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出雲の神社/熊野大社
島根県松江市八雲町熊野
祭神--伊射那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
                                                       2012.08.28参詣

 松江市中心部(松江駅)の南約12km、意宇川(イウカワ)上流・県道53号線(大東東出雲線)沿いの小盆地に鎮座する古社。

 ・出雲国風土記(733)・意宇郡条--熊野大社(クマノノオオヤシロ)
 ・延喜式神名帳(927)--出雲国意宇郡 熊野坐神社(クマノニマスカミノヤシロ) 名神大

※由緒
 当社由緒略記(以下「略記」という)によれば、
 「古事記(712)・日本書紀(720)は、スサノオ命が八岐大蛇を退治された後、『吾が心すがすがし』と申され宮殿を営まれた処を『須我』と記し、また『熊成峯に居し』とも書いている。
 更に出雲国風土記は、『熊野山 所謂熊野大神の社坐(マ)す』と記している。
 創祀は斉明5年(659)と日本書紀は伝えている」
とある。

 略記前段は、当社祭神をスサノオ命としての記述だが、
 ・“我が心すがすがし云々”とは、当社の南西約4kmにある須我神社(古事記、別稿・須我神社参照)にかかわる伝承で、当社との直接的な関係はない。
 ・“熊成峯に居し”とは、書紀(神代上)8段一書5にいう、
  「(スサノオが御子・五十猛命らとともに沢山の木の種を播いた後)然して後に、素盞鳴尊、熊成峯に居(マ)しまして、遂に根国に入りましき」
を承けたものだろうが、この熊成峯の比定地については諸説(出雲・紀伊・朝鮮半島など)があって定説はなく、また熊成峯=熊野山とする資料はない。
 加えて、当社祭神がスサノオとされたのは平安初期といわれることから、当社の創建をスサノオとの関係で説くことには疑問がある。

 また末尾にいう“創祀は斉明5年”とは、書紀・斉明天皇5年条にいう、
  「この年、出雲国造に命(オホ)せて、厳神の宮(イツカシノカミノミヤ)を修(ツクラ)はしむ。狐、淤宇郡(意宇郡)の役丁の執れる葛(建築用結束材)の末を噛(ク)ひ断ちて去ぬ。又 狗、死人の手臂を言屋社(イフヤノヤシロ、現揖夜神社-松江市 東出雲町揖屋)に噛ひ置けり」
を指し、意宇郡イフヤの地で、天皇の寿命に係わる凶事が発生したので、出雲国造に命じて厳神宮を修復したというものだが、ここでいう厳神宮については、熊野大社とする説と杵築大社(熊野大社)とする説がある。

杵築大社とする説では
 ・記紀には熊野大社のことは一切みえないのに、この一節のみを熊野大社のこととするのはおかしい
 ・熊野大神は出雲国造家の氏の守護神という私的な祭祀対象であり、これを朝廷が造営・修復するのはおかしい
 ・出雲国内で起こった不吉の予兆であり、それは出雲第一の大社である杵築大社の祭神・杵築大神の祟りと見るべき
というが、これに対して、
 ・この凶事は意宇郡イフヤの地で起こったことであるから、意宇郡に鎮座する熊野大神の祟りと見るのが妥当
 ・意宇郡は熊野大神の神郡(カミノコホリ)であって、当地に熊野大神が坐すことは朝廷でも認知していたので、そこで祀られている大神の怒り(祟り)を鎮めるために社を収蔵させたとみるべき
として、斉明5年の記事は熊野大社にかかわるものとみるのが妥当という。

 これら両論の当否を判断するのは難しいが、この当時、出雲国造が杵築大社の祭祀にかかわっていた確証はなく、この記事からみれば、当社が7世紀前半にはあったとみるのが妥当であろう。。

 当社創建の地に関して、略記には
 「この熊野山は、現に“元宮ヶ成”(ゲングガナリ)と称しており、古代祭祀の巨大な磐座がある。すなわち“熊成峯”・“元宮ヶ成”とは聖地の尊称であり、共にカミが顕現された処を表現しているといえよう。
 熊野大社の元々の宮地は清浄な山であって、意宇川の源流もここにある」
とある。

