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粟 島 神 社
鳥取県米子市彦名町1405
祭神--少彦名命
                                                        2019.07.27参詣

 JR境線・河崎口駅の南西約2km。
 鳥取・島根両県の県境(JR米子駅の北側)から日本海に突き出た弓ケ島半島(旧夜見島)の西側基部に位置し、中海に面した小丘・粟島(明神山・H=38m)の頂上に鎮座する。式外社

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「当社の創建年代は不明だが、古代より神の宿る山(神奈備)としての信仰があり、神功皇后・後醍醐天皇御祈願の伝承、尼子氏の寄進、米子城主代々の崇敬等も記録に残る、長い伝承と歴史とをもった社である。
 山頂の御社殿は、昭和11年(1936)12月再建のものであり、総台湾桧造りで、屋根は銅板葺き、弓浜地区随一を誇る。

 御祭神の少彦名命(スクナヒコナ)は、神世の昔、大己貴命(オオナムチ・大国主命)と共にこの国をひらき、人々に医療の法を教え、禁厭(キンエン)の術を授け、万病よりお救いになった神であり、その尊い御神徳は古事記・日本書紀に記されている通りである。
 後に常世(トコヨ)の国(海の彼方にある神仙境で不老不死の国ともされた)にお渡りになった。その最期の地がこの粟嶋である」
とある。

 当地と少彦名命との関係について、書紀の神代8段に
 「(大己貴命と共に国を造られた後)少彦名命が、出雲の熊野の岬に行かれて ついに常世国に去られた。
  また粟島にいって粟茎(アラガラ)によじのぼられ、弾かれて常世国に行かれたともいう」

 伯耆国風土記(逸文)には
 「粟島 相見(アフミ)の郡。郡役所の西北方に余戸(アマリベ)の里がある。粟島がある。
      少彦名命が粟を蒔いてよく実ったとき、その粟にのぼり弾かれて常世国にお渡りになられた。それゆえ粟島という」
とある。

 また、粟島がある弓ヶ島(旧称・夜見島)について、出雲国風土記には、八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅノ)の国引き神話のなかに、
  高志(コシ)の都々の三埼から余った国に綱を掛けて引き寄せ縫い付けたとき(美保の埼)
   「手に持って引いた綱は 夜見の島だ」
とあり、国引きに使った綱が化したのが夜見島といよれ、島が弓のように反っていることから弓ヶ島ともいう。

 書紀・伯耆国風土記の記事からみると、その編纂時期(8世紀)には、少彦名命が当地・粟島から粟に弾かれて常世国に渡ってという伝承は広く知られていたのだろうが、その頃に当社があったかどうかは不明(多分なかったであろう)

当社が鎮座する粟島(明神山)について、社頭の案内には、
 「風土記の丘 鎮座地・粟嶋(米子市指定名勝・県指定天然記念物)
  粟嶋は、伯耆国風土記逸文によると、少彦名命が粟の穂にはじかれて常世国に渡られたので粟島と名づけた、とある。
  江戸時代中頃までは中海に浮かぶ小島(H=36m、周囲600m余り)であったが、江戸時代末期に埋め立てられ、陸続きとなった。
  一の鳥居あたりが昔の海岸線であり、“三文渡し”との船着場であった」
とある。

 当社の創建時期は不明だが、粟島は島全体が神ノ島として崇敬され、当社はその麓に鎮座していたという。
 なお、宮司さんの話では、麓にあったという旧社地は、今、正面石段の右手にある御祈祷所の辺りという。


