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佐 太 神 社
島根県松江市鹿島町佐陀宮内72
祭神--佐太大神他
                                                     2019.07.27参詣

 延喜式神名帳に、『出雲国秋鹿郡 佐陁大神社』とある式内社。
 出雲風土記には、秋鹿郡内社寺の筆頭に『佐太の御子の社』(在神祇官社)とある。
 佐太は佐陁・佐陀とも記し、サタまたはサダと読む。

 JR山陰本線・松江駅の北西約6kmの佐陀川左岸(西岸)に鎮座する。
 当地は、出雲風土記冒頭にいう国引き神話で、八束水臣津野命(ヤツカミヅオミヅ、古事記にはスサノオ命4世の孫とある)
 「北門(キタト)の佐伎国(サキ、位置不明)を、国に余りがあるかと見ると 余りがあったので、大鋤を以て一部を切り取り綱を掛けて引き寄せて縫いつけた国は狭田(サダ)の国(鹿島町佐陀本郷・佐陀宮内付近)(大意)
とある狭田の国の東端に位置し、社名・佐太はこの狭田に因むという。 

※由緒
 社頭の案内には、
 「出雲国二ノ宮  佐太神社 御由緒
  当社は、出雲風土記に佐太神社或いは佐太御子社とあり、三笠山を背に広壮な大社造の本殿が相並んで御鎮座になっているので佐太三神とも称され、延喜式には佐陀大社と記され、出雲二宮と仰がれてきた神社である。

 主祭神佐太大神〔猿田毘古大神〕は、日本海に面する加賀の潜戸(クケド)に御誕生になり、出雲四大神の一柱として崇められ、古くから導きの神・道開きの神・福の神・長寿の神・陸海交通の守護神・鎮守の神として信仰されてきた」
とあるが、その創建由緒・時期等は記していない。

 ここには、「出雲風土記に佐太神社或いは佐太御子社とあり」とあるが、風土記・秋鹿郡条には
 ・神社項--佐太御子社(サタノミコノヤシロ)
 ・山野・河川項--所謂佐太大神社(イワユル サタオオカミノヤシロ)
とあり、佐太大社=佐太御子社を意味すると思われるが、すっきりしない。


 ここでいう佐太大神誕生の地・加賀の潜戸とは、出雲風土記・島根郡条に
 「加賀の神埼(カムサキ) 
 即ち窟(イワヤ)有り。高さ十丈許 周り五百二歩許。東と西と北に通る。所謂佐太大神(サダノオオカミ)の生れし処なり。
 生るる時に臨みて 弓箭(ユミヤ)亡せ坐(マ)しき その時 御親祖神産霊命(カミムスヒ)の御子・枳佐加比売命(キサカヒメ) 『吾が御子 麻須羅神(マスラ)の御子に坐さば 亡せし所の弓箭出で来』と願(ネ)ぎ坐(マ)しき。
 その時 角の弓箭 水のまにまに流れ出づ。その時 弓を取りて『此の弓箭には非ず』と詔(ノ)りたまひて 擲げ捨て給ふ。
 又、金の弓箭流れ出で来。即ち待ち取らし坐して、『闇鬱(クラキ)き窟なる哉』と詔たまひて、射通し坐しき。即ち御祖支佐加比売(キサカヒメ)の社 此処に坐す。
 今の人、是の窟の辺りを行く時、必ず声磅礚(トドロ)かして行く。若し密かに行かば、神現れて飄風(ツムジカゼ)起り、行く船は必ず覆へる」
とある洞窟(加賀の潜戸)を指し、当社の北東約8km、日本海に突き出た小岬・潜戸鼻に位置する(潜戸のすぐ内陸部に枳佐加比売を祭神とする加賀神社がある )

 この説話は、山城国風土記・賀茂の社に伝わる“丹塗り矢説話”の一類型ということができる。
 丹塗り矢説話とは、概略
 ・賀茂の建角身命(タケツノミ)の御子・玉依日売(タマヨリヒメ)が瀬見の小川で川遊びをしているとき、川上から丹塗り矢が流れてきた
 ・日売がこれを持ち帰って家の寝床近くに置いていたら、身ごもって男の子を生んだ
 ・この男の子が賀茂別雷神社(上賀茂社)の祭神・“可茂の別雷命”(ワケイカヅチ)、丹塗り矢は乙訓郡の社・乙訓神社(現角宮神社・長岡京市)の祭神・火雷命(ホノイカヅチ)で、母・玉依日売は賀茂御祖神社(下賀茂社)に祀られている
というもので、
 細部においては異なるものの、女神・水辺・矢・御子の誕生という共通点からみて、水辺に坐す女神(巫女)がやってくる神と結ばれて御子を生むという神婚譚(丹塗矢型神婚譚)の変形であり、
 また、枳佐加比売が金の矢で窟を射通したところ窟内が光輝いたというのは、巫女が日の光(金の矢)を感じて御子を生むという所謂・日光感応説話の変形ともとれ、
 この潜戸説話は丹塗矢型神婚説話と日光感応説話とが複合したものといえよう。

