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揖 夜 神 社
島根県松江市東出雲町揖屋
祭神--伊弉冉命・大己貴命・少彦名命・事代主命
                                                            2018.12.16参詣

 延喜式神名帳に、『出雲国意宇郡 揖夜神社』とある式内社で、出雲国風土記(733・意宇郡)には『伊布夜の社』とある。
 社名・揖夜は“イヤ”と読むが、風土記・延喜式神名帳では“イフヤ”と読む。

 JR北陸本線・揖屋駅の東北東約500m、市街地東部にある小丘の西麓に鎮座する。

※由緒
 頂いた「揖夜神社御由緒書」(以下「栞」という)によれば、
 「御鎮座についての詳細は不明ですが、古事記神代巻には『伊賦夜坂』(イフヤサカ)について記述があり、日本書紀斉明天皇5年(659)の条に『言屋社』(イフヤノヤシロ)、出雲国風土記に『伊布夜社』(イフヤノヤシロ)、延喜式神名帳に『揖夜神社』(イフヤ)の記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた古社であることは疑うべくもありません。
 神社に所蔵している棟札・古文書によれば、戦国時代頃から『揖屋大明神』・『揖夜大社』・『揖屋大社』と尊称されていた様です。
 古より朝廷の崇敬が篤く、三代実録には、清和天皇の貞観9年(867)に従五位上、同13年(817)に正五位下の御神階が授けられた記録があります。また出雲国造奉仕の神社として早くから別火職(ベッカ)が設けられていました。
     (中略)
 当社は出雲国造との関係が深い“意宇六社”(熊野大社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として、江戸時代から“六社参り”の参詣者が絶えず、御遷宮には今でも出雲国造の御奉仕があります。
 江戸時代の書物・出雲神社巡拝記には、揖屋大明神の項に『意宇六車とて有り、其の一つ也。六社とは当社及び熊野大社、大庭かもしの社、山代いざなぎの社、佐草の八重垣、大草の六所神社 是也。巡拝の人 格別なれば、一々心をとめて拝礼すべし』と書かれています」
とある。


 当地は、古くは“意宇郡余戸(アマリベ)の里”と呼ばれた土地で、出雲国風土記には
 「余戸の里 郡家の東六里二百六十歩 神亀4年(727)の編戸(新しく戸籍をつくり里をつくること)に依り 一里(コオリ)を立つ。故 余戸と云ふ」
とあり、中世になって揖夜荘(イヤノショウ)となり、近世以降は揖夜村、昭和29年(1954)近傍の村々と合併して東出雲町になったという。

 当社の文献上での初見は、書紀・斉明天皇5年(659)条にみえる、
 「この年、出雲国造に命じて神の宮を修造させた。その時、狐が意宇郡の役夫が採ってきた葛(宮造りの用材)を噛みきって逃げ、犬が噛みきった死者の腕が言屋社(イフヤノヤシロ)に置かれていた。天子崩御の前兆である」
との記録で、そこでいう言屋社とは当社のことという。
 (ここでいう神の宮については熊野大社説・杵築大社説があるが、続けて言屋社での出来事が記されていることから熊野大社とすべきであろう)

 ここで、“イフヤノヤシロ”と称している当社に、犬が死者の腕を噛みきって置いたということを“天皇崩御の前兆”であるといっている。
 一方、古事記は、当社の近傍とされる黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ・この世とあの世の境)のことを“伊賦夜坂”(イフヤノサカ)というとある。
 この二つに共通する“イフヤ”、そこから変わった“イヤ”という地名には、“死にかかわりのある特定の意味”があったといわれ(日本の神々7・2000)、全国にあるイヤあるいは同意語のユヤという地名がある所には、“死者の霊のいきつく所”といった伝承があるという(式内社調査報告・1983)

 そこから、日本の神々7は
 ・死者の国を意味する“イフヤ”という一般的な言葉がまずあり
 ・次いで、出雲国を黄泉国とする考えが生まれた後、意宇平野に近い伊賦夜の里が黄泉国への入口(坂=境)と認識されたのではないか
 ・当社が早くから中央に知られたのは、そのような特別視された場所にあったからであろう
という。


 当社の主祭神を伊弉冉尊とすることからみると、当社は南東約1.2kmにある黄泉比良坂(ヨモツヒコサカ)・伊賦夜坂(イフヤサカ)にかかわる神話に関係する神社とみるべきだろうが、
 ・出雲風土記には伊布夜社の祭神についての記載はなく、その時点で伊弉冉尊が祀られていたかどうかは不詳であること
 ・風土記が当地を揖夜あるいは伊賦夜ではなく余戸の里ということ
 ・風土記・意宇郡条に、伊弉冉尊あるいは黄泉比良坂に関する記述がないこと
 ・近世の資料に祭神を伊弉冉命とするものがないこと(下記)
などからみると、現在の由緒は、記紀編纂後につくられたものであって、本来の由緒は別にあったのかもしれない

