トップページへ戻る

万九千神社・立虫神社
島根県出雲市斐川町併川(アヒカワ)字神立(カンダチ)258
      祭神 万九千神社--櫛御気奴命・大穴牟遅命・少彦名命・八百萬神
立虫神社--五十猛命・大屋都姫命・抓津姫命
                                                          2019.06.16参詣

 万九千・立虫の両社は同じ境内に鎮座している。
 万九千神社(マクセ、通称:マンクセン)は、延喜式神名帳に、『出雲国出雲郡 神代神社(カムシロ)』とある式内社の論社2社の一社で(他の一社は、当社の東約6kmの斐川町神庭にある神代神社--下記)、出雲国風土記出雲郡条には『神代の社』とあるが、両書共に『万九千神社』との社はみえない。

 立虫神社(タチムシ)は、同神名帳に、『出雲国出雲郡 立虫神社』とある式内社で、出雲国風土記出雲郡条には『立虫の社』とある。

 JR山陰本線・出雲市駅の東北東約3km、駅北へ出て県道28号線(市役所前の道)を東へ、斐伊川に架かる神立橋を渡ってすぐを左(北)へ入った処に鎮座する。

【万九千神社】
※由緒
 社頭の鳥居脇に立つ案内(石版)には
 「御祭神  櫛御気奴命・大穴牟遅命・少彦名命・八百萬神
 御祭神は、国土開拓・国造り・縁結び・諸産業医薬の道を開かれた。万物の生命と生業の弥栄に霊験あらたかである。
 当社では、神在月、日本中の八百万神が出雲路の締めくくりに立ち寄られ、神儀と直会ののち、各地へと旅立たれると伝えている。そのため旧暦10月の神在祭・神等去出祭にお参りすれば、諸願成就するという。 (中略)
 社史概要
 この地は、古代の出雲郡神戸郷にあたる。神戸とは熊野大社と杵築大社の御神領のこと。
 水路と陸路における交通の要衝であり、神名火山を仰ぎ見て、斐伊川下流に広がる稔り豊かな大地の鎮めとして重要な祭場である。
 当社の創祀は不詳であるが、「出雲国風土記」や「延喜式」にみえる神代社・神代神社が、のちの万九千社にあたると伝えている。
 中世には神立社(鎌倉時代頃)や神達大明神(安土桃山時代頃)や万九千大神などと称された。明治維新以後は現社名となり、人々は親しく「マンクセンサン」と呼んでいる」
とある。

 当社の創建時期は不祥だが、当社が風土記(733成立)にいう“神代の社”の後継社であれば、8世紀初頭(1300年前以前)にはあったといえる。しかし、当社を神代の社とする根拠は不詳で、後継社かどうかははっきりしない。


◎式内・神代神社
 当社が論社となっている式内・神代神社とは、延喜式神名帳に『出雲国出雲郡 神代神社』、風土記・出雲郡出雲郷条に『神代の社』とある社だが、
 風土記(講談社学術文庫版・1999)の注に
 「神代の社 神名帳に神代神社。斐川町併川の万九千神社とも、斐川町神庭の神代神社ともいう」
とあり、論社として、神立の万九千神社と神庭の神代神社の2社を挙げている。

 また、出雲神社巡拝記にも
 ・神立村 万九千大明神 式云・神代神社 祭神・あしはらしこをの神(葦原醜男・大己貴の別名)
 ・神庭村 宇夜都弁(ウヤツベ)大明神 記云・神代社 祭神・うやつべひめ神
       当社は後世 八幡宮を合わせ祭りて、今は うやはちまん(宇夜八幡)と唱ふ
と、ここでも神立の万九千神社・神庭の神代神社の両社を挙げている。

 これに対して特選神名牒(1876)
 「神代神社   祭神 宇夜都弁命
 今按、式社考に神立村久萬千大明神(満九千の誤記か)と云なり、出雲国中の諸神を祭るといへりとあり。又永福が風土記考に、神庭村にて今は宇夜八幡と云と記せり。(中略)