 ただ、賀茂では丹塗矢すなわち父神を火雷神とするのに対して、加賀では麻須羅神(マスラカミ・雄々しい神)というのみで具体の神名は記していない。
 そこから、麻須羅神を佐太大神とし、生まれた御子を佐太御子神とする説があり、当社祭神が佐太大神・佐太御子神と混乱している要因ともなっているが、潜戸で生まれた神を、麻須羅神すなわち佐太大神の御子・佐太御子神とする方が、話としてはわかりやすい。

 なお、当神話の主人公・枳佐加比売命(キサカヒメ)とは、古事記に、兄弟神に騙されて赤く焼けた大岩を猪として抱き留め、大火傷をおって亡くなった大己貴命を、神魂神命(カミムスヒ)の命をうけて蘇生させた女神𧏛貝比売・キサガヒヒメ)として登場し、このキサガヒヒメについて、西郷信綱は古事記注釈で
 「𧏛(キサ)は辞書に見えぬ字で蚶の誤りだろうという。キサガヒは赤貝のこと、和名抄に蚶(キサ)とあり、『形蛤の如く円くして厚く、外にスジあり』というように貝の表面にキザミ目が入っているのでこの名があるらしい。一方、赤貝は肉の色による名である。
 出雲風土記の島根郡加賀郷・加賀神崎の窟条に『御祖神魂命の御子、キサカヒメ命』と出てくる(上記伝承のこと)。これは出雲風土記の選者が、出雲の伝承と古事記の神名とを接合したものと思われる」
という。

 ただ、日本海沿岸の加賀の潜戸(島根郡)で生まれた佐太大神(或は佐太御子神)が、如何なる所以で内陸部である佐陀宮内の地(秋鹿郡)に祀られるのかは不祥。

 当社は今、佐陀川左岸に鎮座するが、風土記秋鹿郡の山野・河川の条に
 「神名火山  郡家の東北九里四十歩 高さ二百三十丈周り一十四里 所謂佐太大神の社は 即ち彼の山下(ヤマモト)之なり」
とあり、今、当社の西約3km弱にある朝日山(H=344m)が神名火山だという。
 今の当社は、朝日山から広がる大きな山塊の東麓にあたるから、“彼の山下之なり”といえるかとも思えるが、山下というには離れすぎており、且つ当地から朝日山を仰ぐことはできないことから、元々の鎮座地は、昭和48年(1973)、銅剣2口・銅鐸6口が出土した朝日山の北東約1.7kmの志谷奥遺跡(鹿島町佐陀本郷字志谷奥)の辺りにあったのではないかともいわれるが確証はない。

 当社の創建年次は不明だが、当社に対する神階綬叙記録として、三代実録に
 ・貞観元年(859)7月11日 出雲国従五位下佐陀神に正五位下を授く
 ・貞観9年(867)4月8日  出雲国正五位下佐陀神に正五位上を授く
 ・貞観13年(871)11月10日 出雲国正五位上佐陀神に従四位下を授く
がみえることから、9世紀にあったのは確かといえる。
 ただ、この神階はそう高い位ではないが、貞観13年時点での従四位下は熊野・杵築両大社の正二位に次ぐもので、当社は熊野・杵築に次ぐ第3位を占めていたという。


※祭神
 当社本殿は、正中殿・北殿・南殿の3殿体制からなっており、案内には
 「正中殿  佐太大神(サタノオオカミ)・伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)・事解男命(コトサカオ)・速玉之男命(ハヤタマノオ)
  北 殿  天照大神・瓊々杵尊(ニニギ)
  南 殿  素盞鳴尊(スサノオ)・秘説四座(神名不明)
 主祭神・佐太大神〔猿田毘古太神〕は、日本海に面する加賀の潜戸に御誕生になり、出雲四大神の一柱として崇められ、古くから導きに神・道開きの神・稲の神・福の神・長寿の神・陸海交通の守護神・鎮守の神として信仰されてきた」
とあり、主祭神・佐太大神以下12柱の神々が祀られている。

