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かいがけの道から傍示の里へ
                                                                 2010.02.20

 『かいがけの道』とは、交野市東部・寺地区に鎮座する“住吉神社”から、龍王山麓の尾根道を上り、傍示(ボウジ)の里西端で“傍示の里ハイキングコース”(大和へ続く道ということで“大和道”とも呼ぶ)に合流するまでの約1kmをいう。

 『かいがけ』は、“峡崖”と書く。
 峡
(カイ・キョウ、陜が本字)とは“急な崖に挟まれた谷”あるいは“山間の盆地”を意味し、当地では、龍王山系の西から南にかけての急斜面・断崖層の下にできた山道を指す。
 今、寺の集落から傍示・府民の森を経て“くろんど池”方面へのハイキング道の一部で、ほとんどのハイカーは知らずに、あるいは無視して通り過ぎている。

 古くは、京都から淀川または東高野道を経由して交野に入り、峡崖の急坂を上り傍示
(ボウジ)の里を過ぎて大和へ入り、生駒・葛城・五条と南下して、十津川から紀州・熊野に至る重要な古道で、その一部である峡崖道には、社寺・石仏・遠方にある社寺の遙拝所(伏拝:フシオガミ)などが点在する。

かいがけの道/略図 ①:住吉神社(峡崖道入口)    ②:伏拝の辻
③:二月堂の伏拝          ④:能勢妙見大菩薩の伏拝
⑤:かいがけ地蔵          ⑥:龍王山
⑦:ごみの木地蔵          ⑧:金比羅大権現の伏拝
⑨:八葉蓮華寺           ⑩:菅原神社
⑪:きとらの双体仏         ⑫:ほほえみ地蔵

 峡崖の道の東端にあたる『傍示』は、河内と大和の国境に当たる地で、今も大阪・奈良両府県それぞれに傍示との地名・集落がある。
 傍示とは、古く“牓示”と書いた。“牓”
(ボウ)は“たてふだ”・“掲示”などを意味する語で、そこから牓示は、国境や領地といった境界の目印・標示として立てられた木杭または立石・立ち木など指し、ひいては境界を意味するようになったという。

 当地については石清水文書に、
 「延喜17年
(917)交野郡司から河内国司へ、三宅山の樹木の盗伐をただすために、その四方の境を明らかにしたいとの願いが出され、ここに傍示を立てた」
とあるように、国境
(郡境)を示すために立てられたのが最初で、集落名はその後にできたものだという(交野市史)


①:住吉神社
 JR学研都市線・河内磐船駅の東約1.2㎞、交野市東部に広がる龍王山地の麓に鎮座する。神社背後まで山が迫り、前の狭い谷間には小さな棚田が重なる。
 道から一段高くなった境内端に鳥居、奥に拝殿、その奥の石段の上に本殿の祠が鎮座する。境内には大振りの古石燈籠数基がある。静かな雰囲気の神社だが、交通不便ということもあってか、忘れられかかった神社との印象が強い。
 祭神--住吉四神
(本来はニギハヤヒ命であろう)


住吉神社・社頭

同・拝殿(右に峡崖道入口あり)

 “かいがけの道”への入口は当社境内の右手にあり、「左 やまと道」と刻した道標(古い形をしているが古代道標を模したものらしい)、「かいがけ道」との新しい石標と絵図・説明板がある。
 説明には
 「この道は、大和と河内を結ぶ重要な交通路として、古代には修験道の行場として、奈良平安時代には紀州熊野へ詣でる熊野街道として、また天正時代(1573~92)織田軍と戦った武将どもの馬駆けの道として、多くの者が往来した」
とある。

峡崖道/入口付近
峡崖道・入口付近
峡崖道/道標
峡崖道の道標
(右の石碑には、「左やまと道」とある)
峡崖道/入口
峡崖道・入口
(矢印あり)

②:伏拝の辻
 “伏拝”とは、社寺参詣に際して、本来はその地に行って礼拝すべきだが、一般庶民は諸般の理由から自由に参詣できないため、それに代わるものとして身近の地に設けた“遙拝所”を指し、通常、社寺名を刻した石塔・石柱などが立てられている。
 交野市内の道路脇には、二月堂・愛宕山・大峰山などの聖地・聖山の名を刻した石塔が点在し(数基の石塔を集めた処が多い)、庶民の間に純朴な社寺信仰が広がっていたことが窺われる。

 道の左側(北側)の疎林の中に、“愛宕山大権現”を中央に、左に“柳谷伏拝”、右の大樹の下に“石清水八幡宮”の石柱が、いずれも南を正面として立っている(北に向かって拝む形)
 京都の愛宕山は火伏せ・防火の神として信仰を集めていたし、男山の石清水八幡宮は枚方・交野地方へも広く浸透していたことからだろうが、柳谷が何処を指すのか寡聞にして不知。
 峡崖道入口から約10分。

               左から、柳谷伏拝・愛宕大権現・石清水八幡宮の石柱が立つ→
伏拝の辻/全景
伏拝の辻/柳谷伏拝の石碑
柳谷伏拝の石碑
伏拝の辻/愛宕大権現の石碑
愛宕大権現の石碑
伏拝の辻/石清水八幡宮の石碑
石清水八幡宮の石碑
 石清水石柱の右下に双体仏を彫りこんだ石碑がある。
 両手を膝の上に組んで蓮華座に座る尊形だが、尊名不明。
 仏像というより、道行く旅人が、
 旅の安全を祈った“双体道祖神”(男女像並立)とみたい。
伏拝の辻/双体道祖神