 さて明細帳に祭神・宇夜都弁命とある。この宇夜は建部郷(タケルベノサト、現斐川町学頭・神庭・三絡・松江市宍粟町伊志見の辺り)の旧名にして、宇夜の里は、『宇夜都弁命其の山の峰に天降り坐しき。即ちその神の社、今に至るまで此処に坐す云々』と風土記に見えたる地なるべし」
として、神庭の神代神社を有力視している。


*論社・神代神社(神庭、不参詣)
 斐川町神庭に鎮座する神代神社(出雲市斐川町神庭485、万九千社の東約7km)の社頭案内には
 「主祭神  宇夜都弁命(ウヤツベ)
  出雲国風土記によると、『宇夜都弁命が、この郷の山の峰に天降られた所で、この神が今でもこの地に御鎮座になっている。それで宇夜という』とある。
 社伝によると、この神がこの地に天降られて以来、開拓・耕作・漁・女の道など住民を守り教え賜うた神と伝えられている」
とあり、背後の山中(権現山というらしい)には宇夜都弁命が天降った磐座があるという。

 宇夜都弁命が鎮まる宇夜の里とは、風土記にいう出雲郡健部の郷(タケルベノサト)の古称で、風土記・出雲郡条には
 「健部郷  郡家の正東一十二里二百二十四歩
   先に宇夜の里と号(ナヅ)けし所以(ユエン)は、宇夜都弁命 其の山の峰に天降り坐しき。即ち彼の神の社 今に至るまで猶此処に坐す。
   而して、後に改めて健部と号けし所以は 景行天皇『朕が御子 倭健命の御名は忘れじ』とのりたまひて 健部を定め給ふ。故健部と云ふ」
とある(ネット資料)

 神立の万九千神社、神庭の神代神社、何れが式内・神代神社かを判断できる資料はないが、
 ・出雲国風土記に万九千神社の名がみえないこと→8世紀頃には万九千と呼ばれる社がなかったことを示唆する
 ・延喜式編纂時の万九千神社は、磐境を御神体とする神マツリの場であったといわれ(下記)、とすれば、社殿のない当社が式内社として認められたかどうか疑問があること
 ・特選神名牒に、神代神社祭神は宇夜都弁命とあり、風土記に、宇夜都弁命が宇夜の地に天降られたとあること、
 ・論社・神代神社の鎮座地である神庭が、古の宇夜の地であること
などからみると、式内社としては神庭の神代神社が有力かと思われる。

 なお、神庭・神代神社の祭神・宇夜都弁命は、風土記・健部郷にのみ見える神で、ウヤツベの“ツベ”(都弁)を女神名に多い“○○トベ”(戸辺)の転訛とみれば、宇夜都弁命は女神かと推測されるものの、その出自・神格等は不明。



◎旧称・神立神社--神等去出神事(カラサデ)
 社頭に立つ案内・「万九千社と神立(カンダチ)」には
 「古来、全国では旧暦10月を神無月というが、いずもでは神在月と呼んで、全国の八百万神が出雲に集まられ、五穀豊穣や縁結びなどの目には見えない世界の神儀(カミハカリ)をなさるからと伝えている。
 稲佐の浜に迎えられた神々は、その後、出雲大社・佐太神社・万九千社をはじめ複数の神社に滞在のうえ神儀されるという。
 ここ万九千社では、10月26日(旧暦)夕暮れ、神々に出雲からのお立ちの時がきたことを告げる「神等去出神事」(カラサデシンジ)が厳かに催され、来年の再会を期して帰路につかれるという。
 人々は神々のお立ちを「カラサデ」と称して静かに見送る風習を伝え、この地を「神立」と呼んでいる」
とある。