 ただ、延喜式には祭神一座とあり、風土記には佐太御子の社とあることから、当時の祭神は佐太御子神(又は佐太大神)の一座だったと思われ、松江市のHP・「松江市の暮らし」によれば、
 ・古代には、佐太御子神一座を祀る秋鹿郡内の神社であったが、
 ・中世には、島根・秋鹿両郡にまたがる安楽寿院荘園の鎮守として、佐太御子神とその父母神の三神を祀り、
 ・社殿も、現在見られるような三社構造へと転換した。
 ・その後に作られた明応2年(1493・室町時代)の縁起書によると、当社祭神は天照大神とその父母神伊弉諾・伊弉冉とされ、佐田地域住民の信仰対象であった佐太御子神とその父母神とは全く異質なものに変化している。
とある。

 その後も、現在の三殿12柱体制になるまでには幾多の変遷があったようで、式内社調査報告(1983)等によると、

 出典資料 北殿  正中殿  南殿 
由緒記(1578)  伊弉冉尊  瓊々杵尊  伊弉諾尊 
神能『大社』(17世紀初期)  天照大神・月神  伊弉諾尊・伊弉冉尊  水蛭子・素盞鳴尊 
佐陀大明神縁起(17世紀中葉)  瓊々杵尊・天照大神・天赤女  伊弉諾尊・伊弉冉尊  月神・蛭子・素盞鳴尊 
出雲風土記鈔(1683)  瓊々杵尊・伊弉冉尊・天照大神  佐太大神  大己貴命・熊野大神 
秋鹿郡佐田大社之記(1684)  天照大神・皇孫命  阳阴(インヨウ、イザナギ・イザナミか)
速玉之男命・事解男命 
五男・外に一座 
雲陽誌(1717)  天照大神・月読尊 伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命
速玉之男命・秘説一座 
素盞鳴尊・秘説四座 

と変遷し明治に至ったが、
 ・明治に入って、松江藩神祠懸から「正中殿の秘説一座を猿田彦命と顕示せよ」との厳命があり、神社側は反対するも聞き入れられず、
 ・明治3年(1870)6月に「佐太御子神」とすることで決着したが、なお収まらず、 
 ・同12年(1879)正殿祭神を「佐太大神・伊弉諾尊・伊弉冉尊」とし、
 ・更に18年(1885)、佐太大神を「佐太御子神」と書き替えた(但し、今の当社に佐太御子神の影はない)
というが、今の主祭神は佐太大神となっている。

 これによれば、当社は15世紀・南北朝時代から室町時代にかけて三殿体制が成立し、江戸時代までは、伊弉諾尊・伊弉冉尊が主祭神とされ、佐太大神の名は消えていたが、明治初年の松江藩との軋轢によって古代に戻り、佐太大神の御名が復活したとなる。


 今、当社主祭神の佐太大神に〔括弧書き〕して猿田彦命とあり、参詣の栞も、
 「佐太大神は世に云う猿田彦大神であり、・・・」
として佐太大神=猿田彦神というが、当社と猿田彦命との接点はなく、松江藩神祠懸が強要したのは、幕末から明治初年にかけて神道界を牛耳った平田国学の意を汲んでのことであろうという(式内社調査報告)

 幕末の国学者・神道家である平田篤胤(1776--1843)は、その著・古社伝(巻20・1825)に、
 ・佐太大神 亦云 猨田比古大神(猿田彦大神)
と記し、その説明として
 ・猨田は佐田とも訓読し、古は“猨”を“佐”とも云えり
 ・猨田比古神と佐太大神とは、“比古”という言の有無のみの違いにて、全く同じ御名なり(大意、原文:変体仮名混じりの古文)
といい、佐太大神と猿田比古とは異名同神だという。

 また出雲神社巡拝記(1833・・江戸後期)・佐太神社条にも
 ・カミムスヒ命の御子・キサカヒメ命、加賀の潜戸にて産みませる佐太大神と有るは則ち当社なり
 ・佐太大神とは猿田彦命の御事也
とあり(巡拝記・加賀神社項には、“加賀の潜戸は猿田彦命の生まれ給ふた神跡也”とある)
 これらが松江藩が猿田彦命を強要した根拠らしいが、篤胤の説は幕末の国学者特有の我田引水的な説であって、これを以て佐太大神=猿田彦とすることはできない。
 なお、中世神話によれば、猿田彦は「吾は天下の土君(地主神)なり」と名乗ったといわれ、そこから、佐太大神を狭田国の地主神とみて、両神を同一神とみたのかもしれないが、これもこじつけでしかない。

