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伯耆の神社/赤猪岩神社
鳥取県西伯郡南部町寺内
祭神--大国主命・
相殿神--刺国若姫命・素盞鳴尊・稲田姫命
                                                        2012.08.28参詣

 鳥取県の西端、島根県との県境近くにある神社。
 和名抄(937)にいう「伯耆国会見郡天万郷(テマノサト)」が当地で、出雲国風土記(733)・意宇郡条に、「通道(カヨヒヂ) 国の東の堺なる手間の剗(テマノセキ)に通ふ、三十一里百八十歩」とあり、そこには壕や柵を備えた一種の関があったという。

※由緒
 社頭に置かれていた縁起書によれば、
 「当社の創立年代は不明だが、今より1300年前の和銅5年(712)に編纂された古事記によると、・・・」
として、大国主神(大穴牟遅神-オオナムチ)がその兄弟である八十神(ヤソガミ)からうけた迫害を記し、続いて
 「この手間山は大国主神の遭難地であるために、ここにお祀りして御神徳を称えるものである」
という。

 案内にいう八十神の迫害とは、神話・因幡の白兎から続く一連の物語で、古事記には、概略
 ・八十神に求婚された八上比売は、それを拒否し、大名牟遅神(オオナムチ・大国主)に嫁ぐと告げた。
 ・それを聞いて怒った八十神はオオナムチを殺そうと謀り、伯耆国手間の山本(当地)にやってきて、『赤い猪がこの山に居る。皆で追い落とすから、お前は下にいてこれを捕らえよ。もし捕らえそこねたら、お前を殺す』といって、猪に似た大石を火で真っ赤に焼いて転がし落とした。
 ・オオナムチは、その赤い猪(焼石)を捕らえようとして抱きついたところ、その焼けた大石に焼かれて死んでしまった。
 ・これを知った母神(刺国若姫命・サシクニワカヒメ)が、高天原に上って神産巣日命(カミムスヒ、造化三神の一、出雲系神話では御祖神として登場)に救いを求めたので、カミムスヒは、ただちに蚶貝比売(キサカヒヒメ-赤貝の女神)と蛤貝比売(ウムギヒメ・ウムカイヒメとも、蛤の女神)を遣わして治療させた。
 ・キサカヒヒメが貝殻を削って粉とし、それをウムギヒメが蛤の汁と母乳で溶いて作った薬を火傷の箇所に塗ったところ、オオナムチは麗しい男として蘇生し、元気に歩き出された
とある(以降、八十神が細工した割木の股にはさまれての死と蘇生、追いすがる八十神からの逃走、スサノヲのいる根の国への逃避行とそこでの試練、最後に、スセリヒメを得て葦原中国への帰還と続く)

 この八十神による迫害について、松前健氏は、
 ・八十神による迫害の話は、一般に通過儀礼(イニシエーション)、それも全ての若者たちがうける部族的成人式というより、一種の呪師集団ないし男子秘事集団の入団式・加入儀礼における試練を説話化したものといわれ、これは先ず確かであろう。
 ・八十神は、そうした入団候補者(ここではオオナムチ)に、試練と苦行を課する長老たちの神話的投影であり、そのたびに蘇生させる母神とは、その団体に祀られる巫祖としての女神であろう。
 ・焼け石を抱かせたり、割れ木に入れて挟み殺したりすることは、あまりに残酷すぎるが、多少の説話的誇張はあるにしろ、彼らの通過儀礼には、これに近い過酷な試練がおこなわれたのであろう。
 ・こうした試練は、単に候補者の心身の鍛練とか苦行とかに留まらず、その中に、しばしば「死と蘇生」の象徴的・ドラマ的儀礼を含む一種の呪術的意図が含まれており、候補者がいったん死に、新しい社会の成員として再生するという象徴的意味をもっている。
 ・オオナムチに対して、こういった試練が一度ならず数度にわたって繰りかえされ、その度にいったん死んで再生するのは、彼が、出雲のオオナムチから偉大なる国土の主・オオクニヌシへと変身するために必要な通過儀礼だったといえる。
という(要点抄出、日本神話の形成・1970他)

 当社は、上記のような古事記にもとずく由緒をもつにもかかわらず、その名は出雲国風土記・延喜式神名帳両書ともに記されていない。また、当社にかかわる資料も少なく、以下、管見した資料・日本の神々7(1985)所載の赤猪岩神社から要点を列記する。

