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出雲の神社/八重垣神社
付−−式内・佐久佐神社
島根県松江市佐草町
主祭神−−素盞鳴命・稲田姫命
  相殿神−−大国主命・青幡佐久佐彦命
                                                        2012.08.28参詣

 松江市の南、八雲立つ風土記の丘の西に鎮座する古社で、延喜式神名帳にいう『和泉国意宇郡 佐久佐神社』との式内社に、素戔鳴尊の八岐大蛇退治にかかわる須我神社を合祀して、八重垣神社と称する。

※由緒
 境内に掲げる由来記によれば、
 「素盞鳴命が八岐大蛇を退治になる際、斐の川の川上から七里離れた佐草女の森(サグサメノモリ・奥の院)が安全な場所であるとして選び、大杉を中心に八重垣を造って、稲田姫をお隠しになった。
 そして、大蛇を退治して、『八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣造る其の八重垣を』という喜びの歌をうたい、両神の許しを得て、『いざさらば いざさらば 連れて帰らむ佐草の郷(サト)に』という出雲神楽歌にもあるとおりに、この佐草の地に宮造りして、御夫婦の宮居とされ、・・・神国出雲の古社であり名社であります」
という。

 この由来記によれば、当地はスサノヲが八岐大蛇を退治した後に、イナダヒメとともに住んだ宮処というが、記紀では異なっており、古事記によれば、大蛇を退治したスサノヲは
 「宮を造るべき土地を出雲国にお捜しになった。そして須賀の地にお出でになり、『吾は此処に来て 気分が清々しい』と仰せられて、そこに新居の宮を造ってお住みになった。それで、その地を須賀と呼んでいる。
 そのとき、その地から盛んに雲が立ちのぼったので、『出雲建つ出雲八重垣妻ごみに・・・』とお詠みになった」
とあり、その須賀宮の場所は出雲国大原郡海潮郷(ウシホノサト・現雲南市大東町須賀)で、当社(意宇郡大草郷)の南西約9kmに鎮座する須我の社(大原郡にある小社で式外社→別稿・須我神社参照)がこれという。

 当地は、出雲国風土記にいう意宇郡(オウノコホリ)大草郷佐久佐(サクサ)の地で、風土記には
 「大草の郷 郡家の南西二里百二十歩 須佐乎命(スサノヲ)の御子・青幡佐久佐丁壮命(アオハタサクサヒコ坐す。故、大草と云ふ」
とあり、風土記にいう「佐久佐の社」(在神祇官社48社のうち44番目)、延喜式神名帳にいう「出雲国意宇郡 佐久佐神社」が鎮座するものの、そこには八重垣神社の名はみえない。

 式内・佐久佐神社は、スサノヲの御子・アオハタサクサヒコを祭神とする神社だが、その創建由緒・年代は不明。
 ただ、佐久佐神に対する神階授与の記録として
 ・仁寿元年(851)8月−−出雲国青幡佐久佐丁壮命に従五位下を授く(文徳実録)
 ・貞観7年(865)10月−−従五位下佐草神に従五位上を授く(三代実録)
 ・貞観13年(871)11月−−従五位上佐草神に正五位下を授く(三代実録)
 ・元慶2年(878)3月−−出雲国正五位下青幡佐草壮丁神に正五位上を授く(三代実録)
などがあり、神祇官奉弊に預かる官社として9世紀以前から祀られていたのは確かといえる。

 なお、式内・佐久佐神社を現六所神社(松江市大草町)に充てる説があるが、六所神社は平安時代になって出雲国総社(国司が参詣に便利なように、国内の著名神社を一社に纏めたもの)として創建された神社である可能性が高く、これを式内・佐久佐神社とする説は弱い。
 明治5年(1872)に八重垣神社を以て式内・佐久佐神社と認定されたという。

 その式内・佐久佐神社が八重垣神社と呼ばれたのは室町末期の頃からといわれ、その初見は
 ・毛利元就拌物(1565、出雲国造家文書所収)−−八重垣神社神楽田
との記録で、同時代のものとして
 ・八重垣文書−天正18年(1590)注進状(松江市矢竹町・安国寺所蔵)−−八重垣所領・八重垣別火(祭祀者、後の神主)
があるという。