 ただ、この佐太大神=猿田彦説は、出雲風土記考証(大正15 ・1926)が「即ち佐太大神とは猿田彦命である」と記すように、広く滲透していたようで、今の当社が佐太大神を猿田彦命のこととするのは、これを継承したものと思われる。

 今の当社は佐太大神を主祭神とするが、それは上記のように明治以降のことで、それまでは伊弉諾・伊弉冉尊を主祭神としていたという。
 これについて、日本の神々7(2000)
 ・伊弉諾・伊弉冉尊以下、天照大神・月読尊・素盞鳴尊・事解男命・速玉之男命といった風土記時代にはまったく関係のない神々を祭神とし、太古以来の佐太大神なり佐太御子神という神名を伏せてしまっていた
 ・その理由は明らかでないが、これらの神々を祀るということは、やはり紀州熊野からの働きかけによるものと思われる
という。
 紀州熊野の勢力は、意宇郡をはじめとして出雲地方に広く進出しており、その影響がなかったとはいえない。
  (熊野三所権現--本宮-素盞鳴、新宮-伊弉諾、那智-伊弉冉)

 また神社覈録(1870)
 「両神功終わりし日、伊弉諾尊淡海国日少宮に隠れ、伊弉冉尊当国に崩し、足日山麓に葬る。所謂比婆山とは蓋し此地か」
として、古事記にいう伊弉冉の墓所・比婆山を、当社の西約4kmに位置する足日山(タルヒ・タルミ、現経塚山H=316m)に比定しており、その所以で伊弉冉が当社に祀られたかと思われるが、古事記には
 「神避りましし伊弉冉神は、出雲国と伯耆国との堺の比婆の山に葬りまつりき」
とあることから、出雲・伯耆の国境から遠く離れている足日山を比婆山とするには疑問がある。

 比婆山の比定地としては、旧意宇郡を中心として10ヶ所近く点在しているが(足日山もその一つ)、古事記に出雲(島根)・伯耆(鳥取)の境ということから、県境に最も近い安来市伯太町横尾にある比婆山(H=331m・頂上に伊弉冉を祀る神社あり)が有力という
 なお書紀には、「亡くなった伊弉冉尊を、紀伊国の熊野の有馬村に葬った」とあり、三重県熊野市有馬にある大岩壁・“花の窟”(ハナノイワヤ)がそれだという(別稿・花の窟参照)

 なお、本殿南殿・北殿に関係して当社HPには
 「早人
 早人は現在本社南殿・北殿の中に祀られており一般には公開されておりませんが、当社の御神秘として様々な記録が残っています。
 隼人・速人とも作り、佐陀大明神縁起によると、早人とは元寇の際捕虜となった蒙古人88人で、これを当社の守護人とし、その後木造の早人像を本殿三社の高欄に祀ったとあります。
 古来より、早人が飛び去ると(高欄から像が落ちることか)天下に騒乱があると恐れられ、永正9年(1512)5月の当社七不思議のなかに早人についての神秘が記されています。 
 蒙古齋談義には、慶長8年(1603)に龍蛇も上がらず早人像も飛び去ったとして、藩主堀尾忠氏に謹慎すべき旨を達しましたが、家臣等が取り合わず忠氏が亡くなってしまったことか記されています。
 また、当社の注連祝・幡垣正仍の記した「正仍日記抄」によると、貞享5年(1688)8月の遷宮に際して、南北の社殿に中に移されたことが記されています」
とある。

 今、南殿・北殿祭神の中に早人なる神名はみえないが、参詣の栞には「北殿・南殿末社 早人社」とあり祀られてはいるらしいが、それがどのような形でなのかは不明。


※社殿等
 国道37号線を西に折れ、佐陀川に架かる佐陀橋を渡った先に鳥居が立ち、すこし長めの参道を進み、小川(所謂・御手洗川)に架かる小橋を渡って境内に入る。

 
佐太神社・案内図
 
佐太神社・鳥居
 
同・境内全景

 境内正面に随神門が建ち、その奥、一段高くなった処が社殿域で、中央に正中殿、右に北殿、左に南殿の3宇が並列して鎮座する。


本殿配置図(案内図より拡大)
 
