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美 保 神 社
島根県松江市美保関町美保関608
祭神--三穂津姫命・事代主命
                                                      2019.07.27参詣

 延喜式神名帳に、『出雲国島根郡 美保神社』とある式内社。
 出雲国風土記・島根郡条には『美保の社』(在神祇官社)とある。

 JR山陰本線・松江駅の東約32km、同米子駅から分岐する境線・境港駅の東北東約8km、中海の北を東へ延びる島根半島の先端部に鎮座する。

※由緒
 頂いた「ゑびす様の総本社 美保神社略記」によれば、
 「沿革  当美保関は大神様(事代主命)の御神蹟地であるばかりでなく、所造天下大神とたたへまつる大国主神が、その神業の御協力の神・少彦名命をお迎へになった所であり、又その地理的位置は島根半島の東端・出雲国の関門で、北は隠岐・竹島・鬱陵島を経て朝鮮に至り、東は神蹟・地の御前・沖の御前島を経て北陸(越の国)、西は九州に通ずる日本海航路の要衝を占め、更に南は古書に伝へる国引き由縁の地・弓ヶ浜・大山に接し、上代の政治文化経済の中心であったと考へられる。現に考古学上の遺跡や遺物によってもこれを窺うことができる。
 かやうな訳で当神社は非常に古く此所に御鎮座になり、奈良時代には已に世に著はれ、更に延喜式内社に列せられ、後醍醐天皇は隠岐御遷幸の砌り神前に官軍勝利・王道再興を御祈願になつたと伝へるが、その後戦乱の世に軍事上・経済上の理由から群雄の狙うところとなり、遂に元亀元年、御本殿以下諸殿宇を始めとして市街悉く兵火のため烏有に皈し、吉川廣家これを再興し日本海航路の発達と共に上下の崇敬を加へ、明治18年には国幣中社御列格の御沙汰を拝し、更に明治21年には叡慮を以て御剣一口を御下賜あらせられた」
というが、創建由緒・時期についての具体の記述はない。


 当社鎮座地の美保の地について、出雲国風土記には
 意宇郡条
 ・八束水臣津野命(ヤツカミズオミツ)が、“越(コシ、高志とも記す、北陸地方)の都々の三埼(位置不明、能登半島珠洲岬かという)に国の余りがあるか”とみると、余りがあったので其処を切り離し、三本縒りの綱を掛けて“国よ来い 国よ来い”と引き寄せて縫い付けたのが美保の国・・・(国引き神話、大要)
 島根郡条
 ・美保の郷  郡役所の真東二十七里百六十歩
   天の下を所造(ツク)らしし大神命(大己貴命)、高志(コシ)の国に坐(イマ)す神・意支都久辰為命(オキツクシイ)の子・俾都久辰為命(ヘツクシイ)の子・奴奈宣波比売命(ヌナカワヒメ)に娶(ア)ひて、産ましめし神・御穂須々美命(ミホススミ)、是の神坐す。故に美保と云ふ
 ・美保の浜  広さ百六十歩 西に神の社あり 北に百姓(オホミタカラ)の家有り 志毘魚(シビ・マグロのことという)を捕る
とある。 
 これによれば、美保の地は、ヤツカミズオミツ命が越の三埼から余った処を切り取って引き寄せた国で、
 その美保の浜の西に、御穂須々美命(美保須々美命とも)が鎮座する神の社があり、それが当社だという。
 ただ、風土記には、現祭神である三穂津姫命・事代主命の名はない。


※祭神
 当社本殿は、大社造社殿2棟が左右に並び、その間を“装束の間”と称する社殿で繋いだ構成で、その
  ・左殿(向かって右、大御前・一の御前ともいう)--三穂津姫命
  ・右殿(向かって左、二の御前ともいう)--事代主命
が祀られている。

*三穂津姫命(美穂津姫命とも記す)
 当社HPには
 「高天原の高皇産霊命(タカミムスヒ)の御姫神で、大国主神の御后神。
  高天原から稲穂を持ってお降りになり、人々に食料として広く配り広められ・・・」
とあるが、
 書紀9段一書2には
 ・国譲りが終わって、大物主神と事代主神が八百万神を率いて天に上り、帰順の真心を披露されたとき
 ・高皇産霊尊が、大物主神に「お前が国つ神を妻とするなら、吾はお前がなお心を許していないと考える
 ・それで、吾が娘・三穂津姫をお前に娶せたい
 ・八百万神々を引きつれて、永く皇孫のために守って欲しい」といわれて還り降らされた
とあり、大和・三輪山に坐す大物主神の后という。

