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神 魂 神 社
島根県松江市大庭町宮山
祭神--伊弉冊大神・伊弉諾大神
付--岩坂陵墓参考地(伊弉冉尊御陵参考地)
                                                  2018.12.17参詣

 JR山陰本線・松江駅の南南東約4.5km、駅東の国道432号線を南下、八雲立つ風土記の丘北側交差点を西へ約1km弱入った処に鎮座する。社名は“カモス”と読む。
 当社は、出雲国風土記・延喜式神名帳いずれにもみえないが、出雲国造家と特別な関係をもつ神社という。式外社

※由緒
 社頭の案内には、
 「当社は出雲国造の大祖・天穂日命がこの地に天降られ出雲の守護神として創建、以来天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで奉仕され、大社移住後も『神火相続式』『古伝新嘗祭』奉仕のため参向されている(以下略)
とある。

 当社について、日本の神々7(2000)は次のように記している(要約)
 ・この地域は古代出雲の中心地であって、律令体制成立以前から出雲国造(出雲臣)に率いられた人々が居住し、熊野大神を祖神として崇めながら、当地一帯に蟠踞していた。
 ・律令体制が成立し意宇川東部に出雲国庁が設けられ(当社の東約2km弱に国庁跡あり)中央政府から国司が赴任してくると、出雲国造はその配下に入り、旧勢力の代表として郡司に任じられ(郡司の長官である大領及びそれにつづく要職を略独占したという)、それまで持っていた施政権は放棄させられたものの熊野太神に対する祭祀権は手放さなかったという。
 ・この地は、出雲国の行政・文化・軍事・交通の中心であったが、中央集権化が進むつれて出雲国造の権威は弱体化し、延暦17年(798)の“国造郡領兼帯の禁”によって施政権を完全に喪失し、遂には当地を去って西方の出雲郡杵築(キヅキ)の地に移らざるをえなくなった。→出雲国造家の西遷
 ・国造家は施政権は放棄したものの、熊野大社に対する祭祀権は保持し、加えて杵築大社(現出雲大社)の祭祀権をも掌握し、その宗教的権威をもって出雲における神マツリを統括したという。→出雲大社大己貴祭祀権の掌握

 これに関連して、82代国造・千家尊統氏(出雲大社宮司)
 「意宇郡大領兼務という政治的権限を失った平安初期、意宇郡には大庭の熊野大神遙拝所ならびに国造館を残して、大国主鎮座の杵築地区に移転し、宗教的権威に生きることになったのであろう」
といっており(出雲大社・1968)、ここでいう熊野神遙拝所が当社の前身かと思われる。

 また、
 ・かつての出雲国造の居館が何処にあったかははっきりはないが、神名樋野(山代町の茶臼山、麓に真名井神社あり)に面し熊野大社(当社の南約6km)への往来に便利な当社の辺りではなかったかと思われる。
 ・当社は出雲風土記にも延喜式にも見えないが、鎌倉時代初期には「神魂御領」「出雲国大庭社」として文献に登場し、時代を降るに従って著名になった。
 ・これらのことからみて、当主は元々から通常の神社ではなく、出雲国造家の大庭における祖神の斎場というべきものであったと推定される。

 国造西遷後の当社が如何なる経過を辿ったかははっきりしないが、
 ・日本の神々ーー国造西遷のあと、従来の国造家斎場がいつしか地元の氏神社として崇敬されるようになり、周辺の伝承をもとに縁起も生まれ、祭神も伊弉冉命へと変わっていったのではないか
 ・式内社調査報告(1983)ーー国造家西遷後の郷村社会の形成とも相俟って、当該地区の産土神としての形をなすに至り、社号を神魂と称しながらも、いつのまにか祭神を伊弉冉尊とするに至ったのではないか。
 ・その事由及び時期は明らかではないが、あへて想像すれば、時期は古代末で、事情は熊野の御師(オシ、熊野信仰の功徳を全国に説いてまわり、参詣者を案内した人)によるものではなかろうか
という(時期不明ながら、同じ熊野という地名からか、この地には紀州の熊野勢力が入り込んだようで、熊野大社近くにも紀州系の熊野神社があった)

