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鏡作坐天照御魂神社
奈良県磯城郡田原本町八尾
論社−−鏡作神社
奈良県磯城郡三宅町石見
祭神−−天照国照彦火明命・石凝姥命・天糠戸命
                                                      2010.12.05参詣・2015.02・27改訂

 延喜式神名帳に、『大和国城下郡 鏡作坐天照国照神社 大 月次新嘗』とある式内社。社名は“カガミツクリニマス アマテルミタマ”(又はアマテルミムスビ)と読む(以下、“八尾の鏡作神社”という)
 なお、当社の北西約1.3km・三宅町 石見(イワミ)に“鏡作神社”(カガミツクリ)があり、当社の論社とする説、別社とする説がある(以下、“石見神社”という)

 八尾の鏡作神社は、近鉄橿原線・田原本駅の北約1km、寺川西岸に鎮座する。田原本駅から東へ出て国道24号線を北へ、バス停(鏡作神社)手前を西へ、寺川を渡った先、道の北側に朱塗りの大鳥居が立つ(道の反対側に小さな神社・“豊雛神社”がある)。国道を更に約1km北上した右手(東側)に、弥生時代の代表的遺跡の一つ・“唐古鍵遺跡”(復元した古代楼閣が目印)がある。

 石見神社は、近鉄橿原線・石見駅の北東約200mの住宅地内・石見公民館の横に鎮座する。駅北側の道路を東へ進んだ先・左手(北側)に鎮守の森が見える。

【八尾の鏡作神社】

※創建由緒

 当社の創建由緒・時期など不明だが、参詣の栞(当社宮司)によれば、
 「上代人が己が魂の宿るものとして最も崇敬尊重した鏡類を、製作鋳造することを業としていた鏡作部がこの地一帯に住居し、御鏡(天照国照彦火明命:アマテルクニテル ヒコ ホアカリ)並びに遠祖(石凝姥:イシコリトメ)を氏神として奉祀したのが当神社であって、古来、鏡鋳造鋳物元祖として尊崇信仰されている。
 第十代崇神天皇の頃、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居にお祀りすることは畏れおおいとして、別の処にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をお祀りになった。
 その神鏡を、八咫鏡をお造りなった石凝姥の子孫の鏡作師が、この地に於いて崇神天皇6年に鋳造した。それを内侍所の神鏡と称するが、その鋳造に当たって試鋳せられた像鏡は、之を天照国照彦火明命と称えてお祀りした。これが当社の起源」
とあり、また社頭に掲げる案内(田原本町)には
 「和名抄・鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。
 第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居の内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった。
 社伝によると、崇神天皇6年9月3日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。
 本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀られるもので、この地を号して鏡作と言ふ、とあり、御祭神は鏡作三所大明神として称えられていた」
とあり、いずれも、宮中・内侍所に奉祀する三種の神器の一つである鏡を、鋳造するに先立って試鋳された像鏡を祀るのが当社だという。

 しかし、崇神紀6年条には、
 「これより先、天照大神・倭大国魂の二神を天皇の御殿の内にお祀りしていた。ところが、その神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神を豊鋤入姫に託し大和の笠縫邑に祀った」
とはあるものの、その時鏡を作ったとはない。

 このとき鏡を作ったとするのは古語拾遺(807・斎部氏系史書)・崇神天皇段で、そこには
 「磯城の瑞垣の朝に至り、漸く神の威(イキオヒ)を畏りて、殿を同くしたまふに安からず。
 故、更に斎部氏をして石凝姥神(イシコリトメ)が裔(スエ)・天目一箇神(アマノマヒトツ)が裔の二氏を率て、更に鏡・剣を造らしめて、護(マモリ・天皇の護身用)の御璽(ミシルシ)と為す」
とあり、アマテラスの御霊代である鏡を宮中から外に移したために、それに代わる新たに鏡を作ったというが、このとき、それに先だって試鋳の鏡を作ったとの記述はない。

 ただ、先代旧事本紀(神祇本記)・天岩戸段に
 ・日の神の形を作って(岩戸に隠れたアマテラスを)招きだそうとして
 ・鏡作の祖・石凝姥命に鏡を作らせたが不出来だった。これが紀伊国の日前神である。
 ・また鏡作の祖・天糠戸神(石凝姥命の子)に日の形の鏡を作らせた。できた鏡は美麗だったが、岩戸に触れて小さな傷が付いた。今も残っている。
 ・この鏡が伊勢にお祀りする大神である。いわゆる八咫鏡、またの名を真経津鏡(マフツノカガミ)が是である
とあり、宮中に祀られていた八咫鏡の前に鏡1面作ったとあるが、この鏡は紀州国の日前神社(和歌山市)の御神体であって当社とは関係しない。