 当社HPが、三穂津姫を大国主の后というのは、
 ・書紀神代紀8段--国造りを終えた大己貴命が、一緒に天下を治めてくれる者を求めていたとき、海を照らしてやってきた神が、「吾は汝の幸魂(サキミタマ)・奇魂(クシミタマ)である。吾が居たからこそ、お前は国を平らげることができたのだ。・・・吾は大和の三諸山(三輪山)に住みたい」と告げたので、宮を造って住まわさせた。これが大三輪の神(大物主神)である(大意)
 ・同一書6--大国主神は、大物主神・・・ともいう(6っの別名を記す)
とあることから、大物主を大国主の別名とみてのことであろう。
 (大物主は、箸墓伝承にみるように三輪山に坐す神(蛇神)であlり、崇神紀にみるように祀らなければ祟をなす神であって、大国主とは別神というのが本来の姿であろう)

 当社が三穂津姫命を祭神とするのは、その神名・三穂(美穂)が社名・美保に通じることからと思われ、それ以外に当社と姫との接点はない。

*御穂須々美命
 出雲国風土記・島根郡条に、「美保郷 大己貴命の御子・御穂須々美命が鎮座していらっしゃるから美保という」とあることから(上記)、当社本来の祭神は御穂須々美命とみるのが順当で、
 ・出雲風土記鈔(1683・江戸前期)
  「祭神 御穂須々美命、御祖・大己貴命、御母・奴奈宣波比売命」
 ・出雲国式社考(1843・江戸後期)に、
  「今の社説 三穂津姫命・事代主命を祭るといへり。此は御穂須々美という神は日本紀になきにより、今さかしらに三穂津姫に改め、事代主はこの崎に遊び給ひしこと書紀・古事記に見えたるによりて祭れるならん。
  されど、風土記(美保郷条)に御穂須々美神是に坐すが故に美穂と云とあり、此社に御穂須々美命坐すことは論なし」
とあるように、
 江戸時代には、当社の祭神は御穂須々美命とみていたようで、これが三穂津姫命に代わったのは、御穂須々美命が記紀にみえないこから、神名に同じ“ミホ”をもつ三穂津姫を持ちこんだものと思われる。
 今、境外末社・地主社に御穂須々美命が祀られていることは(事代主とする説もある)、同神が本来の祭神だったことの痕跡かもしれない。

 その御穂須々美命が現在の三穂津姫命・事代主命に代わった時期について、美保神社の研究(1955)
 ・大日本史神祇志(1893・明治中期)の主文では御穂須々美命とするものの
  「或は云う 事代主三穂津姫二神をまつる。いずれが是なるか知らず」 とあり
 ・神祇志のこのあたりの記事は徳川斎明・慶篤(江戸後期の水戸藩主)の頃の成立であるから江戸後期に属する
として、江戸後期頃に三穂津姫祭神説が出てきたのではないかという。

 なお、御穂須々美命は風土記・美保郷条にのみ出てくる神で(所謂・国ツ神)、大己貴命(大国主命)と沼河比売命との御子で美保の地に坐すというだけで詳細不明だが、古代の当地方では最も尊い神とされていたという。
 この神の事蹟が不明であることから、同じ大己貴・沼河比売の御子という建御名方命(タケミナカタ、先代旧事本紀)の別名とする説があるが、これは、御穂須々美命を記紀に結びつけるための牽強付会の感が強い。

*事代主命
 事代主神とは、古事記によれば、大国主神が神屋楯比売命(カムヤタテヒメ)を娶って生んだ御子神で(書紀に出自はみえない)
 古事記・国譲りの段に、
 ・建御雷神(武甕槌命・タケミカツチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)が、天照大神・高木神の使者として出雲国伊耶佐の小浜(出雲市大社町・稲佐浜)に降って、大国主命に葦原中国を天孫に譲ることを強要したとき
 ・大国主神は「吾は答えられない。わが子・八重事代主神(ヤエコトシロヌシ)が答えるでしょう。しかし今、美保の崎に鳥狩り魚取りに出かけています」と答えた
 ・そこで天鳥船神を遣わして事代主神を呼びよせて意向を尋ねたところ、大国主に向かって「畏まりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と告げ、己は乗ってきた船を踏み傾け、天の逆手(呪術としての拍手)を打って船を青柴垣(神霊の宿る神籬)と成して、その中に隠ってしまわれた

