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出雲の神社/出雲大社
旧称--杵築大社
島根県出雲市大社町杵築東
祭神--大国主大神
                                                        2012.08.29参詣

 当社は、出雲国風土記(733)・出雲郡所在神社の筆頭社として「杵築の大社」(キヅキノオオヤシロ)とある古社で、延喜式神名帳(927)では「出雲国出雲郡 杵築大社 名神大」として名神大社に列している。
 江戸時代までは杵築大社(キヅキノオオヤシロ)と称し、明治4年(1871)、出雲大社(イズモオオヤシロ)と改称している。イズモタイシャは俗称。(以下、引用史料等を除き“杵築大社”と記す)

※由緒
 当社創建の由緒について、出雲大社由緒略記(以下、由緒略記という)には、
 「皇孫瓊瓊杵尊がこの国に降臨されるに際し、大国主大神は辛苦されてご経営になったこの国土を皇孫にお譲りになり、それからは目には見えざる世界の幽冥(カクリゴト・神事-カミゴト)の主宰神となり、御子神たちと共に国の守り神として、万民の幸福をお護りになることになりました。
 そこで、天照大神は大神の誠実な真心を非常にお悦びになり、大神のためにとくに諸神に命じられて、広大な宮殿を御造営され、さらにご自身の第二の御子の天穂日命にその祭祀をお任せになりました。これが今の出雲大社の起源です」
とある。

 この由緒は、古事記・日本書紀(以下、記紀という)をうけたものだが、当社創建にかかわる記述として次の①②③がある。
 ①古事記(712、全訳注・講談社学術文庫・1993、以下同じ)
  大国主神(オオクニヌシ)は、コトシロヌシ神・タケミナカタ神が国譲りを了承したと告げたタケミカツチ神(国譲り交渉の使者)に対して、
 「この葦原中国は、仰せのとおり献上しましょう。ただ、私の住む所は、、天つ神の御子が皇位をお継ぎになる立派な宮殿のように、地底の盤石(バンジャク)に宮柱太く立て、大空に千木高くそびえさせた神殿をお造りくださるならば、私は幽界に隠退しましょう。 また私の子供の百八十神たちは、ヤエコトシロヌシの神が、神々の前に立ち後に立ちお仕えしたならば、背く神はありますまい」
と申した。
 このように申して、出雲国の多芸志(タギシ)の小浜(場所不明)に天の御舎(アメノミアラカ・神聖な神殿)を造り水門の神の孫・櫛八玉神(クシヤタマ)が鵜と化して海に潜り、粘土を採って祭具となる皿を作り、海藻の茎で火鑚臼・火鑚杵を作って神聖な火を鑚り出して天御饗(アメノミアエ)を料理し、言祝(コトホギ)の詞を唱えながら献った。
 そこでタケミカツチ神は高天原に帰り上って、葦原中国を平定し帰順させた情況を復命された。(大意)

 ②日本書紀(9段・本文、720、全現代語訳・講談社学術文庫・1989、以下同じ)
  (御子・事代主命が国譲りに同意したので)そこで大己貴神(オオナムチ=オオクニヌシ)は、その御子の言葉を二柱の神(タケミカツチ・フツヌシ)から告げられて、
 「わが頼みとした子はもういません。だから私も身を引きましょう。もし私が抵抗したら、諸神もきっと同じように戦うでしょう。今私が身を引けば、誰もあえて戦わないでしょう」
といわれた。
 そこで国を平らげたときに用いられた広矛を、二柱の神に奉られて、
 「私はこの矛を以て、ことをなしました。天孫がもしこの矛を用いて国に臨まれたら、きっと平安になるでしょう。今から私はかの幽界に参りましょう」
といい終わると共に隠れてしまわれた。(大意)

 ③日本書紀(9段一書2)
  二柱の神は、出雲の五十田狹(イチサ)の小汀(オハマ)に降って、オオナムチに「お前はこの国を天神に奉るかどうか」と問われた。オオナムチが「貴方方の言われることはどうも怪しい。私が元から居る所にやってきたのではないか。許すことはできぬ」と答えたので、フツヌシ神は天に帰り報告した。
 そこで、高皇産霊神(タカミムスヒ)は二神を再び遣わして、オオナムチに勅して、
 「貴方の云うことは深く理に叶っている。それで条件を整えて示そう。貴方が行っている現世の政治は皇孫が行うから、貴方は幽界の神事を受け持ってほしい。また、貴方が住むべき宮居(天日隅宮・アメノヒスミノミヤ)は、千尋もある栲の縄でしっかりと結び造ろう。その宮は、柱は高く太く、板は広く厚くしよう。・・・また貴方への祭祀は天穂日命(アメノホヒ)にさせよう」
と告げられた。
 そこでオオナムチは
 「天神の仰せは行き届いている。どうして仰せに従わないことがありましょうか。私が治める此の世のことは皇孫が治められるべきです。私は退いて幽界の神事を担当しましょう」
と申し上げて、永久にお隠れになった。(大意)

 古事記(上記①)では、前段に“オオクニヌシが国譲りの代償として神殿造営を要求し”、後段(“このように申して”以下)で“神殿を造った”とあり、ここでいう“天の御舎(神殿)”が杵築大社というのが通説となっている。
 しかし、後段を素直に読むかぎり、ここでいう“天の御舎”は、オオクニヌシが天つ神の使者を饗応するために造った神殿であって、天つ神側がオオナムチのために建てた神殿即ち杵築大社とはとれない。