 これからみると当社は、“旧暦10月(神在月)に出雲に集まられた神々が最後に当社に集まっての神奇儀・直会の後に、それぞれの鎮座地に帰って行かれる”ことから、神々が出立する神社即ち『神立神社』と称したという。

 しかし、出雲で旧暦10月を神在月ということは中世の文献以降に見えることで、何時の頃からか、全国から集まられた神々が出雲大社・神魂神社・多賀神社など多くの関係神社を巡廻されるという伝承が生じ、その最後が万九千社であるということになった、ともいわれている(式内社調査報告・1984)

 この神在祭・神等去出祭について、参詣の栞には
 ・全国では旧暦10月を神無月というが、出雲では八百万の神々が出雲に参集されるとして神在月という
 ・万九千社でも、旧暦17日から26日までを神在もしくはお忌みと称して、神在祭を斎行する
 ・まず17日の早朝、神迎えにあたる龍神祭を、宮司一人が神社近くの斐伊川の水辺で秘儀として行い、神籬に宿られた神々を神社へとお遷しする
 ・26日の夕刻、まず宮司家伝来の神楽を伴う湯立神事を行う(平成29年再興)
 ・続いて闇の中、神々にお立ちの時間が近づいたことを告げる神等去出祭が厳かに行われる
 ・神事では、宮司が弊殿の戸を梅の小枝で「お立ち」と三度唱えながら叩く特殊な所作をする。
 ・かつては、神社の南方約数十㍍の地点にあった、屋号「まくせ」と呼ぶ民家の表座敷で湯立神事を行ったとか、古くは社頭の東南に仰ぎ見る神名火山の麓で火を焚いて神々をお見送りしたともいう
 ・地元では、古くより神々のお立ちを「カラサデ」と呼び習わしてきた。この日は何故か大風が吹き。雨や雪、みぞれもまじる荒天になることが多く、「お忌み荒れ」とか「万九千荒れ」とも呼ばれる。人々は、北西の季節風が吹きすさぶ晩秋から初冬への厳しい既設の移り変わりに、神々の去来と神威の発揚を実感したのであろう
とある。

 この神在月・カラサデ神事に関連して、古代出雲文化展(大阪、1997)の総合カタログには、
 ・旧暦10月を「神無月」というのは古く、すでに平安時代の終わり頃にはいわれていた
 ・降って南北朝中頃になると、神々はただ漠然と出雲に行かれるというのではなく、特定の神社・佐太神社へ行かれるというようになってくる
 ・さらに降って戦国時代になると、この参集殿が出雲大社に変わってきて、佐太神社の影は薄くなってくる
 ・神在月の期間中、神々が立て寄られるとする神社が、出雲大社・佐太神社以外にも、出雲市の朝山神社・加茂町の神原神社・斐川町の万九千神社・松江市の神魂神社・雑賀町の売豆紀神社・朝酌町の朝酌下神社の6社があって、
 ・神々は出雲大社・佐太神社へ行かれるとき、帰られるとき、これらの神社に寄って行かれると伝えている
とあり(要約)、神を送るカラサデ祭は当社独自の神事てはなく、出雲大社他でもおこなわれる神事だという(日時は異なっている)

 そのなかで、万九千神社でのそれについて
 ・11月17日から26日までを“神在り”もしくは“お忌み”と称し、まず17日早朝に神迎えにあたる龍神祭が、社近くの斐伊川の水辺で秘儀として神主一人をもっておこなわれる
 ・神々が出立される26日は当社の例大祭で、夕刻には、弊殿の戸を梅の小枝で「お立ち お立ち お立ち」と3度唱えながら叩き、神々をお送りするカラサデ神事がある
 ・これは伝承に基づき近年整えたもので、必ずしも古態を留めておらず
 ・近世には、屋号「万九千」と呼ぶ民家の表座敷で湯立神事がおこなわれたとか、古くは、東南に仰ぎみる神奈備山(現仏経山)の麓で火を焚いてお送りしたとの記録や伝承がある
という(要約)