 その後の経緯は不祥だが、資料(粟島神社の鳥居・年表他)によれば、
 ・戦国時代、尼子氏の伯耆侵攻(大永4年-1524)による兵火で焼失、その後 尼子氏により再建
 ・江戸前期末、元禄年間(1688--1704)に社殿焼失、その再建に際して社殿を麓から山頂に移す
   (社頭の年表には、「元禄3年-1690-山頂に社殿新築」とある)
 ・元禄13年(1700)、弓ヶ浜半島に灌漑用水路(米川)を通すための開削が始まり、江戸中期の米川開通後、彦名周辺の新田開発が急速に進む
 ・この開発により、海岸線は海側に前進し、宝暦13年(1763)頃になると粟島の周りが少しずつ陸続きとなった
 ・当社一の鳥居は(天保2年・1831建立)は、内浜街道から粟島に向かう道の起点辺り(渡船場付近)にあったといわれ、一の鳥居から粟島までは渡し舟で往来し、その渡し賃は三文だったという
 ・今、神社の北側、県道を越えて広がる集落の中に一の鳥居の痕跡があるという
 ・江戸時代には粟島大明神と称し、明治になって粟島神社と改称した
という


※祭神
   少彦名命(スクナヒコナ)  大己貴命・神功皇后

 少彦名命とは、太古の昔、大己貴命ともに国を造ったとされる小さな神で、
 古事記には
 「大国主神が出雲の御大(ミホ)の岬におられる時、波頭の上からカガイモの実の舟に乗って、蛾の皮の衣服を着てやってくる神があった。
 その神の名を知っているものは廻りに誰もいなかったが、クエビコ(案山子)が、『この神は神産霊神(カミムスヒ)の御子の少彦名神でしょう』と告げた。
 そこで大国主神が神産霊神にお尋ねすると、神産霊神が『これは我が手の指の間から漏れこぼれた我が子である』と答えられ、少彦名神に『お前は葦原色許男命(アシハラシコオ・大国主の別名)と兄弟になって、この国を造り固めよ』と仰せになった。
 それから、大己貴と少彦名の二柱の神が協力してこの国を造り固められ、後に、少彦名神は海原の彼方の常世国にお渡りになった。
 クエビコは今では“山田のソホド”と呼ばれる案山子である。この神は足は歩けないけれども、天下のことをことごとく知っている神である」

 書紀・神代紀8段には
 「大己貴命が国を平らげられ、出雲国の五十狭々(イササ)の浜に行かれて食事をされようとしたとき、海上から一人の小人がヤマカガミの皮で舟をつくり、ミソサザイの羽を衣にして、湖水に揺られてやってきた。大己貴命が拾って掌にのせるてもてあそんでいると、跳ねてその頬をつついた。
 その形を怪しんだ大己貴命が使いを出して天神に尋ねられると、高皇産霊尊(タカミムスヒ)が『吾の子は皆で千五百ほどある。その中に悪戯で教えに従わない子が一人いた。きっと彼だろう。可愛がって育ててくれ』と言われた。これが少彦名命である」
とあるように、高皇産霊尊の御子で大己貴命とともに国造りをされ、後に常世国に渡られたという。
とある。

 また、書紀・神功皇后13年条に、
 太子(後の応神天皇)が敦賀の気比大神参詣から無事帰られたことを祝う宴席で、皇后が歌った
  「此の神酒(ミキ)は吾が神酒ならず 神酒(クシ)の司 常世に坐す いはたたす少御神(スクナルカミ・少彦名)の豊寿(ホ)き 寿き廻(モト)ほし 神寿き 寿き狂(クル)ほし 奉り来し神酒ぞ あさず飲(ヲ)せ ささ」
 〔この酒はわたしがつくった酒ではありません お神酒の長官で 常世の国においでになる 岩となって立っていらっしゃるスクナヒコの神が
                 祝って祝って祝い狂わせ 祝って祝って祝い廻って 献上したお酒です 盃を乾かさずに召し上がりなさい さあ〕
(武田祐吉訳)
との歌にあるように、“酒の神”とされ、
 また、酒は百薬の長といわれるように、古代にあったの酒は薬としても用いられたことから、“医薬の神”ともいう(古くからの薬問屋街である大阪・道修町に薬の神としての少彦名神社がある)

 また、伊予国風土記(逸文)には
 「大穴持命が病に倒れた少彦名命を助けようと、大分の速見の湯(別府温泉)を地下樋を通して湯の郷(道後温泉)まで引き、少彦名命に浴びせたら、少彦名命は生き返って起き上がり、のんびり長大息して『ほんのちょっぴり寝たわい』といって四股を踏まれた。その踏んだ足跡のところは、今なお温泉の中の石に残っている」
とあり、温泉の神ともいうが、これは医療の神とも通ずる。