 この疑問は本居宣長ももったようで、古事記伝(1798)で、
 ・“このように申して”(上記後段の始め)まではオオクニヌシの言動であり、続く“出雲国のタギシの浜”以下は天つ神側がこの大神を祀らせたことを言っているはずなのに、これを原文のまま読めば、すべてオオクニヌシの言動となっていて筋が通らない、
として、(古事記原文--即八重事代主神 為神之御尾前而仕奉者 違神者非也 如此之白而 於出雲国多芸志之小浜・・・)
 ・“如此之白而”(このように申して)の次に“乃隠也(乃ちお隠れましき)”を入れてオオクニヌシの言動を終結させ、
 ・続く“於出雲国多芸志之小浜”の前に、“故隨白而(かれ、申したまひしままに=そこで、オオクニヌシの言った通りに)”を加えて、以下の文章は天つ神側の動きとして読むべし、
と記し(大意)、この2句を挿入したうえで、
  「此の造り奉る御舎は、オオクニヌシ神の御魂の鎮まり坐す御社にて、即ち杵築大社なり」
としている。
 この混乱は、古事記原文に文章の段落がなく連続して記述されていることからのもので、たしかに、宣長がいう2句を挿入して二つの文章として読めば、天つ神側が天の御舎即ち杵築大社を造ったとなる。

 しかし、これは前段にいう国譲りの条件としての神殿造営をうけて、天の御舎=杵築大社とする先入観による読み替えと思われ、後段後半にいう“クシヤタマの神が奉った天御饗”とは、被征服者(オオナムチ)が征服者(天つ神の使者)に対しておこなった服属儀礼としての御饗と解釈することも可能で(征服者が被征服者を饗応するのはおかしい)、又そう読むことで、最終段にいう“タケミカツチの復命云々”との繋がりも素直になる。
 ただ、後段をこのように読めば、天の御舎とは服属儀礼の場として造られた御殿であって、杵築大社ではないことになる。

 一方、日本書紀・本文(上記②)ではオオナムチは“国を譲り己は幽界に隠退しよう”とはいっているが、神殿造営のことは記されていない。
 書紀で神殿のことを記すのは、異伝の一つ一書2(上記③)だが、そこでは国譲りの申し入れに疑義をもつオオナムチに対して、天つ神側(タカミムスヒ)から、“オオナムチ隠遁のために壮大な神殿を造営し、アマテラスの第二子であるアメノホヒに祀らせるから、国を譲れと申し入れた”とあって、オオナムチからの要求とはいっていない。

 このように、記紀の記述がニュアンスを異にするのは、その当時、杵築大社造営について幾つかの伝承があったことを示唆している。

 これに対して、出雲国風土記(733、講談社学術文庫・2012)では次のようになっている。
 ④出雲郡・杵築(キヅキ)の郷  
  八束水臣津野命(ヤツカミヅオミヅノ)が国引きをなさった後、所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ=オオナムチ)の宮をお造り申し上げようとして、諸々の神々たちが宮殿の場所に集まって地面を突き固め(キヅキ)られた。だから寸付(キヅキ)という。神亀3年、字を杵築と改めた。
 (杵築郷--旧簸川郡大社町杵築→現出雲市大社町杵築、現大社鎮座地一帯)

 ⑤意宇郡・母理(モリ)の郷  
  所造天下大神・大穴持命(オオナモチ=オオナムチ)が、越の八口を平定なさってお帰りになるときに長江山(鳥取県との境にある永江山・ H=570m)にお出でになって、
  「私が造って治めている国は、天つ神の子孫である天皇が平安にお治めになるよう、お任せする。ただ、八雲立つ出雲国は、私が鎮座する国として、青々とした山を垣としてめぐらしなさり、玉(魂)をお置きになって、お守りになる」
とおっしゃった。故に、文理(モリ)という。神亀3年(726)字を母理に改めた。
 (母理郷--旧能義郡伯太町母理・出雲国東端部→現安来市母理)

 ⑥楯縫郡
  楯縫(タテヌヒ)と名づけるわけは、神魂神(カミムスヒ)が、
  「私の住む天の立派な御殿の縦横の規模が、千尋もある長い栲縄を使い、桁梁を何回も何回もしっかり結んで、沢山結び下げて造ってあるのと同じように、天の尺度をもって、天の下をお造りになった大神の住む御殿を造ってさしあげよ」
と命じられて、御子の天御鳥命(アメノミトリ・風土記のみにみえる神)を楯部(タテベ・神事用具としての楯を作る部民)として天下りさせた。
 そのとき天御鳥命が天から退き下られて、大神の神器としての楯をお造りになった場所が、ここなのだ。・・・故に楯縫という。
 (楯縫郡--島根半島西部、大社がある出雲郡の東隣→現出雲市平田町附近)

 当社が鎮座する出雲郡杵築郷の条(上記④)には、国造りをされた大神・オオナムチのために諸々の神々(多くの人々)が集まって宮を建てたとあるが、そこには国譲りにかかわる記述はなく、これが出雲側に残る本来の創建由緒かもしれない。
 しかし、意宇郡・母理郷の条(上記⑤)には、越の国から帰ったオオナムチが、
  「私が造った国の治世は天皇にお任せする。ただ、出雲国は私の御魂が鎮座する国として守ってほしい」
と、国譲りの代償としての宮処造営を示唆するような伝承があり、
 また、楯縫郡の条(上記⑥)には、国譲り云々の記述はないものの、そこに建てられるオオナムチの神殿についての具体的な記述がされている。ただ、神殿造営を指令する神が、皇室に直結するアマテラス(古事記)あるいはタカミムスヒ(書紀)ではなく、出雲の御祖神(ミオヤカミ)とされるカミムスヒとなっている。