 書紀には
 ・この時、事代主神は出雲の美保の崎にいって釣りを楽しんでいたので
 ・使いとして稲背脛(イナセハギ)を遣わして、事代主の意向を尋ねると
 ・「天神の仰せに、父上は抵抗されぬのがいいでしょう。吾も仰せに逆らうことはしません」と答えて、波の上に幾重もの青芝垣をつくり、船の側板を踏んで海中に退去してしまわれた
と、記紀ともに、国譲りを承諾した神としてみえ、
 この時、“美保の崎に魚取りに出かけていた”ということから当社に祀られたのであろう。

 記紀等に見える事代主神は、
 ・古事記--大国主神の御子(母:神屋楯比売)
 ・書紀--事代主神が“三嶋溝樴の娘・溝樴姫(玉櫛姫・玉依姫)を娶って媛踏鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメ、神武天皇の正妃・綏靖天皇の母)を生んだ。姫は神武天皇の后なり”とあり、神武天皇の岳父
 ・出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコノカンヨゴト)--大穴持命(大国主命)が、“事代主命の御魂は宇奈提(ウナデ、橿原市雲梯町に比定)に坐して、皇孫命(天皇)の身辺を守れ”と命じた
 ・延喜式神名帳--宮中西院に祀られる“御巫等坐祭神八座”の一座(所謂・宮中八神殿の一座)で、天皇の身辺守護神
とあり、他にも、神功皇后紀・天武天皇紀などに託宣の神として、その名がみえる。

 事代主神は、一般には出雲系の神とされているが、書紀・神代紀に
 「事代主神 八尋熊鰐(ヤヒロワニ)に化為りて 三嶋(摂津国の一郡)の溝樴姫(或は云 玉櫛姫、玉依姫)に通ひたまふ。而して児・姫踏鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメ)を生みたまふ。是 神武天皇の后なり」
とあるように、本来は大和・葛城地方に坐す神で(奈良・御所市に事代主を主祭神とする式内・鴨都波神社あり)、神の意思を伝える託宣の神というのが一般の理解だが、それが出雲系神話に組み込まれて大国主の御子とされている。

 これについて、
 「古く、事代主は出雲の人々には知られていない神だったが、出雲国に事代主と同じく大和葛城の神である味耜高彦根命(アジスキタカヒコネ)を祀る賀茂の神社の神領として“賀茂の神戸”が設けられていたことから(風土記・意宇郡条)、古事記の編者が、味耜高彦根を大国主の御子としたのに併せて、同じ葛城の神である事代主も御子神として、国譲り神話の立役者として利用したであろう」
という(大意、出雲神話の誕生・1966)

 今 当社では、左殿(向かって右)に三穂津姫、右殿に事代主命と並べて祀り、三穂津姫の方に重きを置いているかにみえ(左右のうち左を上座とするのが普通だが、単に男は右・女は左とする慣習からともいう)、古資料にも
 ・延喜式神名帳頭注(1503・戦国時代中期)--美保 三穂津姫也 一座事代主
 ・雲陽誌(1717)--美保神社 三穂津姫・事代主命の鎮座なり
 ・出雲神社巡拝記(1833)--三穂両大明神 祭神一の宮みほつひめの命 二の宮ことしろぬし命
とある。
 これは、延喜式に祭神一座とあるのを三穂津姫命とし、これを主祭神(一の宮)とし、事代主命を相殿神(二の宮)としたもので、これが従来の姿かもしれない。

 しかし、
 ・大日本史神祇志--(主神・御穂須々美命 配祀・大穴貴命。奴奈宣波比売命)或云 事代主・三穂津姫二神
 ・出雲風土記考(1742)--事代主神に三穂津姫を祭りしものなり
など、事代主命を主祭神とする資料も多い。