 熊野山とは、風土記に
 「郡家の正南十八里(10.2km) 檜・檀(マユミ)有り 所謂熊野大神の社坐す」
とある山で、当社の南南東約4kmにある現天狗山(H=610m)を指し(古くは、天宮山-テングウサン-ともいった)、当社脇を北流する意宇川の水源となっている。
 その頂上にある平坦地・“元宮平”(ゲングウナリ)には自然石が積み重なった磐座(イワクラ)があるといわれ、これが熊野坐神社発祥の地ではないかという(あまりにも高所にあることから、これを疑問視し、磐座は後世の修験道に関係するものではないか、ともいう)

 とすれば、熊野神信仰は、熊野山(現天狗山)を神(穀神・クシミケヌ、あるいはその前身が坐す(降臨する)神体山とする神奈備信仰に発し、当社は、その麓に設けられた拝所(里宮)から発達したのではないかともとれ、古伝によれば、その場所は現鎮座地・宮内地区の上流・市場地区の上の方ではないかともいう。
 ただ、この旧鎮座地から現在の地に遷座した時期は不詳。

 当社が鎮座する意宇の地は、出雲の地で早くから開けた地域で、出雲国造家(イズモコクソウケ)発祥の地であり(最初は“オウ”と称していたようで、書紀・仁徳即位前紀に“出雲臣の祖として淤宇宿禰”の名が見え、出雲国造世系譜には淤宇宿禰の子・宮内臣が“反正天皇4年国造と為り、出雲の姓を賜う”とある。又、風土記末尾には“国造兼意宇郡大領 出雲臣広嶋”との署名がある)、当社の祭祀も出雲国造家が携わってきた。
 国造家の祖先はアマテラスの御子・天穂日命(アメノホヒ、)とされており、穀神・クシミケヌとの関わりはない。ただ強弁すれば、アメノホヒはその神名から稲穂の神・日の神的神格を持つことから、その意味では同じ神格といえなくもない。

 アメノホヒとは、葦原中国(アシハラナカツクニ)平定のために高天原から最初に派遣された神だが、
 ・古事記--大国主に媚びつきて、3年になるまで復命しなかった
 ・出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコカンヨゴト・続日本紀霊亀2年-716-条に「出雲国造・出雲臣果安が神賀詞を奏上した」とあるのが初見)
      --出雲臣等が遠祖・天穂比命は、中つ国に来臨してその状況を偵察し、その結果を復命し、更にわが子・天夷鳥命(アメノヒナトリ)に布都奴命(フツヌシ)を副えて遣わし、オオナムチ命を媚ばい鎮め、もって国土奉献を実現させた(大意)
とあり、出雲側が奏上する神賀詞では、古事記とは逆に、国譲りを実現させた功労者であると主張している。

 出雲国造家が古代出雲で重きをなすのは、その祖神・アメノホヒによる国譲りに際しての功績によるといわれ、それは朝廷でも認めていたようで(黙認か)、律令制度が定着していくなかで、各地の国造に対して発せられた
 ・同一郡内における国造の三等親以上の親族による郡司(地方官-大領・少領・主政・主帳-の総称)連任の禁止(646)
 ・国造による郡領(大領・少領)の兼任禁止(706)
との禁止令のいずれにおいても、出雲国造は筑紫国造(宗像氏)とともに例外(適用除外)とされていたことから伺われるように、朝廷からも特別な氏族として扱われていたという。

 それもあってか、奈良から平安初期に至るまでの当社は、出雲国一ノ宮として重視されていたようで、神階授叙の記録に
 ・文徳実録(879)・仁寿元年(851)9月乙酉条--特撰出雲国熊野・杵築両大神に並びに従三位を加う
 ・三代実録(901)・貞観元年(859)正月27日条--出雲国従三位熊野神・勳八等杵築神に並びに正三位を授く
 ・  同        同 年    5月28日条-- 出雲国正三位勳七等熊野坐神、正三位勳八等杵築神・・・並びに従二位を授く
 ・  同        同 9年(867) 4月8日条-- 出雲国従二位勳七等熊野神、従二位勳八等杵築神に並びに正二位を授く
とあるように、当社は常に杵築大社より上位(所謂一ノ宮)に位置づけられている。

 この熊野大社と杵築大社との関係も、平安中期(10世紀中頃)以降になると、杵築大社の勢力が次第に大きくなり、熊野大社のそれは低下しつづけ、室町時代の書・大日本国一宮記(16世紀初頭頃という)に、「杵築宮 大己貴命・素盞鳴命 出雲国出雲郡」とあるように、杵築大社が一ノ宮と認識され、熊野大社の名は見えなくなっている。

