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真名井神社
島根県松江市山代町
祭神--伊弉諾尊・天津彦根命
                                                 2018.12.17参詣

 延喜式神名帳に、『出雲国意宇郡 真名井神社』とある式内社で、出雲風土記・意宇郡条には、
 ・『真名井の社』--在神祇官社(神祇官から祭祀をうける社)48社中18番目
 ・『米那為の社』--不在神祇官社(在神祇官社より格下で、国司から祭祀をうける社)19社中10番目(末那為社とも記す)
の2社があり、当社は在神祇官社・真名井の社に比定されている。

 JR山陰本線・松江駅の南東約4.5km、駅西の国道432号線を南下、大庭十字路(出雲国山代郷正倉跡あり)を東に約1km弱入った北側に鎮座し、意宇郡の神名樋山である茶臼山(H=171m)の南東麓に位置する。


 

神名樋山(茶臼山)

 茶臼山について、頂いた真名井神社御由緒記(以下、由緒記という)には
 「当社の背後に聳える茶臼山は地元では別名『かんなび山』と呼ばれている。“神の隠れこもる”という意味で、古代の人々の篤い信仰の対象として特別視されていた山と考えられている。
 出雲風土記の意宇郡の条には、
 『神名樋野 郡家の西北三里百二十九歩なり。高さ八十条、周り六里三十二歩あり。・・・』
とあり、今は松江市山代町に位置し、標高171mの円錐形の美しい姿が松江市街から眺められる」
とある。

※由緒
 真名井神社御由緒記には、
 「出雲国四神名樋山の一つ茶臼山の南東部の麓に位置する当社は、熊野大社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・揖夜神社と共に意宇六社と称せられる古社である。
 その社名は奈良時代の地誌・出雲風土記(733)に真名井社とあり、また延喜式神名帳(927)に真名井神社とあるが、真名井と付く社は、当社一社だけだったことが窺える。
 この名称は、記紀にある『天の真名井』に因むものといわれ、当社の社有地内に『真名井の滝』と呼ばれる井泉がある。
 文献によると、滝側にあった『真名井社』を伊弉諾社(現鎮座地)に『滝若宮』として奉移された経緯がうかがえる。
 そして、出雲国造家の世継(火継式)がある時には、神魂神社に出向いて神火神水を以て御饌物を整える事が定められ、この神水に真名井の滝の聖水が用いられている。
     (中略)
 中世には、伊弉諾命を御祭神とする神魂神社と共に国造家が主斎していた。
 この関連性や、近い位置関係等から、当社は『伊弉諾社』と呼ばれ明治時代まで続いたようだ。一時は『伊弉諾大社』という呼称の時代もあった。
 出雲国造家がこの大庭の所在していた時には、直接に当社を主斎していたが、国造家が杵築I(大社町)に移るとその関係は徐々に薄れてきた。
 しかし、明治時代まで千家北畠両国造家の管理体制は継続され、特に神魂神社・八重垣神社・六所神社と共に当社は、一社立の神社として存続して特別な関係は今も続いている」

 また境内の掲示板には
 「県指定建造物 真名井神社本殿(昭和49年12月27日指定)
 祭神は伊弉諾尊・天津彦根命(山代直の祖)
 当社は出雲国風土記にいう『真名井社』、延喜式に記す『真名井神社』で、古い歴史をもつ意宇六社の一社である。
 背後の山は神名樋山で出雲国四神名樋山の一つで、東山麓に真名井の滝を存す。
 中~近世は『伊弉諾社』として知られていたが、明治以降は旧号に復し村社に列せられた」
とああるが、いずれも創建由緒・時期等についての記載はない。


 上記案内によれば、江戸時代の伊弉諾神社を明治になってなって真名井神社と改称したというが、伊弉諾神社の勧請由緒・時期等について、式内社調査報告(1983)には、
 ・当社が、南西約1.5kmにある神魂神社(カモス)の末社とされていた時代(戦国時代頃)があることから、当社は、神魂神社の祭神・伊弉冉命に対応する形で、向きあった神奈備の地(茶臼山山麓)に夫神・伊弉諾命を祀ったのではなかろうか
 ・建長3年(1251・鎌倉中期)の出雲国庁宣との古文書に、「今造進伊弉諾社」とあることから、少なくとも鎌倉時代には既にあったと思われる
とあり、それ以来、当社は伊弉諾神社と呼ばれていたという。

