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金屋子神社
島根県安来市広瀬町西比田307
祭神--金山彦命・金山姫命
配祀--素盞鳴命以下22座
                                                      2019.06.16参詣

 JR木次線・亀嵩駅の北東、駅前から国道432号線を道なりに約7kmほど東へ行って北へ折れ(左折)、一般道を約2kmほど入った山中に鎮座し、全国に1200余ヶ所あるという金屋子神社の総本社という。式外社
 社名は“カナヤコ・カナヤゴ”と読む。

※由緒
 当社に関するまとまった資料は少ないが、古代出雲製鉄集団の幻影(古代工人史紀行・1977所収、以下“製鉄集団の幻影”という)によれば、
 「伯耆の鉱山学者・下原重仲の著・鉄山秘書(1789)に、次のような伝承が記されている。
 [金屋子神祭文  雲州非田ノ伝]
 ・昔、旱天の年に土民が集まって雨乞いをしていたところ、7月7日の申のさかりの刻(午後4時頃)に、播州は宍相郡岩鍋というところへ、一柱の神が高天原から天降った。
 ・そして神託して、『吾はこれ金神(金屋子神と名乗ったとする資料もある)である。今よりあらゆる金器をつくり、悪魔降伏・民安全・五穀豊穣のことを教えよう』と仰せになって、早速、磐石をもって鍋を作り給うた。この地を岩鍋というのは、是によるものである。

 ・ところが、その岩鍋には金神が住むにふさわしい山が見当たらなかった。
 ・そこで金神は、『吾は西方を司る神なれば、西方に行かん』と仰せになって、白鷺に乗って出雲国能義郡黒田の奥にある“桂木の森”というところまで飛び、そこで一時羽を休められた。
 ・そこへ、たまたま狩りをしながら通りかかったのが安陪氏の祖・正重なる者で、正重は、その金神の姿を桂の木の枝に見つけた。
 ・やがて神託によって長田兵衛朝日長者なる者が宮社を建立し、正重はその神主とせられ、金神は自ら村下(ムラゲ・技師長)となりたまいて、朝日長者が集めた炭と粉鉄を吹けば、驚くなかれ、鉄がとどまることなく湧き出てきた。
 ・付記--右は雲州非田(比田)の社、金屋子神の社人所持伝来して 鉄山の高殿(タタラ場)・鍛冶に至る毎に是をとなえ奉るところの秘密の祭文なり。
とあり(当社社頭の案内も略同じ)、重仲は、当時伝わっていた金屋子神社の縁起をそのまま記録したのであろうという(以下・祭文という)

 金屋子神が最初に天降ったという播磨国岩鍋とは、現兵庫県宍粟市千種町(シソウシ チクサマチ)岩野辺の辺りに比定され、現地には『古代製鉄の神 金屋子神 降臨の地 岩鍋』と刻した石碑が立っているという(ネット資料)
 この岩鍋の辺りは、播磨国風土記・宍禾郡(宍粟郡)条に
 ・柏野(カシハノ)の里 敷草村(現千種町付近) 草を敷いて神の御座所とした。故に敷草という。 鉄を産す
 ・御方(ミカタ)の里  大神が形代として御杖を立てられた。故に御形という。金内川に鉄を産す
とあるように、古くから鉄の産地として知られており(敷草村産の鉄は、江戸前期頃から千種鋼-チグサハガネの名で広く知られたという)、今、この地を含む旧宍粟郡一帯にはタタラ製鉄遺跡が数ヶ所残っているという。

 祭文には、金神(金屋子神)はまず宍粟郡岩鍋に天降り、そこから出雲の比田に移ったとあるが、他にも
 ・奥州岩狭郡の信夫庄→吉備の中山→出雲の比田(金屋子縁起抄・1824)
 ・備中吉備中山→出雲の菅谷→出雲の比田(雲南市吉田町の伝承)
 ・備中吉備中山→伯耆日野郡印賀→出雲の比田(鳥取県日野郡の伝承)
などの伝承があり、これらはタタラ工人たちが出雲・伯耆・備中各地を移動していたことを示すもので、最後には比田に来たというのは、比田の金屋子神社が金屋子信仰の中心として崇敬されていたことを示唆するといえる。