 この地位の逆転がおこったのは、出雲国造家が本貫の地・意宇郡から西方・出雲郡杵築の地へ移ったこと(西遷)が関係するのではないかという。
 ただ、その西遷の時期について、
 ①26代国造果安臣(ハタヤスノオミ、在位708--21)の時代
 ②国造家が意宇郡大領職を解かれた後(798以降)
とする2説がある。

 ①説は、出雲国造世系譜の国造果安臣の脇注に、「此に至り、始めて杵築之地に移る」とあることから、8世紀前期頃に移住したというもので、これを採る先学は多い。
 しかし果安は、出雲国造であるとともに意宇郡大領(律令制下、朝廷派遣の国司に次ぐの地方官の最高位)として、祭政両面での統治にかかわっていたことから、その大任を帯びたままで杵築の地へ一族あげて移住することは許されなかったはずとして、果安時代に一族をあげて移住したというのは疑問ともいう。

 ②説は、延暦17年(798)の太政官符によって、国造家が兼職していた意宇郡大領の職が剥奪され、政権の座から完全に外されたことから、残された宗教的権威である国造として生き残るために、本貫の地である意宇郡からオオナムチ信仰の本拠である杵築の地に移住せざるを得なくなったというもの。

 8世紀初頭あるいは末、何れが史実なのかは不明だが、杵築に移住した国造家は、それまで国つ神を祀る社として、熊野大社より格下とされていた出雲郡の杵築大社の祭祀をも掌るようになり、それまで培ってきた天つ神の神主としての権威を堅持するために、杵築大社の祭神を天つ神(スサノオ)へと押し上げるなど、杵築大社の勢力拡大に務めざるを得なかったことが、その後の熊野・杵築両社の地位の逆転を生み、杵築大社の出雲一ノ宮への昇格へと繋がったのではないかという。(別項・「出雲大社」参照)

 その後の経緯について、略記には
 「社運の衰微によって中世に至ると、上の宮を熊野権現と拝し、下の宮を伊勢宮と敬して二社祭祀の形態に造営された。このため、かえって祭祀と尊崇に複雑な変化と混乱をみた」
と、中世の頃に、当社が上の宮と下の宮の二社に別れたと記している。

 しかし、これは紀州系の熊野大社(所謂熊野三山)の出雲進出にともなうもので、平安末期頃から隆盛を極めてきた紀州の熊野神信仰が、遅くとも中世末(16世紀中葉)頃までには出雲へ進出したといわれ、近世初期には、熊野大神のお膝元・意宇郡にも熊野三山神社が勧請され、出雲の熊野大神信仰の本拠である熊野山山麓に紀州系・出雲系二つの熊野大社が併存したという。
 (雲陽祀-1717・江戸中期-によると、出雲国内での紀州系とみられる熊野神社は61社を数えたという)

 その2社形態とは、
 ・熊野上ノ宮--現在地の上手約一町ほどに勧請された紀州系の社
           伊邪那美社(祭神:イザナミ)・速玉社(ハヤタマ)・事解社(コトトキオorコトサカオ)の三社から成る(所謂・熊野三山)
 ・熊野下ノ宮--在来からの熊野大社
           祭神--天照大神・素盞鳴尊・五男神三女神(ウケヒによって生まれ出た御子神)の計十座
と呼ばれるもので、雲陽誌(1717・江戸中期)
 「速玉・事解・伊弉冉三神をあわせまつりて上ノ宮といふ。天照大神・素盞鳴尊・五男三女を合わせて十神をまつりて下ノ宮とす。世人、上ノ宮を熊野三社といふ。下ノ宮を伊勢宮といふ」
とあり、熊野大神クシミケヌは完全に消え、下ノ宮の祭神をアマテラス・スサノヲ及び両神の御子神として伊勢宮と呼ぶなど、当社本来の姿から大きく変貌している。
 当社に伝わる源頼朝からの御教書に「出雲国一ノ宮 熊野天照大神 日本火出初之社也」とあるように、中世以降、熊野大神と天照大神とを同体とする説が出てきたといわれ(所謂・中世神話)、下ノ宮を伊勢宮というのは、これに影響されたのかもしれない。