 また、延喜式神名帳(927)に「出雲国意宇郡 真名井神社」あることから、真名井神社は10世紀にあったことは確かだが、それが何処にあったのかは不明で、また、真名井神社と伊弉諾神社との関係もはっきりしない。

 真名井神社・伊弉諾神社に関する古記録として
 ・出雲風土記鈔(天和3年・1683)--山代郷伊佐奈枳明神 真名井神社も亦同処にあり、伊佐奈枳社の東瀑布の下也
 ・雲陽誌(享保2年・1717)--伊弉諾社東方に真名井の滝あり、滝の近くに真名井荒神あり、風土記の真名井社なり
                この滝壺で汲まれた水は、太古より出雲国造の火継式・新嘗祭に用いたという
 ・山代村伊弉諾社指出帳(享保12年・1727)--伊弉諾神社末社の項に、亦左脇に天真名井之滝若宮神社有
 ・意宇郡山代郷社帳(宝暦14年・1764)--伊弉諾大社 旧真名井神社 式内社  末社 滝神社 祭神倉稲魂命(ウカノミタマ)
として、伊弉諾神社の旧称として真名井神社の名が現れ、社殿左脇に末社・滝神社があったという。

 これらの古資料からみると、概略
 ・真名井神社は、天和の頃に(江戸前期末頃)、当社の東にある真名井の滝の辺りに小社があった
 ・その後(江戸中期)、小社が伊弉諾神社内に遷され、社殿左脇に鎮座して若宮社あるいは滝社と称した
と推測され、式内社調査報告は、
 「そこで考えられることは、天和の頃には真名井の滝の畔に真名井神社と称する小社があり、それを天和から享保に至るあいだに伊弉諾神社の境内に遷し、当分はこれを若宮と称し、やがて滝神社と改称するにいたったものであるが、古く滝の下にあり、後に伊弉諾神社の境内社となった小社こそ、風土記・延喜式以来の真名井神社ではあるまいか。
 いづれにせよ、伊弉諾神社は式内・真名井神社そのものではなかった」
として、真名井の滝傍らにあった小社こそが式内・真名井神社ではなかろうかという。

 一方、江戸後期の出雲神社巡拝記(天保4年・1833)には
  「山代村伊弉諾大明神 記云真名井社 式云真名井神社 祭神いざなぎの命
   同社東脇滝大明神 風土記云末那為社 祭神みけつ神 当社 古へは五丁東に真名井の滝有 其所に有りしを此所へ移したる由也
とあり、伊弉諾神社とは式内・真名井神社であって、本殿東にある末那為神社は真名井の滝の辺にあった小社で、これは風土記にいう不在神祇官社・米那為社だとある。

 式内・真名井神社と伊弉諾神社との関係について混乱がありはっきりしないが、当社宮司さんのお話では、
 ・元々、真名井神社は真名井の滝の辺りにあった(今回は訪問しておらず、現状は不明だが、痕跡はないらしい)
 ・何時の頃かに当地に伊弉諾神社が造営されたが、これと真名井神社とは無関係。
 ・その後、この伊弉諾神社境内に真名井神社が移され、滝社あるいは滝若宮社と称していたというが詳細は不明。
 ・江戸時代の当社は伊弉諾神社であって、真名井神社は完全に忘れられてしまっていた。
 ・当社が伊弉諾神社とされたのは、近くにある神魂神社との関係かと思われる(神魂社の祭神・伊弉冉命に対する夫神・伊弉諾命)
 ・今、本殿東に鎮座する末那為神社が風土記にいう不在神祇官社・末那為社かどうかは不祥で、近くの山の上にマナイと称する小社があり、それが移されたともいう。
という(大意)

 いずれにしろ、今の当社が式内・真名井神社と称するのは社名だけのことで、境内に式内・真名井神社の痕跡はみえない。

 ただ、今、本殿右(西側)に児守社との末社があり住吉四神を祀る。
 通常、児守(子守・コモリ)とは水の配分を意味する水分(ミクマリ)から転じたといわれ(ミクマリ→クマリ→コマリ→コモリ)、当児守社の本姿が水分社であったとすれば、海神である住吉四神を祀ることともあいまって(住吉四神を祀る社を児守社というのは解せない)、これが滝の辺りにあったという式内・真名井神社の後継社とも解釈でき、本殿の左右に式内・真名井神社と風土記にいう末那為神社が鎮座しているのかもしれない。

