トップページへ戻る

出雲の神社/日御碕神社
島根県出雲市大社町日御碕
祭神--神の宮(上の宮)-素盞鳴尊
        日沈社
(下の宮)-天照大御神
                                                        2012.08.29参詣

 島根県東部の北側、宍道湖・中海を挟んで東西に横たわる島根半島の西端・日御碕はに鎮座する。
 日の御碕とは、出雲国風土記・国引きの条に、
  「(八束水臣津野命が)志羅紀(シラキ)の三崎を、国の余り有りやとみれば、国の余り有り」と詔りたまひて、童女(オトメ)の胸鉏(ムナスキ)取らして・・・国来(クニコ)々々と引き来(キ)縫へる国は、去豆(コズ)の折絶(オリタエ)より、八穂尓支豆支(ヤホニキヅキ)の御碕なり」
とある“キヅキ(杵築)の御碕”にあたる。

 当社は、
 ・日(ヒシズミノミヤ・下の宮ともいう)--出雲風土記・出雲国出雲郡にいう『百枝槐の社』(モモエヱニスorモモイダミタマ、不在神祇官社)
 ・神の宮(カミノミヤ・上の宮ともいう)--出雲国風土記・出雲国出雲郡にいう『美佐伎の社』(ミサキ、在神祇官社=式内社)
                      延喜式神名帳に『出雲国出雲郡 御碕神社』とある式内社
の2社をあわせ祀る神社で、近世には、両社を総称して『日御崎大神宮』と称したが、明治の神祇制度改変に伴い同4年(1871)『日御碕神社』(ヒノミサキ)と改称したという。

※由緒
 日御碕神社由緒略記には、次のようにある。
 【日沉宮】
  神代の昔、素盞鳴尊(スサノヲ)の御子神・天葺根命(アメノフキネ)淸江の浜に出ましし時、経島(フミシマ・文島とも記す)の上の百枝の松に瑞光輝き、
   「吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮りて天下の人民を恵まん、汝速かに吾を祀れ」
と天照大御神の御神託あり、命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を齋き給うと伝う。
 また、天平7年(735)乙亥の勅の一節に
   「日出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り、日の本の昼を守り、出雲国日御碕の静江の浜に日沉宮を建て、日御碕大神宮として日の本の夜を護らん」
とあり、輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。
 かように、日御碕は古来夕日を餞け鎮める霊域として、中央より幸運恵みの神として深く崇敬せられたのである。
 そして、安寧天皇13年勅命による祭祀があり、又第9代開化天皇2年勅命により島上に神殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝槐社なり)が、村上天皇・天暦2年(948・平安中期)現社地に御遷座せされ、後、神の宮と共に日御碕大神宮と称せられる。

 【神の宮】
  神の宮は神代以来現社地背後の隠ヶ丘(カクレガオカ・神の宮北側の小山)に鎮座せられていたが、安寧天皇13年勅命により現社地に御遷座せられ(出雲国風土記に見える美佐伎社なり)、後、日沉宮と共に日御碕大神宮と称せらる。
 隠ヶ丘御鎮座の由来は、神代の昔、スサノヲ尊出雲の国造りの事始めをされてより、根の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い
  「吾が神魂は、この柏葉の止まる所に住まん」
と仰せられてお投げになったところ、柏葉は風に舞い遂に美佐伎なる隠ヶ丘に止まった。よって御子神アメノフキネ命はここをスサノヲの神魂の鎮まります処として齋き祀り給うたと伝う。
 かように、日御碕はスサノヲ尊の神魂の鎮まります霊地として、根の国の根源として中央より厚く遇せられ、神の宮は素盞鳴尊をお祀りする日本の総本社として、災厄除・開運の神と天下の崇敬をうけ、今も崇敬者の跡が絶えない。