 この二社併立形態は江戸末期まで続いたが、その後
 ・明治にはいった行われた神社統廃合政策によって、それまでの上下両社を一本化し、社名を熊野神社と改め国弊中社に列す
 ・明治10年(1877)、旧上ノ宮を伊邪那美神社と改称して摂社化
 ・大正5年(1916)、国弊大社(地方官の祭祀をうける神社で、官弊大社より格下)に列す
 ・昭和52年(1977)、社名を現在の熊野大社に変更
という。

※祭神
 当社祭神には、幾つかの呼び名がある。
 ①伊射奈伎日真名子(イザナギノヒマナコ)加夫呂伎(カムロギ)熊野大神( クマノノオオカミ)櫛御気野命(クシミケヌノミコト)
      --出雲国造神賀詞(716初見)
 ②伊弉奈枳(イザナギ)の麻奈子(マナコ)に坐(マ)す熊野加武呂乃命(クマノカムロノミコト)--出雲風土記(733)・出雲神戸の条
 ③伊射奈伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(①に同じ)。この神名はスサノオノミコトの別神名である--当社由緒略記
 ④神祖(カムロギ)熊野大神(クマノノオオカミ)櫛御気野命。この神名は素戔鳴尊(スサノオ)の御尊称です--当社社頭の案内

 これら神名の意味は、
 ・伊射奈伎乃日真名子・麻奈子--イザナギの愛し子
 ・加夫呂伎--尊い神
 ・熊野大神--熊野に坐す大神
であって、当社祭神名は、
 「イザナギの愛し子である尊い神で、熊野に坐す大神・クシミケヌの神」
となり(④は“熊野に坐す尊い神・クシミケヌ”)、伊射奈伎乃真名子・加夫呂伎を修飾語と解すれば、当社本来の祭神・熊野大神はクシミケヌ命となる。

 この神名・クシミケヌは、“クシ”が“奇・霊妙”、“ミケ”が“御食”であることから、“霊妙なる食物神”であり、熊野山に坐して水を掌り、流域の田畑を潤してくれる穀神・農耕神といえる。
 (天狗山から発し山系の東を北流する山狹川沿いの地に、同じクシミケヌを祭神とする式内・山狹神社がある)

 クシミケヌが素朴な穀神であるかぎり、それは国つ神・地祇であったはずだが、出雲風土記・神賀詞では、これをイザナギと結びつけ、“イザナギの真名子”即ち天つ神(高天原に連なる天神)と主張している。

 これは、律令制が浸透するなか、地方国造である出雲臣が朝廷内での立場を確たるものし、自家が天つ神の後裔氏族であり祭祀氏族であることを主張したものと解され、出雲臣・広島(果安の次の国造)以後の神賀詞奏上を天皇が出御して受けていることからみて、出雲がいうクシミケヌ=天つ神との主張を朝廷側でも認めていた(黙認か)と思われる。
 その証として、時代はやや降るが令義解(833・大宝令・養老令の勅撰註釈書)には、天神社・地祇社について
 「天神とは伊勢・山城鴨・住吉・出雲国造が斎く神(熊野大社)等是ぞ、
  地祇とは大神(オオミワ)・大倭・葛城鴨・出雲大汝神(オオナムチ・杵築大社)等の類是ぞ」
とあり、熊野大神は国つ神(地祇)であるべき穀神・クシミケヌであるにも係わらす、天つ神(天神)とされている。
 これは、風土記で“伊邪那美の真名子・クシミケヌ”ということから、天つ神とされたのだろうが、元々、イザナギとクシミケヌの間に接点はない。

 祭神・クシミケヌについて、当社略記では、
  「伊射那伎日真名子加夫路伎熊野大神櫛御気命とは、スサノヲノミコトの別神名である」
というが、上記したように、風土記時代(8世紀前半)の祭神はイザナギの真名子・クシミケヌであってスサノヲとまではいっていない。ただ、イザナギの御子といえばアマテラス・ツクヨミ・スサノヲであることから、イザナギの真名子の裏にはスサノヲが含意されていたともとれる。
 ところが、平安時代に入るとスサノヲの名が表に現れ、先代旧事本紀の陰陽本紀(9世紀前半)
 「建速素盞鳴尊 出雲国熊野・杵築神宮に坐す」
とあるように、古来のクシミケヌという神名は忘れられ、熊野大神といえばスサノヲであるとの認識が一般化したという。