 これら⑤⑥を見るかぎり、出雲側としても、国譲りの代償として造営されたのが当社であるとの認識はあったとは思われるが、それらが当社の鎮座地である出雲郡ではなく、隣接する楯縫郡あるいは遠く離れた意宇郡での地名説話として語られていること、造営を指示したのが出雲の御祖神であるカミムスヒであるところに、記紀の記述を無条件に受け入れたのではないという、出雲国造としての主張が伺われる。


※創建時期
 当社の創建時期については諸説(下記)があり確たるることはわからない。
 由緒略記(御造営遷宮の項)には、
  「出雲大社の御造営については、神代の昔、皇祖天照大神の勅令により、諸神が参集されて建築されたことが古典に記されています。このことは、出雲大社の御造営がいかに国家の中で重きをなしていたかを示すものです」
とあるが、これは記紀の記述(上記①②③及び④)をうけた神話伝承上の話をうけたものと解すべきであろう。

 由緒略記は続けて、「人皇の世になってからの御造営及び御遷宮の明らかなものは次のとおり」として、
 (1)、垂仁天皇23年、菟上王(ウナカミノミコ)に御造営を命じられる(古事記・日本書紀)。
 (2)、斉明天皇5年(659)、出雲国造に厳神之宮(イツクシノカミノミヤ)の御造営を命じられる(日本書紀)
 (以下、昭和28年の修造・遷宮までの記録・計28回を記す)
とある。

 (1)の垂仁天皇23年云々は、古事記・垂仁天皇条に記す、
  「垂仁天皇の皇子・本牟智和気王(ホムチワケ、書紀ではホムツワケ)は、長い髭が胸元にとどくようになっても口がきけなかった。
  ある時、空を飛ぶ鵠(クグヒ・白鳥)をみて片言をおっしゃったので、人を遣わして、これを越の国まで追いかけ捕らえて献上させたが、期待に反して物をおっしゃることはなかった。
 これを心痛する天皇の夢に神が現れて、「私の神殿を、天皇の宮殿のように造ったら、御子は必ず物を言うことであろう」と告げた。
 太占(フトマニ)で占い、それが出雲の大神の御心(祟り)であるとわかったので、皇子に曙立王(アケタツノミコ)・菟上王(ウナカミノミコ)を副えて出雲へむかわせ、大神を参拝させた。
 出雲大神の参拝を終えての帰路、肥河(斐伊川)のほとりまで来られたとき、川下に立てられた青葉の山のような飾り物を見た皇子が、はじめて「あれはアシハラシコヲ大神(オオナムチ)を祭っている神主の祭場ではないか」との言葉を発せられたので、お供の王らが喜んで、急使をもって天皇に報告した。
 それを聞いた天皇は喜ばれ、ウナカミ王を出雲に帰して神殿をお造らせになった」(大意)
によるものだろうが、そこには垂仁23年との年次は記されていない。

 これを垂仁23年とするのは書紀の記事だが、そこには
  「物言わぬホムツワケが大空を飛ぶ鵠を見て『あれは何物か』といったので、天皇が『あれを捕らえた人には褒美をやろう』といわれた。そこで、鳥取部の祖・天湯河板挙(アメノユカワタナ)が出雲まで追いかけて行って捕らえて献上した。
 ホムツワケは、献上された鵠をもてあそび、ついに物が言えるようになった」(大意)
とはあるものの、出雲大神の祟りによって物が言えないホムツワケが、出雲に赴いて大神を参拝したとは記されておらず、当然のことながら社殿造営の記事はない。

 上記(1)の垂仁23年云々とは、古事記の話を書紀にいう垂仁23年としたものだが、記紀以外にホムツワケの実在を証する史料が見えないことから(ホムツワケの出雲大神参拝の意味については諸説がある)、これも神話伝承上の話とみるのが妥当であろう。

 次の(2)の斉明5年(659)云々とは、書紀にいう
  「是歳、出雲国造に命ぜられて厳神の宮(イツクシノカミノミヤ)を脩(ツクラ)しめられた。狐が意宇郡の役夫が採ってきた葛(宮造りの用材)を噛み切って逃げた。又、犬が死人の腕を揖屋社(イフヤ・現松江市揖夜神社)のところに噛って置いていた。天子崩御の前兆である
を指し、その意は、意宇郡イフヤの地で、天皇の寿命にかかわる凶事が発生したので、出雲国造に命じて厳神の宮を造らせた、というものだが、ここでいう“厳神の宮”について、杵築大社とする説と、意宇郡の熊野大社とする説とがある。

 熊野大社のこととするのは、
 ・この凶事が意宇郡イフヤの地で起こっているから、意宇郡に鎮座する熊野大神の祟りと見るのが妥当
 ・意宇郡は熊野大神の神郡(カミノコホリ)であって、そこに祀られている大神の怒り(祟り)を鎮めるために社を修造させたとみるべき
というもので、熊野大社・由緒略記には、「(当社の)創祀は斉明5年と日本書紀に伝えている」とある。

 対して、杵築大社とする理由としては
 ・記紀には熊野大社のことは一切みえないのに、この一節のみを熊野大社のこととするのはおかしい
 ・熊野大神は出雲国造家の氏の守護神という私的な祭祀対象であり、これを朝廷が造営・修復することはありえない
 ・出雲国内で起こった不吉の予兆であることから、出雲第一の大社である杵築大社のことと考えるのが無難である
などがある。