 一方当社では、事代主命について、
 ・大国主神の御子神。鯛を手にする福徳円満の神・えびす様として世に知られる、海上安全・大漁満足・商売繁盛・歌舞音曲の守護神
 ・また、出雲神話・国譲りで、御父神・大国主命より大変重要な判断を委ねられた神
と、事代主神は大国主神の御子ではあるが、本来はエビス神(恵比須神・戎神)であるとして、当社を『えびす様の総本宮』と宣伝しており、

 当社蔵の「美保神社御神影図」(資料転写)には、祭神として、向かって右には稲穂をもつ三穂津姫命が、左には右手に釣り竿を持ち左に大鯛を抱えたエビス神が描かれ、これが事代主命だとしている。

 このエビス神の姿は、エビス神が海からの幸をもたらす漁業の守護神であることを示すもので、それが事代主命が美保崎で釣りをしていたことに重なることから両神を一体化し、当社の宣伝に用いたものであって、託宣の神である事代主命と福の神であるエビス神とは別神とみるべきであろう。

美保神社御神影図

 エビス神は七福神の一柱で、唯一わが国生まれの神というが、その出自ははっきりせず、巷間では事代主系と蛭子系(ヒルコ)の二系統がある。

 事代主系とは当社を総本宮とする系統だが(それが何処まで認知されているかは不明)、当社が事代主命をエビス神とする所以としては、事代主命が美保崎で釣りをしていたということ以外に接点はない。

 大阪にも事代主命を祭神とする「今宮戎神社」(大阪市浪速区)があり、その由緒書きには
 ・当社の鎮座地は元々海岸沿いにあり、平安中期頃から宮中に鮮魚を献進し、海のものと里の産物を交換する市が開かれていた
 ・そこに海からの幸をもたらす神として戎神が祀られ、それが次第に福徳を授ける神・商業繁栄を祈念する福徳神として信仰されるようになった
とあり、ここの戎神は市場の守護神から発展したたものであって、そこには事代主系エビス神の総本宮と称する美保神社との関係はみえない。
 なお、今宮戎社では1月10日を中心とする前後3日間を“十日戎”・“エベッサン”と称して、毎年100万を越える人々がお参りする正月の風物詩となっている。

 一方の蛭子系エビス神は、兵庫県西宮市にある「西宮神社」を総本社とするもので、そこでいう蛭子とは、イザナギ・イザナミの国生みの中で、
 「次ぎに蛭子を生んだ。3年経っても足が立たなかった。だから天の磐櫲樟船に乗せて、風のまにまに放流した」
とある神を指し(書紀5段本文)、源平盛衰記には
 「蛭子は三年迄足立たぬ尊にておはしければ、天石櫲樟船に乗せ奉り、大海が原に押し出して流され給ひしが、摂津国に流れ寄りて海を領する神となりて、夷三郎殿と顕れ給うて、西の宮におはします」
とあるという。

 この蛭子が西宮神社に祀られた経緯について、
 ・昔、鳴尾浦の漁師が武庫の沖で漁をしていたとき、網に神像らしきものが掛かったが気にもせず海に投げ捨てた
 ・漁場を和田岬の沖に移したところ、ここでも先ほど武庫沖で投げ捨てた神像が網に掛かってきた
 ・これはただごとではないと感じた漁師は、その神像を家に持ち帰って祀っていた
 ・ある夜の夢に、「吾はヒルコ神である。諸国を廻ってここまで来たが、ここより少し西に良い宮地があるので、そこに鎮まりたい」との神託があった
 ・驚いた漁師は村人と相談して、神像を輿に乗せて西へ向かったところ、御前浜(西宮海岸)で御神像が停まったので、その地の里人と相談してここに社を建てて鎮め奉った
との伝承がある(成立時期不明)

 エビス神は、“戎・夷・胡子”との漢字を充てるように、海の外からやってくる神との感が強く、それは折口信夫がいう海の彼方から幸をもってやってくる“マレビト(客人)”的な神格をもつ神であるが、庶民にとっては商売繁盛の神・エベッサンであって、それを事代主だ蛭子だと云々しても意味はない。