 しかし、国造家は西遷したとはいうものの、国造家と意宇郡との関係は存続し、国造の代替わり毎におこなわれる「国造火継式」(ヒツギシキ)及び毎年の陰暦11月の中卯の日におこなわれる「新嘗祭」(ニイナメサイ、古伝新嘗祭ともいう)には、国造自らが杵築から当社に出向き、熊野大社において古式に則って神事を執りおこなうという。

◎創建時期
 当社を出雲国造家の祖神を祀る斎場とみれば、その創建は奈良時代あるいはそれ以前(7・8世紀)となろうが、その時点で、神社としての形態が整っていたかどうかは不明で、
 神社としての当社は、国造家西遷以降、国造家斎場が地元の氏神社へと変貌した後(9世紀以降)とみるのが妥当だろうが、その時期を推測できる資料はない。

 ただ、幾つかのネット資料には
 「文献上の初見は、承元2年(1208)鎌倉将軍下文であり、実際の創建は平安中期以降とみられる」
とあり、当社の創建は平安前期から中期にかけての頃ではないかと思われる。
 なお、文献上での所見という鎌倉将軍下文が如何なるものかは不明(鎌倉幕府の記録・吾妻鏡には見えない)

◎火継式
 国造火継式とは、出雲大社由緒略記によれば
 「古伝によれば、出雲国造の元祖・天穂日命(アメノホヒ)が天照大神の御命によって大国主大神の祭主となられたとき、熊野大神・櫛御気野命から燧石と燧杵を授けられ、以来、これより鑽り出した神火によって潔斎をなし、常に清浄な身を以て大神に仕えられました。
 したがって、天穂日命の後継者・国造となるには、この神火を継承することが最も重大な儀式で、“火継ぎ”あるいは“神火神水相続”と称し、神代以来今日に至るまで、国造の代替わり毎に、古伝のまま厳粛にお仕えされています」
という。

 国造が逝去すると、それを伏せたまま、次期国造は直ちに居館を出発して熊野大社に赴き、鑽火殿において、持参した神宝の火鑽臼・火鑽杵を以て神火を切り出し、その神火によって調理された食事を神前に供えるとともに自らも食する神事で、これを食することによって元祖・天穂日命から代々継承されてきた命の霊威を継承して、大国主命を奉祀する新国造となり、、この火継ぎ神事終了の知らせがあった後に旧国造の逝去が発表され葬儀がおこなわれるという。

 陰暦11月中卯の日の夜に催行される古伝新嘗祭も、本来は国造自らが熊野大社に参向しておこなれる神事で、本来は熊野大社でおこなわれるものだが、何時の頃からか(中世以降ともいう)、山路険悪・積雪による交通至難などを理由に神魂神社でおこなわれるようになったが、明治5年(1872)以降、出雲国造・千家は旧例に帰るとして熊野大社で催行し、同北島家はそのまま当社で催行しているという(国造家は南北朝時代・第55代国造の時、千家・北島家に別れている)

◎神紋

 当社の神紋は“二重亀甲に有”で(右写真)、拝殿の幔幕をはじめ境内各所に見ることができる。
 この紋の意味について、
 ・諸国の神々が出雲国に集まるとしう神在月(カミアリツキ、一般には神無月という)は旧暦十月の異称だが、その十月の“十”を“ナ”と改変し、これと“月”とを組み合わせて作られたという説
 ・当地は国造家の遠祖・天穂日命が最初に降臨した地との伝承があり、当社の東・意宇川の間に“有”という小字があり(現大草町付近・有公民館あり)、この地名は“命の降臨”すなわち“みあれ”(生誕・降臨)からきた地名で、これを神紋としたという説
があるという。 
 
神紋

 ただ、二重亀甲に有を神紋とする神社は当社のみでなく、真名井神社・六所神社も同じくするが、これは戦国時代の頃、この2社が当社の末社とされていたことからかもしれない。

