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伯耆の神社/倭文神社
鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内
主祭神−−建葉槌命
相殿神−−下照姫命・事代主命・建御名方命
         ・少彦名命・天稚彦命・味耜高彦根命

                                                        2012.08.27参詣

 延喜式神名帳に、『伯耆国川村郡 倭文神社』とある式内社。社名は“シトリ”と読む。
 なお、延喜式で“倭文”を称する式内社は、奈良の葛木倭文坐天羽雷命神社以下13社を数え、当地付近には、東郷湖の東に立地する当社以外にも、“伯耆郡久米郡”(倉吉市志津)および“因幡国高草郡”(鳥取市倭文)にある。

※由緒
 社頭に掲げる「伯耆一ノ宮倭文神社」との案内によれば、
 「伯耆国一ノ宮として御冠山(ミカンムリヤマ)の中腹に位置し、広く安産の神として信仰されている。創立年代は不明であるが、出雲大社御祭神大国主命の娘下照姫命が出雲から当地に移住され、安産の普及に努力された。
 創立当時、当地方の主産業が倭文(シズオリ)の織物であったので、倭文部の祖神建葉槌命に、当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、その後、倭文の織物が姿を消し安産信仰だけが残り、安産守護として崇敬され、参道横には安産岩も伝えられている」
とある。

 案内後段には、“創建当時、当地方の主産業が倭文の織物であったので、云々”というが、当地に織物あるいは建葉槌命(タケハツチ、倭文神ともいう)にかかわる伝承などは見えない。しかし、各地にある倭文神社の周辺には古代織物集団にかかわる伝承などが見えることから、当地にも倭文神を奉ずる織物集団・倭文部がいたとみてもいいだろう。

 一方のシタテルヒメにかかわる伝承は多く、由緒によれば、
 「安産の神として崇敬されている当社は、伯耆国の一ノ宮である。創立年代は不詳であるが、社伝によれば、大国主命の娘・下照姫が出雲から海路御着船、従者と共に現社地に住居を定め当地で死去されるまで、安産の指導に努力され、農業開発・医薬の普及に尽くされたという」
とあり、上記案内には
 [下照姫命御着船の地  羽合町宇野と泊村字谷の中間の御崎に、出雲より御着船されたと伝えられるが、その近くに化粧水と称し、船からおあがりになって化粧を直すのにお使いになった水が伝えられている」
とある。

 また地元に残る伝承として
 ・出雲より羽合町(現湯梨浜町)宇野に海路御到着された下照姫命は、従者とともに御冠山にのぼり、現在地に住居を定められたとの伝承があり、宇野には“腰掛岩”・“化粧水”等の名称が、また宮内集落には“下照姫命の従者の子孫”と信じている人が多い(当社宮司・米原氏談、式内社調査報告)
 ・出雲神門郡から海路、近くの仮ケ屋崎(仮名ケ崎)に上陸され、そこには、御座船だったという“石船”とも“腰掛岩”とも呼ばれる大岩があり、また白濁した水を湛える小池もあり、シタテルヒメの化粧水と伝える(日本の神々7)
 ・シタテルヒメは、夫神・アメノワカヒコとともに大山北麓の地(壹宮神社)に住んでいたが、夫神の死後、従者と共に海路伯耆国川村郡(当地)に移られた(現地ガイド)
 ・シタテルヒメは、国譲りの後、隠岐に行くふりをして、こっそり亀に乗って伯耆に来た。女神は亀を待たせて山に行ったが帰ってこなかったので、亀は石になった(私の一宮巡詣記・2001)
などがあり、内容には些少の混乱があるものの、シタテルヒメが出雲から当地に来られたという伝承が広く残っている。

 当社は今、伯耆一ノ宮と称するが、古資料にも“一宮大明神”とあり(伯耆民談記-1742・伯耆誌-1850)、“正弌位伯州弌宮大明神”と刻した勅額と称する古額が現存するという(上記案内)