 両説共に、それぞれの論者の主張であり決着は見ていない。
 杵築大社の創建時期については諸説がありはっきりせず、7世紀中頃とする説もあり、とすれば、この斉明5年(659)創祀というのも無視はできない。
 ただ、その場合、国譲りの代償としての大社造営という創建由緒とは平仄があわない。

 当社の創建について、由緒略記には
 「天照大神は、広大な神殿を御造営され、さらにご自身の第二の御子である天穂日命(アメノホヒ)にその祭祀をお任せになりました。これが今の出雲大社の起源です。
 そして、アメノホヒの子孫は出雲国造となって、大神の宮に今の世に至るまで変わらない祭祀を奉祀することになりました」
とある(アメノホヒを当社の祭祀者としたのはタカミムスヒであってアマテラスではない--上記③)

 出雲国造家は出雲国東部の意宇郡を本貫とする古代豪族で(その後も連綿とつづき、現国造は84代という)、アマテラスの第二子・アメノホヒの後裔と称するが確証はなく、その原姿は、意宇郡の地主神・熊野大神クシミケヌを奉じて意宇川流域一帯を支配した地方豪族であろう。

 上記略記によれば、当社創建当初から出雲国造が杵築大社の祭祀に携わってきたととれるが、その国造家が本来奉祀する神は意宇郡に坐す熊野大神であって杵築大神ではない。
 国造家が杵築大社の祭祀を携わったのは、国造家の出雲国西部への進出にともなって、出雲郡を中心に崇敬されていたオオナムチ(杵築大神)の祭祀権を掌握したことによる、というのが大方の理解である。
 ただ、その経緯・時期については諸説があり、管見のかぎりでは定説とみなせるものはない。

 出雲国造出雲臣家が、何時頃から大和朝廷に服属したかははっきりしないが、崇神紀60年条(4世紀中葉初頃か)
 「天皇が出雲大神の神宝を見たいとして、使者を遣わして神宝を奉らせようとした。そのとき、神宝を管理していた出雲振根(イズモノフルネ)は筑紫に行っていて留守だったが、弟の飯入根(イイイリネ)が代わって奉った。筑紫から帰った振根が、これを知って怒り、飯入根を殺した。
 イイイリネの子・鸕濡淳命(ウカズクネ)からの報告を受けた天皇は怒り、吉備津彦等を遣わしてフルネを殺させたので、これを恐れた出雲臣は出雲大神の祭祀を止めてしまった」(大意)
とある。
 通常、ある氏族が、その保有する神宝を朝廷に奉献することは、朝廷への帰順・服属を意味することから、出雲氏の服属は崇神朝とも解されるが、4世紀まで遡及できるかといえは疑問がある。

 正史上での出雲氏関連人物の初見は、書紀・仁徳天皇即位前記に記す、
 「屯田司(ミタノツカサ)の出雲臣の先祖・淤宇宿禰(オウノスクネ)
(出雲国造世系譜には、16世・意宇足奴命-オウノソコヌ-の別名とある)、この頃(5世紀前期)には、出身地の地名・“意宇”(オウ)の名の以て朝廷に出仕していたのは確かといえる。ただ、そこには国造とは記されていない。

 この意宇氏が出雲国造に就任した時期について、先代旧事本紀(国造本紀、9世紀前期頃、物部氏系史書)は、
 「崇神天皇の御代、アメノホヒ11世の孫・宇迦都久怒(ウカツクヌ)を出雲国造に定む」
という。
 ウカツクヌとは、崇神紀60年にいう“イイイリネの子・ウカズクネ”と同一人物で、国造系譜によれば、フルネ討伐後、一旦途絶えた出雲氏を継承したとある(出雲国造世系譜では、12世氏祖命の別名)
 この記述は、ウカツクヌが朝廷に帰順服属して出雲国造に任ぜられたとするのであろうが、神宝の奉献とそこから起こった出雲フルネによる弟・イイイリネ殺害は、後世における出雲国内での抗争を崇神朝まで遡及したものともいわれ、また、上記仁徳紀には“出雲臣の祖”とはあるものの“国造”の肩書きを記していないことから、国造就任を崇神朝とするには疑問がある。

 一方、出雲国造世系譜(以下、国造系譜と記す)・17世国造宮内臣の傍注に、
 「家乗一本に云う、反正天皇四年(仁徳の2代後、5世紀中葉頃か)国造と為り、始めて出雲臣を賜う」
とあり、これ以降、国造系譜歴代の氏名に国造(国造○○臣)を冠していることからみて史実とも思われるが、反正紀には天皇の系譜・宮名以外に何らの事蹟も記されておらず、また傍証となる史料もない。
 このように、出雲氏の国造就任時期ははっきりしないが、諸説を勘案すれば5世紀後半から6世紀にかけての頃とみられる。

 なお、ここでいう出雲国造の権威が、出雲国全域に及んでいたかどうかは疑問で、その支配範囲は、出雲氏の本拠・意宇郡を中心とする出雲国東部に限られたものだったとも思われる。

 国造就任後の出雲氏は、大和朝廷の権威と勢力を背景に出雲西部への進出を図り、中央から派遣された物部氏らの支援のもと、西部一帯の群小氏族を制圧するとともに、そこで崇拝されていたオオナムチ信仰の祭祀権を掌握したという。