 古代出雲国の南東部一帯は、出雲国風土記に
 ・飯石郡--波多の小川・飯石の小川  鉄有り
 ・仁多郡--三処の郷・布施の郷・三津の郷・横田の郷 以上の郷より出る鉄 堅くして 尤も雑(モロモロ)の具(モノ)を造るに堪ふ
とあるように、出雲国南東部の山地は風土記編纂以前から鉄の産地として知られ、
 松前健氏は
 ・斐伊川や仁多郡の飯梨川上流は古くから砂鉄を産し、鉄器・鉄具を造る鍛冶部の集団がいた
 ・後世にも、この地方は俗に金屋・踏鞴師といわれる漂泊的採鉱冶金業者の根拠であった
 ・今でも、飯石郡の菅谷や仁多郡の横田などにいくつかの踏鞴場が残っているという(出雲神話・1976)


 金屋子神社が鎮座する安来市広瀬町西比田の地は、金屋子神の降臨地・宍粟市千種町岩野辺の約120kmほど西に位置し、
 ・この地は、日本海側の安来港からみれば、ちょうど砂鉄地帯の入口にあたり、斐伊川上流のタタラ地帯からみれば、まず最初に出くわす比較的なだらかな田園地帯で
 ・西比田は、山から鉄を運び出すうえからも、タタラ師たちが移動するうえからも、昔からの交通の要衝であり
 そこに、タタラ製鉄の守護神としての金屋子神を祀ったのが比田の金屋子神社という。

 上記由緒には、金屋子神が播州から白鷺に乗って当地に飛来したのが当社の始まりというが、これは後世になって作られた伝承であって、
 ・金屋子神社は式内社ではなく、古代文献にも金屋子神(神社)の名はまったくみえず、その創建由緒・時期等ははっきりしない
 ・当社の最初は、近在のタタラ師たちが良鉄を得んとして祈願するための簡単な小祠に過ぎず、祭神の由来はもとより、その名さえ定かでなかったと思われる
 ・しかし、なんらかの理由によって比田の地に金屋子神が祀られることとなり、それが産鉄を司る神として世に知られるようになると、各地のタタラ師たちが、その恩恵に浴しようとして争って比田の地を訪れ、金屋子神を自分の土地へも勧請して、各地に小さな分祠が造られるようになった
 ・今、この地方に残っている金屋子神の祠は、ほとんど例外なく当社からの分祀であって、近世になっての分祠として認められているものだけでも、出雲・伯耆・備後・石見などに計22社を数えるという(そのほか名もなき路傍の小祠などで金屋子神を祀るものは多いという)
 ・したがって、参拝にやってくる各地のタタラ師たちは、それぞれ勝手に神社の由来を語ったと思われ、それらが集約されたのが、上記の創建由緒と思われる
 ・これらのことから、当社の発生に関する歴史的な背景は、直接的には古代まで遡らないのではなかろうか
という(製鉄集団の幻影を一部改変)

 ただ当社に関する確実な古資料として、当社蔵の記録に「文明18年(1486・戦国時代初期)5月 富田城主尼子経久公佩刀御祈願」とあることから、室町時代初頭(15世紀初頭)には実在し、それなりの崇敬を受けていたことは確かであろう。


※祭神
   金山彦命(カナヤマヒコ)・金山姫命(カナヤマヒメ)

 この両神は、古事記に
  「イザナミ命は、火之迦具土神(ヒノカグツチ・火の神)を生んだために、ミホト(陰部)が焼けて病の床に臥された。そのときのタグリ(嘔吐物)から成った神の名は、金山毘古神(カナヤマビコ)・金山毘女神(カナヤマビメ)
とある神で(書紀では金山彦のみが成りでたとある)、イザナミが吐き出したタグリを、タタラ製鉄で溶け出てくる熔融物(鉄滓・ノロ)と同じとみて、鉱山・採鉱・製鉄・金属加工等を司る神で、それらに従事する工人等の守護神という。

 当社が古代の“タタラ製鉄”に関係することから、金山彦・姫2神を祀ってもおかしくはないが、由緒からみると、当社本来の祭神は金屋子神であって、何時の頃かに、一職能神であった金屋子神を、記紀に登場する神である金山彦・姫命に変更したのであろう。