 この屋号・万九千との民家に関連して、式内社調査報告には、
 ・伝によれば、元は現在地より東方約500mの地点にあった屋号・萬九千(マクセ)と号する白枝家を本願とし、年々旧10月26日の例祭時には、まづこの家でカラサデ神事を行うしきたりであったという。
とある。

 白枝家と当社との関係は不明で(氏子総代のような関係か)、確たることは不明だが、
 ・カラサデ神事が、まず白枝家でおこなわれたということは、この神事が白枝家(あるいは集落全体)の私的神事であったとも推測され、その神事が当社に移された経緯がはっきりしないこと
 ・屋号とは、同一の名をもった人が多くなった江戸時代の農家・商家で(昔は一般の人々には姓がかった)、家毎に特定の名称(屋号)をつけて個人(あるいは家)を判別したことに始まるといわれ、とすれば、白枝家の屋号・萬九千も近世になってのことと思われること
などから、当社が神立神社と呼ばれるようになったのは、早くとも中世以降、遅ければ江戸時代になってのこととも推測される。


※祭神
   櫛御気奴命(クシミケヌ)・大穴牟遅命(オオナムチ)・少彦名命(スクナヒコナ)・八百萬神(ヤオヨロズ)

*櫛御気奴命
  櫛(クシ)は“奇”、御気(ミケ)は“御饌”であって、櫛御気奴とは“霊妙なる食物神”を意味する。
  当社HPには、「食物の神、農耕をはじめとする生産を司る。またの名を熊野大神と称し、熊野大社(旧意宇郡・松江市八雲町)の主祭神である」とある。
  クシミケヌには、櫛御気都(クシミケツ)・熊野加武呂伎(クマノカブロギ)・神祖熊野大神御気野(カムロギクマノオオカミクシミケツ)・伊射那伎加夫呂伎熊野大神櫛御気野(イザナミノカブロギクマノオオカミクシミケツ)・家津御子(ケツミコ)など多くの異名があり、“イザナミの愛し子即ちスサノオ”を指すともいう(別稿・熊野大社参照)

*大穴牟遅命
  風土記で所造天下大神(アメノシタツクラシシ オオカミ)と尊称される大己貴命(オオナムチ=大国主命)の別表記で、本来は出雲系の国土造成神だったものが、記紀神話に組み込まれてスサノオの御子とされ(書紀本文、古事記・書紀一書ではスサノオ6世の孫)、出雲国を高天原の天つ神に譲って自らは幽界に隠れたという。
  HPには「出雲国をはじめとする国土を開拓され、葦原中津国の国造り・国譲りを果たされた神。農耕・漁業の諸産業・医薬・縁結びを司られる神で杵築大神などと称し出雲大社の主祭神」とある。

*少彦名命
  大国主命が出雲の美保の岬におられたとき、羅摩(カガミ)の実の船に乗って、娥の皮を剥いで作った衣を着て現れた小さな神、神産霊神(カミムスヒ)の御子神で(書紀)、医薬の神・酒の神ともいう。
  大国主命とともに国造りを為した後、出雲の熊野岬から常世の国に去られたとも、粟島で粟茎によじ登り弾かれて常世国に行かれたともいう(書紀8段)
  HPには、「大己貴命と協力して国土を開拓され、葦原中津国の国造りを果たされた神。農耕をはじめ諸産業・医薬の道を司られる神」とある。
  この神と大名牟遅命との関係から祀られたのであろう。

*八百萬神
  国内に坐す天神地祇全ての神々を指し、
  HPには、「毎年の神在月に日本中の天神地祇が当社の磐境神籬に参集され、神議や直会を為されることに因み、国内全ての神々をいう」とある。

 これらの神々が当社に祀られる由縁は不祥だが、
 当社が旧暦10月の神在月に全国の神々が最後に集まられ、ここから各地へ出立されるという伝承からみると、本来の祭神は“八百萬神”であったが、
 何時の頃かに、熊野・出雲両大社の主祭神である櫛御気奴命・大穴牟遅命が勧請され、八百萬の神々は相殿神のようになったのかもしれない。