 通常、新しい土地へ進出した氏族は、己の崇拝する神(この場合は、熊野大神クシミケヌ)を持ちこむことが多いが、ここでは在地の神・オオナムチを祀っている。
 これはオオナムチ信仰が、無視できないほど強大であったことを示唆するものではあるが、一方では、先住の群小氏族が霧散したことで祀られなくなった神がもたらす祟りを畏れ、それを鎮めるために祀ったのであり、また、それによる人心掌握を目途としたものであろうともいう。

 国造家による祭祀権掌握以前のオオナムチ信仰がどのようだったかは不明。ただ、風土記出雲郡条に杵築大社以外にも企豆伎(キヅキ)を名乗る小社が6社みえることから推測すれば、各地にオオナムチを祀る小祠が点在していたとも思われ、出雲西部に進出しオオナムチ祭祀権を掌握した国造家は、それら小祠の中の一つを撰んで杵築大社(あるいは、その前身)として造営奉斎したと思わる。

 ただ、国造家がオオナムチの祭祀権を完全に掌握し、これを出雲第一の大社へと成長させたのは、国造家が一族をあげて杵築の地に移った後と思われ、それ以前(8世紀初頭ころ)のオオナムチは、出雲国造神賀詞(続日本紀・霊亀2年-716-の国造果安の奏上が初見)
  「伊邪那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命、国作り坐しし大穴持命二柱の神」
と、熊野大神の次に並記されているように、国造家本来の奉斎神・熊野大神に次ぐ大神とされている(出雲の一ノ宮は熊野大社であって、杵築大社は準一ノ宮的扱いか)

 国造家の西遷時期については、大きく二つの説がある。
①26代国造果安の時代に移ったとする説
 国造系譜の26代国造果安臣(ハタヤスノオミ、国造在位708--21、霊亀2年に神賀詞を奏上している)の脇注に
 「伝に云う、 始祖天穂日命齊を大庭に於いて開き、此に至り、始めて杵築之地に移る」
とあり、これによって、国造家は8世紀初めの頃に杵築の地へ移ったとするもので、これを採る先学は多い。

 ただ、この当時は出雲国造であるとともに、律令制下の地方統治機構になかで意宇郡大領(朝廷派遣の国司に次ぐ地方官の最高位)という大任を兼ね(文武天皇・慶雲3年-708以降)、国造兼大領として祭政両面から統治にかかわっていたことから、その大任を帯びたままでの杵築移住は許されなかったはずで、果安時代というのは疑問ともいう。
(大領の上に、朝廷から派遣された国司-初代国司・忌部宿禰子首・710年就任-がいるが、実質的な統治には国造家一族がかかわっていたと思われる)

 この疑問に対する答えとして、
 ・風土記当時、杵築地方一帯は未だ荒蕪の地であったため、国造家が他の氏族とともに進出して開発にたずさわり、その進捗にともなって経済的地盤を確保するために移住した。
 ・この地の開発は朝廷の方針であり、それを委ねられた国造家が朝廷の支援のもと杵築の地に進出し、その開発の成果を待って本格的に移住した。
 ・律令制の定着にともない、政治的権威を失墜しつつあった国造家が、その保身策のひとつとして、記紀にいう出雲神話(国譲り神話)を目に見える形で示すために杵築の地に進出して杵築大社を創建した。それは、出雲神話の正当化を目論む朝廷の意に沿うものでもあった。
などがあるというが、何れも裏付けるものはなく推測にすぎない。

②国造家が意宇郡大領の職を解かれた延暦17年(798)以降とする説
 律令制制定当初は国造の郡領職(大領・少領などの地方官)兼職が認められていたが(書紀・孝徳天皇大化2年-646条に、「郡司には国造のなかで性質が清廉で時務に堪える者を撰んで大領・少領とし・・・」とある)、律令制の定着にともない次第にその兼職が解かれていったが、そんななかにあって、出雲国造と筑前宗形国造(宗像氏)のみは特例として兼職を認められていたという。
(一口に国造というが、同じ国造でも、律令制度制定以前と以後とでは違いがある。制定前のそれは、その地方の有力豪族の権力を追認する形で任命されたもので、祭政両面にわたる強大な権威権力を持っていたが、制定後は、これらの旧国造は一旦は廃止され、新たな地方統治制度のなかでの地方官としての新国造が任命されたといわれ、ある意味では、宗教的権威に特化された名誉職的なものだったともいう。そのなかで、出雲国造は旧国造時代からの権威をも引き継いだ特殊なもので、それは国譲りに際しての始祖・アメノホヒの功績に由縁するものだったという)

 その兼職が解かれたのは、桓武天皇・延暦17年(798)の太政官符で、そこには
 「出雲国意宇郡大領を任ずる事
 出雲国造は、慶雲3年以降国造・郡領(大領・少領)を兼ねさせていたが、神事に言寄せてややもすれば公務が疎かになっている。・・・ 故に、今後は、旧制を改め、国造・郡領職を分けて之に任ずるようにせよ」(類聚三代格、大意)
とあり、これによって出雲国造は約90年にわたって兼職していた大領職を解かれたという(国造系譜によれば、32代国造人長の時代という)