   
同左(資料転写)

 当社には独立した拝殿はなく、社殿域前面の長く連なる廻廊に拝所が3ヶ所あり、その中央の拝所から正中殿を拝するようになっており、北殿・南殿の前にもそれぞれ拝所がある。


随神門 

社殿域・正面 
 
中央拝所

 当社本殿は、中央に正中殿、北側(向かって右)に北殿、南側(向かって左)に南殿と並び、いずれも東面して鎮座する。
 三本殿はいずれも大社造・檜皮葺きで、正中殿は18尺(5.4m)四方、北・南殿は15尺(4.5m)四方で、正中殿がやや大きい。

 また、大社造の入口階段は正面の右側にあるのが普通だが(妻側の中央に柱が立ち、入口を真ん中に設けられない)、南殿のそれは左側に付いており、本殿内陣に設けられている神座は、正中殿・北殿は左向き、南殿は右向きとなっている。


南殿・屋根 

正中殿・屋根 

北殿・屋根 

 本殿について、参詣の栞には、
 「現在の本殿は文化10年(1807)松江藩による造営で、その建築様式は戦国期の元亀年間(1570-73)にまで遡ると伝えます。
 この三殿並立の形態は平安の末頃には成立したのではないかと考えられています」
とある。

◎境内末社
 本殿域の左右に、横長の社殿2宇が鎮座し(切妻造・平入り)、それぞれに4座の神を合祀している。
 ただ、この神々が如何なる所以で何時頃祀られたのかは不明。
*北末社(4社合祀)
  本殿域の北側(向かって右)に鎮座する合祀殿
   山王社(大己貴命)・宇智社(天児屋根命)・玉御前社(玉屋命)・竹生島社(竹生島神-稲倉魂命)
*南末社(4社合祀)
  本殿域の南側(向かって左)に鎮座する合祀殿
   戸立社(天手力雄命)・振鉾社(天鈿女命)・垂水社(罔象女命)・天神社(菅原道真)
  ただ資料によっては、岡見八幡社(?)・稲荷社(?)・客社(?)・宇多紀社(下照姫命)を合祀するともいう。

 これらの諸神が如何なる由緒で何時頃に勧請されたかは不明。

     

*母儀人基社(ハギノヒトモト)
   祭神--伊弉冉尊
 境内背後の三笠山山腹に磐境(イワサカ、幾つかの岩を積み重ねたもので、古代の神マツリの場)があるのみで社殿はない。

 参詣の栞には、
 「境内南方の奥にある三笠山に続く石段を登ると、山腹に伊弉冉尊を祀る磐境『母儀人基社』があります。
 当社は、中世を通じ伊弉冉尊の陵墓である比婆山の神稜を遷し祀った社と伝え、『伊弉冉社』として信仰されてきました。
 恐らくは古代祭祀の対象であり、社殿創建以前の御神座ではないかと思われます。
 古くから子宝・安産の神として世上の信仰も厚い」
とある。

 南末社左奥から石段を登った先の平地、注連縄を巡らした八角形の囲いの中に、数個の石からなる磐境(イワサカ)が鎮座しており、栞がいうように、此処は当社創建以前の神マツリの場であって、佐太神社の原点ともなる聖地かと思われる。(社名・ハギノヒトモトの意味は不明)

 
母儀人基社への石段
 
母儀人基社・全景

母儀人基社・磐境(正面) 

同 左(背面) 
 
同 左(側面)

 比婆山とは、古事記に「神避りましし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りまつりき」とあり、伊弉冉尊を葬った陵墓というが、上記したように、その比定地というものが各地にあり、何れが真なのか不祥だが(神話上の墓所を云々しても意味はない)、ここでいう比婆山とは当社の西方に位置する足日山(タルヒ)を指すと思われる。


◎田中神社
 佐太神社の東約100m、佐陀橋の西袂を北に入った左側(佐太神社の境内飛地)に鎮座する本社北殿の摂社で、鳥居は佐陀川に面している。
  当社は、背中合わせに建つ二つの小社(切妻造・妻入り・銅板葺き)から成り、
 ・東社--佐太神社本殿に背を向けて(東面)建つ小社で、祭神は“木花開耶姫命”(コノハナサクヤヒメ)。縁結び・安産の神
 ・西社--本殿に向かって(西面)建つ小社で、祭神は“磐長姫命”(イワナガヒメ)。縁切り・長寿の神
という。

