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伯耆の神社/波波伎神社
鳥取県倉吉市福庭
祭神−−八重事代主命
                                                      2012.08.27参詣

 延喜式神名帳に、『伯耆国川村郡 波波伎神社』とある式内社。伯耆国風土記での記載の有無は不明。
 社名は“ハハキ”と読む。

 山陰本線・倉吉駅の北、太平山(H=191m)の北西麓に鎮座する。社域一帯は椎の古木を主体とする原生林で、国の天然記念物に指定されているという。

※由緒
 当社境内に由緒などを記した案内板など見当たらず詳細不明だが、神社明細帳(編纂時期不明・明治以降であろう)には、
 「事代主大~、国譲りの後、己も天の使いの旨を諾け給い、国向けの代と、天夷鳥命の御子・国夷鳥命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を、此の青柴の巻籬内にと蹈み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭曾此の青柴の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手を青柴籬に拍誓て御隠坐しし天栄手の宮なり」
とあるという(式内社調査報告・1983)

 この文意は判読しにくいが、“オオクニヌシの国譲りの後、コトシロヌシが一ツ木の神玖四浮根(美保之碕のことか)から福庭の地に移り、福庭の青柴籬(アオシバカキ、神霊が宿る神籬)が何時までも青々と茂っているように、皇孫の御代も栄えるであろうと予祝し、己は皇孫の近き護り神となろうとおっしゃって、天逆手(アメノサカテ・呪的な拍手)を打って青柴籬の内に鎮まられた天栄手(アメノサカテ)の宮が当社である”ということか。

 またネット資料が引用する全国神社祭祀祭礼総合調査(1995)によれば、
 「八重事代主命は大国主命の御子神で、国土経営のために此の地を巡事の時、当社西方ワタラカヒの地に上陸され、当地方の開拓殖産に務められ、天孫降臨に当たっては父神に薦めて恭順潔く国土を奉献して誠忠を盡され、父神に対して孝道を全うせられ、献国後も永く皇室の護り神となられました。その荒御魂は青柴の巻籬内(今槇ケ木の字を充てる)に鎮まりました。之が当社御鎮座の根元である」
とあり、ここでは、コトシロヌシは国譲り以前から当地にかかわっていたという。

 これらにかかわって、地元には
 「コトシロヌシは、国譲りの後、海路ひそかに福庭の地に上陸し、当社の地に隠れ住み、そこで亡くなった。その上陸地は、当社の西方800mの渡上(ワタラカヒか)の地である(御旅場ともいうが、いずれも位置不明)
 またヤマト朝廷は、コトシロヌシが乱を起こすのを恐れて、毎年、当地まで使者を遣わして、その動静を監視していた」(大意)
との伝承があり、コトシロヌシが隠れたという青柴籬とは当地の地名だという(現地ガイド)

 記紀に記すコトシロヌシは2ヶ所だけで、父神・オオクニヌシに国譲りを勧めた神というのが主体だが、書紀・一書2には“国譲りの後、帰順した神々の首長はオオモノヌシ・コトシロヌシとあり、諸々の神々を率いて天上に上り、誠心を披瀝した”とある。

 また、出雲国風土記には一切出てこないが、出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコカミヨゴト)には
 「大穴持命(オオクニヌシ)が、自分の御子である・・・事代主命の御魂を宇奈提(ウナテ・奈良・高市市に比定)に坐させ・・・これらを皇孫身近の守護神として貢りおいて・・・」
とあり、オオクニヌシがコトシロヌシを皇室の身近に坐す守護神として大和葛城の地に鎮座させた(高市御県坐鴨事代主神社)とある。

 上記の由緒・伝承は、記紀などにコトシロヌシの事蹟が少なく自由度が高いことから、後世、記紀あるいは神賀詞などの記述をつきまぜて作られたものであろう。

 なお、当社境内に福庭古墳と称する円墳が残ることから、これを祀るために創建されたのが当社の始まりではないかという(日本の神々7・2000)。その可能性は高いと思われるが確証はない。

※祭神
 今の主祭神は八重事代主命(ヤヘ コトシロヌシ、以下・コトシロヌシという)となっているが、古くは“伯耆神”(ホウキノカミ・ハハキノカミともいう)と呼ばれていたようで、正史における神階叙位記録に
 ・承和4年(837)−−伯耆国河村郡无位(無位)伯耆神、曾見郡・大山神、久米郡国坂神に従五位下を授け奉る(続日本後紀・869)
 ・斉衡3年(856)−−伯耆国伯耆神・大山神・国坂神並びに正五位下を加う(文徳実録・879)
 ・貞観9年(867)−−伯耆国正五位下伯耆神・訓坂神(国坂神か)・大山神並びに正五位上に叙す(三代実録・901)
とあるように、常に伯耆国の筆頭に掲げられており、伯耆国の一ノ宮(総氏神)であったという(10世紀に入ると、その地位が倭文神-シトリ神-へ代わっている−倭文神は、日本略記・天慶3年-940-正三位に叙せられているが、伯耆神の昇階記録はみえない)