 大領職を解かれたことは、国造家がそれまで持っていた政治的権威・権限が剥奪され、宗教的権威のみが残されたことを意味し、その宗教的権威を確実にするために、記紀にいう杵築大神・オオナムチの祭祀権を完全に掌握し(熊野大神は記紀には記されていない)、これを天つ神にまで押し上げることで、自家の宗教的権威や天つ神の神主としての立場を強化維持しようとして、その本拠である杵築の地に一族をあげて移住し、杵築大社の経営に携わるようになったといわれ、
 82代国造・千家尊統氏は、その著・出雲大社(1968)のなかで、
 「意宇郡大領兼帯という政治的権限をうしなった平安初期に、意宇郡には大庭の熊野の神の遙拝祠ならびに国造館をのこして、大国主鎮座の杵築の地にあげて移転し、宗教的権威にひたすら生きることになったのではあるまいか」
という。

 これらからみると、出雲国造家は遅くとも8世紀末あるいは9世紀初頭頃には、一族挙げて杵築の地に移住したと思われ、杵築大社の本格的な造営と経営もその頃に始まったのではなかろうか。

※祭神
  大国主大神
 記紀等におけるオオクニヌシは、
 ・古事記--大国主神
 ・日本書紀--8段一書1(系譜)及び同一書6(別名)に大国主神とある以外は、大己貴命(オオナムチ)
 ・出雲国風土記--天下所造大神大穴持命(アメノシタツクラシシオオカミ・オオナモチ)・天下所造大穴持命・大穴持命
 ・出雲国造神賀詞--国造坐大穴持命(クニツクリマシシオオナモチ)
とあり、別名として次の名がある。
 ・古事記--大穴牟遅神(オオナムチ)・葦原色許男神(アシハラシコオ)・八千矛神(ヤチホコ)・宇都志国玉神(ウツシクニタマ)
 ・書紀--古事記の4神に加えて、大物主神(オオモノヌシ)・大国玉神(オオクニタマ)

 大国主・オオクニヌシとは、字のとおり“偉大なる国土の主”を意味し、各地の土着神霊である国魂神(クニタマ)を統率した偉大なる神格を指す。
 大己貴・オオナムチもまた、その“ナ”が“大地”を意味することから、“大いなる大地の神”を意味するといわれ、その意味ではオオクニヌシ・オオナムチは同意といえる。

 風土記におけるオオナムチには“国造りしし大神”が冠されているが、その原姿は、簸川北側の簸川平野を開発するにあたって、この新開地の守護神として祀られたものではないかという。その原姿からみて、出雲土着の素朴な豊饒神・農神・漁撈神であったともいえる。
 そのような、素朴な自然神であったオオナムチへの信仰が成長し周辺各地に広まっていくなかで、その土地の神々(土着神)と習合して、医療・禁厭(マジナイ)・霊酒・温泉神など多くの神格が付加され、最終的に“天下所造大神”(アメノシタツクラシシオオカミ)と称えられる大神として尊崇されるようになったと思われる。

 換言すれば、その発祥の地とされる出雲で、国造りの大神・オオナモチ(オオナムチ・オオアナムチ・オオアナモチ)として崇拝されていたものが、各地へとひろがるにつれて、土地々々の地主神(国魂神・クニタマ)を統合した国土の総地主神(大国魂神)へと変貌し、それが記紀編纂の段階で、地祇(国つ神)の統領としてのオオクニヌシ(偉大なる国土の主)へと昇華し、あわせて、その出自をスサノヲと結びつけられた(6世の孫)と思われる。

 当社祭神は、由緒からいって、当初からオオナムチ(オオクニヌシ)であったはずだが、平安中期頃から江戸前期にかけての数百年間、スサノヲとされていたという。
 その初見は、先代旧事本紀(9世紀前半頃、物部氏系史書)に記す、
 「イザナギが身体を濯がれたとき三柱の神が生まれた。・・・
  御鼻を洗われたとき成った神の名は建速素戔鳴尊、出雲国の熊野神宮と杵築神宮に坐す」
との記事で、9世紀初頭頃には、杵築・熊野両大社の祭神を天神(天つ神)であるスサノヲとする認識があったのだろうという。

 また、延喜式・神名帳の出雲国出雲郡・社寺条には、冒頭に大穴持神社(小社)とあり、その次・2番目に杵築神社(名神大社)の名が記されている。
 延喜式での神社名は、その郡内での最高位の神社(名神大社)を筆頭に記し、以下おおむね地域順に並んでいるという。ところが出雲郡のみは、名神大社である杵築大社の前に、小社である大穴持神社(祭神:オオナムチ)が記されるという不自然な形となっている。
 このことは、延喜式当時(10世紀前期)、既に、杵築大社の祭神はスサノヲと認識されていたことを示すもので、社格としては杵築大社が高いものの、出雲郡がオオナムチ信仰の本拠地であることから、これを無視するわけにはいかず、オオナムチを祀る大穴持神社を冒頭に記したのではないかという(今、大穴持との神社はない。大社のなかに吸収されたと思われるが、大社の資料にその痕跡はない)

 この祭神の変更は、意宇郡大領という政治的権限を剥奪され、遠く出雲郡に西遷して杵築大社を奉斎することになった出雲国造が、その祭神を国つ神・オオナムチから記紀にいう天つ神・スサノヲに変えることによって、これを天つ神を祀る社へと押し上げ、それによって、それまで意宇郡を中心に築いてきた天つ神の神主としての地位(熊野大社では、早くからスサノヲとされてきた)を保持し、自家の宗教的権威を保とうとしたのではないかという。