 この由緒によれば、両社ともに安寧天皇(第3代天皇)の勅令により奉祀されたというが、同天皇は、その実在が疑問視されている天皇で、よしんば実在したとしても、その時代は弥生時代となる。
 弥生時代であっても、集落の中で何らかのカミマツリがおこなわれていたのは発掘調査などから確認されているが、それが社という独立した祭祀施設を伴っていた痕跡はなく、また、古代の当地は岩だらけの海岸地帯で、集落の発達も少なく、わずかな砂浜が点在するだけということから(日本の神々7・2000)、常設のカミマツリの場があったとは思えない。

 出雲風土記(733)に美佐伎社・百枝槐社の名があることから、8世紀初頭、当地に二つの神社(規模不明)があったのは確かといえるが、その始まりが何時まで遡れるかは不明。
 また
 ・アマテラスあるいはスサノヲという神統譜の中心に位置する神を祀るにしては、社格順に並べたとする風土記の神社において、美佐伎社が出雲郡所属の神社122社中の12番目、百枝槐社は最後であり、重視されていた痕跡はないこと
 ・出雲風土記・出雲郡の条に、アマテラス・スサノヲにかかわる伝承が見えないこと(スサノヲと出雲との関係は深く、関連伝承は出雲国のほぼ全域に見えるが出雲郡・楯縫郡には見えない。また、出雲国風土記にアマテラス関連の伝承は見えない)
から、風土記編纂当時の祭神は異なっていた可能性が強く、
 ・美佐伎社--隠れヶ丘に坐す山の神といった素朴な自然神を祀る小祠
          (古代の当地一帯が所謂・御碕海人の根拠地であったことから、これら海人達が信仰したミサキ神ではなかったかともいう)
 ・百枝槐社--日本海に沈む夕陽を崇拝する古代の人々が、経島に日神を祀った小祠
          (当社および出雲大社からみて、夏至日の夕陽は経島の方角に沈むという)
というのが当初の姿ではないかと思われる。

 両社の創建にかかわるとされるアメノフキネ命とは、
 ・古事記--スサノヲ5世の孫・天之冬衣神(アメノフユキヌ)、オオクニヌシ(オオナムチ)の父神
 ・日本書紀・8段一書4--ヤマタノオロチの尾から出た剣(草薙の剣)を、スサノヲが「これは私のものにすることはできない」として、五代の孫・アメノフキネを遣わして、天に奉られた
とあるが、他にこれといった事蹟は知られていない。神話上での話とはいえ世代的に平仄があわず、記紀編纂時の創作であろう。
 なお、アメノフキネは当社の宮司・小野家の遠祖という(但し、傍証となる資料等はみえない)

※祭神
 日沉宮--天照大御神
 神の宮--神素盞鳴尊

 当社の主祭神がアマテラス・スサノヲとなった時期は不詳。日御碕神社と称するようになった平安中期(10世紀)以降と思われ、江戸前期の古資料・神社啓蒙(1667)には、
  ・下社(日沉宮) 社記曰 大日孁貴(オオヒルメムチ)、名神記曰 当国は大日孁貴産生の地 而して今又日神垂迹跡有り。故に日御碕と名ず
  ・上社(神の宮) 社記曰 八束水神(ヤツカミズ) 名神記曰 八握髯尊とは素盞鳴の別称也
とあるという。

 ここでいう下社の祭神・オオヒルメムチとはアマテラスのことだが、経島での素朴な日神崇拝に太陽の女神としてのアマテラスを被せたもので、オオヒルメムチとあることからみて、アマテラス以前の日神・天照神(アマテルカミ、各地で崇拝された太陽神)を祀っていたのかもしれない。
 また、当国がアマテラス生誕の地というのは、そのような伝承があったのかもしれないが荒唐無稽すぎる。祭神をアマテラスとしたことから作られた伝承であろう。