 この2社について、参詣の栞には
 「悪縁を断ち切る摂社 田中神社
 田中神社は本社北殿の摂社で、奈良時代以前から記録のある古い神社で、二つのお社が背を向けて建っている。
 佐太神社本殿に向かっているのが西社で木花開耶姫命を祀り、縁結び・安産、背を向けて建つ東社は磐長姫命を祀り、縁切り・長寿の信仰があります。

 これは、本社北殿の祭神・瓊々杵命に由来しています。
 瓊々杵尊は妹の木花開耶姫尊を娶るが、姉は容姿が醜かったので親元へお返しになったというもので、男女の悪縁をはじめ、なかなか断ち切れない様々な悪縁を断つため、参拝・御祈念に訪れる方が多数あります」
とある。

 古事記には
 ・ニニギ尊が笠沙の御前で美人にお遇いになった。名を問うと「大山津見命(オオヤマツミ)の娘・コノハナサクヤヒメ」と名乗った
 ・ニニギ尊はこれを娶らんとして父命に申し出ると、父命は喜んで、コノハナサクヤヒメに副えて姉のイワナガヒメも奉った
 ・しかし、イワナガヒメがひどく醜かったので親元へ送り返し、コノハナサクヤヒメのみを留めて契りをお結びになった
 ・父命は、「イワナガヒメと契られたら皇孫の命は岩のように揺るぎないものとなり、コノハナサクヤヒメと契られたら木の花が咲き栄えるように繁栄されるでしょう、と祈誓して奉ったのに、イワナガヒメを返してコノハナサクヤヒメのみを留められたので、皇孫の寿命は木の花のようにはかないものとなるでしょう」と申しあげた
 ・コノハナサクヤヒメが産まれた御子は、火照命(ホデリ)・火須勢理命(ホスセリ)・火遠理命(ホヲリ)亦の名・穂穂手見命(ホホデミ・皇室の遠祖)の3柱である
とある(大意)

 西社の祭神・磐長姫に長寿を祈るのはわかるが、これを悪縁断ちの神というのは解せない。

 
田中神社・鳥居と社殿
(東・佐陀川側より)
 
東 社
 
西 社


◎その他
 延喜式神名帳関連資料によれば、当社境内には秋鹿郡内の式内社4社(宇多紀神社・日田神社・御井神社-論社あり・垂水神社-論社あり)が祀られているというが、独立した社殿はない(以下、式内社調査報告による)

*宇多紀神社(ウタキ)  風土記には『宇多貴の社』とある。
 祭神--下照姫命(シタテルヒメ、オオクニヌシの娘)
 ・本来の鎮座地は不明
 ・出雲風土記鈔(1683)に、『佐田社・比多社・垂水社・宇多貴社 此等の社は同じく佐田宮内に在り』とあり、江戸前期頃までは佐陀神社と同じ宮内村の何処かにあったと思われる
 ・佐陀大社勘文(1706)--宇多紀社 社神木松也 馬場の傍らに有り 下照姫命一座
  雲陽誌(1717)--宇多紀社 下照姫命なり 馬場の傍らの松を神木とす
  出雲神社巡拝記(1833)-宇多紀社 馬場南脇と云 式云宇多紀神社
  神社覈録(明3・1870)--宇多紀社 佐陀大社馬場南端に在す
などの記録からみて、江戸中期から明治にかけて、当社馬場の辺りにあって松の木をご神木としていたという(馬場の所在地は不明)
 ・大正末年の台風で社殿が倒壊したので、それを機に本殿に合祀し、そのまま今日に至っている
とある。
 本殿に合祀というが、今 南末社8座の中に宇多紀社があるのが之であろう。

*日田神社(ヒタ) 風土記には『比多の社』とある。
 祭神--稲田姫命(イナダヒメ、八岐大蛇神話に登場する姫で、スサノオの妃)
 ・本来の鎮座地は不明
 ・上記の出雲風土記鈔の記述からみて、江戸前期頃に佐陀宮内村の何処かにあったと思われる
 ・年中神勤式(1857)に「日田神社稲田姫命 御井神社天御中主神 右二社は式内也 中古破壊 以後造営なし」とあるが、
 ・出雲神社巡拝記(1833)に「田中二所大明神西の社合殿 風土記云・比多社 延喜式云・日田神社 祭神いなだひめ命」
 ・神社覈録(1870)に「佐陀大社鳥居北脇 田中神社西殿に合せ祭る」
とあり、田中神社・西社に合祀というが、今 西社社頭の案内に日田神社の名はみえない。