 これは、祭神の変更と出雲国造が持っていた政治的権威・権限の失墜とを結びつけたものだが、他に、当社の神宮寺を兼ねていた浮浪山鰐淵寺(ガンエンジ)の縁起に求めたものがある(ネット資料)
 それによれば、鰐淵寺縁起に、“出雲の国引き・国造りの神はスサノヲ”とあり、それにともなって“当社の祭神もスサノヲとするようになった”とあり、14世紀の杵築大社由来書には、
 「当社大明神は天照大神の弟・素戔鳴尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。また浮浪山を留めて垂れ潜む」
とあるという(鰐淵寺縁起・大社由来書未見のため確認不能)

 ただ、この出所である鰐淵寺縁起とは、神仏習合・本地垂迹思想をもとに記紀神話を再解釈・改竄した所謂・中世神話の類のようで(スサノヲの本地は蔵王権現とあるという)、これを以て、当社祭神をスサノヲとするには疑問がある。
 なお鰐淵寺とは、当社の北東約6kmに現存する大寺で(推古天皇2年(594)創建との伝承をもつ)、神仏習合思想展開のなか、中世以降は当社の神宮寺的存在だったという。
 なお、神仏分離といえば、通常は明治初年のことととされるが、当社では寛文の遷宮(1667)にあわせて分離がなされ、この時、鰐淵寺との関係が断たれ、境内にあった堂塔が廃せられたという

 このスサノヲ祭神説は中世以降近世前期頃まで続き、中世の文献は全て祭神をスサノヲとし、近世に入っても、本朝神社考(1638頃・林羅山)・神社啓蒙(1667・白井宗因)などには祭神素戔鳴尊とあるという。

 また、境内入口に立つ寛文6年(1666)の藩主・毛利綱広寄進の銅鳥居に陰刻された銘文のなかに、
 「日神者地神五代之祖天照大神 月神者月読尊是也 素戔鳴尊者雲陽大社神也
とあり(雲陽大社=杵築大社)、江戸前期頃にはスサノヲ祭神説が一般化していたことを示している(些少ながら、オオナムチとする例外資料もあるという)

 この祭神・スサノヲが本来の祭神・オオナムチへ復した時期ははっきりしないが、文献上では、延宝7年(1679)の勘文(カンモン・朝廷への報告書)に記す「本殿 大己貴大神一座素盞鳴尊外祭之」を嚆矢とし、和漢三才図会(1715)にも「祭神 大己貴尊」とあることからみると、江戸中期には祭神・オオナムチへと復帰していたらしい。
 今、スサノヲは本殿北側の瑞垣外にある摂社・素鵞社(ソガノヤシロ)に祀られている。
出雲大社・銅鳥居/銘文(部分)
銅鳥居・銘文(部分)

 なお、祭神名がオオナムチからオオクニヌシへ変わった時期は不詳。明治初年、社名が杵築大社から出雲大社へ改称された時ではないかと思われる。 


※社殿等
 荒垣で囲まれた境内の南正面入口に“銅鳥居”(1666・江戸前期建立、H≒6m)が聳え、境内に入った正面に大きな拝殿(大社造切妻造の折衷様式・間口七間・奥行十三間、檜皮葺、昭和34年再建)が、その背後、一段高い瑞垣(正面に八足門あり)と玉垣(正面に楼門あり)によって二重に囲まれた神域内に本殿が、それぞれ南面して鎮座する。

 本殿は、切妻造・妻入りの“大社造”(高床式)、高さ8丈(24m)、方6間(10.9m)四方、正面・背面・側面とも柱間は2間、外周に縁がある(昭和27年-1952-国宝指定)
 本殿中央に“心御柱”(シンノミハシラ)と称する太い柱(H=11.8m)が、その南北に宇豆柱(ウズバシラ、H=15.5m、棟持柱兼用)が、東西両側に脇柱(3本ずつ、H=11.5m)が立つ。

 内部は4っの区画に区切られ(田の字型)、中央の心御柱と東側側柱との間に間仕切の板壁があり、その奥(北東区画)に“御内殿”と称する神座が西面して鎮座し、一般の参詣者は神座を横から拝する形となっている。
 神事に際しては、正面右手(東側)の柱間から入り、左・右・右と逆コ字型に進んで最奥部の神座前に至り、神座は西方・浜の方を向いている。
 これにはいろんな解釈があるが、そのひとつに、元々オオナムチは海の彼方・常世から来訪する神(マレビト神)として信仰されていたのではなかったかともいう。

 なお、本殿北西の区画には“御客座五神”が南面して祀られているという。祭神は、古事記にいう別天神五柱(コトアマツカミイツハシラ-天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・宇麻志阿詞訶備比古遅神・天之常立神)というが、その勧請由緒は不明。

 現在の社殿は延享元年(1744・江戸中期)の造営といわれ、その後、文化6年(1809)・明治14年(1881)・昭和28年(1953)の遷宮にあわせて修造がおこなわれたという。参詣時、平成の大遷宮(平成25年・2013)に向けての大規模な修造がおこなわれていた。

出雲大社/社殿配置図
社殿配置(模式図)
出雲大社/社殿模型
玉垣内社殿模型
(大出雲展カタログより転写)
出雲大社/本殿内陣図
本殿内陣(模式図)
出雲大社/拝殿
出雲大社・拝殿
出雲大社/本殿
同・本殿
出雲大社/瑞垣正面
同・瑞垣正面(左端が八足門)
(社頭案内より転写)

 今の本殿は高さ8丈(約24m)だが、由緒略記には、
 「社伝によれば、最古の高さは32丈(約96m)、その後16丈(約46m)となり、平安時代の“口遊”(クチズサミ)に奈良東大寺大仏殿より大きかったと記された蓋然性も高く・・・」
とある。