 これらからみると、上記由緒は、当社の祭祀氏族・鏡作氏が、その祖神の功を美化顕彰することによって社格を挙げるために、これらの伝承を取り混ぜて創作したものと思われる。

※祭神
 今の祭神は、社頭に掲げる案内では上記の3座だが、祭神3座については古くからの変遷があったようで、諸資料記載の祭神を列記すれば、次のようになる。

資  料  名 中 社 右 社 左 社
八尾鏡作大明神作法書(時期不明) 天糠戸命 石凝戸姥命 己凝戸辺命 大和志料記載
社記(天文2年・1533・室町時代) 石凝姥命 天糠戸命 天児屋根命
大和志料(明治27年・1894) 石凝姥命 天糠戸命 天児屋根命 社記を踏襲
礒城郡誌(大正4年・1915) 天照大神御魂 石凝姥命 天糠戸命
現  在 天照国照彦火明命 石凝姥命 天糠戸命

 延喜式には“鏡作坐天照御魂神社”一座とあるから、本来の祭神は、鏡作氏の祖である天糖戸命(アメノヌカト)・石凝姥命のいずれか一座、あるいは当社が天照御魂を名乗ることから、本来の祭神は太陽神・アマテルミムスビ神であって、後にアメノヌカト・イシコリトメ両祖神を合祀したとも思われる。

◎天照御魂(アマテル ミムスビ神、アマテルミタマともいう)
 通常、天照御魂神といえば自然神としての日神(太陽神)を意味するが、ムスビについて大和岩雄氏は
 「日本書紀は“ムスビ”を具体的に“産”(ムス)の“霊”(ヒ)と書き、古事記は“産霊”(ムス)の“日”(ヒ)と書く。単なる霊や日ではなく、生命を宿し生む霊・日をムスビと書いている。
 そのムスビの霊威をもっとも強く発揮しているのが太陽だから、天照御魂神(アマテルミムスビ)という男神の日神がいる。
 この神は神統譜からはまったく消されているのは、記紀が天照を冠した女神を日神・皇祖神に仕立てたので、男神の日神を書くわけには行かなかったからである」(神と人の古代学・2012 )
と記し、ムスビの神は生命を生み育てる原初の神で、その力が最も強いのが太陽であることから、天照を冠したものという。

 古く、大王家を含めて各地の豪族が奉祀するアマテルミムスビ神が多くあったといわれ、皇祖神・天照大神は、大王家が奉祀していたアマテルミムスビ神が国家神へと変貌した神という(皇祖神・天照大神の誕生は持統・文武朝ともいう)

 ただ記紀には、自然神・日神であるアマテルミムスビ神は出てこず、これに具体の神名としてアマテラスの孫である“火明命”(ホアカリ)を充てた事例が多い。

 延喜式内社の中で、天照御魂を名乗る神社が当社を含めて4社(大和国:2社・山城国・摂津国:各1社)が、天照(アマテル)を名乗る神社が4社(河内・丹波・播磨・対馬)あり、そのほとんどが火明命を祭神とする。

 当社の鎮座地が日読みの地(下記)にあって日神・太陽神信仰の聖地であったこと、当社のシンボルである鏡が日神の御霊代であること、などから天照国照神社と称したのであろう。

◎天照国照彦火明命(アマテルクニテル ヒコ ホアカリ)
 今、主祭神となっているのは天照国照彦火明命(以下、彦火明命という)だが、由緒にいう“内侍所の神鏡を鋳造するに先立って試鋳された鏡”が日神・天照大神のレガリアとすれば、礒城郡誌が“天照大神の御魂”とするのも一理あると思われる。

 天照国照彦火明命とは、書紀・天孫降臨段第8の一書に“忍穂耳尊(オシホミミ−アマテラスの御子)の御子で、尾張連らの遠祖”とあり、葦原中国に天降った瓊瓊杵尊(ニニギ)の兄となっている。
 なお、皇統譜のなかでの同じ位置づけの神として、古事記及び書紀第6の一書に“天火明命”(アマノホアカリ)があり、同じ神とされる。