 なお記紀には、製鉄・金属加工等に関係する神として金山彦・金山姫の他に、天目一個神(アメノマヒトツ)・天津麻羅神(アマツマラ)・石凝戸辺神(イシコリトベ)・天糠戸神(アメノヌカト)などの名がみえ、特に天目一箇神を祀る神社が多い。
 天目一箇神とは“片眼の神”のことだが、それはタタラ製鉄に従事する工人(村下)が常に炉の中の炎の色を片眼をつぶって見つづけ、その色によって砂鉄・炭の投入量、送風量などを加減していたため一眼を損することが多く、そんな片眼のタタラ師を神格化したのが目一箇神であろうという。
 因みに、千種鋼の産地である千種町で、嘗てタタラ製鉄が行われていた頃には、村下の家では眼病を畏れて、眼病の神として名高い一畑薬師(眼病の神)のお札を柱に貼って朝夕祈りを欠かさなかったという(青銅の神の足跡)

 金屋子神あるいは金屋子神社の名は記紀は勿論、風土記等にもみえず、当然のことながら延喜式神名帳(927)にも列していない。
 出雲国内の神社名を縷々列記している風土記(399社)、あるいは延喜式に当社名が見えないということは、その編纂時(733)にはなかったことを示唆するもので、延喜式にみえないこともまた同じことで、当社が中央に知られ且つ祭神を金山彦・姫とされたのは、出雲の砂鉄地帯が完全に中央の支配下におさまった以降のことであろうという(製鉄集団の幻影)


 金屋子神は記紀等に見えないことから、その出自・事蹟等は不明だが、古代にあって単なる岩砂から鉄を取りだし、それを以て生活に必要な利器を造りだすタタラ師は、神に等しい神秘の業をもった人として畏怖され、これを神として崇敬したのが金屋子神の原点とも思われる。


*出自について
 祭文は、金屋子神は宍粟郡岩鍋に天降ったというだけで、その出自については記していないが、
 金屋子縁起抄(1825)には
 ・須弥山に籠もっていた金山姫がイザナギ・イザナミの要請をうけて渡来し、両神の御子・金山彦と結婚して、玉のようなる男子・金屋子神を生んだ
 ・3神は各地にタタラ製鉄の炉を設け、タタラ製鉄の技術を指導して廻っていたが、美濃国不破郡で金山彦・姫の両神が亡くなった
 ・その後も、金屋子神は一人で各地を廻っていたが、最後に出雲国黒田郷比田村に至ってタタラ製鉄を指導し、この地に鎮まった。その子孫が安部氏(当社神主)である(概要)
とあるという(ネット資料・金屋子神の諸相)

 これによれば、金屋子神はインド須弥山からの渡来した金山姫の御子となるが、他にも
 ・単に金山彦・金山姫の御子とする説
 ・金山彦・金山姫・御子神をあわせて金屋子神という説
 ・八幡神に関係するとの説(八幡神は宇佐の菱形池の畔に鍛冶の翁として顕現したという伝承がある)
などがみえ、金屋子神の確たる出自ははっきりしない。

 しかし、タタラ鍛冶に従事する工人等にとっては、金屋子神の出自などはどうでもいいことで、要は、不測の事態が起こらずに、タタラ炉に鉄がよく湧いて良質の鉄が採れるように守ってくれさえすればいいことだったともいえる。

 主祭神以外に本殿に配祀されている神々は
 ・素盞鳴命 ・石凝姥命(イシコリトメ) ・誉田別命(応神天皇) ・市杵島姫命 ・息長帯姫命(神功皇后) ・玉依姫尊 ・伊弉冉尊
 ・天照皇大神 ・天児屋根命 ・倉稻魂命(ウカノミタマ) ・天玉祖命 ・押武金日命(安閑天皇) ・猿田彦命 ・天鳥船命 
 ・建御名方命 ・大国主命 ・事代主命 ・迦具土神(カグツチ) ・武内宿禰 ・上筒之男命 ・中筒之男命 ・底筒之男命
の22座と多いが、記紀等における著名な神々を闇雲に寄せ集めたとの感が強く、これら配祀神の勧請由来等は不明。


*祭文について
 祭文によれば、金神(金屋子神)は「吾は西方を司る神なれば」として、岩鍋から西へと移ったという。
 この西という方角に拘泥すれば、陰陽五行説で宇宙生成の原素という木・火・土・金・水のうちの“金気”が、方位でいうと西に当たることから(季節は秋、色彩は白に当たるともいう)、金属を司る金屋子神が鎮まるべき方位は西方と理解されていたことを示唆する。

 また、金神は白鷺に化して飛来し西方比田の桂の木に止まったとあるが、金屋子神降臨の地という当社裏山には、嘗ては桂の高木が聳えていたといわれ、今も本殿手前の石段の両側に聳える桂の巨木が2本が御神木となっている。