 なお、エビス神には事代主・蛭子以外にも幾つかの信仰対象があり、その一つとして、海で見つかった水死人をエビス神として祀る風習があったといわれ、長崎県壱岐島の印通寺には、漂着した唐人の死体をエビスとして祀ったと伝わる“唐人神”との祠がある(別稿・唐人神参照)


※社殿等
 今の当社は、美保関港西岸の道路沿いに設けられた雁木(ガンギ・階段状になった船着場)の左手、民家に挟まれた参道を入った先に鎮座するが、美保神社の研究(1955、和歌森太郎)によれば、
 「嘗ては海岸近くにあったが、そこが狭隘だったため、西方の丘を切り開いて、社殿があたかも鬱蒼たる樹林を背負うような形で移築した」
という(大正8年起工・昭和3年遷座、移動距離:約100mほどという)

 旧社地について、ネットでみた古絵図(全体図をみると、港内に帆船と蒸気船が停まっているから明治になっての絵図と思われる)には、波止場(雁木)から少し陸地に入った処に社殿が描かれており、明治の頃の当社が今よりも海に近かったことは確からしいが、絵図で見るかぎり、その距離が如何ほどかははっきりしない。

 
美保神社・全体図
(左下の海辺に雁木がみえる)

同・境内配置図
(二の鳥居以西) 
 
古絵図(部分)
(左上:社殿、右下:雁木)

 道路から参道に入ってすぐに一の鳥居が、その先に二の鳥居が立ち、境内に入る。

 
雁木(嘗ては、もっと長かったらしい)
 
美保神社・一の鳥居

同・二の鳥居 


◎神門
 参道を進み、突き当たりの石段を上った左手、低い石垣上に神門が建ち、その左右に廻廊が延びる。

 神門について、当社HPには
 「拝殿と同様檜材、屋根は杉板の柿葺き(コケラフキ)、昭和3年の造営」
とある。
 昭和3年の造営とは、美保神社の研究がいう、海岸近くから現在地への遷座を指すと思われる(以下同じ)
 (柿とコケラ--漢字で書く場合カキとコケラは同じ文字に見えるが、柿は木偏5画で旁が亠の下に巾、コケラは木偏4画で旁の縦棒が上から下に突き抜けている)

 
美保神社・参道
 
同・神門へ至る階段
 
神 門


◎拝殿
 神門を入った正面に壮大な゛拝殿(千鳥破風付き切妻造妻入・コケラ葺)が建つ。
 拝殿は壁がない四方吹き通しの構造で、床には石板が敷つめられ、天井もなく梁等がむきだしという特異な構造となっている。

 当社HPには
 「昭和3年、建築学者伊東忠太の設計監督により造営されました。
 檜造りで屋根は、杉板を敷きつめた柿葺きです。
 船庫を模した独特に造りで、壁がなく梁がむき出しの上、天井がないのが特徴です。
 この構造に加え、周囲が山に囲まれているため、優れた音響効果をもたらしています。
 また、鳴物をお好みになる祭神への崇敬から、音楽の奉納も数多く行われます」
とあり、拝殿と舞殿を兼ねたものという。

 
美保神社・拝殿
 
同・拝殿側面
 
同・拝殿内部


◎本殿
 拝殿の背後、透塀に囲まれた中央に本殿が東面して鎮座する。
 当社の本殿は2殿並列の特異な構成で、
 当社HPには
 「当社本殿は、切妻造・妻入りの“大社造”社殿(間口2間・奥行2間・桧皮葺)を2棟左右に並立させ、その間を“装束の間”(間口2間・奥行2間・桧皮葺)と称する社殿で繋ぎ、その前面に左右殿一体の巨大な向拝(庇)を設けた当社特有の様式で、『美保造』あるいは『比翼大社造』とも呼ばれる。
 現在の本殿は文化10年(1813・江戸後期)の再建で、国指定の重要文化財」
とある。

 HPには「本殿は文化10年の再建で」と簡単に記しているが、美保神社の研究には
 「この本殿は、文化10年の建造当時のままを移したものであり、ただ屋根のみ檜皮葺きに替えたにとどまる」
とあり、神門・拝殿と共に昭和3年の遷座にあたって旧態そのままに移されたものという。