 しかし、伯耆国内での神階授叙記録および神祇官奉幣のための神社順列をみると、
 ・承和4年(837)−−伯耆神・大山神・国坂神に従五位下授与(続日本後紀)
 ・斉衡3年(856)−−伯耆神・大山神・国坂神に正五位下、倭文神・宗形神・大帯孫神に従五位上授与(文徳実録)
 ・貞観9年(867)−−伯耆神・訓坂神(国坂神か)・大山神に正五位上授与(三代実録)
 ・天慶3年(940)−−倭文神に正三位授与(日本略記)
 ・承暦4年(1080)−−倭文神・大~山神・国坂神
とあり、天慶3年になってはじめて倭文神の名がみえる。

 これらの経緯からみると、貞観9年までは波波伎神社(伯耆神)が筆頭社(一の宮)であったが、その後はその名が消え、代わって、天慶3年には当社神のみに正三位が授けられ(斉衡3年条に倭文神の名が見えるが、伯耆神より格下)、承暦4年には神社順列の筆頭に記されている。
 これは伯耆国一の宮の座が、貞観9年から天慶3年の間に入れ替わったことを示唆するものだが、そこにどのような経緯があったのかは不明(今、波波伎神社も伯耆国一ノ宮と称している)。今、当社鳥居の神額には、“伯耆一ノ宮倭文神社”とある。

 また、伯耆国に式内・倭文神社が2社(当社+倉吉市志津)あることから、上記神階授叙社および一宮がどちらの神を指すのかはっきりしなかったが、大正4年(1915)12月、当社の境内から出土した銅経筒(全高≒43cm・径≒12.cm)に刻まれた願文のなかに、「山陰道伯耆国河村東郷御坐一宮大明神 康和5年(1103・平安後期)10月3日」とあり、当社が一宮であったことが証されたという。
 (銅経筒が出土した経塚が参道脇から登った山中にあり、経筒の他に銅製仏像などが出土し、東京国立博物館に保存されているという。国指定史跡)

※祭神
 社頭の案内には
  祭神 建葉槌命(主神)(タケハツチ、天羽槌雄神・天羽雷命とも記す)
      下照姫命(シタテルヒメ) 他5柱
とあるが、古くはシタテルヒメを主祭神とする資料もあるという。
 ・建葉槌命とするもの−−神祇宝典(1646・天羽雷命)・神名帳考証(1733)・神祇志料(1870)・特選神名牒(1876)
 ・下照姫命とするもの−−伯耆民談記(1688)・諸国一宮巡詣記(1698)・神社覈録(1870)・明治神社誌料(1912)

 タケハツチとは、日本書紀・9段本文の割注に、
  「(タケミカツチ・フツヌシの2神が従わぬ邪神どもを平らげたが、唯、星の神・香々背男-カカセオ-のみは従わなかった)
   そこで倭文神・建葉槌命を遣わして服せしめた」
とある神で(出自系譜は不明)、ここでは武神としてでてくるが、タケハツチの“タケ”は美称、“ハ”は布帛、“ツ”は助詞、“チ”は霊を意味することから、本来の神格は“布帛(織物)の神”という。
 この神は、古代の機織(倭文−シズ又はシズオリ)を業とした倭文部(シトリベ)の遠祖といわれ、先代旧事本紀(9世紀前半頃、物部氏系史書)では、
  「(天岩屋戸に隠れたアマテラスを呼び戻すためにおこなう神事のために、種々の祭具を用意したとき)
   また、倭文部の祖・天羽槌雄神に文布(シズ)を織らせた」
として登場している。
 なお、タケハツチ神が倭文氏の祖神とされることから、古史料では“倭文神”と記されることが多い。

