一般に通過儀礼(イニシエーション)、それも全ての若者たちがうける部族的成人式というより、一種の呪師集団ないし男子秘事集団の入団式・加入儀礼における試練を説話化したものといわれ、これは先ず確かであろう。
 ・八十神は、そうした入団候補者(ここではオオナムチ)に、試練と苦行を課する長老たちの神話的投影であり、そのたびに蘇生させる母神とは、その団体に祀られる巫祖としての女神であろう。
 ・焼け石を抱かせたり、割れ木に入れて挟み殺したりすることは、あまりに残酷すぎるが、多少の説話的誇張はあるにしろ、彼らの通過儀礼には、これに近い過酷な試練がおこなわれたのであろう。
 ・こうした試練は、単に候補者の心身の鍛練とか苦行とかに留まらず、その中に、しばしば「死と蘇生」の象徴的・ドラマ的儀礼を含む一種の呪術的意図が含まれており、候補者がいったん死に、新しい社会の成員として再生するという象徴的意味をもっている。
 ・オオナムチに対して、こういった試練が一度ならず数度にわたって繰りかえされ、その度にいったん死んで再生するのは、彼が、出雲のオオナムチから偉大なる国土の主・オオクニヌシへと変身するために必要な通過儀礼だったといえる。
という(要点抄出、日本神話の形成・1970他)

 当社は、上記のように古事記にもとずく由緒をもつにもかかわらず、その社名は出雲国風土記・延喜式神名帳両書ともに記されていない。また、当社にかかわる資料も少なく、以下、管見した資料・日本の神々7(1985)所載の赤猪岩神社から要点を列記する。
 ・古資料に当社名の記載はないが、神社御改帳(嘉永3年・1850・江戸末期)によれば、寺内村の産土神は字屋敷に鎮座する八所大明神の摂社:赤磐権現(手間山山頂鎮座)・荒神(字久清鎮座)2社のうちの、荒神社が当社の前身ではないか。
 ・当社境内の玉垣に囲まれた中に、アカイシサンと呼ばれる平石があり、その下にオオナムチを焼き殺したと伝わる大石が埋まっているという。
 ・このアカイシ(赤猪石)について、上記縁起書は、
 「大神の焼きつかれし猪に似たる石は、地上にあって之を穢すを恐れ、土中に埋没せられた・・・」
というが、伯耆誌(1858・江戸後期)には
 「この石、山の東南平池より五六間許り上がるところの林間に在りて、今は九分は土中に埋みて一分を顕す。故に其の形を見ること能わず。
 伝えによれば、某神が山より転ばし給ひし石にて、いずれの頃か、村人がこれに上る事ありしに、忽ち祟りを蒙る。村人議して、これに土を覆い上に今の石を標とす。爾来児女に至る迄これを畏敬する事甚だし」
とあり、祟りを為したために荒神として祀ったというが、そこにはオオナムチの神跡という認識はなかったらしい。
 また、特に祭祀がおこなわれていた様子もなく、安政(1854--60・江戸末期の頃には、社祠らしきものすらなかったらしい、として、当社とオオナムチの遭難との関係を疑問視している。

 明治の神社明細帳(明治9~14年の間)よると、鳥取県神社誌(編纂時期不明)には、
   神社御改帳(嘉永3年(・1850)--寺内村の産土神は字屋敷の八所大明神で、手間山山頂に赤磐権現、字久清に荒神との摂社あり
   明治元年(1868)--鳥取藩の神社改正に際し、荒神の名が廃止された
   同4年(1871)--願い出により、字久清の荒神社を赤猪岩神社と改称して存続
             (オオナムチの神跡であることが主張され、赤猪岩を冠した神社として許可されたと推測されるという)
   大正6年(1917)--村の氏神・八所大明神を合祀
   同11年(1922)--手間山の赤磐神社(赤磐権現)を合祀
とあるという。
 これによれば、当社の前身は字久清にあった荒神社で、当社が赤猪岩神社と称したのは明治になってのことらしい。