 また、当地には
 「小人であるスクナヒコナが天界から下界に落ちてしまい、空豆(ソラマメ)の皮で舟を作って海を漂い伯耆の島(粟島)に漂着し、そこで出雲の神であるオオクニヌシと知己となった。
 ある時、スクナヒコナが排便すると、天界に居たときに食べた粟の種が出てきたので、これを島に植えたところ、数年で島は粟が一面に広がった。
 すると、粟畑に据えられた案山子のお告げで、天界に戻るようにとの命をうけ、粟の茎を曲げて穂につかまり、茎がまっすぐに戻る力で天界に飛んでいった。
 このことから、オオクニヌシはこの島を粟島と名づけた」
との民話が残るという。

 当社が少彦名命を祭神とするのは、命が粟の茎によじ登り弾かれて常世国に去ったという伝承によるものだろうが、延喜式・風土記などの古史料に当社の名が見えないことから、著名な神社ではなかったようで、
 本来の祭神は、中海に浮かぶ小島に坐す島の神で、中海に暮らす漁民たちの漁撈・航行の安全を守る神ではなかったかと思われる。


※社殿等
 弓ヶ島半島西岸に沿って走る県道47号線から西へ、中海側に入った処に鳥居が立ち、短い参道を進んだ先に、境内への石段・187段が延び、その頂上に社殿が鎮座している。
 粟島全体は鬱蒼たる森に覆われているが、周囲は民家と田畑が混在する田園地帯で、その中に粟島(明神山)が突出している。


粟島(明神山)全景
(北側駐車場より) 
 
粟島神社・全体図
(赤丸-上:岩宮祠 左:静の岩屋)

 当社石段は明治21年(1888)に完成したもので、187段を数える(年表より)
 頂上近くに踊り場があるのみで、一直線に延びる長い石段で登りきるのは大変だが(途中で休息必要)、切石が整然と積まれているので足下はしっかりしている。

 
粟島神社・鳥居
   同・長い石段

 石段を上りきったところに随神門が建つ。
   随神--豊磐窓神・櫛磐窓神
  令和元年、篤志家からの奉納という。
 この両神は、天孫降臨に際して瓊々杵命に従って天降った神で、天石戸別神(アメノイワトワケ)の別名という。門の守護神。

 
随神門
 
随神像

随神像 

 随神門を入った先に拝殿(千鳥破風付き向拝を有する切妻造・平入り)が、その奥、塀に囲まれた中に本殿(大社造・銅板葺)が、東面(正確には東北東)して鎮座する。
 今の社殿は、昭和7年(1932)の再建で、同37年(1962)に本殿屋根を銅板に葺き替えたという。
 塀が高く、本殿を正面から見るのは困難。

 
拝殿(正面)
 
拝殿(側面)

本殿(側面) 


◎末社

 石段下の右手(忠魂碑の左)に御岩宮祠(オイワキュウシ)・静の岩屋(シズノイワヤ)への小道があり、少し進んで二股になった処を右へとれば御岩宮祠へ、左にとれば静の岩屋に至る。
 右方を指す矢印の上に「御岩宮祠」と表示が、左への矢印の下に「静の岩屋 八百比丘尼の伝説」と記した案内表示がある(右写真)

 小道は山を東から北・西へと回り込むように延びていて、御岩宮祠は本殿北側の山麓に、静の岩屋は西南側の山麓にあたる。

*御岩宮祠(オイワキュウシ)
  二股分岐点を右に進んだすぐにある小祠で、通称“お岩さん”という。
 傍らの案内には
  「『お岩さん』と呼ばれるこの大岩は、その昔、神が海からおいでになると信じた古代人たちが、『海から辿り着かれた神様が、やれやれ着いたと真っ先に抱きつかれた岩』 すなわち“神の依代”として、古くから信仰されてきました。
 岩は石と同じで、石は“セキ”と読めるところから、風やセキによく効く神としてお参りする人が多く、又、古来、難病に霊顕あらたかな神であり、満願成就のお礼としてま寄進・奉納の記録も多い」
とある。
 古事記には、少彦名命は御大(美保)の岬に現れたとあるだけで、その上陸地は特定できないが、それを当地とする伝承があったのであろう。

