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黄泉比良坂
付--伊賦夜坂
島根県松江市東出雲町揖屋(平賀地区)
                                                    2018.12.16訪問

【黄泉比良坂】(ヨモツヒラサカ)
 松江市東出雲町揖屋2376-3(平賀地区)
 揖夜神社の南東約800m(JR揖屋駅の東約1km)の山中に位置し、「神蹟 黄泉比良坂 伊賦夜坂伝承地」との石碑が立っている。

  揖屋神社前の道路を東へ、国道9号線の陸橋をくぐったすぐ先の小道を南へ(バス通行不可)、JR線を越えた先の民家の壁に「黄泉比良坂」との看板が掛かっている。
 集落内の小道を道なりに進んだ先に小さな駐車場(乗用車6台程度)があり、駐車場入口すぐ右手の小道を入り、駐車場に沿った土手上の道をすすんだ先に“黄泉比良坂史跡”(千引の石・チビキノイワ)がある。

 
黄泉比良坂付近略図
(右下が黄泉比良坂史跡)

民家壁の案内表示
 
 
駐車場
(右側看板の横から小道を入りって左に曲がり
土手沿いに進んだ左手に千引石がある)

 史跡へ至る小道の途中に〆鳥居が立ち、小道の突き当たりの小さな広場の奥に“千引の石”(チビキノイワ)と呼ばれる巨岩2基が座り、その右手前に『神蹟 黄泉比良坂 伊賦夜坂 傳説地』との石碑が立っている。

 
〆鳥居
 
伝説地・石碑

千引の石・全景 
 
千引の石


 石碑傍らの案内には
 「黄泉比良坂は古事記に登場する坂です。
 伊邪那岐命が黄泉国から還ろうとしたとき、追ってくる悪霊・邪鬼を桃子(桃の実)で撃退した坂であり、大穴牟遅神が黄泉国で須佐之男命の課す様々な試練を克服し、妻の須勢理毘売とともに帰ろうとしたとき、須佐之男命が追い至って大国主の名を与え、国造りを託したのもこの坂です。
 その場所については、『其のいわゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふなり』と記しています。

 碑の西方の山道が伊賦夜坂といわれており、途中に“塞の神”が祀ってあります。日本書紀に伊邪那岐命が黄泉比良坂で『ここから入ってきてはならぬ』と言って投げた杖から出現した神であると記されています。
 地元では、この道を通るときは塞の神に小石を積んで通るという風習があり、今でも小さな石が積まれています」

 また、揖屋神社御由緒書には
 「記紀神話の神産みや大国主の神話に登場する黄泉の国(根の国)との境である黄泉比良坂の比定地が、当社の東方の東出雲町揖屋平賀にあり、石碑が建てられている」
とあり
 松江観光協会公式サイトには、
 「東出雲町の中心地にある揖夜町は、古事記に記録を残す黄泉比良坂のある伊賦夜の里です。
 古事記によれば、揖夜町平瀬地内の国道9号線から約300m南方にある小丘が黄泉比良坂であると伝えられています。
 この付近には、以前に意東へ越える古道があり、その道を夜見路越え(ヨミジゴエ)と呼んだり、近くの谷を夜見路谷といったりしていました。夜見路とは黄泉路(ヨミジ・死者の国への道)です」
とある。

 黄泉比良坂について、古事記には、
 ・イザナギは、火の神を生んだがために亡くなったイザナミを追って黄泉の国にいった
 ・そこで、全身に雷神がつきまとっているイザナミを見て、怖くなって逃げ出した。
 ・これを知ったイザナミは『吾に恥をかかせた』として雷神どもに後を追わせた。
 ・イザナギは桃の実を投げつけたり、刀を振り回したりして黄泉比良坂まで逃げ、
 ・そこに千引の石(チビキノイワ)を引き据えて、追ってきたイザナミと石を挟んで問答し、最後に離別の言葉を告げた。
 ・故に、イザナミを黄泉津大神(ヨモツオオカミ)、また道敷大神(チシキノオオカミ)と名づけ、
 ・黄泉の坂を塞いだ千引の石を“道反之大神(チカヘシノオオカミ)、また黄泉戸(ヨミト)に塞(サエギ)ります大神”ともいふ。
 ・その黄泉比良坂は、今は出雲国の伊賦夜坂(イフヤサカ)という。
とあり(要約)、黄泉比良坂とはこの世とあの世(死者の国)との境という。

 また、案内がいう大穴牟遅神(オオナムチ・大国主命)云々とは、異母兄弟である八十神(ヤソカミ)の迫害を避けるために、スサノオが坐す根の国竪州国(ネノクニ カタスノクニ)に行ったオオナムチが、一目惚れしたスサノオの娘・スセリヒメを連れて帰ろうとしたとき、
 「スサノオが黄泉比良坂まで追いかけてきて、遠くにを行くオオナムチに大声で、『お前が持っているその生大刀・生弓矢で、お前の腹違いの兄弟を追い払って、オオクニヌシの神となって、我が娘・スセリヒメを正妻とせよ』と呼びかけられた。
 そこでオオナムチはその生大刀や生弓をもって八十神たちを追い払い、国造りをはじめられた」(古事記)
とあるのを指し、ここでの黄泉比良坂もこの世とあの世(根の国)の境を意味する。