 上記斉明5年の記録からみると、当社は出雲風土記選定の74年前には実在していたとなるが、それを証する史料はない。ただ、出雲国風土記に“伊布夜の社”とあることからすれば8世紀初頭にはあったことは確かといえる(ただ、その形態が如何なるものだったかは不明)
 なお、当社に対する神階綬叙記録としては
 ・貞観9年(867)5月2日   出雲国揖屋神(イヤノカミ)に従五位上を授く
 ・ 同13年(871)11月10日  出雲国従五位上揖屋神に正五位下を授く
とあるのみで、その後の昇階記録はみえない。

 当社に関連する黄泉比良坂・伊賦夜坂については別稿・黄泉比良坂参照。


※祭神
 栞には
  祭神  伊弉冉命(イザナミ)・大己貴命(オオナムチ)・少彦名命(スクナヒコナ)・事代主命(コトシロヌシ)
とある。

 ただ、近世の資料としては
 ・雲陽誌(1717)--大己貴命・少彦名命・事代主命
 ・神名帳考証(1733)--湯屋大神(揖夜大神、ユヤはイヤに通じる)・黄泉戸大神(ヨミドノオオカミ・千引の石のの別名)
 ・出雲神社巡拝記(1833)--おほなむち命・ことしろぬし命
 ・神社覈録(1870)--大己貴命・事代主命
 ・神祇志料(1871)--道反大神(チガエシノオオカミ・千引の石の別名)
 ・特選神名帳(1876)--大己貴命・事代主命
などがあるが、そこに伊弉冉命の名はみえない。

 しかし、当社祭神について、日本の神々は
 「伊弉冉尊を主神として大己貴命・事代主命を祀っているが、近世の文献には伊弉冉尊の名はみえないが、社名のイフヤを記紀と関連づけるなら、伊弉冉尊とするのが妥当かもしれない」
 式内社調査報告は
 「社名イフヤの語義からして、その祭神を記紀に求めるならば、やはり伊弉冉尊とするのが妥当であろう」
として、主祭神は伊弉冉尊とするのが妥当というが、これは記紀の記述によるもので、本来の祭神は大己貴命を主神とする神々だったのかもしれない。ただ、それを推測てきる資料はない。

 大己貴命以下三神のの勧請由緒・時期等は不明。


※社殿等
 北側道路脇に立つ鳥居を入って参道を進み、低い石段を登った上に〆鳥居が立ち、それに接するように随身門が建ち、門を入って境内に入る。

 
揖夜神社・鳥居
 
同・随神門 

 境内左手(東側)が社殿域で、正面中央に、向拝前面に大きな注連縄を張り、四周が吹き放しとなった切妻造・平入りの大きな拝殿が建つ。


同・境内(社殿側) 
 
同・拝殿
 
同・拝殿

 拝殿の背後少し離れた石垣の上が本殿域で、正面中央の中門から左右に延びた透塀に囲まれた中央に、大社造の本殿が西面して鎮座する。

 大社造とは、大屋根の上に堅魚木・千木を乗せた切妻造・妻入・方2間の高床式社殿で、内部は中央に立つ心の柱を中心に前後左右4っの区画に別れ、その右上区画に神座が東面して鎮座する(下図)


同・中門 
 
同・本殿(左の小祠は韓国伊太氐社)
 
大社造・側面図
   
同・本殿内部

 なお、拝殿の向かって右に「仮殿」と称する切妻造の大きな社殿があり、本殿遷座行事中、御神体を一時奉安する社殿という。


◎境内社
 本殿の左右に小祠2社が鎮座するが、前に透塀が延びていて境内からはみえない(前面透塀の左右に石段あり)

*韓国伊太氐神社(カラクニイタテ)
 本殿域の向かって左に鎮座する小祠。
 延喜式神名帳に、揖夜神社の次ぎに『同社坐韓国伊太氐神社』とある式内社で、五十猛命(イタケル)とその父・素盞鳴命を祀る。
 オナジヤシロニマス カラクニイタテノカミノヤシロと呼ぶのが正式社名のようで、韓国伊太弖・韓国伊太豆と記す資料もある。

 延喜式によれば、出雲国には韓国伊太氐神社が6社あるが(意宇郡3社、出雲郡3社)、いずれも当社と同じく神社への合祀という形で祀られている。
 なお、韓国を冠しないイタテ神社としては、陸奥・伊豆・紀伊・播磨・丹波国などに6社がある(但し、表記は伊達・印達・射楯など異なる)

 韓国伊太氐神社の由緒ははっきりしないが、五十猛命を祀ることから、出雲国式社考(1843・江戸末期)
 ・五十猛命を祭る。韓国という語を冠せられし由は、(書紀一書に記す五十猛命の韓国往来の話を引用して)、氐は気とかよひて五十猛に同じ
 ・イタテはイタケルの転で、この神が韓国と往来されたことから韓国という語を冠するようになった
という。
 ただ、「氐は気とかよひて五十猛に同じ」というのは理解困難で、幕末の国学者に多い独断的表現との感が強い。