 その後の伊弉諾神社について、式内社調査報告は、
 「伊弉諾神社は、近世には大社と呼ばれ、社領も熊野大社と同じく17石を当てられていたが、
  明治になり、新社格制度(官幣社・国弊社・県社などの格付け)の時代になると、このままでは存続が難しいとして、社号を式内・真名井神社に改めたが、充分なる考証ができなかったためか、社格は村社に列したままであった」
という。

 真名井の滝については下記。

※祭神
 今の当社祭神は、伊弉諾尊・天津彦根命 という。

 しかし、江戸時代の古文書には
 ・意宇郡山代郷社帳(1764)--祭神:伊弉諾尊 
                    相殿祭神:国常立尊(クニノトコタチ)・国狭土尊(クニノサツチ)・豊斟渟尊(トヨクムヌ)
                    脇殿祭神:埿土煮尊(ウヒヂニ)・沙土煮尊(スヒヂニ)・大戸道尊(オオトノチ)・大苫辺尊(オオトマベ)・面足尊(オモタル)・惶根尊(カシコネ)
 ・  同社帳(1826)--祭神:伊弉諾尊 
              相殿祭神:伊弉冉尊・天照大神・素盞鳴尊
              脇殿祭神:埿土煮尊・沙土煮尊・大戸道尊・大苫辺尊・面足尊・惶根尊
とあり、主祭神は伊弉諾尊とするものの、相殿・脇殿には神代七代あるいは三貴神のうちの主だった神々が祀られているが(式内社調査報告)、そこには天津彦根命の名はない。

◎伊弉諾尊
  当社が江戸時代に伊弉諾神社と称していたときの祭神を引き継いだものと思われ、特選神名牒(1876)に「神名帳に伊弉諾命とし、社家及び国人も然かいへども恐らくは別神ならんか」というように、これは式内・真名井神社本来の祭神ではない。

◎天津彦根命
 古事記に、
 ・アマテラスとスサノオのウケヒにおいて、
 「スサノオがアマテラスの御鬘(ミズラ)に巻いておられる玉の緒を受け取って、噛みに噛んで吐き出す息の霧から成りでた神の名は、天津日子根命」
とある神で、書紀6段本文には、古事記と同意の記述の後に、
 「天津彦根命 これは凡川内直・山代直らの先祖である」
とある。

 天津彦根命が当社に祀られる由縁は不明。
 当社が山代町(旧意宇郡山代郷)に鎮座することから、天津彦根命を祖神とする山代直との関係から祀られたのかもしれないが、出雲風土記・意宇郡条には
 「山代郷(大庭町・山代町付近) 郡家の西北三里百二十歩 天の下造らしし大神・大穴持命の御子・山代日子命坐す、故、山代と云ふ」
とあって、そこに天津彦根の名はみえない。

 山代直とは、新撰姓氏録に
 「山城国 神別(天孫) 山背忌寸 天都比古祢命(天津彦根)の子・天麻比止都祢命(天目一箇命)の後也」
とある山代忌寸に関係するかと思われ、とすれば、天目一箇命(アメノマヒトツネ)が製鉄・鍛冶の神であることから、鍛冶に関係する人たちが当地に居て、彼らが祖神とする天津彦根命を祀ったのかもしれないが、確証はない。

 真名井神社本来の祭神は、その旧鎮座地が真名井の滝の辺りにあったとすれば水神とみるのが順当と思われるが、今の当社には水神とおぼしき神は祀られておらず、意宇郡山代郷社帳(1764・1826)等の古資料にも、本殿・相殿・脇殿ともに水神の影はみえない。