 一方、先代旧事本紀(9世紀後半・物部氏系史書)では、天照国照彦天火明命の本名は“天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊”(アマテルクニテル ヒコ アマノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)で、その別名を饒速日命(ニギハヤヒ)というとあり、物部氏の遠祖・ニギハヤヒと同じとするが、この長々しい本名は、同じ氏族とされる尾張氏と物部氏の、それぞれの祖とされる天火明命と饒速日命を合体して作られた神名という解釈がある。
 なお、書紀・第6の一書には、“天火明命の子・天香山命(アマノカグヤマ、天香語山・アマノカゴヤマとも書く)は尾張氏の遠祖”とあり、尾張氏系図には、天香語山命と饒速日の娘・穂屋姫の孫・瀛津世襲命(オキツヨソ、別名・葛木津彦)が尾張連の祖とあり、ここらから物部氏・尾張氏は同一氏族とされたのであろうが、元々は別々の氏族とみるのが妥当であろう。

 また書紀には、天降ったニニギ尊とオオヤマツミ神の娘・アタツヒメの御子に火明命があるが、これは同名異神(ただ両神とも、何らの事蹟がないことでは同じといえる)

◎石凝姥命
(イシコリトメ)
天糠戸命(アマノヌカト・アマノアラト)
 この両神は親子の神で、アマノヌカトの子(娘)がイシコリトメという。

 両神ともに、天の岩屋戸に隠れたアマテラスを呼び戻すために、神々がとった手段の一つとして、
 ・古事記−−天の金山の鉄を採って、鍛冶師の天津麻羅(アマツマラ)を捜して、伊斯許理度売命(イシコリドメ)に命じて鏡を造らせた
  また、天孫降臨の段には、降臨するニニギ尊に従った神々の中にイシコリトメ命があり、鏡作連等の祖と注記している。
 ・書紀一書2−−鏡作部の遠い先祖の天糠戸神(アマノアラト)に鏡を作らせた
 ・書紀一書3−−天の香山の榊を掘りとって、上の枝には鏡作の遠い先祖の天抜戸(=天糠戸)の子、石凝戸辺命(=石凝姥)が作った八咫鏡をかけ、
 ・古語拾遺−−石凝姥をして天香山の銅をとりて日の像(鏡)を鋳せしむ
とあり、三種の神器(鏡・剣・勾玉)の一つ・神鏡を造ったのがイシコリトメ(あるいはアマノヌカト)だという。
(この鏡は、天孫降臨に際して、アマテラスから「吾を見るように、部屋を同じくして祀れ」として、勾玉・剣とともに天孫・ニニギ尊に与えられ内侍所に祀られていたが、崇神・垂仁天皇時のアマテラスの伊勢遷座とともに御霊代として伊勢に遷されたとなっている)
 また書紀天孫降臨段一書2には、ニニギに従って降った五部神のなかに、鏡作の遠祖・イシコリトメ命の名がみえ、
 先代旧事本紀には、ニギハヤヒの降臨に従った神々(32神)の中にアマノヌカト命をあげ、鏡作連等の祖とする。

 イシコリトメのイシコリとは、“鋳型のなかで金属が凝り固まって鏡や矛になること”であろうといわれ、トメ(ドメ)は老女であることから、イシコリトメとは“鋳型のなかに溶鉄を流し込み、鏡などを鋳造する老女”となり、イシコリトメが女性なのは、鋳型の凹型を人格化して女性とみたものという。
 また社伝には、“鏡の材料を板版に引き延ばし鍛えるに力があった方”とあるという。

 アマノヌカトのヌカトの語源については、
 ・ヌカは、こまかい泥や米ヌカのような微細なものを指すとする説(若尾五雄)
 ・鋳物の土型(鋳型)・ニカタがヌカタ→ヌカトになったとする説(松岡静雄)
 ・古く、糠戸の糠はアラとも読み、アラトとは鏡作に必要な粗砥(アラト)を意味するとする説(大野晋)
 ・糠戸は鋳造のための糠型のことで、米糠で作った鋳型をいうとする説(森秀人)
 ・ヌカには、銅や鉄あるいはその精錬の意味が込められているとの説(谷川健一)
 ・ヌカには“抜く”・“貫く”の意味があり、タタラ炉の中の空気が入ったり出たりする状態をいうとする説(大和岩雄)
などの諸説があり、いずれも鍛冶・金属鋳造に関係することから、
 アマノヌカト神とは、“タタラ鍛冶に従事す鍛人(ヌカチ・職人)そのものを神格化したもの”ではないかという。

 上記・作法書にいう己凝戸辺命は不明。己とは何かの誤記かもしれない。

◎天児屋根命(アメノコヤネ)
 アメノコヤネ命は中臣氏(藤原氏)の遠祖だが、鏡作氏あるいは鏡製作との直接的関係はみえず、当社に祀られる由縁は不明。イシコリトメが作った鏡を掛けた榊が立つ、天岩戸の前で祝詞を読んだから、とも思われるが奉祀理由は不明。