 ただ、播磨国飾磨郡に射楯兵主神社(イタテヒョウズ、姫路市・祭神:射楯大神)があり、播磨国風土記に
 「因達の里  息長帯比売命(神功皇后)が韓国を平定しようと思って渡海されたとき、御船前(先導神)に立たれた伊太氐の神が此の処においでになる。故に神の名によって里の名とした」
とあることから、韓国を冠しなくとも、伊太氐(射楯)神は韓国に絡んだ神と認識されていたと思われる。

 なお、式社考がいう五十猛命の韓国往来神話とは、書紀8段一書4に記す
 「(高天原を追放された)素盞鳴尊は、その子・五十猛神を率いて新羅国・曽尸茂梨(ソシモリ)に降られたが、『この地には居たくない』として、土で造った船に乗って東へかえり、出雲国・簸川(ヒノカワ)の上流にある鳥上(トリカミ)の山に着かれた。
 五十猛神は天降られるときに多くの木の種を持って行かれたが、韓国では撒かず持ち帰って、筑紫からはじめて大八洲の国の中に撒きふやして、全部を青山にしてしまわれた」
を指し、樹木の種を撒き増やしたことから五十猛命は樹木の神とされる。

 古来のわが国には、大陸や半島から渡来してきた神々が多々みられ、これらは今来(イマキ)の神といわれるが、出雲においても
 ・素盞鳴命や五十猛命の韓国往来神話(書紀)
 ・八束水臣津野命が、新羅国から余りある処を切り取って引き寄せ杵築の御崎としたとの国引き説話(風土記)
などにみるように、韓国との関係が深く、
 ・出雲の韓国伊太氐神社は、この今来の神信仰と無縁のものであるとは思えない
 ・韓国は、文字通り韓国そのものを意味し、これを冠する伊太氐神の原義は、あるいは八幡神が八つの幡として降臨されたというように、韓国から矢となって降臨された今来の神であって
 ・その痕跡が韓国伊太氐神社とみることができよう
という(日本の神々7)

 これに対する異説として、志賀剛氏は
 ・イタテはイタチであり、イタチはユタチすなわち湯立てで、湯を立てて託宣する卜占の神である
 ・出雲に韓国伊太氐神社が6社あるのは、卜占の盛行によるもので
 ・韓国を冠するのは、遠来の神に新鮮な霊力ありとした古代の信仰からくるものであろう
との説を提唱しているが(伊達神社新考)、志賀氏には他にない特異な説をなす傾向があり、これをそのまま信用することはできない。

*三穂津姫神社
 本殿域の右に鎮座する小祠
 祭神--三穂津姫命(ミホツヒメ)

 三穂津姫とは、造化三神の一・高皇産霊尊(タカミムスヒ)の娘で、大和・三輪さんに坐す大物主神(オオモノヌシ)の后。
 書紀9段・一書2に
 「高皇産霊尊が大物主神に、『お前が国つ神を妻とするなら、吾はお前が心を許していないと考える。それで、わが娘の三穂津姫をお前に娶せて妻とさせたい。八十万の神たちをひきつれて、永く皇孫のために守って欲しい』と詔され、降らせされた」
とある。
 ただ、三穂津姫命が当社に祀られる由縁は不明。


韓国伊太氐神社 
 
三穂津姫神社

*荒神社
 境内右側、疎林の中に荒神社との小祠が2基鎮座し、傍らの立札には『荒神社(祭神スサノオ) 大蛇神(チンナマイト)』とある。
 中央奥に小さな祠があり、その左右の竹製台座の上に藁製の大きな口をあけた大蛇が供えられ、大蛇の尾部は背後の立木に巻き付いている。
 また祠の前には、白い弊束が多数立てられている。
 同じ荒神社が2社あるのは、その祭祀集落が異なるからという。 

 
荒神社(左側)
 
同・大蛇神(左)
 
同・大蛇神(右)
 
荒神社(右側)
 
同・大蛇神(左)
 
同・大蛇神(右)

 荒神さんといえば、家にあって竈の神などとして祀るれるのが普通だが、屋外に祭られる荒神もあり、出雲の無形文化財である荒神祭(コウジンマツリ)について、
 「中国地方の中で、島根県東部の出雲地方から鳥取県西部の伯耆地方にかけては、荒神にその年の収穫を感謝する荒神祭が伝承されている。
 荒神は多様な性格をもって祀られているが、この地方の荒神は、農耕の神あるいは牛馬の神として信仰されている。
 その祭には、巨大な藁蛇をと大量の弊束をつくり、荒神を祀る樹木や石などに供えることを基調としながら、種々な形態をもって伝承されている。(文部科学省・2015)
とあり、実見した大蛇神は藁が新しいことから、今秋の収穫祭が終わって当社に奉安されたものと思われる。

*その他
 境内の周りに天満社・恵比須社・稲荷社(背後の山中)の小祠が鎮座し、御神木の椎の大木(推定樹齢600年)が聳えている。


天満社 
 
恵比須社
 
御神木

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