【立虫神社】
※由緒
 万九千神社境内に鎮座する『立虫神社』について、頂いた参詣の栞・立虫神社の項には
 「祭 神   五十猛命(イタケル)・大屋都姫命(オオヤツ)・抓津姫命(ツマツ)
  配祀神   大名牟遅命・伊弉冉大神(旧客神社の祭神)

 立虫社・立虫神社の名は奈良時代に編まれた出雲国風土記や平安時代の延喜式に見えるが、その創祀創建は定かではない。
 社伝によれば、、三柱の主祭神は、父神である素盞鳴命と共に斐伊川の源流・仁多郡鳥上の峯に来たり坐して、木種を四方に播き植えつつ当地に至って鎮座されたという。

 当社は、もともと現在地より南西方向へ約7,800mほど隔てた所にあった斐伊川の中島(現神立橋の大津町よりの付近)に鎮座していた。
 ところが、江戸時代・寛文年中(1661--73)の大洪水に伴う斐伊川の流路変更(大社の方へ西流していた主流が宍道湖へと東流)の影響により、社殿・社地を他所に移転せざるを得なくなり、寛文10年(1670)近隣の万九千社境内に神殿造営を果たして御遷座された。
 なお当社は度々社地を遷しておられ、より古くは、旧出雲郡河内郷(現仏教山西方の斐伊川中州の辺りか)に鎮座していたともされる。

 現境内地に遷られて以降、当社は神立大明神などと呼ばれていた。、明治維新以降は古称に復し、立虫神社と改め村社に列せられた。大正9年(1920)には、旧千家村に鎮座していた“客神社”を合祀し、これ以降、旧併川村の氏神・産土神として今日に至る」
とある。

 当社に関する資料は少ないが、特選神名牒(1876・明治9年)には
 「今按に、式社考に『社家の伝に素盞鳴尊の毛髪を納め給へる所也といへり』とあるは、今 加美伎利(カミキリ)大明神と云よりの付会にあらざるか。
  明細帳に五十猛命・大屋都比売命・抓津比売命とあり、なほ尋ぬべし。 神立村 今併川村にあり」
とある。
 式社考にいう“素盞鳴尊がその毛髪を納めた社”とは、五十猛命以下3神の父神であるスサノオが、
 「髯を抜いて放つと杉の木になった、胸の毛を抜いて放つと桧になった、・・・」(書紀8段一書5)
という伝承によるものと思われる。(加美伎利大明神については下記)


※祭神 
  五十猛命(イタケル)・大屋都姫命(オオヤツヒメ)・抓津姫命(ツマツヒメ)

 この三柱の神について、書紀6段には
 *一書4
  ・(高天原を追放された)素盞鳴尊は、その子・五十猛神を率いて新羅国のソシモリに降りられたが、この地には居たくないとして、船を造って東へ渡り、出雲国の簸の川の上流にある鳥上の山に着かれた。
  ・はじめ、五十猛神が天降られるとき、沢山の木の種を持って下られたが、韓国には植えないで全て持ち帰り、筑紫からはじめて大八洲の国の中に播き増やして全部青山にしてしまわれた。このため五十猛命と名づけて有功(イサオシ)の神とする。
 *一書5
 ・素盞鳴命が「韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に船がなかったら良くないだろう」といって、髯を抜いて放つと杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと桧になった。尻の毛は槙の木になった。そして、その用途を決められて「杉と樟は船をつくるのによい・・・」といわれた。
 ・この素盞鳴尊の子を名づけて五十猛命という。妹の大屋都姫命、次に抓津姫命。この三柱の神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。