 桂とはカツラ科の落葉樹で高木に育つことで知られているが、桂の字が“木偏に土の字二つ”から成っていることから、陰陽五行説でいう“土気”に属するとされ、“土生金”(ドショウキン)の理から“金は土から生まれる”として、金神が桂の木に止まったというのは、単に其処に桂の木があったからというより、桂の木と金属との間に密接な関係があるからと推測される。
 (陰陽五行説は、今では荒唐無稽な俗説として顧みられないが、嘗ては最新の科学的知見として重要視され生活全般を支配していたという)

 また、金屋子神は白鷺に乗って西方に移動したとあるが、これについて谷川健一氏は
 ・垂仁天皇の皇子・誉田別は髯が長く垂れる年頃になっても言葉を発しなかったが、あるとき、空高く飛ぶ白鳥を見て、口をパクパク動かした
 ・鳥が羽を振るうことを、古く“羽振鳴く”(ハブキナク)とか“羽振鶏”(ハブキトリ)といったことが万葉集にみえている
 ・この“ハブキ”は古代には“フイゴ”の意味にも使用されたが、それはフイゴの動作が鳥の羽ばたきする姿を連想させるもので、白鳥がタタラ作業をする人たちにとって神(あるいは神の使鳥)とされていたことに連なる
 ・白鳥が飛び立ったという伝承地が、そのままタタラ製鉄の跡と重なり合っている事例が多く
 ・タタラ炉で鉄を作る鍛冶の人たちが、金屋子神として白鳥を崇敬していたことは極めて注目される
と、タタラ製鉄と白鳥との間、金屋子神と白鳥(白鷺)と間には密接な関係があったのではないかという(青銅の神々の足音・1989)
 また、尾張の能煩野で亡くなったヤマトタケルが、八尋白智鳥(白鳥)となって大和へ飛び去ったとあるように(古事記)、白鳥は神霊を運ぶ霊鳥ともいわれ、金屋子神が白鳥に乗って云々というのも同じことといえる。


*ご神体
 当社のご神体は、重さ20貫(約75kg)以上もある巨大な“鉄の塊”といわれ
 ・これは恐らく、タタラを吹き終えた炉の中に出来た鉄の塊・鉧(ケラ)であろう
 ・これだけの大きさの鉧は古い野タタラではとれないことから、このご神体は、すくなくとも砂鉄の製錬技術が従来の野タタラより進歩した頃(永代タタラ・高殿タタラ)のもので、
 ・当時のタタラ師たちは、この新しいタタラから生まれた巨大な鉧を驚異を以て崇め、ご神体としたのではなかろうか
という(製鉄集団の幻影、大意)


*その他の伝承([ ]-Wikipediaからの引用)
 [金屋子神あるいは村下が麻につまずいて転んで死んだので麻を嫌うとか、犬に追われて蔦に登ったところ蔦が切れて転げ落ち、犬に噛まれて死んだので蔦や犬を嫌う]




 片眼の神を祀るという越後の一の宮・弥彦神社のに残る伝承に、昔 弥彦の神が村に移られるとき、鬼の案内で山に登られたが、山中でウドで眼を突かれたため片眼になられたとあるように、神などが何かの拍子に倒れて、そこに生えていた草木の枝葉で目を傷つけたという話は各地にあり、これをタタラ師に多い片眼の人に結びつけたものであろう。

 これにかかわって、谷川健一氏は
 ・金屋古神が麻苧(アサオ)の乱れに足をとられて転んで死んだので、タタラ師たちは麻苧を忌むという伝承がある
 ・麻の鋭い葉先が神の目を傷つけたという伝承が、目一つの神の由来を語る説話となっていることから、鉱山やタタラ炉の付近で麻を打つのは禁忌とされていた
 ・それは麻以外の竹でも栗のイガでも胡麻(ゴマ)の葉でもよいのだが、とくに麻とされているのは、麻の“サ”が古代朝鮮語で鉄を指すことと関連するのではなかろうか
という(青銅の神々の足音)