 この伯耆神を波波伎神(ハハキノカミ)とも呼ぶのは、神社覈録(1870・明治初年)
 「波波伎は假字(仮の字・当て字)也 国名(伯耆)に同じ」
とあるように、伯耆国が古くは波波伎国(ハハキの国)と呼ばれていたことからで、伯耆国風土記・逸文には
 「手摩乳(テナヅチ)・足摩乳(アシナヅチ)の娘・稲田姫は、八頭の蛇が呑もうとするので山中に逃げて入った。そのとき母が遅く来るので、“母来(キ)ませ、母来ませ”といった。それ故に母来(ハハキ)の国と名づけた。後に伯耆国と改めた(ハハキ→ホウキ)
とある。

 このように、当社は古く伯耆国一ノ宮とされることから、その祭祀氏族は伯耆国造氏で、伯耆神とはその祖先神と考えられるという。(式内社調査報告-1983には、「現在-昭和50年代-においても、伯耆国造の子孫と思われる伯耆氏を祖先とする舩越氏が奉祀している」とある)

 伯耆国造(伯耆氏)とは、先代旧事本紀の国造本紀(9世紀後半頃)に、
 ・波伯国造(ハハキノクニノミヤツコ)
   志賀高穴穂朝の世(成務朝) 牟耶志(武蔵)国造同祖 兄多毛比命(イタケヒ)の児・大八木足尼(オオヤギノスクネ)を国造に定め贈う
 ・无耶志(武蔵)国造
   志賀高穴穂朝の世 出雲臣祖・二位之宇迦諸忍之神狹命(フタイノウカモロオシノカムサ)十世の孫・兄多毛比命を国造に定め賜う
   (二位之宇迦諸忍之神狹命とは、天穂日3世の孫・津狹命の別名とされるが、管見した出雲氏系図によれば、天穂日の子・武夷鳥命の二男・出雲種子の子に神狹命とあり、その子孫に兄多毛比命・大八木足尼が見えることから、こちらかもしれない)
 ・出雲国造
   瑞籬朝(崇神朝) 天穂日命十一世孫・宇迦都久怒(ウカツクヌ・鵜濡淳)を以て国造と定め賜う
とあるように、出雲国造(出雲臣)と同族(傍系)とされ、天穂日命(アメノホヒ)を祖神とする(書紀・神代紀6段に、「天穂日命 是出雲臣・土師連等が祖なり」とある)

 当社が伯耆国造の祖先を祀る社とすれば、その祭神・伯耆神は系譜からみて天穂日命であって然るべきだが、今、何故かコトシロヌシとなっている。

 コトシロヌシとは、大国主神(書紀−大己貴命)の御子で、天っ神の使者に国譲りを強要されたとき、父・大国主神に「かしこし、この国は天っ神の御子に奉り賜へ」とすすめ、乗っていた船を踏み傾けて、天逆手(アマノサカテ、一種の呪的行為)を青柴垣(神霊の宿る神籬)に打ちなして隠れ去った、とある(古事記、書紀には“海中に八重青柴籬を造り、船端を踏んで隠れ去った”とある)

 古事記によれば、これは“御大之前”(ミホノサキ、書紀では“出雲国三穂之碕”)でのことという。ミホノサキとは出雲国風土記にいう島根郡美保郷(現松江市美保関町・島根半島の東端)を指すが、同風土記には
 「美保郷(ミホノサト) 郡家の正東二十七里百六十四歩。所造天下大~命(アメノシタツクラシシオオカミ=オオナムチ命)、高志(コシ・越の国、北陸地方)の国に坐す神・奴奈宣波比売命(ヌナカワヒメ)に娶ひて産ましめし神、御穂須々美命(ミホススミ)、是神坐す(イマス)。故、美保と云ふ」
とあるのみで、国譲りの話は記されておらず、コトシロヌシの名も見えない(出雲国風土記にコトシロヌシの名は一切見えない)

 コトシロヌシは、記紀では大国主(大己貴)の御子とあるが、本来は大和国葛城の神で、延喜式にいう「大和国葛上郡 鴨都味波八重事代主命神社 名神大」の地(奈良県御所市)を本貫として、古代大和の豪族・賀茂氏が奉斎する神という。