 参詣の栞には
 「三柱の神は、古事記・日本書紀に登場され、素盞鳴尊の御子神として、木材・植林・建築などを司り、それらを広く普及し、耕地の開拓に霊験あらたかな神。併川地区の産土大神」
とあり、何れも五十猛命以下の祭神は、素盞鳴命の御子で樹木の神・林業の神という。
 ただ、この樹木・林業の神である五十猛命兄妹が木種を撒きながら各地を廻り、最後に至ったのが当地というが、古史料には記されておらず、当地方に伝わる伝承であろう。

 なお、配祀神 大名牟遅命・伊弉冉大神について、参詣の栞には
 「合祀された客神社
 この神社は、創立年代不詳ながら、旧鎮座地周辺の地名を「千家」と言い、出雲大社ならびに出雲国造・千家ゆかりの神領地の鎮守であったと考えられる。今もその旧跡が元宮として祭られている。
 近世には、千家国造が、毎年秋、大庭村(現松江市大庭町)の神魂神社で斎行される新嘗祭へと参向されるにあたり、道中この社に供物を捧げ祭事を行われたと伝えられている」
とあり、大正9年(1920)に立虫社に合祀されたという。


※万九千神社と立虫神社の関係
 今、万九千・立虫両社は同じ境内に鎮座しているが、
 ・万九千神社に本殿がなく、磐座をご神体とする神社であること、
 ・立虫神社は、江戸前期に万九千社境内に遷座してきた神社で、本殿・拝殿他を有すること
 ・今、境内に入った正面に立虫神社社殿が南面して建ち、万九千神社拝殿はその右手に拝殿が西面して建つこと
などから、
 明治の社格編成にあたって、立虫神社は式内社であることから郷社に認定され、万九千神社は無格社とされ(神庭の神代神社が式内・神代神社とされたらしい)、今でも、境内正面に立虫神社社殿が鎮座することから、立虫神社が主体であって、万九千神社はその境内社のようにみえる。


※当社の異名について(以下、万九千・立虫両社を合わせて“当社”という)
 近世における当社は、神立大明神(カミタチ・カンタチ)・加美伎利大明神(カミキリ)・加立利社(読み不明)などと呼ばれたというが、それらが万九千社・立虫社のどちらにあたるのかは資料に混乱がありはっきりしない。

*神立大明神
 神立大明神とは、旧暦10月に出雲に集まられた神々が当社から帰国の途につかれるという伝承によるものだが(上記)、
 ・出雲神社巡拝記
   神立村   神立大明神 式云立虫神社 祭神:五十猛命・大屋都姫命・抓津姫命
 ・当社所蔵文書(近世巻頃か)--立虫神社を神立大明神と称し奉ると云
とあるように、古資料では神立社=立虫社とする資料が多く、
 式内社調査報告には
 「併川の現地では、近世に“神立大明神”・“加美支利大明神”といった社が成立していたために、この立虫神社・加立利社・神立大明神・加美支利大明神の4社名が、考証家のあいだで混乱するようになる。
 しかし、結局は神立大明神が式にいう立虫神社の後身であるとされ、明治以来社名を改めて今日に至っている」
とある(但し、立虫神社が神立神社である根拠を示した資料はない)

 しかし、神立神社の“神立”が諸神の出立にかかわるのであれば、立虫神社は、その由緒・祭神等からみて神立則ち神々の出立に関係するとは思えず、万九千神社を以て神立神社と見るのが順当であろう。

*加美伎利大明神(カミキリ、加美支利とする資料もあるが、“支”は“伎”の誤記であろう)
 加美伎利大明神とは、その読み“カミキリ”から“髪切”とも記される神名で、古資料には
 ・出雲神社巡拝記--神立神社合殿 髪切大明神 記云立虫社 祭神:素盞鳴命
 ・出雲国式社考--立虫神社 神立村加美支利大明神なり 社伝に云「素盞鳴尊の毛髪を納める所」
とある。