 なお常用字解(白川静・2003)によれば、「有(ユウ)とは金文(古代中国の青銅器に鋳込まれた古代文字)にみるように「又(ユウ)と月とを組み合わせた文字で、有は祭肉を手に持って神に供え、神にすすめるの意味になる」とあり、神マツリに関係する文字というから、神紋とするには相応しいのかもしれない。


※祭神
 当社は、伊弉冉命を主祭神とし伊弉諾命を合祀しているが、当社の元姿が出雲国造家の祖神を祀る斎場であったとすれは、その祭神は国造家の遠祖・天穂日命とみるのが順当と思われる(古事記に、「天菩比命の子・建比良鳥命 こは出雲国造が祖なり」とある)

 天穂日命とは、アマテラスとスサノオのウケヒ(結果を宣言しておこなう呪術)によって成りでた神で、記紀には
  「(スサノオがアマテラスの)右の角髪(ミズラ)に巻いておられる玉の緒を受け取って、これを噛みに噛んで砕き、吐き出す息の霧から成りでた神の御名は天之菩卑命(アメノホヒ)。天之菩卑命の子・建比良鳥命(タケヒラトリ、天夷鳥ともいう)は出雲国造・・・等の祖なり」
とあり、
 「葦原中国の国譲り交渉の使者として、天穂日命を遣わしたが、この神は大国主神に媚びへつらって、三年経っても復命しなかった」
として、使命をまっとうしなかったとある。

 これに対して、出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコノカムヨゴト、新任国造が天皇に対して奏上する寿詞)では
 「皇祖神の命を受けた出雲臣の遠祖・天穂日命は、その子・天夷鳥命(アメノヒラトリ)に布都怒志命(フツヌシ)を副えて大八嶋国に天降らせて、荒れ狂う神々を平定し、大穴持大神の心を和らげて、国の統治の大権を譲ることを誓わせた」(大意)
と、国譲り実現に大功があったとあり、出雲国造が遠祖とするのは神詞にいう天穂日命であろう。

 当社主祭神が伊弉冉大神になった経緯・時期は不詳。
 これについて、日本の神々7は
 ・当社を含む神納の地は、出雲国造の遠祖・天穂日命最初の降臨地であるという
 ・古事記には、伊邪那美命は出雲と伯耆の境にある比婆山に葬られたという記述があり、出雲ではその地を意宇郡の神納の地(当社を含む丘陵一帯)にある小墳丘に比定し、そこに命の御魂を祀ったのが神魂社で、のちに現在地に遷ったとする
 ・おそらく、国造西遷のあと、従来の国造家の斎館が何時しか地元の氏神社として崇敬されるようになり、周辺の伝承をもとに縁起も生まれ、近世になると祭神も次第に固まっていったのであろう
 ・なお神納の小墳丘は、明治35年に「伊弉冉尊御陵参考地」に指定されている(下記)
という。

 これによれば、伊邪那美命の葬地という比婆山を神納山に比定し神魂社として祀っていたが、ある時期に、これを当社に遷し、祭神を天穂日命より著名な伊邪那美命と変更し、本来の祭神である天穂日命の名が消えたということになるが・・・。。

 ただ、伊弉冉命墳墓の地とされる比婆山は、意宇郡だけでも数カ所あり、特に安来市横尾にある比婆山がよく知られているが(下記)、それが何れの地であっても、神話にいう墳墓の地を現地に求めののはナンセンスではある。


※社殿等
 道路脇の鳥居をくぐり、道路に沿った参道を進み、突き当たりを右へ曲がり、長い石段を上った上が境内。


神魂神社・入口 

同・一の鳥居 
 
境内への石段

 石段を上ったすぐに随神門があり(中は通れない)、その奥に拝殿・本殿が接続して建っている。

 本殿内部の詳細は実見不能だが、現在の本殿は天正11年(1583・室町末期)の建造で、規模は小さいが、古式に則った建築様式で、内部構造等は神座が出雲大社とは反対の東向きになっており、柱・梁・天井などには極彩絵が描かれ、華麗な壁画も巡らされているといわれ、昭和27年(1952) 国宝指定を受けている。