*御井神社(ミイ) 風土記には『御井の社』とある。
 祭神--御井神・罔象女神(ミズハノメ・水神)
 ・本来の鎮座地は不明
 ・出雲神社巡拝記の「田中二所大明神東の社に合祀 記云・御井社 式云・御井神社 祭神みゐの神」を初見とし
 ・神社覈録には「御井神社 田中神社・東殿に合せ祭る」とあるが、今、東社祭神にその名はみえない。

 なお、式内・御井神社の論社として、当社の南西約5km・松江市秋鹿町に“秋鹿神社”があり、その案内には 
 「相殿御井神社  延喜式内の社なりと雖も 中古衰微して秋鹿神社に合祭す。其年紀不祥・・・」
とある。
 この論社2社に関して、式内社調査報告は
 ・現松江市秋鹿町鎮座の秋鹿神社にも同じ名前の神社が合祀されているが、そのいずれが式にいう御井神社であるか、又この両社とも式とは無関係であるかについては、これを如何ともいひ難い
という。

*垂水神社(タルミ) 風土記には『垂水の社』とある。
 祭神--罔象女命(ミズハノメ)
 ・古くは現在地の西約1kmの大字宮内字垂水の地にあったという
 ・そこからの遷座時期は明確でないが、出雲風土記鈔(1683)に「垂水社 佐田宮内也」とあることから17世紀末頃までは宮内村の何処かにあったと思われる
 ・佐陀大社勘文(1706)・末社八神の5番目に「垂水神社 罔象女命」とあり
 ・雲陽誌にも佐陀大社末社の条に「垂水社 罔象女命」とあることから
 ・天和から宝永の間に遷座したものと思われ
 ・今 南末社に祀られている垂水社が、これかと思われる。

 なお、当社の西南西山3.5kmに鎮座する国司神社(松江市西長江町・祭神:国常立命・大国主命・稲田姫命)に合祀されている垂水神社を式内社とする説があり、国司神社の案内には、
 ・明治42年に合祀された西長江の新宮神社には(明治末の神社統合令による合祀)、古くから垂水神社が合祀されていた
 ・この垂水神社は、足日山(現経塚山)南麓の河畔にあったが、洪水により社地が冒されたので西長江にあった新宮神社に合祀した
とあるが(大要)、何れが式内社かを判断できる資料はない。


◎弓石

 本殿正中殿拝所へ上る石段の左下に、弓石と称する2箇の石がV字形に地面から突き出ている。
 当社HPには、
 「この石は弓石といって、御祭神・伊弉諾尊が神社の東方にあたる御的山(オマトヤマ)にむけて弓を射た、という故事に因むものです。
 雲陽誌には、『社中庭にあり、一石は長さ四尺(1.2m)、一石は長さ三尺(90cm)、古は正月7日弓はじめのとき、騎馬十人庭中にて列て是を射た。今は絶えたり』と記されています
 また、正中殿の御祭神・伊弉諾尊が射た弓矢が落ちたところに生じた石だとも伝えます」
とある。
 ただ、伊弉諾尊が弓を射たというのが、如何なる伝承によるものかは不明。 

弓 石

◎社日社
 南末社の左後ろに、注連縄を張り白い幣(シデ)を垂らした5角形の“石柱”があり、各面に神名が刻してある。
 正面の天照大神、その左の少彦名命、右の大己貴命は読めるが、背後の2面は判読不能。

 境内案内絵図に石柱らしき絵があり、傍らに“社日社”とあり、この石柱がそれかと思われる。

 社日(シャニチ)とは雑節の一つで、“社”とは土地の守護神を意味かるといわれ、春分・秋分の日に最も近い戊(ツチノエ)の日を社日として、種まきの頃である春の社日には五穀豊穣を祈り、秋の社日には収穫を感謝して、それぞれマツリをおこなったという(この風習は中国からの伝来)

 石柱の各面に出雲に関係する神名が刻してあることから、春秋の社日には、これらの石柱の前で何らかの神マツリがおこなわれたのかもしれないが詳細不明。
 因みに、2019年の社日は春が3月22日、秋が9月18日という。


石柱・正面 
 
石柱・右面

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