 式社考にいう“素盞鳴尊がその毛髪を納めた社”とは、五十猛命以下3神の父神であるスサノオが“自分の髯や毛を抜いて杉・桧などの樹木を生じさせた”という伝承(書紀8段一書5、上記)によるものと思われ、
 スサノオとイタケルとが親子であることからみて、加美伎利大明神とは立虫大明神の別名とみてもおかしくはない。

*加立利社(読み不明)
 詳細不明の社だが、式内社調査報告には、
 「風土記の立虫社は一時『加立利社』と書かれた時代があったらしく、近世のものには、『風土記にいう加立利社』といった言葉がしばしば見られる」
とあるが、その由縁を記すものはなく、また風土記に『加立利社』との社名はみえない。

 一方、明治3年(1870)、当社から松江藩神祠係へ提出した書面には
 「出雲風土記鈔に云 加立利社同所加美支利大明神是なり 式に立虫社と書す蓋し是か。
  しかし、加立利は加毛利(カモリ)の誤りにて、立虫神社とは別社なること延喜式に顕然たり。・・・」
とあり(式内社調査報告)、加立利社とは加毛利社(カモリ)のことであって、立虫神社ではないという。

 加毛利社とは、延喜式神名帳に『出雲国出雲郡 加毛利神社』とある式内社で、風土記には『加毛利の社』とみえ、いま出雲市斐川町神氷神守の地に鎮座する同名の神社(祭神:天津彦火火出見命)を以て式内社に比定されて いる(当社の東約2.3km)

 加毛利神社の由緒(ネット資料)によれば、加毛利神社は古語拾遺(802)にみえる
 「天津彦火火出見命(山幸彦)の后・豊玉姫命が御子を産むとき、海辺に建てた産屋の中に入ってきた蟹を、天忍人命(アメノオシト)が箒を以て掃きだしたことから蟹守の名を賜った」(大略)
という説話に因んだ神社で、
 社名・加毛利、地名・神守は、蟹守(カニモリ)→掃部(カモン)→加毛利(カモリ)・神守(カモリ)との変化によるとあり、これからみると、加毛利神社と立虫神社とは別社とみるべきであろう。


※社殿等

 道路脇に立つ二の鳥居を入った北側が境内で(右略図)、二の鳥居南側の駐車場奥遠くに、民家に挟まれて一の鳥居が立つ。

 二の鳥居を入った正面に
  立虫神社の拝殿・本殿が南面して鎮座し、
  立虫神社拝殿の右(東側)に、万九千神社の拝殿(右略図の赤色部分)が西面して建ち、その背後(東側)、瑞籬に囲まれた中に万九千神社の御神体である磐境(立石)が鎮座する。
 なお、境内の四方には末社10社が鎮座する。

境内略図

 道路脇に二の鳥居が立ち、右に万九千神社、左に立虫神社と刻したの石標が立つ。


万九千・立虫神社・一の鳥居
(奥が境内) 
 
同・二の鳥居

【万九千神社】
 境内正面に立虫神社の拝殿が南面して建ち、その右(東側)に万九千神社の切妻造平入りの拝殿が西面して建つ。

 万九千神社拝殿の内陣には小さな鳥居が立ち、その奥に、カラサデ神事で宮司が「お立ち・お立ち」と唱えながら梅の小枝で叩くという弊殿の扉がみえ、扉の左右上には、万九千神社・神代神社との扁額が掛かっている。

 また正面右前に、神々が行う直会の様子を描いたマンガチックな絵馬(右写真)が置かれている。
なお、当拝殿は平成26年136年ぶりに再建されたという。

 
 
