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伯耆の神社/壹宮神社
鳥取県西伯郡大山町上万
祭神−−天忍穂耳命・下照姫命
                                                        2012.08.28参詣

 JR山陰本線・大山口駅と淀江駅の中間あたり、県道242号線に面して鎮座する小社だが、古史料には見えない。
 弥生後期を中心とする集落遺跡として有名な妻木晩田遺跡のすぐ北に位置し、江戸時代までは特別な崇敬をうけ、明治5年に郷社に列し、同40年には神饌幣帛料供進社に指定されたというから、それなりの厚い信仰を集めた神社らしいが、資料なく詳細不明。
 社名は、“イチノミヤ”ではなく“イチミヤ”と訓むのであろう。

※由緒
 社頭に掲げる案内(大山町教育委員会)には、
 当社は、古来「一宮大明神」といわれ、主神の天忍穂耳命・下照姫命ほか数神を御祭神とし、この地方で厚く信仰されています。
 下照姫命は大国主命の娘で、昔から子授け・安産の神として知られ、各地から多くの参詣者でにぎわっています」
とあるのみで、その創建由緒・年代等については記していない。

 当社に関する資料は皆無に近く、上記案内以外で唯一管見したネット資料には、
 「創立年代は不詳ですが、郡中の古社で、古来『一宮大明神』と称し、往昔より神田が寄付され、元和寛永(1615--43、江戸時代前期)の頃に至っても旧格に準じた崇敬を受けてきました。
 社伝によると、一ノ宮と称する由来は、『天照大御神の命により天忍穂耳命(アメノオシホミミ)が天降らんとしていた時、皇孫・瓊瓊杵命(ニニギ)が御誕生された事により、古く一ノ宮と称した』と、古老の口碑に伝わります。
 往古神祠創設の始まりは、この地の開拓が始まった頃と同時期で、人々は迎尊して一ノ宮と号したということです」
とあるが、その出典資料等は不明。

 社伝にいう古老口碑の意味ははっきりしない。憶測すれば、“アメノオシホミミが降臨準備をしているとき、天孫・ニニギが誕生されたことから、アメノオシホミミとニニギを祀る社として創建されたもので、それだけ古い神社であることから一ノ宮と称した”ともとれるが、天孫の誕生と当社創建との間を結ぶものはなく、また、出雲・伯耆地方と両神との関わりはほとんど見えず、当社にこの2柱を祀る由縁は不詳(鳥取市西部を流れる千代川以東にはアマテラス信仰があるが、当社がある千代川以西はオオナムチ信仰が優越するという−−現地ガイド)

 また、シタテルヒメについて、上記案内は「下照姫命は大国主命の娘で、昔から子育て・安産の神として云々」というが、在地の伝承によれば、
 「シタテルヒメは、その夫神・天若日子命(アメノワカヒコ)とともに当地に住まわれていたが、アメノワカヒコがタカミムスヒが投げ下ろした返し矢(呪矢)に当たって亡くなったため、国譲りののち当地を去り、海路、伯耆国川村郡(現東伯郡湯梨浜町)に遷られた。それが倭文神社である」
という(現地ガイド)
 この伝承からみると、当社はシタテルヒメを主祭神とする神社とも思われるが、祭神中にアメノワカヒコの名は見えず平仄があわない。シタテルヒメが到来して安産の神として祀られたという伝承は、出雲のみならず各地にあるが、いずれも後世に作られた伝承であろう(シタテルヒメは、アメノワカヒコ死亡の場面にのみ登場する女神で、記された事蹟がないということは自由度が高いということで、伝承化しやすい)
 なお、アメノワカヒコとは、国譲り交渉の使者として高天原から派遣された神(2番目)だが、シタテルヒメを妻としてオオクニヌシの後継者となろうと欲して居着いてしまい、3年たっても報告せず、督促のために遣わされた使者(雉の鳴女)を天神から授かった弓矢で射殺してしまう。その矢が天上まで届き、タカミムスヒが“アメノワカヒコに邪心があれば当たるであろう”と占って投げかえした返し矢に当たって亡くなったという(古事記・大意)。

※祭神
 祭神−−天忍穂耳命(アメノオシホミミ)・下照姫命(シタテルヒメ)・瓊瓊杵命(ニニギ)
       表筒男命(ウワツツノオ)・中筒男命・底筒男命(以上、住吉三神)・大己貴命(オオナムチ)・倉稲魂命(ウカノミタマ)
       ・罔象女命(ミズハノメ)・菅原道真・天照大御神・稚日女命(ワカヒルメ)・少名彦命(スクナヒコ)・素盞鳴尊(スサノヲ)−−ネット資料
 
 当社祭神は大きく二つのグループに別れ、アメノオシホミミ・シタテルヒメ・ニニギが当社本来の祭神らしいが(上記案内にニニギの名がないことからみると、ニニギは相殿神かもしれない)、アメノオシホミミ・ニニギ両神とシタテルヒメとの間に関連性はなく、両神を主祭神とする由緒は不詳。
 またウワツツノオ以下の11柱は、大正5年(1916)に旧高麗村内の各処にあった無格社(6社)を合祀したものという。明治末から進められた神社統廃合の一環であろう。

※社殿等
 県道脇の鳥居をくぐり随神門を入った境内奥に、拝殿(入母屋造・瓦葺)・本殿(大社造・銅板葺)が建つ。
 ネット資料によれば、「社殿は、この地域では最も秀抜な造りでしたが、建久以降尼子氏の兵火に罹り、神器古証書等多く焼失してしまいました」とあるが、その再建時期等は不明。

 社殿右手に、杵築神社・澤形神社・宮田神社と表示した小祠があり、素盞鳴尊との神名標があるが、その詳細は不明。

壹宮神社/鳥居
壹宮神社・鳥居
壹宮神社/随神門
壹宮神社・随神門
壹宮神社/拝殿
壹宮神社・拝殿
壹宮神社/本殿
壹宮神社・本殿

◎すくね塚
 境内左奥に微高地があり、古木の下に小祠が祀られ、傍らに古びた高灯籠が立っている。

 社頭の案内によれば、
 「本殿裏には、“すくね塚”と呼ばれる経塚があり、経筒・和鏡が出土し、社宝として大切に保存されています」
とあり、これがそれだと思われるが、一見して、露出した木根が絡まった高まりで、塚との印象はない。
 また、すくね塚の意味およびその由緒など不明。

 古木の裏手に、男根状の石棒が横たわっている。この塚に祀られていたのか、他所からもたらされたのかは不明だが、境内入口に道祖神(下記)があることからみると、何処かの道祖神と一緒に祀られていたものかとも思われる(道祖神、特に双体道祖神は性神的要素が強い)
壹宮神社/すくね塚
すくね塚
壹宮神社/男根状石棒
男根状石棒

◎道祖神
 鳥居を入った左手に“双体道祖神”(男女の神像が並んたもの)が数躰並び、上に張られた注連縄の右端には大きなワラ草履が下がっている。

 当社が県道242号線に面していることから、古くは旧街道筋にあって、外から来る邪神・悪神を遮るとともに、道行く人の道中安全を守っていた道祖神を集めたものと思われるが、詳細不明。
 左端のものは神像がはっきりとみえるが、他はだいぶ摩耗している。
壹宮神社/道祖神1
双体道祖神
壹宮神社/道祖神2

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