 当社は今、延喜式にいう真名井神社と称しているが、祭神からみてもその痕跡はみえず、真名井神社は社名だけのことで、真名井神社本来の影は薄い。


※社殿等
 県道247号線脇に真名井神社と刻した大きな社標が立ち、その奥に鳥居が、鳥居を入ったすぐから長い石段が続き境内に入る。


真名井神社・社標 
 
同・鳥居
 
同・石段

 境内正面に、切妻造平入りの拝殿が、その奥、透塀を巡らした中に大社造の本殿が南面して鎮座する。

 頂いた参詣の栞には、
 「現本殿は、江戸中期(寛文2年・1662)の軸立に拠るものである。
 昭和49年(1974)島根県文化財に指定され、特に神仏混淆時代最後の特徴を良く現す殿内彩色が施され、天井には九重の雲が極彩色によって描かれている。
 又中央の棟持柱が突出しており、能く大社造りの古形を留めている。屋根は桧皮葺。
 昭和9年(1934)に大改修を行い、本殿の屋根吹き替え、拝殿・透塀を新築し、古い社舎および鳥居2基を廃した」(省略あり)
とある。
 拝殿は昭和9年の新築で、周りに壁のない吹き放しの土間床造り。

 
真名井神社・拝殿
 
同・本殿

◎境内社
 境内社として、本殿の向かって右(東側))に末那為神社、向かって左(西側)に児守神社(宍道若宮社・山代神社・荒神社合祀)がある。 
 参詣時には、両境内社とも改築工事中で(年明けには完成という)、社殿の実見は出来ず。

 *末那為社(マナイ)--本殿向かって右(東側)
    祭神--倉稻魂神(ウカノミタマ)
 *児守社(コモリ)--本殿向かって左(西側)
    祭神--底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命・息長足媛(住吉四神)
    合祀--六道若宮社(宍道高規嫡子之霊)・山代社(山代日子命)


児守社(資料転写) 
 
同・工事中
 
末那為社(資料転写)
 
同・工事中

◎神紋

 出雲では、旧暦10月を“神有月”(神在月・カミアリツキ)と呼ぶが、当社神紋「二重亀甲に有」はこの神有月・十月に関係するといわれ、由緒記には
 「十月というものが神道の神秘てあり、故に十月を御紋に用いることが“有”に象徴されていると考えられている。
  現在の出雲大社の神紋は二重亀甲に剣花菱だが、二重亀甲に有の神紋を用いているのは、当社のほかに神魂神社・六社神社である。これは出雲国造家との深い関わりを表すものと考えられている」
とあり、二重亀甲の中の“有”は旧暦十月を組み合わせたものという。


当社神紋
(二重亀甲に有)


【真名井の滝】 

 当社東方の山中にある小さな滝で、由緒記には
 「神名樋山の南東録にある真名井の滝は、出雲風土記に『真名猪池 周一里』と記録されており、“井”そのものというより、広範囲に亘る土地を指すものと解したほうが相応しく、今の間内地区あたりにあったものと推察される。

 現在は、当社から県道を東へ300m程行った山の中腹に位置し、高さ約3mの小さな滝だが、その水はいかなる旱魃があっても涸れることがなかったと伝えられている。

 真名井の名称については、“真名”というのは“すばらしい”という意味の誉め言葉で、直訳すると“すばらしい井”ということになる」(以下略)
とある。
 今回は時間の都合上、訪問していない。
 

真名井の滝(資料転写)

 天真名井あるいは真名井の水(滝)と称するものは各地にみられるが、その由来について、豊受皇大神鎮座本紀(鎌倉時代)
 ・天孫瓊々杵尊が天降った食国(この国)の水は熟れていない荒水だったので、尊は随行していた天村雲命に命じて、このことを天照大神に報告させた
 ・それを聞いた天照大神は、高天原の長井の水をとって天村雲命に与え、「この水を持ち帰って食国の水に加え、朝夕の御饌に献じ奉れ」と教えられた
 ・天村雲命は、この水を日向の高千穂宮(近傍の高千穂陜に真名井の滝-落差:約17mあり)に据え、その後、丹波の真名井(京都・宮津の籠神社に真名井水神社あり)に移した、また後に伊勢・豊受神宮の御井(外宮境内に上御井神社あり、但し禁足地)へと移された
とあり(大意)、真名井の水とは天村雲命が高天原から持ち帰った聖なる水だという。

 当滝の水は、出雲国造の火継式に真名井の滝の水が神水・聖水として使用されるというが、それは、この水が単に清らかな水というだけでなく、高天原から持ち帰られた聖なる水と認識されていたためと思われる。

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