 曾ての城上郡鏡作郷一帯で鏡製作に従事したという鏡作氏の出自について、先代旧事本紀によれば、
 ・遠祖・ニギハヤヒ十一世孫・鍛冶師連公−−鏡作氏・小軽馬連らの祖
とあり、鏡作氏は物部系とされている。
 また主祭神・火明命も、物部氏と同族とされる尾張氏の祖神とされ、当社が物部氏と関係が深いことから、祀るとすれば物部氏系の祖神としてのアメノコヤネとみるのが順当かもしれない。


※社殿等

  南側道路の脇に立つ朱塗りの大鳥居をくぐり、長い参道を過ぎて境内に入ると、その正面に拝殿が、その奥、透塀に囲まれた基壇上に本殿が建つ。
  ・本殿−−三間社流造(朱塗)・檜皮葺・間口四間二尺・奥行一間半、
         向拝上に千鳥破風3基が並び、祭神三座を示している。
  ・拝殿−−入母屋造・間口六間・奥行二間・瓦葺

鏡作坐天照御魂神社/鳥居
鏡作坐天照御魂神社・鳥居
鏡作坐天照御魂神社/拝殿
同・拝殿
鏡作坐天照御魂神社/本殿(正面)
同・本殿(正面)
鏡作坐天照御魂神社/本殿
同・本殿

◎末社
 拝殿右手の基壇上に末社・“若宮神社”(朱塗り春日造・祭神不明・火明命の荒魂か)、境内左手に末社・“鍵取社”(太田命−猿田彦の子孫)・“笛吹社”(祭神不明、笛吹連の祖・火明命or天香山命か)・“愛宕社”(祭神不明、火神・カグツチか)が、右手に“佐依姫社”(佐依姫=市杵島姫)がある。
 式内社調査報告(1982)によれば、末社として若宮社以下15社が列記してあるが、実見したのは上記5社のみ(笛吹社・愛宕社は記載なし)。実見できなかった末社の去就は不明。

 境内に“鏡池”がある。鏡製作に必要な水を採った池といわれ、伊多神社・麻気神社にもある。

鏡作坐天照御魂神社・末社/若宮社
末社・若宮社
鏡作坐天照御魂神社・末社/鍵取社・笛吹社
末社・左:鍵取社・右:笛吹社
鏡作坐天照御魂神社/鏡池
鏡 池

※神宝の鏡
 当社には、神宝として“鏡の残欠”が納められている(右写真・神社提供資料転写)
 鏡は“三角縁神獣鏡”と呼ばれるもので、その紋様から“三神二獣鏡”(神像3躰−上部2躰・下部1躰、獣像2躰−左右各1躰)だが、外側を環状にとりまく外区部分を欠いている。

 この鏡について、和田萃氏は
 「外区が欠けている例は他にほとんどなく、人為的に為されたと考えざるをえない。鏡作神社近傍の古墳から出土した完形の鏡に手が加えられ、ある時期から、それをご神体として奉祀されたと想像される」(大意)
というが、森浩一氏は
 「八尾の鏡作神社には三角縁神獣鏡の内区だけの遺品があって、鏡製作の原型と推測できる」
という。(三角縁神獣鏡は、中国・魏から邪馬台国の女王・卑弥呼に下賜された舶載鏡というが、森氏は国内で製作された傍製鏡とする) 
鏡作坐天照御魂神社/神宝の鏡

 森説をうけて大和岩雄氏は、古墳から出土した完成品をわざわざ欠陥品にして、ご神体とするだろうかと疑問を呈し、
 「鏡作の工人が鏡製作の原型として使っているうちに外区が欠けてしまい、鋳型の原型としては使用不能となったために、神社に奉納し、それが神宝として伝えられたものと推測する」
という。

 なお、この鏡の同笵鏡(ドウハンキョウ・鋳型が同じ鏡)が愛知県犬山市白山平にある東の宮古墳(トウノミヤ・前方後円墳・全長73m)から出土している。この古墳が4世紀後半の築造とされることから、鏡は4世紀中頃から後半にかけての鋳造と推測されている。
 とすれば、当社の鏡は、5世紀以降に神宝として当社に奉祀されたと推測される。


【鏡作神社(石見)】

  祭神−−石凝姥命(イシコリトメ)

 参道脇に立つ案内(三宅町教育委員会)には、
 「平安中期に著された延喜式にも当神社名が見られ、大字石見(イワミ)の氏神として古き由緒ある神社である。
 鏡作神社の由来は、古事記にある天の岩戸神話に、天照大神が天の岩戸にこもられ、困った神々が相談し、天の香久山の榊の中枝に吊り下げた八咫鏡云々とあるが、その鏡を鋳造したのが、この神社の祭神・石凝姥命である。
 よって、鏡作神社と呼ばれるようになった。そして、鏡作工人の祖人とされている」
とある。
 ここにいう“延喜式にある当神社”とは、式内・鏡作坐天照御魂神社を指し、八尾の天照御魂神社をあわせて2社が論社となっている。