神魂神社・随神門 
 
同・拝殿
 
同・本殿
 大社造本殿の内部は、右図にみるように、中央の心の柱を中心に前後左右4っの区画に区分され、
 出雲大社ではその右上の区画に西面して神座が置かれ(男造・オヅクリ)
 神魂神社では、それとは左右逆で左上の区画に東面して神座が置かれている(女造・メヅクリ)
 ただ、この違いが何処からくるものかは不明。


左:出雲大社   右:神魂神社


◎境内社
 本殿左右の山裾に境内社が並ぶ。
*本殿の向かって右
 境内社4社、向かって左(本殿側)より杵築社・伊勢社・熊野社・お釜殿と並び、お釜殿の中には大きな鉄釜が置かれている。

 この鉄釜は、昔、天穂日命が高天原より降臨するとき鉄釜に乗ってきたという伝承に因むもので、毎年12月にお釜神事が執りおこなわれるという。

 
境内社4社
(左より、杵築・伊勢・熊野・お釜殿)
 
鉄釜(お釜殿内部)

*本殿向かって左
 本殿の左には、向かって右(本殿側)より、貴布禰稲荷合祀社・外山社・荒神社・蛭子社・武勇社が並び、荒神社と蛭子社の間には神籬跡とおぼしきものがある。

 なお、貴布禰社稲荷合祀社は桃山時代の建築様式を伝える二間社流造で、国の重要文化財(昭和27年指定)
 また、この社の社宝として尼子経久着始めの鎧との伝承がある室町中期の色々威腹巻一領があり、県指定の文化財という。

 
貴布禰・稲荷合祀社

外山社 
  荒神社

 荒神社と蛭子社との間に、木と竹を組み合わせて注連縄を張った簡単な鳥居が立ち、その奥に竹矢来を四角に組んだものがあり、中には組み合わせた木材に荒縄をまいたものが納まっているが、これが何なのかは不明。
 現地ガイドの話では「当社最初の祭場跡ともいう」というが、とすれば、当社が未だ社殿を有しなかった頃の神マツリの場である神籬(ヒモロギ)の跡で、当社祭祀の原点として再現したものかと思われるが、詳細は不明。

 
左から武勇社・蛭子社・神籬跡
 
神籬跡・正面

神籬跡 

 なお、これら境内社の勧請由緒・時期等は不明で、また外山社・武勇社が如何なる社かはわからない。



【岩坂陵墓参考地】(伊弉冉命陵墓参考地)
 松江市八雲町日吉  
 神魂神社の南東約1km、神社から東へ出て国道432号線を南下、神能峠(カノウトウゲ)を越え意宇川に達する手前南側(右手)に位置する。

 陵墓前の案内には
 「古事記にある比婆山はこの地で、伊弉冉命の御神陵と伝えられている。
 古くから子授け・安産の守護神として広く崇敬された処である。
 明治33年、宮内省が全国十数所の伊弉冉命御陵伝承地中保存すべきものとして認定し、陵墓参考地に指定したものである」
とある。

 また、島根県観光協会HP[古事記の神話]には
 「神納山(岩坂陵墓参考地)
  古事記には、イザナミの亡骸は出雲国と伯耆国の境の比婆山(ヒバサン)に葬られたと記されているが、その伝承地は各地にあり、そのひとつが神能山である」
とあり、
 江戸時代に松江藩が編纂した雲陽誌(意宇郡日吉条)は、
 「神納山  剣山を去ること五町ばかり、社職伝えて曰く、伊弉諾命を伊弉冉命追い来たり給い、神魂自ら鎮まり坐す所也。ゆえに神納という。此所より大庭に遷りて神魂明神という」
として、神納山はイザナミが自らの魂を鎮めた地であり、後にここから大庭の神魂神社へ遷ったという。