 これらの伝承・沿革からみて、当地をオオナムチの神跡とするのは疑問で、幕末から明治初年にかけて興った皇国史観により、古事記にいう“伯耆手間の山本”が当地であるとの伝承を基に、荒神社の御神体だったアカイシをオオナムチが抱きついた焼け石として創られたのが当社であろう。

※祭神
 頂いた縁起には
  祭神 大国主命  刺国若姫命・素盞鳴命・稲田姫命
とある。
 当社由緒からすれば、大国主神(大己貴神)・刺国若姫命(サシクニワカヒメ、オオナムチの母神)を祀るのは順当。
 刺国若姫とは刺国大神(出自不明)の娘で、素盞鳴命5世の孫・天之冬衣神(アメノフユキヌ)に嫁して大国主命を生んだとある(古事記)
 素戔鳴命・稲田姫命(素盞鳴の后)を合祀するのはオオナムチの祖神(古事記--6代前の祖、書紀--父神)ということからだろうが、当社に祀られる必然性はない。
 なお、合祀されたという八所大明神・赤磐神社の祭神は不明。

※社殿等
 集落の外れの小高い丘(膳棚山か)の東山麓に鎮座する。

 道路の脇に立つ一の鳥居を入り、山裾に沿った緩やかな石段を上った先に二の鳥居が立ち、鬱蒼たる森に囲まれた境内に入る。
 二の鳥居の神額には、赤地に黒文字で「赤猪岩神社」とある。


赤猪岩神社・一の鳥居 
 
同・参道石段
 
同・二の鳥居

 境内正面に、朱色銅板葺きの拝殿(入母屋造)が建つ。内陣は簡素な作りで、鏡が奉献されているのみ。


同・拝殿(正面) 
 
同・拝殿(側面)

同・内陣 

 拝殿裏の一段と高い石垣上に、玉垣に囲まれて本殿(一間社流造・銅板葺)が東面して鎮座する。


同・本殿 
  同・本殿(側面) 

 近今の当社は、大己貴命が再生・復活したパワースポットとして参詣者も多いようだが、社殿全域が森に囲まれた静かなたたずまいで、社殿等も簡素な造りとなっている。

◎アカイシサン
 拝殿左に「神代遺跡 大国主大神御遭難地」と刻した石碑が立ち、傍らに次ぎの案内が立っている。
 「封印されている赤猪岩
 神社境内の社の裏手には『大国主命が抱いて落命した』と言い伝えられている岩が封印されています。
 この岩は、地上にあって二度と掘り返されることがないように土中深く埋められた大石で、幾重にも蓋がされ、その周りには柵が巡らされ、注連縄が張られています。
 これは『厄の元凶』に対する注意を、子々孫々まで忘れてはならないことを教えています。
 受難・再生・次なる発達への出立の地として、訪れる人は数多であったと伝えられています」
とあり、また、伯耆誌等にも、この大石に関する伝承が記録されている(上記)

 拝殿左側からの石段を上った先、玉垣に囲まれた下に大国主が抱きついて焼け死んだという大石が埋まっているといわれ、通称アカイシサンと呼ばれている。

 
大国主大神
遭難地の石碑
   
アカイシサン・側面
(手前の玉垣内)

 玉垣内は3箇の大石から成り、真ん中に長手の石1基、それを挟んで両側に平石が2基が据わっている。
 所謂、大国主が焼け死んだという赤猪岩が不敬があれば祟りをなすことから、これを土中に封印した際の蓋石だろうが、この下に如何様な岩が埋まっているかは不明。

 ただ、当社が鎮座する膳棚山には4基の古墳(いずれも直径10m程の円墳)が確認されており、境内すぐの背後にも盛り土状の高まりがることから(他にも数カ所みられるという)、アカイシサンは古墳の埋葬施設である石棺(あるいはその残欠)の類ではないかといわれ、嘗ての盗掘により直刀が出たとも伝えられているという。
 また、膳棚山から連なる手間山(岩坪山・H=329m)の山頂付近には茶色系の岩が多く、アカイシ(アカイワ)の呼称はこれからきたと思われるという。(日本の神々7・1985)


アカイシサン・全景 
 
同・北側の大石
 
同・南側の大石

 なお、アカイシサン西側の崖裾に小祠があり、荒神祠という。

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