 
本殿・正面図
 
本殿・平面図

 透塀が高く且つ拝殿が近接しているため、前面からみえるのは屋根部分のみで全体をみることはできないが、背面からは2棟の社殿が並んでいることがわかる。


本殿-南殿 

本殿-北殿 
 
本殿-背後

 今の本殿は、昭和3年の再建時に“文化10年のそれをそのまま移したと”いうから、江戸後期に美保造の本殿があったことは確かだが、美保造の本殿が何時頃からあったのかは不祥で、美保神社の研究は、
 ・二十二社註式(1469・室町時代)に「美保 三穂津姫也 一座事代主」とあること
 ・社殿建立棟札(1596・安土桃山時代)に「奉建立美保関両社御座」とあること
などから、
 ・江戸時代前・中期の当社に、三穂津姫と事代主を祀る二つの社殿があったことは確かだろうが、それが美保造であったかどうかは不明
という。


◎境内末社
*本殿・装束の間
 本殿の左殿・右殿間を繋ぐやや小ぶりの社殿だが、北殿・南殿の屋根の間に屋根の一部が少しみえる程度で全体はみえない。

 装束の間の北西隅に東面して鎮座する客殿に、次の3社が合祀されている
 ・大后社(キサイ)--神屋楯比売命(カミヤタテヒメ)--大国主命の后神で事代主命の母神(古事記)
             沼河比売命(ヌナカワヒメ)--大国主命の后神で御穂須々美命の母神(風土記)
 ・姫子社(ヒメコ)--媛踏鞴五十鈴媛命(ヒメタタライススヒメ)--事代主命の御子神で初代神武天皇の正后(神武紀)
            五十鈴依媛命(イススヨリヒメ)--事代主命の御子神(ヒメタタライスズヒメの妹)で2代綏靖天皇の皇后(綏靖紀)
 ・神使社(カミツスヒ)--稲背脛命(イナセハギ)--国譲りで事代主命の意向を聞くため美保崎に赴いた使いの神で、
              書紀には、「そこで、熊野の諸手船に使いの稲背脛(諾否-ダクヒ-を問う足)を乗せて遣わした」とあるが、
              古事記には、「天鳥船神(アメノトリフネ)を遣わした」とある。

 これら3社は、末社であるにもかかわらず本殿に祀られているが、資料によれば、元々末社として境内にあったが、元亀元年(1570)の兵火によって罹災したことから本殿内に遷したという。(元亀元年の兵火とは、織田信長と浅井朝倉氏との戦いにからむ兵火であろう)

*境内北西奥に鎮座する3社合祀殿
 境内右奥、一段と高い石垣上に鎮座する小祠で、以下の3社が合祀されている。

 ・若宮社(ワカミヤ)--天日方奇日方命(アメノヒガタクシヒガタ、 別名-櫛御方命・武日方命等)
   古事記(崇神記)に大物主神の御子(櫛御方命)、先代旧事本紀には事代主命の御子とある
   若宮社には本社・主祭神の御子神を祀るのが普通だが、時には主祭神の分霊あるいは非業の死を遂げた怨霊を祀る場合もある。この小祠は事代主命の御子神としての祭祀であろう。

 ・今宮社(イマミヤ)--太田政清霊(オオタマサキヨ)
   事代主命の子孫と自称する中世後期の公卿で、当社の特殊神事・青柴垣神事等の創始者というが、
   都から落ちてきた公卿というが確証はなく、但馬の豪族・太田氏の流れで、中世末 山名氏に従ってこの地での戦いに破れ憤死した武将ともいわれ、その怨霊を鎮めるために祀られたのではないかともいうが(美保神社の研究・大略)、いずれも伝承であって詳細不詳。
 ・秘 社(ヒシャ)--祭神・勧請由緒等不明 

若宮社(3社合祀) 

*神門を入った右手、境内北東隅に鎮座する4社合祀殿
   石垣上に鎮座する小祠で、以下の4社を合祀する。

 ・宮御前社(ミヤミサキ)--埴山姫命(ハニヤスヒメ)--土の神

 ・宮荒神社(ミヤコウジン)-奥津彦命(オクツヒコ)・奥津姫命(オクツヒメ)--竈の神(竈荒神)
               土之御祖神(ツチノミオヤ、別名:大土神)
                 --素盞鳴尊の孫(父:大年神)で土地の守護神(地荒神)
   所謂荒神さんをまつる祠だが、当地一帯には、大蛇を象って作られた藁綱を特定の木に巻き付けて地荒神(屋敷神・同族神)として祀る風習があり、地主神的な神格を有するという。