 神が何かの拍子で倒れた時、草木の枝葉で目を痛めたという説話は各地に残っていて、
 ・越後一の宮・弥彦神社の神は片眼だが、神が弥彦へ移って来られたとき、鬼の案内で山に登られたが、山中でウドで眼を突かれたためで、弥彦山にはウドは生えない
 ・伯耆国印賀村の楽福神社の祭神は、竹で目を突いて一眼を失われたので、この村では竹を植えない
 ・近江国栗太郡の笠縫村には、大昔、二柱の神が降臨されたとき、付近にあった麻で眼を傷つけられ・たため、今もってご神体の眼から涙が流れ出ている
 ・河内国の恩智神社の神は、5月5日の端午の粽で眼を突いたので、この地方では端午の節句に粽は作らない
などがみえるが、これらの土地から銅鐸が出土するなど鉄に関連する土地が多く、片眼の神と製鉄との関連がうかがわれるという。

 [逆に、犬に追われたとき、ミカンの木(藤の木ともいう)につかまって助かったから、ミカンや藤を好むらしい]
 これにかかわって、長門国の古老の話では、昔 天目一箇神が来られたとき、目がひとつしかない人相の悪い姿だったので犬が吠えかかったが、神はミカンの木によじ登って助かったとの伝承があり、それで今でもフイゴ祭のときにはミカンを供えるという。

 [女性を極端に嫌う。自分が女性などで嫉妬もあるというが、鍛冶関係の作業場には女性を入れない掟があったという]
 女性を嫌うというのは血穢を忌むということであり、女性の出産・生理などに伴う出血を嫌っての掟と思われ、
 ・村下たちは、妻が生理あるいは出産の時にはタタラ場に近づかなかった
 ・村下たちは、女の入った後の湯には絶対に入らなかった
という
 なお一般には、金屋子神は女神といわれ、絵図等でも女神姿で描かれているものが多いが、縁起抄には“玉のようなる男子”とあり平仄があわない。

 [反面、死の穢れには無頓着どころか、むしろ好むとされ、タタラ炉の周囲の柱に死体を下げることを村下達に指導したという]
 死者から生じる死穢(シエ、死の穢れ)は忌むものというのが通常で、特に神道では、死者が出た家人は一定期間神社参詣を差し控えるなど、死に接することを厳しく禁止している。
 ところが、金屋子神は死穢を嫌わなかったといわれ、
 ・どうしてもタタラの湯が沸かず、困った門弟達が金屋子神に救いを求めたとき、「周囲の柱に死体を立て掛けよ」と教えた
 ・どうしても湯が沸かず困ったときには、死んだ村下の骨を掘りだしてタタラ場の柱にくくりつけるとよい
 ・死人を背負ってタタラ場の廻りを歩けばよい
 ・葬式のとき、タタラ場の中で造った棺桶に死者を入れ、それを担いでタタラ場の廻りを歩いてもらうとよい
といった対処方法が伝わっていたという。


※社殿等
 県道を左折(角に金屋子神話民俗館との標識あり)、川沿いの小道を北へ、金屋子神話民俗館との分岐点の左側の道を進んだ先に石製の鳥居が立ち、そのまま進んだ先に境内への石段(26段)がある。


金屋子神社への分岐点
(神社へは左の道を進む) 

金屋子神社・鳥居
 
 
同・参道(石段下付近)

 参道の突き当たりに石段(25段程)があり、上った所に随身門が建ち、境内へ入る。
 ただ、境内には由緒案内・社務所等はなく、綺麗に整備はされているものの人気はない。 

 
金屋子神社境内への石段
   
金屋子神社・随神門

 境内正面に拝殿・本殿が南北に連なって建つ。

 当社の社殿について、参道に立つ案内には
 「金屋子神社社殿  島根県有形文化財(昭和59年5月4日)
   本殿 大社造 銅板葺
   拝殿 唐破風向拝つき入母屋造 銅板葺
   通殿 切妻造 銅板葺
 この神社は、金屋子信仰の中核として、古くから全国の鉄山師や鉄工業者等の信仰を集めた由緒ある神社です。
 社殿は、安政5年(1858)の火災で焼失した後、元治元年(1864)に造営されたものです。
 珍しい総ケヤキ造りで、装飾や意匠に優れており、近世後期の大工技術を知るうえで貴重なものです」
とある。

 唐破風付き向拝をもつ入母屋造の拝殿は鄙にも稀な堂々たる社殿で、正面から見ると、両翼の先端が反りあがった形で、社殿全体が比翼形といえるような構造をしている。
 また、四周の軒下には精緻な装飾彫刻が施され、特に唐破風付き向拝の竜虎の彫刻は手が込んでいて見応えがある。


金屋子神社・拝殿(正面) 
 
同・拝殿(側面)
 
同・竜虎の彫刻(向拝部)