 当社に関する資料がほとんどないため、当社の創建年代・由緒など不詳だが、当社の南方にある石見遺跡(推定・4世紀末〜5世紀初頭)が、出土品からみて「当遺跡の祭祀は、祭天の儀を背景とする天的宗儀の色彩をもつ」(石野博信)祭祀遺跡と推測されることから、近接する当社も、同じ頃から続く古代祭祀の聖地(特に日読みの聖地−下記)であったろうという。

 当社と八尾の天照御魂神社との関係について、小川光三氏は
 「この社の名が正式には八尾の社と同じこと(鏡作坐天照御魂神社)、祭神も同じく3座であること、距離もさほど遠くないことから、この石見の社は元来八尾の社と同一社であって、もともと石見にあった鏡作社が何かの都合で八尾に遷座し、元の社地を尊んで小祠を止めたとして良いのではなかろうか」(大和の原像・1980)
といい、大和氏も日読みという視点から、冬至の朝日の遙拝地であった石見から、中国歴伝来後に立春朝日の遙拝地である八尾へ移った」
という(下紀)

◎社殿
 駅からの道路の一つ南の細路に開く参道の先に鳥居が、境内正面に拝殿(入母屋造・間口三間)、その裏、高いブロック塀に囲まれて本殿(春日造)3棟が並ぶ。
 ただ、当社案内には祭神・石凝姥命一座とあり、残り二座の祭神名は不明。 

鏡作神社(石見)/鳥居
鏡作神社(石見)・鳥居
鏡作神社(石見)/拝殿
同・拝殿
鏡作神社(石見)/本殿
同・本殿


※日読み
 古代にあっては、八尾の天照御魂神社・石見の鏡作神社ともに、朝日・夕日による“日読み”の場所であったという。
 日読み(「日知り」ともいう)とは太陽の動きを読む(知る)ことで、二至二分(冬至・夏至・春分・秋分)あるいは四立(立春・立夏・立秋・立冬)といった季節変移の節目を知ることをいう。
 この日読みとは、春の種蒔き、秋の収穫などの適期を知るために必要なもので、古代の大王や首長等がおこなうべき重要な農耕儀礼であり、豊作を祈願するマツリゴトだったという。

 資料によれば、八尾の天照御魂神社では
 ・立春と立冬の朝日が、三輪山山頂から昇り
 ・同日の夕日が、二上山の雄岳・雌岳の間(鞍部)に沈む
 ・春分秋分の朝日は、竜王山山頂から昇る

 また石見の鏡作神社では、
 ・当寺の朝日が三輪山山頂から昇り、
 ・同日の夕日は二上山の鞍部に沈む
 ・春分秋分の夕日が明神山山頂に沈む
という(右:方位図・神と人の古代学から転写)
 

 これによれば、八尾・石見の2社はいずれも三輪山に昇る朝日を拝する位置にあるが、その時節が八尾では立春立冬の日であり、石見は冬至の日と異なっている。

 これについて大和氏は
 「八尾の天照御魂神社の位置は、中国歴による立春に三輪山山頂から昇る朝日を拝する位置にあるが、立春正月の中国の暦法が入る前は、石見の天照御魂神社の地で、一年でもっとも日照時間が短いが、この日から一日毎に日照時間が長くなる冬至の朝、三輪山山頂から昇る日の出を遙拝していた。
 その後、中国歴が入り(書紀によれば推古10年-602)、立春正月にもとづいて(中国では紀元前2世紀末頃から立春正月が主流)、立春に三輪山山頂から昇る朝日を遙拝できる八尾の地に石見から移ったのである」(神と人の古代学)
という。

 中国の古書・魏略に、古代の倭人について
 「その俗正歴四時を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀となすのみ」
とあるように、古代の日本人は自然歴による春耕秋収の生活していたというが、その中にあっても、世界各地の古代人がそうであったように冬至の頃を境に日照時間が短より長に転じることは知っていたと思われ、その冬至の朝日を拝する地として石見を日祭りの聖地としたのはありうることだろう。

 今、八尾の天照御魂神社でおこなわれる特殊神事・御田植祭(2月21日近くの日曜日)は、曾て、立春の朝に三輪山山頂から昇る太陽を拝して、五穀豊穣を祈った日祭りを再現したもので、日の御子であり穀霊でもある天照御魂神の誕生を促す祭儀である、という。

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