 ・古資料に当社名の記載はないが、神社御改帳(嘉永3年・1850・江戸末期)によれば、寺内村の産土神は字屋敷に鎮座する八所大明神とあり、その摂社-赤磐権現(手間山山頂鎮座)・荒神(字久清鎮座)2社のうちの荒神社が当社の前身ではないか。
 ・当社境内の玉垣に囲まれた中に、アカイシサンと呼ばれる平石があり、その下にオオナムチを焼き殺した大石が埋まっているという。
 ・このアカイシ(赤猪石)について、上記縁起書は、
 「大神の焼きつかれし猪に似たる石は、地上にあって之を穢すを恐れ、土中に埋没せられた・・・」
というが、伯耆誌(1858・江戸後期)には
 「この石、山の東南平池より五六間許り上がるところの林間に在りて、今は九分は土中に埋みて一分を顕す。故に其の形を見ること能わず。伝えによれば、某神が山より転ばし給ひし石にて、いずれの頃か、村人がこれに上る事ありしに、忽ち祟りを蒙る。村人議して、これに土を覆い上に今の石を標す。爾来児女に至る迄これを畏敬する事甚だし」
とあり、祟りを為したために荒神として祀ったというが、そこにはオオナムチの神跡という認識はなかったらしい。
 また、特に祭祀がおこなわれていた様子はなく、安政(1854--60・江戸末期の頃には、社祠らしきものすらなかったらしい、として、当社とオオナムチの遭難との関係を疑問視している。

 資料等での赤猪岩神社の初見は、明治の神社明細帳(明治9~14年の間)で、、鳥取県神社誌(編纂時期不明)には、
   明治元年(1868)--鳥取藩の神社改正に際し、荒神の名が廃止された
   同4年(1871)--願い出により、荒神社を赤猪岩神社と改称して存置
             (オオナムチの神跡であることが主張され、赤猪岩を冠した神社として許可されたと推測されるという)
   大正6年(1917)--村の氏神・久清神社(八所大明神)を合祀
   同11年(1922)--手間山の赤磐神社(赤磐権現)を合祀
とあるという。

 当社が鎮座する膳棚山(H=120m)には4基の古墳が確認され、他にも数ヶ所のそれらしき盛り土があることから、荒神の御神体・アカイシサンも石棺ではないかといわれ、曾ての盗掘によって直刀が出たとも伝えるという。
 また膳棚山が連なる手間山(岩坪山・H=329m)の山頂付近には茶色系の岩が多く、アカイシ(アカイワ)の呼称はこれからきたと思われるという。

 これらの伝承・沿革からみて、当社をオオナムチの神跡とするのは疑問で、幕末から明治初年にかけて興った皇国史観により、古事記にいう“伯耆手間の山本”が当地であるとの伝承を基に、荒神社の御神体だったアカイシをオオナムチが抱きついた焼け石として創られた神社である可能性が高い。。

※祭神
 当社案内からみると、大国主神(大己貴神)・刺国若姫命(サシクニワカヒメ、オオナムチの母神)を祀るのは順当。
 素戔鳴命・稲田姫命を合祀するのはオオナムチの祖神(古事記--6代前の祖、書紀--父神)ということからだろうが、当社に祀られる必然性はない。
 なお、合祀されたという久清神社・赤磐神社の祭神は不明。

※社殿等
 集落の外れの小高い丘(膳棚山か)の中腹に鎮座する。
 田圃の脇に立つ一の鳥居を入り、石段を上った先に二の鳥居が立ち、境内に入る。
 境内正面に、朱色銅板葺きの拝殿が、その奥一段高い石垣の上に本殿が建つ。
 小さな社殿だが、拝殿の欄間等に彫られた飾彫刻は手が込んでいる。
 また、社殿の左前に、「神代遺跡 大国主大神御遭難之地」との石柱が立っている。


赤猪岩神社・一の鳥居
赤猪岩神社/拝殿
同・拝殿
赤猪岩神社/本殿
同・本殿

◎アカイシサン
 本殿左の石垣上に、玉垣で囲み注連縄を張った一画があり、少し突き出た縦長の岩(伝承にいう、アカイシさんの上部か)を挟む形で2箇の平石が置かれている。
 この下に、オオナムチが抱きついて焼け死んだという猪に似た大石が埋まっているというが、古墳の石室あるいは石棺の残欠というのが実態であろう。

赤猪岩神社/アカイシサン・側面
アカイシサン・側面
赤猪岩神社/アカイシサン・全景
同・全景
赤猪岩神社/アカイシサン・部分
同・部分

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