 江戸前期の資料・出雲風土記鈔(1683)の大原郡・須我社の項には
 「素盞尊  宮を造り稲田姫を娶り御子を生む。須我湯山主命という。湯山主命とは大己貴の異名也。故に此の三神を此の地に合せ祭る。・・・後、艮(北東)方四里許りの意宇郡佐草村に遷す。今の八重垣是也」(大意)
とあり、同中期の資料・雲陽誌(1717・江戸中期)の須賀社の項にも、
 「その後、(須我神社の神霊を)意宇郡佐草村に遷したてまつり、八重垣の神と申すなり」
とある。

 これらからみて、八重垣神社は、“大原郡海潮郷須我(現島根県雲南市大東町須賀)に鎮座する須賀神社を勧請したもの”で、その時期は概ね室町末期(16世紀中頃・戦国時代)、特定すれば、戦国大名の雄・毛利氏の尼子氏(出雲を本拠とする戦国大名)領進出の頃(1566年尼子氏滅亡)ではないかという(尼子氏関連の資料には八重垣社の名は見えないという)

 江戸も中期以降になると、勧請された須我神社の方が八重垣大明神の名で広く知られ、旧来からの佐久佐神社の名は忘れられていたようで、
 出雲神社巡拝記(1833・江戸後期)に、
 「当社(佐久佐神社)は小社と成て此所八重垣神社の脇にあり。是也。末社の如き小社なれば、八重垣神社を是と拝する人あらん。巡拝の人は心得て拝礼すべし」
とあるように、勧請された八重垣神社が本殿を占め、本来の佐久佐神社は境内社(末社)として遇されていたとあり(今、佐久佐神は本殿に合祀され、境内社はない)
 また同時代の資料・出雲国式社考(1843)は、
 「風土記に佐久佐神社とあり、大草郷佐久佐村八重垣大明神是也。風土記に大草郷・須佐乃乎命御子青幡佐久佐日子命坐、故に大草と云ふとありて疑なき事なるを、今は本社稲田姫・素盞鳴尊・大己貴命を合祭る」
と、稲田姫以下を祀ることに疑問を呈している。

 今の当社には、式内・佐久佐神社を示唆するものは皆無で、祭神名の末尾に“御子神 大国主命 青幡佐久佐彦命”と並記することで、かろうじて、その痕跡を残すのみとなっている(当社社務所に詰める神官も、当社は元々から八重垣神社であるとして、佐久佐神社のことを語ろうとはしない)

 その後、明治に入っての神社再編に際して、式内社以外の神社は高位の社格が得られないとして、当社の本社・末社の関係を逆転させ、式内・佐久佐神社を本殿に戻して祭神をアオハタサクサヒコとし、八重垣神社は相殿社としたといわれ、その際、島根県庁に提出した明細帳には、
 「歳遷り時変りて漸く衰微に赴き、遂に中世以遷は八重垣神社末社の如き小祠となりしが、大政復古の秋、神社御改正御取調の際、本殿に復旧なし奉る。
 本殿御相殿八重垣神社、上古は大原郡海潮郷須我ノ里清山(今高鍔山という)に鎮座ありしを、嘗て神託に依て今地(佐久佐神社境内)に奉遷すと云」
とあり、明治5年(1872)、佐久佐神社の名を以て郷社に列せられたが、その後、永年慣れ親しんだ八重垣という社名が消えることを惜しみ、その筋に陳情して、大正11年9月、社号を八重垣神社に戻したという。

 これらの経緯からみると、当社は、アオハタサクサヒコを祀る佐久佐神社であったものが、須我から勧請された八重垣神社に庇を貸して母屋をとられたともいえる。

※祭神
 当社御由緒によれば、
   御祭神−−素盞鳴尊・稲田姫命
    御子神−−大国主命・青幡佐久佐彦命(佐草宮司先祖神)
とある。

 主祭神をスサノヲ・イナダヒメとするのは、上記由緒によるものだが、当社の原点が式内・佐久佐神社であることから、主祭神はアオハタサクサヒコとみるのが妥当であろう。
 アオハタサクサヒコとは出雲国風土記のみに登場する神で、記紀等にはみえず、その神格は不明だが、風土記大原郡・高麻山条に“山上に麻を蒔いた”とあることから植物に関係する神かという。
 なお、佐草宮司の先祖神であることを証する資料は見当たらない。