 拝殿の裏、瑞籬に囲まれた中に、弊殿(通殿)を介して大社造の本殿が鎮座するが、瑞籬に阻まれて詳細はみえない。


金屋子神社・本殿 
   
同・本殿(側面)

 本殿左(西側)瑞籬の外に小祠がある。
 祠に掲げる扁額は墨が消えかかっていてはっきりしないが、「大田神社」と読める(天田神社かもしれない)。祭神・鎮座由緒等は不明。

 境内右手に、石祠1基と上部が欠けたような石碑1基(金屋子神と刻してある)がある。

 拝殿右手に桂殿との小舎があり、中を覗くと、小さな石祠1基と注連縄を掛けた龕1基が見えるが、如何なる神を祀るのかは不明。
 ただ社殿名・桂殿からみると、当社のご神木・桂の木に関係するものかもしれない。

 拝殿左前に建つ石灯籠の火袋部に、当社神紋である「金」が刻されていて、ちょっと珍しい形をしている。


大田社? 
 
左:石祠・右:金屋子神石碑
 
桂殿内の石祠
 
石灯籠

◎奉納物
 石段下に至るまでの参道左に、奉納された大きな鉄の塊・鉧(ケラ)が幾つか並んでいる。
 鉧とは、タタラ製鉄で得られた鉄の塊のことで、当社がタタラ製鉄の守護神・金屋子神を祀ることからの奉納であろう。

 鉧それぞれに奉納由来等が簡単に案内されているが、その一つには
 「この鉧は、昭和56年宮司宅の左前80mの田の中から出土したもので、この鉧を日立金属の安来工場で分析したところ、全鉄分44.8%でした。
 また、この鉧の作成年代を金沢大学で測定したところ、400年から500年前のものでした。今から500年前といえば、尼子経久公(1458--1541)が富田城を奪取した頃で、同じ文明18年(1486)の5月11日、尼子経久公は当社に参拝されました」
とある。


奉納物・鉧 
 
同 左
 
同・部分拡大

◎金儲神社
 参道右側の池の中にある小島に『金儲神社』との祠が鎮座し、参道脇の案内には
 「小さいときから苦労したが、金屋子神社の宮司さんやまわりの人々のおかげで勉強も出来、幸いにして会社を創業するまでになったので、その御礼と感謝を込めて、宮司さんの許可を得て小社を奉献した」
とある(大意)


金儲神社鎮座の池 
 
金儲神社・社殿


【付記】
 今回の旅では、神社の他にタタラ製鉄に関係する施設2ケ所を訪問したが、いずれにも、当社から勧請されたという金屋子神が祀られている。

*菅谷たたら山内(スガタニタタラサンナイ)
  島根県雲南市吉田町吉田
 タタラ製鉄の高殿遺構(タタラ炉による製鉄施設)他が、ほぼそのままに残っている唯一の遺構(映画・ももけ姫の舞台になったという)
 菅谷高殿は、宝暦元年(1751)から大正10年(1921)までの170年間操業が続けられた施設で、今、高殿内には当時のタタラ炉等が残り、昭和42年に国の重要有形民俗文化財に指定されている。

 その高殿から小川沿いに少し進んだ右手、切り立った崖の下に「金屋神祠」との祠が鎮座している。
 ただ、金屋神祠との標識があるだけで、この鎮座由緒・時期等は不明。

 
菅谷たたら山内・高殿
 
菅谷・金屋神祠

同 左

*絲原記念館
  島根県仁多郡奥出雲町大谷
 松江藩で鉄師頭取を務めた絲原家(イトハラ)関連の記念館で、館内にはタタラ製鉄関連資料、松江藩主・松平不昧公関連資料等が展示されている(撮影禁止)

 その記念館敷地の一画に「金屋子神社分祠」との小社があり、傍らの案内には
 「タタラ製鉄操業の良否は、その技師長である村下(ムラゲ)の経験と勘によるところが大きく、このため操業関係者は製鉄の守護神といわれる金屋子神を信仰した。
 その本社は当地から北東へ約20kmの西比田にあり、中国地方一円の鉄工業関係者により厚く信仰されていた。
 江戸時代末期になると、当地方の鉄師(タタラ製鉄師)は、本社よりその分祠を勧請して厚く信仰するようになった。
 この社も、文政年間(1818--30・江戸後期)に絲原家が工業神・家内神として勧請したものである」
とある。

 
絲原記念館

同・金屋子神社分祠・全景 

同・社殿

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