 なお、黄泉比良坂・伊賦夜坂の“坂”とは地形上の坂道というより、この世とあの世(死者の国)の“境”(坂=境)という意味が強く、本居宣長の古事記伝(巻8)には、「黄泉比良坂 黄泉と顕国(ウツシクニ・現世)の堺なり 平坂とは平易(ナダラカ)なるの意也(なだらかな傾斜地)」とある。

 案内の最後にいう“道反之大神・黄泉戸に塞ります大神”とは、塞の神(サエノカミ)あるいは岐神(フナトノカミ)と呼ばれる神で、国境・村境・坂の上・川の畔など此方(コチラ、現世)と彼方(アチラ、他界)との境界にあって、異界からやってくる悪霊・邪神などの侵入を遮り追い返すとされ、書紀5段一書9には
 「(イザナギが黄泉比良坂の麓に生えていた桃の実を投げて、追ってきた雷どもを追い払った後)イザナギは持っていた杖を投げて『此処から此方へは来るな』といわれた。杖が神となった。これを岐神といふ。来名戸(クナト)の祖神(サエノカミ)ともいふ」
とある。

 杖を立てることは、一義的にはその土地の占有を示す行為というが、そこが境界であることを示す行為でもあり、イザナギが杖を投げたことは、杖を立ててこの世とあの世の境界を画したことを意味する。

 しかし、出雲風土記・意宇郡段に黄泉比良坂・伊夫夜坂にかんする記述はなく、また当地にこれに関する伝承は残っていないともいわれ、当地を黄泉比良坂に比定する根拠は不明。

 この石碑は、昭和15年(1940)が記紀にいう神武天皇による建国2600年目(皇紀2600年)にあたるとして、政府主導でおこなわれた記念事業の一環として、土地の有力者(町長)が、ここが黄泉比良坂だとして石碑を建てたといわれ、これら一連の遺構は、記紀神話を事実と信じた人々によって造られた架空の遺構でしかない。
 なお、石碑建立時に千引の石があったかどうかは不明だが、〆鳥居の石柱に『昭和八年四月建立』との刻銘があることから、千引の石は伝承地石碑が建てられた以前から当地にあったと思われる。
 ただ、現地を見た感じでは人力がはいっているようにもみえ、神代の時代からあったというのは虚言でしかない。

 なお、出雲風土記・出雲郡宇賀の郷条に
 「北の海の浜に磯有り、名は脳(ナヅキ)の磯。・・・磯の西方の窟戸(イハヤト)、高さ広さ各六尺許り。窟の内に穴在り、人、入ることを得ず。夢に此の窟の辺りに至らば必ず死ぬ。故、俗人、古より今に至るまで、黄泉の坂・黄泉の穴と号(ナヅ)く」
とあり、この地を黄泉国への入口と認識されていたことを示唆するが、記紀に当窟に関する記述はない。
 この窟は、今出雲市猪目町にある『猪目洞窟』(国指定史跡)に比定され、現地の案内によれば、
 ・この洞窟遺跡は、昭和23年(1948)、漁船の船着場として利用しようとして入口の土砂を除去したときにみつかった
 ・遺跡は弥生から古墳時代後期に至るもので、木製品・土器などとともに13体以上の人骨と木棺片他の遺物が出土している
とあり(抄記)、この洞窟が葬送の場として利用されたことを示している。

 当社では、大己貴命が大国主命に呼びかけた黄泉比良坂も揖屋にある坂を指すというが、出雲市猪目町にある猪目洞窟が有力ともいう。

【伊賦夜坂】
 古く、揖屋平賀地区から西の附谷に抜ける山道が『伊賦夜坂』と称した小道で、今、黄泉比良坂駐車場横から千引の石へ至る小道を入ったすぐ右から、伊賦夜坂への山道(人一人通れる程度)が西へ延び、入口には『←この先 塞の神 この道 伊賦夜坂』との標識が立ち、約100mほど入ったところに『塞の神』(サエノカミ・サイノカミ)が祀られている。

 ここの塞の神は、木立の下にある高さ3・40cmほどの自然石だが、その本体は周りに積まれた沢山の小石に埋もれている。   傍らの「塞の神(道祖神)」との木札がなければ単なる小石の山としかみえない。
 ここから先は緩やかな降り坂となっているようで、峠の頂きにあたると思われ、ここは一つの境界でもあり、道祖神が坐すには相応しいといえる。

 
伊賦夜坂への入口
(右手に標識あり)
 
塞の神(中央左手)付近
 
塞の神

 この塞の神は、後世になって道祖神などと習合しているが、昔、住み慣れた村を出て旅に出ることは境界である村境や坂を越えて他界へ行くことであり、旅人は道中安全を境界に坐す神に祈ったといわれ、この塞の神も道祖神と括弧書きがあるように、伊賦夜坂に坐す道中守護の神であって、その前を通る旅人は、小石を捧げて道中の安全を祈ったのであろう。
 (別稿・揖夜神社参照)

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