 本来の祭神が新来の神によってその座を追われ、相殿神あるいは末社神へと貶められた例は多く、当社もその一例であろう。、

※社殿等
 県道249号線の西側に立つ鳥居を入ると、すぐに随神門があり参道が続く。
 境内正面に拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥透塀に囲まれた神域内に本殿(大社造・銅板葺)が、いずれも東面して鎮座する。

 本殿の内部は、出雲大社と同じく“田の字”形に区切られ、右上の区画に南面して神座(内殿)が設けられており、拝殿からは西を向いた神座を横から拝する形となっている。何故、西を向いているのかは不明。

 神座のある右上の区画と右下区画の間にの隔壁には、かつては、スサノヲとイナダヒメを描いた板繪彩色神像があったが、今は収蔵庫に保管されている(2012は大出雲展に出展中)

八重垣神社/鳥居
八重垣神社・鳥居
八重垣神社/随神門
同・随神門
八重垣神社/拝殿
同・拝殿
八重垣神社/本殿
同・本殿

彩色神像(右側部分)
(大出雲展カタログより転写)

◎境内社
 ・本殿右−−脚摩乳社(アシナツチ命)・伊勢宮(アマテラス)
 ・本殿左−−手摩乳社(テナツチ命)・貴布祢社(タカオカミ・ウカノミタマ)
 ・境内左手−−山神社(オオヤマツミ)・社日社(ハニヤスヒメ他)

※佐久佐女(サクサメ)の森
 社殿域の左手から西へ、細い道路を横切った奥に“佐久佐女の森”と称する低い丘があり、奥の院と称している。

 八重垣神社御由緒に記す“奥の院・佐久佐女の森(神秘の森)”によれば、
 「本殿の後方に奥の院・佐久佐女の森がある。そこは稲田姫命が八岐大蛇の難を御避けなさった場所の中心地で、その森の大杉を中心に周囲に八重垣を造って御避難されたといわれます。
 八重垣とは、大垣・中垣・万垣・西垣・万定垣・北垣・袖垣・秘弥垣という八つの垣で、今も尚その垣の名が山の上や中腹、田の中などに地名が残っております」
という。

 佐久佐女の森は、八岐大蛇退治を前にして“スサノヲがイナダヒメを隠した処”というが、記紀ともに“イナダヒメを聖なる爪櫛(爪の形をした櫛)に変えてミヅラ(髪)に刺して”オロチ退治に向かっており、ヒメを別の処に隠したとはみえない。

 ただ、室町末期(戦国時代中頃)の書・“雲州樋河上天淵記”(1523、僧・季庵著-東福寺の僧というだけで詳細不明)
 「スサノヲ尊、(八岐大蛇を退治する前に)先ず此の女(イナダヒメ)を隠そうと欲し、(長者原を)去ること七里、八重墻の佐草里に(隠れ家を)構え、女を其の中に隠す。・・・イナダヒメは八重墻大明神是也」(漢文意訳)
との伝承があり、上記由緒はこれによるものと思われる。

 この天淵記(天ノ淵八岐大蛇之記ともいう)との文書は、斐伊川上流にある天淵(アメガフチ、雲南市木次町湯にあり・当社の南西約26km)に関する縁起で、当地一帯に残る八岐大蛇関連の伝承を記したものだが、この書が書かれた中世の頃には、神仏習合思想やその時代相応の合理的思考などによる記紀神話の書換えが多数おこなわれており(中世神話という)、この書もその一であろう。

 佐久佐女の森には“鏡の池”と称する小さな涌水池があり、上記御由緒には、
 「この池は、稲田姫が八岐大蛇の難を避けるため、森の大杉を中心に八重垣を造って御避難中日々の飲料水とし、また御姿を御写しなされた池で、姿見の池・鏡の池という」
とあり、今は、縁結び(良縁)の遅速を占う池として若い女性に人気があるという。

 当社には、“身隠神事”(ミカクシシンジ)と呼ばれる祭事が伝わり、上記御由緒には
 「昔稲田姫が、この森の大杉を中心に八重垣を造って身をお隠しなされたという故事にちなんだ、神社随一の古伝祭である身隠祭が、5月3日(旧4月3日)夕闇が迫る頃、この夫婦杉に神幸祭が執り行われます」
とある。