 上社の祭神というヤツカミズとは、出雲国風土記に国引きの神として登場する“八束水臣津野命”(ヤツカミズオミヅノ・出雲風土記にのみ登場する神。古事記にみえる、スサノヲ3世の孫・オミヅヌ命ともいうが、本来は別神であろう)であろう。
 日御碕の地がヤツカミヅオミヅノが新羅から引き寄せた国ということから、出雲風土記の出雲郡条に何らの事蹟も記されていないスサノヲを祭神とするよりも説得力がある。

 神社覈録は、ヤツカミズをスサノヲの別称としているが、その由緒は不明。
 ただ江戸時代には、ヤツカミヅオミヅノをスサノヲと同一視する説があったようで、幕末の国学者・鈴木重胤(1812--63)は、
 ・出雲風土記に、「出雲というのは、ヤツカミズオミヅノ命が“八雲立つ”といったことによる」とあるのは、スサノヲの“八雲立つ”の神詠にほかならない
 ・古事記に見えるオミヅヌ神は、オオクニヌシの遠祖とされる点でスサノヲを思わせ、この神はヤツカオミヅノ命に他ならず、国引きをした神はスサノヲである
としているが(スサノオ信仰事典所収・「素戔鳴尊の内性・職能」)、幕末の国学者に特有の牽強付会の感が強く、スサノヲとヤツカオミヅノとは別神とみるべきであろう。

◎相殿神
 由緒略記にはアマテラス・スサノヲ以外の祭神名は記されていないが、神社明細帳(明治以降らしいが時期不明)には、相殿神として
 日沉宮(下の宮)--正哉吾勝天忍穂耳命(マサカアカツアメノオシホミミ)・天穂日命(アメノホヒ)・天津彦根命(アマツヒコネ)
             ・活津彦根命(イクツヒコネ)・熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)
 神の宮(上の宮)--田心姫命(タコリヒメ)・湍都姫命(タギツヒメ)・市杵島姫命(イチキシマヒメ)
がみえ、江戸前期の古書・懐橘談(1653)に、「上の三社 下の五社」とあることから、中世末までには祀られていたらしい。

 今、これら相殿神がどのように扱われているのか不明だが、これらの神々は、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生成した神々で、古事記で、男神5柱はアマテラスの御子、女神3柱はスサノヲの御子とされることから、当社に祀る特段の理由があるものではなく、それぞれの宮に両神の御子神を単純に配祀した感が強い。

 蛇足ながら、神仏習合期には、祭神の本地を“十羅刹女”(ジュウ ラセツニョ)と称し、当社も“十羅刹女社”と呼ばれていたといわれ、雲陽誌(1717・江戸中期)には
 「耕雲明魏記に曰く、雲州日御崎の明神は即ち杵築大明神(オオナムチ)の季女(末娘)・十羅刹女の化現、荒地山の鎮守也。孝霊天皇61年に威霊を現すとあり。
 衆説区々なりしに、老祀官の語りけるは、上社は素盞鳴尊に田心姫・瑞津姫・市杵島姫の三女をあはせ祭り、下社は天照大日孁貴に正勝吾勝尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命の五男をあはせまつれり、上ノ社下ノ社すべて十神なり、故に十羅刹女といふか」
とあるという(ネット資料)
 これが何時頃からかは不詳だが、謡曲・大社(天文年間-1532~55-作)でシテ(主役=日御碕大明神)
 「われはこれ 出雲の御崎に跡を垂れ 仏法王法を守る神。本地十羅刹女の化現なり」
と名乗ることからみて、室町末期には広がっていたと思われる。