 その大和・葛城の神を、出雲の大国主神の御子神とする由縁ははっきりしないが、
 「古く、事代主命は出雲の人々に知られていない神だったが、出雲国には、事代主命と同じ大和・葛城の神である味耜高彦根命(アジスキタカヒコネ)を祀る賀茂の神社(延喜式にいう、大和国葛上郡 高鴨阿治須岐詫彦根命神社)の神領が、“賀茂の神戸”(カモノカンベ−意宇郡・現安来市付近にあったという)として設けられていたことから、古事記の編者が、その神・アジスキタカヒコネを大国主神の御子神としたのに併せて、同じ賀茂氏が奉斎する神であるコトシロヌシをも御子神として、国譲り神話の立役者として利用した」(大意)
ともいう(出雲神話の誕生・1966、なお出雲風土記には、アジスキタカヒコネの名は数ヶ所で見られる)

 ただ、コトシロヌシという神名を、“神の意志を伝える霊格=託宣の神”を指す普通名詞的な神名とみれば、葛城のコトシロヌシ以外にも託宣(コトシロ)の神がいてもおかしくはなく、上記神話にいうコトシロヌシは、出雲において大国主神の神意を代弁するコトシロの神と見ることもできる(実体は、美保に坐す神・ミホススミかもしれない)

 また、当社の祭祀氏族が伯耆国造であったとすれば、その祖神・アメノホヒではなく、直接的な関係のないコトシロヌシを祀るのは疑問だが、その答えとして、
 ・出雲大社(杵築大社)の祭神・大己貴命(大国主神)の祭祀は、伯耆国造と同じアメノホヒを祖神とする出雲国造が掌っているが、
 ・これは、国を譲ったオオナムチに対して、高皇産霊神が「汝が祭祀を主(ツカサド)らむは、天穂日命 是也」と告げたことから(書紀9段・一書2)、出雲国造は祖神・アメノホヒが奉祀するオオナムチを奉斎しているのであり、
 ・それと同じ理由で、当社においても伯耆国造の祖神・アメノホヒが奉祀する(大己貴命の御子神としての)コトシロヌシを祀ったのではないか。
 ・又これを敷衍して、伯耆神とは、伯耆国造の祖神・アメノホヒが奉祀する神・コトシロヌシではないか。
というが(式内社調査報告・1983)、アメノホヒとコトシロヌシとの間に接点が見えないことから、その真偽は判断出来ない。

 なお、当社への合祀神として
 下照姫神(シタテルヒメ)・天稚彦神(アメノワカヒコ)・少名彦神(スクナヒコ)・健御名方神(タケミナカタ)・味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)
 狹依比売命(サヨリヒメ、イチキシマヒメの別名)・多紀理比売命(タキリヒメ)・多岐都比売命(タキツヒメ)
を祀る。
 シタテルヒメ以下5神のうち、
 ・スクナヒコを除く4神は国譲りの段に登場する神で、スクナヒコはオオクニヌシとともに国作りをした神だが、いずれも天正の兵乱(16世紀後半、信長・秀吉による天下統一の頃)後に合祀したという
 ・サヨリヒメ以下3神(宗像三女神)は、大正5年(1917)日下村海田から合祀された神という(神社明細帳)
 いずれも合祀由来などの詳細は不明。

※社殿等
 太平山の麓、道路から少し入った処に鳥居が立ち、参道(地道)の先の急な石段をあがった上に門があり、境内に入る。
 境内中央に拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥に本殿(一間社流造・銅板葺)が鎮座する。
 本殿の柱下に使われている礎石は大きな一枚の板石で、古墳石室の蓋石ではないかという。
 今の社殿は、明治10年(1877)の改築というが、整備が行き届いていてそう古くは見えない(屋根は萱葺きから銅板葺きに代わったらしい)

波波伎神社/鳥居
波波伎神社・鳥居
波波伎神社/拝殿
同・拝殿
波波伎神社/本殿
同・本殿

※福庭古墳(鳥取県指定史跡)
 社殿右前の雑木林の中に残る後期古墳(7世紀前半頃)で、全長9.5m・幅2.2n・高さ2.3mの横穴式石室がほぼそのまま残っている。
 墳丘は、直径35m・高さ4mの円墳というが、一面雑木に覆われていて、その形は確認できない。
 玄室の奥壁の一部などに赤色顔料が残り、装飾古墳の可能性があるというが、玄室内は暗く確認はできない。今は、ほとんど消えているらしい。

 太平山一帯には70基以上の古墳が集中し、当社境内でも当墳を含めて3基が確認されているといわれ、当社本殿の柱の礎石となっている大きな板石(一枚岩)は、いずれかの古墳の蓋石ではないかというが、確認はされていない。

福庭古墳/石室入口
福庭古墳・石室入口
福庭古墳/玄室入口
同・玄室入口
福庭古墳/玄室内部
同・玄室内部
波波伎神社本殿下の礎石
本殿下の礎石(一枚岩)

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