 ・舩霊社(フナタマ)--天鳥船神(アメノトリフネ)--イザナギ・イザナミの御子、
   国譲り交渉で武甕槌命の副使として派遣され、美保崎まで事代主命を迎えに行った神で(古事記)、当地一帯の漁師・水産業者から篤い信仰を集めているという。

 ・稲荷社(イナリ)--倉稻魂神(ウカノミタマ)--稲の神・穀物の神(稲荷神) 

宮御前社(4社合祀)


 ・沖之御前--事代主命・活玉依媛命(イクタマヨリヒメ、事代主命の后で、事代主が鰐と化して姫のもとに通ったという)
 ・地之御前--事代主命・活玉依媛命
   この2社は、出雲国風土記に“等々島”・“土島”(志々島ともいう)とある小島で、半島の東端・地蔵崎の東北約4km(沖御前)・約300m(地御前)の海上に位置する。

 地蔵崎に建つ美保関灯台奥の崖上に、沖の御前・地の御前の遙拝所があり、鳥居一基が立ち、その左に「神蹟 美保之碕」と刻した石碑が立つ。

 鳥居の神額には“沖の御前・地の御前”とあり、傍らの案内・美保碕の由来には
 「島根半島の最東端に位置するこの岬は、古くから『美保之碕』と呼ばれていました。 
 出雲風土記の国引きの伝説では、この美保之碕は北陸地方から、日御碕は朝鮮半島から引いてきたものと伝えられています。
 この鳥居の中央約4km先の海上に浮かぶ島を『沖之御前』(灯台が立っている)、眼下に横たわる島を『地之御前』といい、共に事代主神の魚釣りの島として伝えられているところから、現在も美保神社の境内なっており、毎年5月5日には美保神社で事代主神とそのお后と御神霊をこの嶋から迎える神迎神事が続けられています。
 この遙拝所は美保神社の古文書に記載のあった古事に基づき、昭和48年12月に設置したものです」
とある。

 
遙拝所・鳥居
(神額には、沖之御前・地之御前とある)
 
左上:沖の御前(かすかに見える)
右下:地の御前

神蹟石碑 

沖の御前(写真拡大) 

地の御前
 
美保関灯台

 上記・美保碕の由来にいう神迎神事について、当社HPには
 「神迎神事 5月5日
 島根半島の沖合にある沖の御前島まで船で参向し、神霊を神社本殿内の大后社・姫子社まで船でお迎えする神事です。
 神霊をお迎えするためには暗闇でなければならず、港内の家々は明かりを消して、静粛と緊張の中で船が帰還します。
 船中では神楽が奏されるため、この神楽の音から、デンシャン祭という通称で呼ばれることがあります」
とあり、美保神社の研究には
 「本殿の四の御前(大后社・姫子社)へ島の神を迎える神事、四の御前迎えとも称し、江戸時代に始まったという」
とある。

 この神事で迎える島の神とは、境内末社・沖の御前社の祭神で、事代主命・活玉依姫(后神)といわれ、神迎神事とは島の神・事代主命が装束の間に坐す母神・御子神などにお会いになる神事とみることができる。

 この神迎神事は江戸時代に始まったといわれ、宝暦14年(1764・江戸中期)藩疔に提出された三穂大明神社帳には
 「島神 又御前島沖之御前島とも云 三保湊より凡そ一里の東北海中に在り 社無し 祭礼四月申日 御前迎へと云」
とある(御前とは神様のこと)

 ここで神迎えにおもむく“沖の御前”とは、島根半島の東端・地蔵崎の東北約4m(現地ではもっと近くにみえる)の沖合にある小島で、風土記には“等々島”(トドシマ・注に沖の御前島とある)とあり、今は美保神社の末社となっている。
 なお、地元には、事代主命が鯛釣りをしていた場所との伝承があるという。