 倭文部が織った倭文とは、古く、楮(コウゾ)・麻・苧(カラムシ)等の繊維を赤・青の原色で染め、これを横糸として織りあげたわが国固有の古代織物というが、現物の出土がなくその実体ははっきりしない。大陸伝来の織物・綾文(アヤオリ)に対して、わが国固有の織物として倭文(シズオリ)と表記されたもので、シトリとはシズオリの詰まった呼称という。
 倭文部とは、倭文を織ることを業とする品部(トモノミヤツコ・職業集団)で、正史上では、垂仁天皇の皇子・五十瓊敷命(イニシキ)が賜った品部(10種)のなかに倭文部とあるのを初見とする(書紀・垂仁39年条)

 一方のシタテルヒメ(高姫・稚国玉ともいう)とは、記紀神話では、オオクニヌシとタギリヒメ(宗像三女神の一)との間に生まれた女神で、国譲り交渉の使者として葦原中国(アシハラナカツクニ、ここでは出雲国を指す)に降った天稚彦(アメノワカヒコ、天津国玉神の御子)の妻とある。
 シタテルヒメの事蹟として、8年経っても復命せず且つ遣わされた問責の使者(雉の鳴女)を射殺した夫・アメノワカヒコが、タカミムスヒが投げ下ろした還矢(カヘシヤ)によって亡くなったとき、
 「アメノワカヒコの妻・シタテルヒメの哭く声、風のむた響きて天に到りき(風に乗って天上・高天原にまで届いた)、云々」(古事記)
とあるのみだが、後世、安産祈願の神として各地で崇敬されている。
 シタテルヒメを安産の神とする由来は不明だが、記紀にいうシタテルヒメの事蹟が、上記箇所以外にないことから自由度が高く、想像・願望のおもむくまま、いろんな伝承の主人公に儀せられたのであろう。

 当社にシタテルヒメが祀られた時期は不詳だが、当社にかかわる初見史料・大同類聚方(808・平安初期の医薬書)
 「□利薬 □□(出雲か)川村郡倭文神主の家に伝わる方(薬) 元は下照姫神の方なり」
とあり、延喜式編纂以前(927・平安中期初)からシタテルヒメが祀られていたともとれる。
 ただ、延喜式に倭文神社一座とあるかぎり、本来の主祭神は倭文神(タケハツチ)とみるのが順当であろう。

 そのシタテルヒメが当社の主祭神とされたことについて、
 ・新しい織物技術の流入により変化が生じ、タケハツチ命を祀る必要がなくなり、村人と関係の深いシタテルヒメが主祭神とされるようになった(宮司・米原尊昭氏談−−式内社調査報告・1984)
 ・倭文部の居住地にシタテルヒメを奉じる出雲系部族が進出し、シタテルヒメの現世利益の霊験を称えて勢力を張り、やがて先住の神(倭文神)を払拭したと思われ、それは織物技術が普遍化し、倭文部集団の影が薄くなって以降のことであろう(日本の神々7・1985)
というが、その進出年代を示唆するものはない。

 大正時代までの当社はシタテルヒメを主祭神としていたようで、それが本来の祭神・タケハツチ命へ戻されたのは昭和3年(1928)とあり、神社明細帳(編纂時期不明)には
 「明治大正の時代に至り漸く祭神の異なるも認め、大正14年(1925)8月27日、祭神として建葉槌命増加の許可を得、昭和3年11月20日、従来の主神・下照姫命を配祀とし、主神を建葉槌命として奉祀の許可を得た」
とあるという。

※社殿等
 鳥居(享保12年-1727-建立)を入り、参道中程にある随神門を進んだ先が境内で、その中央に大きな拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥、透塀に囲まれた中に本殿(一間社流造・銅板葺)が建つ。

倭文神社/鳥居
倭文神社・鳥居
倭文神社/随神門
同・随神門
倭文神社/拝殿
同・拝殿
倭文神社/本殿
同・本殿

 なお、参道脇に“安産石”と称する大きな石があり、案内に、
 「昔、難産に苦しむ婦人が当社に日参し、満願の日、シタテルヒメの霊夢を感じ、参詣の帰路この岩で安産したので、以後安産石と称するようになった」
との伝承を記している。

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