 これは、衰勢著しかった出雲国造家が、その天つ神の神主という権威を保持し続けるために、それまでのイザナギの眞奈子という漠然とした神名を、イザナギの三貴神の一柱・スサノヲという具体名として表に出したもので、政治的思惑にもとずく祭神名の変更といえる。

 このスサノヲ祭神説に対して、長寛勘文(1164頃・平安末期)が引用する“初天地本紀”(散逸して現存せず)に、
 「イザナギ尊が・・・陸の上に立たれ、身体の左肩を撫でるときに成り出た神の名を加巳川比古命(神格不明)といい、
  また右肩を撫でるときに成り出た神の名を熊野大神加夫里支(カフリシ=カムロギ)、名は久々弥居怒命(ククミケヌ=クシミケヌ)
  髻の中より成り出た神の名を須佐之乎尊。三柱大王等がこれである」
とあるように、クシミケヌとスサノヲは別神であるとの説もあったようだが(資料としての信憑度が不明であり、且つ、管見したかぎりでは傍証もなく、何処まで信用できるかは不明)、大勢を覆すには至らず、熊野大神=素盞鳴尊説は今日まで続いている。

※社殿等
 一の鳥居を入り二の鳥居をくぐった先に随神門(切妻造・瓦葺)があり、境内に入る。
 境内正面に拝殿(千鳥破風向拝付入母屋造・間口六間奥行二間・銅板葺)が、その左右に伸びる透塀に囲まれた神域の中央に本殿(大社造・二間方・銅板葺、昭和23年造という)が鎮座する。
 なお、境内右手に舞殿、左手に鑽火殿がある。

熊野大社/一の鳥居
熊野大社・一の鳥居
熊野大社/二の鳥居
同・二の鳥居
熊野大社/随神門
同・随神門
熊野大社/拝殿
同・拝殿
熊野大社/本殿
同・本殿

◎摂末社
 神域内・本殿の左右に摂社・伊邪那美神・稲田神社があり、神域外の左手に末社荒神社・稲荷神社の小祠がある。
 *伊邪那美神社
    祭神--伊弉冉尊(イザナミ)
   明治10年(1877)、旧上ノ宮(紀伊系熊野神社)を摂社・伊邪那美神社と改称し、同41年(1908)に本殿右(向かって左)に遷したもので、現社殿は旧上ノ宮の本殿(伊邪那美社)を移築したものという。

 *稲田神社
    祭神--奇稲田姫(クシイナダヒメ)--スサノヲの后神
    相殿神--脚摩乳(アシナヅチ)・手摩乳(テナヅチ)--クシイナタヒメの両神
           少彦名命(スクナヒコナ)--オオクニヌシと協力して国造りをした神(これを合祀する由緒不明)
   明治10年に摂社化された社で、嘗ては本殿の前面にあったが(鎮座年代不明)、大正8年(1919・明治41年ともいう)に旧上ノ宮の速玉社社殿を転用して本殿左に遷したという。

 *荒神社(コウジンジャ)
    祭神--素盞鳴尊
    相殿神--高龗(タカオカミ)・闇龗(クラオカミ)・闇罔象(クラミズハ)(何れも水神)

 *稲荷社
    祭神--宇迦之御魂神(ウカノミタマ)

 なお、伊邪那美社社頭に掲げる案内に
 、「明治39年(1906)に“一村一社”の制が敷かれたので、旧熊野11地区の各神社(式内社6社を含む)は、明治41年(1908)ここに合祀されました」
とあり、伊耶那美社には近傍にあった群小社の祭神・32柱が合祀されているというが詳細不明(ネット資料)、。
 “一村一社制”とは、明治39年に施行された所謂・神社統廃合令を指し、この政策により村内各字にあった群小社は著名神社への合祀という形で統合され消えていったという。