 小道の奥に赤く塗った木製鳥居が立ち、その奥に簡単な拝所が、その奥、低い石段を上った上に石祠が鎮座するのみ。


御岩宮祠・鳥居 
 
同・拝所
 
同・石祠


*静の岩屋(シズノイワヤ)
 二股分岐点を左にとった先に『静の岩屋・八百比丘尼の伝説』と称する大岩群がある。
 自然に踏み固められたような地道で、入り口の案内には100mとあるが、それより長いと感じた。

 この静の岩屋にかかわって万葉集に
  「生石村主真人(オイシノスグリ マヒト)の歌一首
   大汝 少彦名の いましけむ 志都(シツ)の岩屋は 幾代経ぬらむ」
   (大国主と少彦名が住んでいらっしゃったという 志都の岩屋は 幾代を経たことだろう)
との歌があり(巻3・355番)、万葉集が編纂された8世紀末には名所として知られていたことが推測される。
 なお、生石村主真人の生石は大石とも記し、続日本紀・天平勝宝2年(750)正月16日条に「正六位上の大石村主真人に外従五位下を授く」とある渡来系人物で、応神天皇の御代に渡来した後漢霊帝の曾孫・阿智王の子孫という。

 境内右手に、上記万葉歌を刻した歌碑が立っている。 

万葉歌碑 

 現地は岩屋とはいうものの、それらしき洞穴はみえず、雑木が生い茂るなか、2・3mの間に数個の岩が群をなすもので、古代の磐座跡かもしれない。
 周りに樹木が生い茂っていて全体像は確認不能。

 この地が粟島神社旧社地の山を挟んで反対側にあることから、神社の奥宮として信仰されていたのかもしれないが、それを示唆する資料はない。

 
静の岩屋・入口付近
 
入口を扼する大岩

途中の岩 
 
同 左
 
最奥の大岩


 当岩屋への案内には、静の岩屋の下に“八百比丘尼の伝説”と朱書きしてあり、
 「昔、この辺りに11軒の漁師があり、粟島神社の氏子として毎月一回“講”の集まりをもっていた。
 あるとき一人の漁師が引っ越しをしてきて、講の仲間に入れてもらった。
 一年後、この漁師が当番になったとき、今までの御礼にと皆を船に乗せ龍宮のような立派な御殿に案内してもてなした。
 何日かたって帰るとき、最高のご馳走として人魚の肉が出されたが、誰もが気味悪がって食べず、袂に隠して帰る途中で海に棄てた。
 ところが、一人の漁師が海に棄てるのを忘れ家に持ち帰ったのため、その家の18才の娘が、父の着物を畳んむときに見つけ、知らずに食べてしまった。
 それから後、娘は不老不死の体になり、何年経っても年を取らず、いつまでたっても18才の娘のままだったので、かえってこの世をはかなみ、尼となってこの洞穴に入って干柿を食べ、鉦を鳴らしつつ息絶えたという。
 この時、娘の年齢は八百歳にもなっていたので、村人はこれを哀れんで、この娘を『八百比丘尼さん』(ハッピャクビクニ・ヤオビクニ)とも『八百姫さん』(ヤオヒメ)と呼んで丁重に祀ったという。今でも長寿のご利益があるとして、広く信仰を集めている」
との伝説が記されている。

 この伝説は“八百比丘尼(ハッピャクビクニ、ヤオビクニともいう)伝説”とも“白比丘尼伝説”ともよばれるもので、地域によって些少の違いはあるものの略全国的に分布しているといわれ、特に東日本に多いという。