 火の神・カグツチを生んだ時、ホトを灼かれて亡くなったイザナミの葬所については、
 ・古事記--お亡くなりになったイザナミ命は、出雲国(島根県)と伯耆国(鳥取県)との境にある比婆の山に葬りもうしあげた
 ・書紀5段一書5--イザナミが火の神を生むときに、身体を焼かれてお亡くなりになった。それで紀伊国の熊野の有馬村に葬った(イザナミの墓所といわれる花の窟がある)
と、古事記と書紀とでは異なっている。

 今の当地は丘陵地(神納山)を分断する形で峠越えの国道が通っているが、嘗てのこの辺りには道らしき道はなかったようで、季刊山陰(NO31、ネット資料)によれば、山頂に直径約10m・高約1mの円墳があるというが、陵墓地内ということで調査等はできていないという。

 今、国道4角に樹木で覆われた小山(これを陵墓とするのであろうが、人の手が入っていない自然の山とみえる)があり、その裾に柵と扉とがあるだけで、その中は山裾が迫っているだけで何もない。

 
岩坂陵墓参考地・正面
 
同・全景

 この神納山を宮内省が如何なる根拠でイザナミが葬られた比婆の山であるとして陵墓参考地に認定したのかは不明だが、季刊山陰(NO31)によれば、明治29年(1896)八束郡在地の有志からの「御陵及び古蹟之儀上申」に始まったようで、そこには
 「従前煙滅したる御陵墓追加に御定めの中に、伊邪那美命御陵御定めの儀 未だなく遺憾に存じ奉り候。
  爰に年久しく実地其他を探求候処、幸い我出雲国八束郡岩坂村日吉に於て該御陵を発見し候処、数多くの事蹟古典に附合申し候へば、速に御処分あらんことを渇仰して止まざる所に御座候 明治29年6月25日 八束郡熊野村 平民○○」
とあり、その後紆余曲折を経て明治33年の御陵参考地指定に至ったという。

 ただ、御陵認定に際して、宮内庁が学術上特に考古学による検証等をおこなった痕跡はみえず、この陵墓について、
 「(根拠とされる)各伝承は神代時代はおろか古墳時代までもさかのぼりえず、中世から近世のある時期に出現したものである」
との意見もあるように、
 記紀の記述を絶対の史実として幕末頃からおこなわれた各天皇等の陵墓認定の流れのなかで、在地の伝承等を基に認定したものであろう。
 たた、神話上の墓が現存するというのもおかしな話で、この陵墓参考地は伝承に基づく架空のものでしかありえない。

 伊弉冉尊陵墓伝承地は意宇郡内に7・8ヶ所があるというが、資料によって場所の表記が異なりはっきりしない。
 ただ本居宣長は古事記伝(1789)の中で、
 「比婆之山  此の山 今詳(サダカ)に知れず。国人などによく尋ぬべし」
としながらも幾つかの候補地を記し、その一つとして、
 「出雲風土記鈔に、蓋し能義郡母理郷日波村の山」
を挙げている。。
 この能義郡母理郷とは、今の安来市伯太町母里の辺りに比定され、伯太町母里に隣接する伯太町横屋に比婆山(H=331m)との山があり、その山上に鎮座する比婆山久米神社奥宮(主祭神:伊邪那美命)の本殿後ろに「伊邪那美大神神稜」と称する円墳があるという。

 伯太町の比婆山は、当岩坂陵墓参考地よりも東方にあって、古事記がいう出雲国・伯耆国の境に近く、古事記に従うかぎり、伊弉冉命神稜としては、位置的にはこちらの方が相応しいが、何時頃から神稜と称したのかも不明で、これも伝承によるものであろう(古墳の調査記録等なし)

 なお、当陵墓参考地の東、意宇川を挟んだ対岸に、イザナギが黄泉国から逃げ帰る途中、帯びていた十拳剣を後ろ手に振って追ってくる黄泉国の軍勢を追い払ったという伝承地・剣山(頂上に剣神社あり)がある。

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