 十羅刹女とは、インドに於いて、人の精気を奪う鬼女だったが、釈迦の説法に接し、法華行者を守護することを誓ったという護法善神で、梁塵秘抄(1169・平安後期)には、
 「法華経持てる人ばかり、羨ましきものはあらじ、薬王勇施多聞持国十羅刹に、夜昼護られ奉る」
とある。
 本地垂迹思想により日御碕大明神(祭神十座の総称)の本地仏とされたのであろうが、その由縁は不明(本地仏を薬師如来とする説もある)
 十羅刹女は明治の神仏分離による神宮寺の廃却とともに消えているが、今でも、出雲神楽の一曲・“日御碕”では、
  「出雲の田心姫は幼少時代を石見で過ごしていたが、出雲に悪鬼・彦張が率いる十羅国軍が攻めてくると知って立ち帰り、海岸で八万四千の大軍を迎え撃ち、激戦の末これを撃破した。後に、田心姫は十羅刹女の名を賜り出雲国を守った」(粗筋)
とのストーリーが演じられるという(同種の神楽が幾つかあるらしい)

※社殿等
 県道29号線から別れる“お宮通り”に立つ鳥居を入り、少し進んだ先に壮大な朱塗りの重層楼門があり、回廊に囲まれた境内の正面及び右手(東)に、朱色に彩られた華美な二つの社殿が存する。

 社殿造営について、由緒略記には
 「当神社は上世以来社殿の造営二十数回、皆勅命又は将軍の祈願に依ったもので、・・・
 現在の社殿は両社ともに徳川三代将軍家光公の命により、幕府直轄工事として江戸より工匠を特派し、着工以来十年の歳月をかけ、寛永21年(1688)竣工し、三百数十年の星霜を経ている」
とある。

日御碕神社/鳥居
日御碕神社・鳥居
日御碕神社/楼門
同・楼門

【日沉宮】
 楼門を入った境内正面に鎮座する。
 社殿は東面しており、背後にある旧社地・経島を通して西方(正しくは西北西)に沈む夕日を拝する配置となっている。
 ・本殿--入母屋造・朱塗・桁行正面三間・背面五間・梁間五間・檜皮葺
 ・拝殿--入母屋造・唐破風向拝付・朱塗り・桁行五間・梁間六間・檜皮葺

日沉宮(下の宮)/拝殿-1
日沉宮(下の宮)・拝殿-1
日沉社(下の宮)/拝殿-2
同・拝殿-2
日沉宮(下の宮)/本殿
同・本殿

【神の宮】
 楼門を入った右手(東側)、石垣を高く積んだ高所に鎮座する。当宮の境内は狭い。
 社殿は東南方を向き、背後(北方)の山がスサノヲが降臨したという隠れヶ丘。
 ・本殿--入母屋造・朱塗・桁行梁間共に三間・檜皮葺
 ・拝殿--入母屋造・唐破風向拝付・朱塗・桁行梁間共に三間・檜皮葺
神の宮(上の宮)/全景
神の宮(上の宮)・全景
神の宮(上の宮)/拝殿
同・拝殿
神の宮(上の宮)/本殿
同・本殿

 日沉宮・神の宮の社殿配置・規模等からみて、日沉宮を重視した社殿配置とみえる。
 しかし、明治の社格制定のとき、当社は地祇系ということで国弊小社とされたが、これは神の宮を当社本来のものと意識したためではないかという(日本の神々7)

※経島(フミシマ、文島とも記す)
 当社背後(西方)の海岸の目の前にある小島。本土側は小さな港(舟溜り)となっている。
 御由緒略記には、
 「神社付近海岸の経島は、往昔、日沉宮御鎮座の霊域として、毎年8月7日、夕日の祭典のため神職が渡島する外は、古来、何人も上ることを許されぬ島である。
 全島悉く柱状節理をした石英角班岩の岸層から成り、恰も万巻の経文を積み重ねた様で、一に“お経島”(オキョウジマ)とも云う。
 更に、“ウミネコ”の産卵・繁殖地として全国的に著名で、天然記念物に指定されている」
とある。

 全島岩だらけの小島で、最高所に鳥居と小祠が見える。風土記にいう“百枝槐社”の旧跡であろう。

経島と船着場
経島と舟溜り
経島
経 島
経島・拡大
同・拡大(島上に鳥居と小祠あり)

トップページへ戻る