 この神事次第は、スサノオ信仰事典(2004)所載の八重垣宮と稲田姫命(八重垣神社宮司佐草敏邦著)によれば、大略
 ・神事は、当日の早朝、鏡の池から汲んだ水で炊いた供米や海幸・山幸などを神前に供えることから始まる。
 ・午後3時、各種神事のあと宮司が本殿に入り、榊の神籬(ヒモロギ)に御分霊を遷して神輿に乗せ、神歌を奏上したあと、神輿が8人の壮丁に担がれて発進し、御幸が始まる。
 ・御幸は、榊を持った先祓い神職の後、奏楽・神輿・稲田姫命に扮した者・神職他がつづき、拝殿を左に3回ほど廻り、鏡の池のある奥の院へ向かう。
 ・奥の院では、大杉跡を左に3回廻り、持参した八重垣の札を周囲に廻らし、ヒモロギを御神木に立てて、神輿から分霊をお遷しし、神酒を木の周りに注ぎ、祝詞奏上・玉串奉奠の儀が行われ、神幸祭は終わる。
 ・その後、大蛇の恐れがなくなる冬・12月15日(古くは旧11月中の卯の日だったという)の還幸祭まで、御分霊は此処に滞在される。
という。

 この祭の中心は稲田姫役で(姫の面を付けるというから男性が務めるのか)、蛇が活動する早春から冬の初めまで御分霊を佐草の森に遷すということは、由緒にいう、八岐大蛇の難を避けるためにイナダヒメが佐久佐女の森に身を潜めたという伝承を再現するものといえる。

 スサノヲによる八岐大蛇退治譚は、古代世界各地に残るペルセウス・アンドロメダ型神話の一類型だが、民俗学的には、それに先立つ信仰・風習があったという。
 古代には、稲の生育に必要な雨水を供給する神としての水神・雷神への信仰(農耕神・田の神信仰の一形態)があり、水神はしばしば蛇体として化現したといわれ、この神は、祭を怠らなければ適当な雨水と豊饒をもたらしてくれるが、怠ると洪水や嵐をおこす畏るべき存在とされる。

 この理解からみると、八岐大蛇の原姿は、斐伊川上流にあって流域一帯に豊饒をもたらす水神であって、年ごとに人身御供を求めるような邪神ではなかったと解される。
 また大蛇とイナダヒメの関係は、邪神と人身御供というものではなく、水神・農耕神である蛇神と、これと神婚して神の御子を生む巫女(神の妻)といった関係で、そこで行われる神婚によって、豊かな稲の稔りがもたらされると信じられていたという。

 この蛇神(水神)と巫女の関係は、時代の経過とともに邪神への人身御供譚へと変化していくが、それは、スサノヲのような新しい人間的英雄神の登場によって、かつて崇敬されていた蛇神が退治されるべき邪神へと貶められ(古い神が新来の神によって邪神へと貶められた事例は多い)、神婚相手であった稲田の女神が哀れな人身御供の女とされたのであろうという。

 当社の身隠神事で、春のはじめに神輿(イナダヒメの御魂)が佐久佐女森まで赴くのは、嘗ては、農耕が始まる春に行われた鏡池の水神(蛇神)と稲田の女神(イナダヒメ)との神婚を再現する神事であったのが忘れられ、蛇の活動期間を避けて身を隠すという意味へと変化したものといえる。

 樹木に覆われた佐久佐女の森の中には、次のものがある。
 ・鏡の池−−佐久佐女の森の中心となる径5mほどの小池。一見、水は澄んでいて涌水はあるらしいが、よくわからない。
         ここから、嘗て水神に捧げられたとみられる陶質の土馬(古代の雨乞いにはよく馬が捧げられた、土馬とは、生きた馬の代わりであろう)や須恵器(祭祀用土器か)が採取されたことから、佐久佐の神を祀る原初の斎場ではないかともいう。
         今、半紙大の紙の上に硬貨を乗せて、その沈んでいく時間の長短で、良縁を得るまでの遅速を占うということで、若い女性に人気があるという
 ・天鏡社−−池の反対側に鎮座する小祠。蛇が活動する間、スセリヒメが身を潜める社か。
 ・夫婦杉−−嘗ては、根元を同じにするかのように2本並んで立っていたが、今は枯れ、2本の大杉がやや離れて立っている

佐久佐女の森/入口
佐久佐女森への入口
佐久佐女の森/鏡の池
佐久佐女森・鏡の池
佐久佐女の森/天鏡社
同・天鏡社
佐久佐女の森/夫婦杉の一本
同・夫婦杉の一本

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