 因みに口游とは、平安中期、当時の社会常識を子供にも暗誦できるように短い言葉で纏めた一種の教養書で、そこには
  「雲太(ウンタ)・和二(ワニ)・京三(キョウサン)  今案 雲太とは出雲国城築明神之殿を謂ふ出雲郡に在り、和二は大和国東大寺大仏殿を謂ふ添上郡に在り、京三は大極殿・八省を謂ふ」
とあり、当時の建造物中、雲太=出雲大社本殿が最も高く、和二=奈良東大寺大仏殿(約45m)が2番目、京三=大極殿が3番目というのは庶民が持っている一般常識だったという。

 この社殿高については、明治以降、その信憑性について論議があったが、
 ・千家国造家に伝わる「金輪御造営差図」の9ヶ所の柱位置に、直径1mほどの巨木3本を一組として金輪で締め付けた直径1丈(約3m)の柱が描かれていること
 ・平成12年(2000)、境内から図面通りに、巨木3本を一組とした柱(正面中央南の宇豆柱-棟持柱、杉材、鎌倉宝治2年・1248遷宮時のものかという)が出土したこと(翌2001年、同形の心御柱と東側柱が出土している)
 ・口游の存在
などから、高さ32丈はいざしらず、高さ16丈の建物なら実在した可能性は強いという。

 なお出土地点は、瑞垣と拝殿との間、八足門の南やや西に当たり、今、色替わりの舗装材(円形3個)で表示してあり、法治2年の遷宮時に、本殿位置が北方に遷ったことを示している。

出雲大社/古代社殿復元模型
古代社殿・復元模型(想定)
(大出雲展カタログより転写)
出雲大社/出土した宇豆柱
出土した宇豆柱(同左)
出雲大社/金輪御造営差図
金輪御造営差図
(略記より転写)
宇豆柱出土位置
宇豆柱出土位置

摂末社
 当社には、摂社17社(内、境内8社)・末社6社(内、境内3社)がある。
*境内摂社-瑞垣内(垣が高く内部は見えない)
 ・筑紫社・ツクシノヤシロ(式内・神魂御子神社・カンムスビミコカミノヤシロ)--祭神:多紀理比売命  本殿の左(西側)
    祭神・タキリヒメは、アマテラスとスサノヲのウケヒにより成り出た三女神(スサノヲの娘とする)の一柱で、
    オオナムチとの間にアジスキタカヒコネ命・シタテルヒメ命を生んだという。
    摂社の中で最重要視されているというが、タキリヒメを最重要視する理由は不詳。
    式内社名をカンムスビミコ社ということから、本来は、カミムスヒの御子で、
    オオナムチとともに国造りをなしたスクナヒコナではないかともいう。

 ・御向社・ミムカイノヤシロ(式内・大神大后神社・オオカミオオキサキカミノヤシロ)--祭神:須勢理比売命  本殿の右(東側)
    祭神・スセリヒメはスサノヲの娘でオオナムチの正妻。オオナムチが大和へ妻乞いに出かけようとするとき、
    歌を詠んでこれを押しとどめ、以後、二人して仲良く鎮まったとあり(古事記・大意)、その地が当所という。

 ・天前社・アマサキノヤシロ(式内・伊能知比売神社・イノチヒメカミノヤシロ)--祭神:蚶貝比売命・蛤貝比売命  御向社の右(東)
    祭神・キサガイヒメ・ウムガイヒメは、オオナムチが八十神に欺され焼けた大石に抱きついて死んだとき、
    御祖神・カミムスヒの命により、これを治療し蘇らせた女神(古事記・大意)
    式内社名・イノチヒメ神社とは、この伝承によるものであろう。

 ・門神社・ミカドノノヤシロ-2宇--祭神:(東)宇治神・(西)久多美神--門番の神  八足門の東西 (延享元年-1744-遷宮時に造営)

*同-荒垣と瑞垣の間
 ・素鵞社・ソガノヤシロ--祭神:素盞鳴尊  本殿の背後(北)  (延享5年-1748-造営) 
               嘗ての祭神・スサノヲを摂社として祀ったもの (修復中のため不参詣)
 ・氏社・ウジノヤシロ-2宇--祭神:(北)天穂日命(国造家の遠祖)(南)宮内宿禰(国造家17代の祖・初代国造という)  
                 本殿域の左手(西)・西十九社の北に並ぶ

*境内末社-荒垣と瑞垣の間
 ・十九社・ジュウクシャ-2宇--本殿域の東西に相対して建つ細長い社殿、通常は八百万神(ヤオヨロズノカミ)を拝する遙拝所だが、
                   陰暦10月(神在月)に全国から集まる神々の宿舎という (延享5年造営)
 ・釜社・カマノヤシロ--祭神:宇迦之魂神(ウカノミタマ)
              祭神への御饌を掌る神 本殿域の右、東十九社の北にある小祠 (延享5年造営)

出雲大社/摂社・氏社1
摂社・氏社(南)
出雲大社/摂社・氏社2
摂社・氏社(北)
出雲大社/東十九社
末社・東十九社
(同形の末社が西側にもある)
出雲大社/釜社
末社・釜社

主な参考図書--式内社調査報告(1983)・日本の神々7(2000)・出雲風土記(1999・講談社学術文庫版)
            ・出雲大社由緒略記(2003)・出雲大社(1968・千家尊統)・出雲神話(1976・松前健)
            ・出雲神話の誕生(2006・鳥養憲三郞)

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