左:立虫神社拝殿・
右:万九千神社拝殿
 
万九千神社・拝殿
 
同・内陣正面

◎磐境(イワサカ)
 万九千神社は、拝殿のみで本殿はなく、拝殿裏に鎮座する磐境を以て御神体としている。
 この磐境について、ネット資料(万九千神社-巨石巡礼)によれば(一部改変)
 ・江戸時代前期の記録に「磐境神籬を祭る」とあるように、当社は古くから斐伊川の石を以て設けた磐境(イワサカ)を御神体し、その前に神籬(ヒモロギ)を設けて祭を行っていたという。
 ・しかし、幕末の境内地図には磐境は描かれていない。斐伊川の氾濫によって流失したか、砂に埋もれたかで行方不明になったと思われる。
 ・昭和51年(1976)頃の宮司が、その失われた磐境の代わりとして、御影石に祭神名を刻んで、これを御神体とした。
 ・その後、当社社殿の改築・正遷宮(平成26年・2014)に合わせて、宮司と地元住民が、古来の姿に戻そうと斐伊川上流から新たな巨石を見つけてきて奉納した。これが現在の磐境である。
という。

 これによれば、当社は古代の磐座・磐境信仰を引き継いだ社となるが、延喜式編纂当時に、社殿をもたず磐座・磐境を以ておこなう神マツリの場が官社として認められたかどうかは疑問で(拝殿の造営時期不明)、その点からみても、当社を式内・神代神社に比定するには疑問がある。

 嘗ての磐境が如何なるものだったかは不明だが、現在の磐境は、2重になった木製瑞籬の中に鎮座する巨岩で、高さは約3mという。
 ただ、下部1/3ほどをコンクリートで固められた巨石が突っ立っているだけで(注連縄もない)、一般の磐座・磐境に感じられる神秘性・荘厳性は皆無。
 転倒防止のためとはいえ無愛想なもので、他に手段(例えば根元を玉石で囲むとか)はなかったのかと残念に思われる。


万九千神社・磐境全景 
 
磐境(正面)
 
磐境(側面)

 なお磐座・磐境とは、いずれも巌石・巨石を以て神が降臨する依代(ヨリシロ)とする古代の祭祀形態だが、磐座(イワクラ)が数個の自然巨石からなるのに対して、磐境は人の手で数個の岩をまとめたもので、何れも、その前に設けられた臨時の祭祀施設を神籬(ヒモロギ・祭祀終了後取り壊されるのが普通)といい、書紀9段一書2に
 「(天孫降臨に際して)高皇産霊尊勅して『吾は天津神籬及び天津磐境を起こし立てて、皇孫のために斎(イワ)ひ奉(マツ)らむ。天児根命・太玉命は、天津神籬を持ちて葦原中国に降りて、皇孫の為に斎ひ奉れ』と宣う」
とあり、磐境・神籬による神マツリは高天原から伝わったものという。


【立虫神社】
 境内正面の立虫神社拝殿は、切妻造平入りの社殿で、その奥、弊殿を介して切妻造妻入りの本殿が南面して鎮座する。
 当拝殿は、平成30年秋に45年ぶりに再建されたもので、まだ木の香が薫るような真新しい社殿である。


立虫神社・拝殿 
 
同・本殿
 
同・拝殿内陣


※境内社
 境内西側(左側) 北から
 ・大社(出雲大社からの勧請という)
 ・秋葉社
 ・金比羅社


大 社 
 
秋葉社
 
金比羅社

 境内東側(右側) 北から
 ・大地主廼命社(オオジヌシノミコト・石碑)
 ・大地主廼命社(石碑)
 ・和田津見社
 ・稲荷社


大地主廼命社-1 

大地主廼命社-2 
 
和田津見社

稲荷社 

 境内北側 東から
 ・才ノ上社
 ・旅伏社(タビセ)

 道路を挟んで南側駐車場の奥(一の鳥居横の民家の一画)
 ・馬繋荒神(樹木のみ)--嘗ては境内にあったという

 
才ノ上社
 
旅伏社
 
馬繋荒神

 これら境内末社の鎮座由緒・祭神等は表示なく不明(神職にお聞きしてもよくわからない)
 なお境内には、これら末社の他に平和記念碑・合祀祈念碑がある(いずれも石碑)

トップページへ戻る