 この伝説が何時頃うまれたかは不祥だが、江戸初期の儒学者・林羅山(1588--1657)の本朝神社考に
 「伝へ聞く、若狭国に白比丘尼と号する者あり。その父一旦山に入り異人に遇ふ。与(トモ)に一処に到る。殆ど一天地にて別世界なり。その人一物を与えて曰く、是れ人魚なり。之食ふときは年を延べ老ひずと。
 父携えて家に帰る。その女子迎へ歓んで衣服を取る。因りて人魚を袖に得て乃ち之を食ふ。女子寿四百余歳、所謂白比丘尼是れなり。
 余 幼齢にしてこのことを聞いて忘れず」
とあり、羅山が幼齢の頃に聞いたということから、おそらく室町時代末期の頃に聞いた話であって、白比丘尼伝説は鎌倉末期から室町時代の頃には広く知れ渡っていたであろうという。

 これが単なる伝説のみかというと、そうでもないようで、室町時代の著
 ・中原康富記(官人中原康富の1408--55間の日記)・文安6年(1449、7月宝徳に改元)5月26日条に、
   「この20日頃若狭国より白比丘尼とて二百余歳の比丘尼上洛せしむ。諸人奇異の思を為す。二条東洞院北頓の大地蔵堂に於て鼠戸を結び人別に料足を取り一見せらる云々。
 古老云く 往年聞く所の白比丘尼なり。白髪なるの間白比丘尼と号するか。今日若狭国に下向す」
 ・臥雲日件録(臨済宗の僧・瑞渓周鳳の1392--1473の記録)・宝徳元年(1449)7月16日条に
   「近時八百歳の老尼若州より入洛、洛中争い観る。居る所の門戸を固く閉じて容易に看せず。故に貴者は百銭を出し賤者は十銭を出す、然らざれば即ち門に入るを得ざる也」
とあるように(他にも唐橋綱光卿記にも同意記事あり)、室町時代末期の京洛に齢800歳(あるいは400歳)と称する老尼が現れ、人々が見物に押しかけたとある。

 この白比丘尼が人魚の肉を食べたことによるものかどうかは不祥だが、白肌だったということは、今にいう、メラニン色素不足によって発症する先天性白皮症とよばれる遺伝子疾患をもつ女性だったと思われ(一般には白子・シロコと呼ばれる)、それが見世物として京洛に現れたもので、齢800歳というのはより珍しく見せんがための付会であろう。

 800歳まで若々しかったという白比丘尼は、何人もの夫や親戚知人に死に別れ世をはかなんだといわれ、愛知県に伝わる伝承には
 「歳を取らなくなった娘は、親族故旧の顔も見えなくなったのに、自分のみは昔のままに若々しくしていることを大いに恥じ、遂に浮き世を嫌って髪を剃って比丘尼となり、諸国遍歴の旅を重ね、終に若狭国に辿りついた。
 その時は齢八百を数えていたが、それでも尚死なぬので、生きながら洞窟の中に入って姿を没した」
とあるように、何故か若狭国で身を隠したというのが多く、和漢三才図会(1712)には、
 「若狭小浜の空印寺(福井市小浜市男山)に八百比丘尼の木像あり。この尼、昔当寺に住み、八百歳ばかりなりしと。これ人魚を食ひしに因る」
とあるという(以上、日本の人魚伝説・2011による)

 上記案内には、八百比丘尼は800余歳まで生きたというが、諸資料にみる寿命は800歳・400歳・200歳など一定しておらず、それが広い範囲に伝播していることから、柳田国男は「白比丘尼は複数の存在であって、各地を巡行する“歩き巫女”ではなかったか」という。


*御祈祷所
  石段下の右手にある小社。
  嘗て山麓にあったという当社の前身は、この辺りに鎮座していたという。

*豊受社
  御祈祷所の右に鎮座する小社

*歳徳神社
  豊受社の右に鎮座する小社

 
御祈祷所
 
豊受社
 
歳徳神社

*荒神社
 正面石段を上り始めてすぐ、左に入る小道があり、奥に荒神社が鎮座している。

 入口に表示なく、小道があるから好奇心で入ってみたら小祠があったというところ。

 出雲に多い地荒神と呼ばれる小祠で(台所に祀る竃荒神ではない)、その土地の鎮守神あるいは氏神として祀られることが多いという。




荒神社・拝所 

同・社殿

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