熊野大社・摂社・伊邪那美神社

同・摂社・稲田神社

同・末社・荒神社

◎鑽火殿(キリヒデン・サンカデン)
 社殿の左手に鑽火殿と称する切妻造・萱葺きの社殿(間口三間・奥行二間)があり、当社社頭の案内には
 「鑽火殿は当社独特の社殿で、毎年の鑽火祭や出雲大社宮司(出雲国造)の襲職時の火継式催行の大切な斎場となる社殿であります。
 社殿は、萱葺きの屋根に四方の壁は檜の皮で覆われ、竹でできた縁が廻らされており、発火の神器である燧臼(ヒキリウス)・燧杵(ヒキリキネ)が奉安されています」
 とあり、また、当殿前の案内には
 「御祭神スサノオノ大神は“檜の臼(ヒノキノウス)・卯木の杵(ウツギノキネ)”で火を鑽り出す法を教えられたので、熊野大社を“日本火出初社”(ヒノモト ヒデソ゜メノヤシロ)とも讃えます。
 出雲国造(出雲大社宮司)は、古来、しきたりにより襲職には必ず大神の霊幸い給う神器の燧臼(ヒキリウス)・燧杵(ヒキリキネ)を拝戴し鑽火して“火継=霊継”(ヒツギ)の式を仕え、大神より霊威を戴き、神性国造となります。
 この鑽火殿は、その古伝由緒を伝える建物であり、神器が奉安してあります」
とある。

 後段にいう“火継=霊継の式”とは、出雲国造の代替わりに際して行われる神事で、出雲大社由緒略記によれば、
 「古伝によれば、出雲国造の元祖天穂日命が天照大神の御命によって大国主大神の祭主となったとき、熊野大神櫛御気野命から燧臼と燧杵を授けられ、以来これより鑽り出した神火にて潔斎をなし、常に清浄な身をもって大神に仕えることになりました。
 したがって、天穂日命の後継者・国造となるには、この神火を継承することが最も重大な儀式で、“火継”あるいは“神火神水相続”と称し、神代以来現今に至るまで、国造の代替わりごとに、古伝のまま厳粛にお仕えされています。
 国造が帰幽(逝去)しますと、その嗣子は家伝の燧臼・燧杵を持って直ちに居館を出発し、出雲国八束郡の熊野大社に参向し、神火相続の式をお仕えします(中世以後は、同郡の神魂神社-松江市大庭-においてお仕えされました)
という。

 古代にあって、“火”とは“霊”(ヒ)であり、“火継ぎ”とは“神霊を引き継ぐ”ことを意味する。熊野大社に参向した嗣子は、鑽火殿において新に鑽り出された神火によって調理された斎食を神に捧げ、自らも食することで、天穂日命の霊威・霊格を継承し、それによって大国主命に仕える新国造として誕生するという

 また当社略記には、この鑽火殿において、
 「毎年10月15日(古くは陰暦9月14日)、出雲国造(出雲大社宮司)が参向し、自らが出雲大社で用いる火鑽臼(ヒキリウス)・火鑽杵(ヒキリキネ)を拝戴する鑽火祭(特殊神事)が斎行される」
とある。

 この鑽火祭神事は、出雲大社で行われる新嘗祭(11月23日)に先だって、そこで使用する燧臼・燧杵を熊野大社から拝戴するためにおこなわれる特殊神事(亀大夫神事)で、その後おこなわれる出雲大社での新嘗祭について、出雲大社由緒略記には
 ・古伝によれば、古くは出雲国造みずから出雲国意宇郡の熊野大社に参向して、この祭事を斎行したという(古伝新嘗祭)
 ・中世以降、山路険悪・積雪等の不便から熊野大社で行うことを止め、同郡大庭村の(現松江市大庭)に鎮座する神魂神社において斎行されることになり、毎年陰暦11月・中の卯の日に国造自ら同社に赴いてこの祭事をお仕えしてきた
 ・その後、明治5年(1872)よりは旧例に帰るとして出雲大社において斎行されることになり、さらに同6年よりは毎年陽暦11月23日の夜に斎行されて現在に至っている
とあり、祭場は熊野大社→神魂神社→出雲大社へと変わったという。


鑽火殿

同・内陣
(机上に板状のものがある、
燧臼・燧杵のレプリカか)

*参考図書
  ・式内社調査報告・20巻(1983) ・日本の神々7(2000) ・出雲国神社史の研究(石塚尊俊・2000) ・日本神話の形成(松前健・1970)
  ・出雲神話(松前健・1976) ・出雲神話の誕生(鳥越憲三郞・1991) ・古代出雲(門脇禎二・2003)

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