 この沖の御前と対になる島として、地蔵崎ノ沖合約300m程の処に“地の御前”(別名:志々島)との小島があり、風土記には“土島”(注に地の御前島とある)とあり、古資料によれば
 「地之御前島  美保湊から凡そ十八町 四月申日神船沖之島へ渡るべきを 風雨又は波高の時 此島に到りて神楽を奏し 神供を奉り 幣帛を捧ぐる也」
とあり、風雨波浪が激しく沖の御前島へ渡れないとき、この島で神迎えの祭祀を行ったという。
 なお、地の御前も末社とされ、祭神は沖の御前社に同じという。
 (この2島は当社の飛地となっているため境内末社と位置づけられている)


◎境外末社
 当社HPには、上記以外に境外末社として次の諸社があるという(不参詣)
 ・客人社--大国主命
   合祀・幸魂社--大物主命(奈良・三輪山の神、大国主の前に「吾は汝の幸魂・奇魂なり」として顕れとある-書紀た)
 ・天王社--三穂津姫命
 ・地主社--御穂須々美命 事代主命とする説もある
   美保に坐す神・御穂須々美命(風土記)を地主神として祀ったものであろう。
   一方の事代主命は美保に巡幸する神であり、これを地主神とするには疑問がある。
 ・久貝谷社--国津荒魂神(神格不明)・久邇貝久命(神格不明)
 ・客人社--建御名方神(タケミナカタ、諏訪の神)
   合祀・切木社--久々能智神(ククノチ、イザナギ・イザナミの御子で木の神)
      ・幸神社--猿田彦神(邪霊の侵入を遮る塞の神-サイノカミとしての猿田彦であろう)
 ・糺 社--久延毘古神(クエヒコ・少彦名の名を顕したカカシの神)
 ・筑紫社--市来島比売命(イチキシマヒメ)・湍津姫命(タギツヒメ)・田心姫命(タゴリヒメ) (宗像三女神)
 ・和田津見社--大綿津見神(オオワタツミ、海神)・豊玉彦神(オオワタツミの別名ともいう)・豊玉姫神(オオワタツミの御子神でホオリ命-山幸彦-の后)
 ・天神社--少彦名命(スクナヒコナ、神産霊神の御子で、大国主と共に国造りをなした神、医薬の神・酒の神)
 ・市恵美須社--事代主命(エビス神としての事代主)
 ・浜恵美須社--事代主命(同上)
 何れも、その鎮座由緒・時期等は不明。

[付記]
 明治23年(1890)8月から翌年11月まで松江の中学校で英語教師をしていた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、その著・「知られぬ日本の面影」(1894)の中で、美保関に関して次のような話を記している。
 「美保関の神様は卵がお嫌いである。鶏の卵がお嫌いである。同様に牝鶏もヒヨコもお嫌いである。だから美保関には雄鶏も牝鶏もいない。ヒヨコも卵もない。
 美保関に向けて卵は無論のこと鶏の毛一本運ぼうとしようものなら、小舟も帆船も蒸気船も雇うことは出来ない。それというのは美保関の大神は船乗りたちの守護神であり且つ嵐をしろしめす神だからである。それだから御野太神の神域へ卵の匂いのあるものを持込む舟には災いあれというものだ。
  ・・・(中略)・・・
 美保神社の大神が何故かくも雄鶏を嫌い給い、その領土から鶏を追い払われたかについては、およそ次のとおりである。
 杵築の大国主命の御子である事代主神は、美保関に行って“鳥の遊びし魚取”るのが常だった。それ以外にも事代主神は夜よく留守にした。それでも夜明けまでには帰宅せねばならなかった。
 当時、雄鶏は事代主神の信頼厚い僕(シモベ)で、神が帰宅せねばならぬ時刻になると雄々しく時を告げて鳴くのが課せられていた。ところがある朝、雄鶏はその義務を怠ったのである。
 それで事代主神は大急ぎで舟に乗って帰ったが、途中で櫂(カイ)をなくし、櫂代わりに両手でもって漕がねばならなかった。そうこうするうちに両手を性悪(ショウワル)な魚どもに噛まれてしまったのである」

 事代主命が鶏が嫌われたかどうかは不明だが、異国人として初めて美保関の地を踏んだ八雲が、鶏・卵が見えないという些細なことから、そのわけを聞きただし、それを珍しい風習として書き記したものだろうが、今、年配者には気にする人が多々あるようだが、若い人は無関心という。

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