③:二月堂伏拝
 伏拝の辻から約5分ほど進んだ道の右手、大岩の頂上近くに立つ石柱で、“二月堂伏拝”と刻してある。

 峡崖道は、その各処に大岩が座っているが、この辺りにも幾つかの大岩がまとまって磐座群をなしている。
 この大岩も、古くはカミが降臨する磐座として信仰対象になっていたもので、その聖地を伏拝所として選んだのであろう。
 入口近くに立つ案内絵図には、この辺りに“野崎観音伏拝”があるというが、見つからず。

二月堂伏拝の磐座
二月堂伏拝の磐座
二月堂伏拝の石碑
二月堂伏拝の石碑
二月堂伏拝/岩上の石碑
同・岩上の石碑


④:能勢妙見大菩薩の伏拝
 二月堂磐座から約5分ほど、道の曲がり角の崖際に立つ石柱で、遠く能勢妙見を遙拝する伏拝の聖地。
 傍らに大きな枯木の幹が残っている。目印としての大木が聳えていたのであろう。

能勢妙見の伏拝 能勢妙見の伏拝


⑤:かいがけ地蔵(一名・歯痛地蔵)
 能勢妙見伏拝前を左に曲がってすぐ、道の左(北側)10段ほどの石段を登った上の平場に、地蔵像はじめ幾つかの石像などが点在している。

*かいがけ地蔵
 当地の主体は地蔵堂だったようで、交野町史(1963刊)によれば、
 「かいがけの急坂を登って、傍示に近いところまで辿りつくと、ちょうど一休みするのに格好な場所に出る。そこに地蔵堂があり、昔は茶所まであった(阿弥陀仏を祀る尼がいたという)
 地蔵尊は長二尺余りの木像で、堂内には無数の木箸を供えている。この地蔵尊は一名“歯痛の地蔵”といわれ、歯を悩む人が祈願して、全快すると箸を供えるのだという。又別に役行者を祀った小堂もある。ここの標高は200m、眺望は雄大」
とある。

 広場の正面中央、壊れて小高く残る建物基壇跡に立つ地蔵像(錫杖を斜めに持っている)が上記の地蔵尊だろうが、今は舟形光背の一部が欠けた地蔵尊石像で、可愛い顔をしているのみ(町史にいう木像は石像の間違いか)
 まわりに鬼瓦・平瓦・石製構造物などが残り、ここに堂舎(地蔵堂)があったことを示唆している。

かいがけ地蔵/壊れた基壇跡
壊れた基壇跡
かいがけ地蔵1
かいがけ地蔵
かいがけ地蔵2
かいがけ地蔵

*行者堂小祠
 地蔵堂跡の右手前に小祠があり、中に高下駄を履いた役行者座像が安置されているが、何故か赤い涎掛けをしている。曾て、この道を行き来した修験行者が祀ったものであろうが、由緒など不明。

かいがけ地蔵/行者堂
行者堂

役行者像
役行者像

 平地のなかには、地蔵堂跡・行者堂の他にも、幾つかの石仏・石碑・供養碑などが点在している。

*不動明王石像
 平地の左端に立つ石像。光背に火炎状の陰刻があるので 不動明王であろう

*名無しの石仏
 地蔵堂跡の左に立つ石仏で、顔ははっきりしているが、体躯は荒彫りのまま。尊名不明

*三界萬霊の石碑
 石段を登ってすぐ左に立つ自然石の碑で、梵字の下に『三界萬霊』とある。
 山川草木・この世に生きる凡ての霊への供養塔であろう。

*小地蔵像
 石段を登った左に立つ大樹の根元に、3躰の小さい地蔵像がある。

*参禅所の石碑
 地蔵堂跡の後ろにある石碑。上部が欠けているらしい。
 表面は“□□祖参禅所”と読め、左右の陰刻は、右の“宝暦十一年(1761)八月八日” だけが読める。
 この地で禅行修行した行者を記念したものか。

かいがけ地蔵/不動明王像
不動明王像
かいがけ地蔵/名無しの石仏
名無しの石仏
かいがけ地蔵/三界萬霊の石碑
三界萬霊の石碑
かいがけ地蔵/小地蔵尊
小地蔵尊
かいがけ地蔵/参禅所の石碑
参禅所の石碑


⑥:龍王山
 かいかけ地蔵とごみの木地蔵の中間、道の左・山側に龍王山への分岐点があり、石製鳥居が立っている。
 傍らの標識には、“従是嬰児山龍王社三丁”とある。“八大龍王社”ともいう。

かいがけの道/龍王山への登頂口
龍王山への登頂口
かいがけの道/龍王社・石標
龍王社・石標

 龍王山(H=312m)は交野三山のひとつで、古来からの信仰(特に雨乞い)の山で、山頂の磐座をはじめとして登山路の各処に巨岩が座っている。
 山頂の巨岩(磐座)上に祠があり、弘法大師空海の雨乞祈願で知られる京都・神泉苑から龍神を勧請した(時期不明)というが
麓にある氷室山蓮華寺の略史(傍示・西方寺蔵)には、
 「淳和天皇・天長3年(826)、旱日を積み稲苗殆ど枯なんと欲す。人民是を愁訴し国司是を天朝に奏す。天皇直に勅して弘法大師に雨を祈らしむ。大師河内の榜爾嶽(ボウジタケ=龍王山)に登り八大龍王を祭り大雲論請雨経を講ぜらる。龍神感応雨降ること四方数十里、万民斉しく愁歎の眉を開き皆蘇生す。茲に於て、天皇其効を嘉賞し忝も叡旨を賜り、八大龍王に表して八葉蓮華寺を建て、其塔中に八ケ坊を置かる。・・・」
とある。
 弘法大師は、京都・神泉苑での雨乞い祈願後、各地で雨乞いをしたとの伝承があり、当地の雨乞いもそのひとつであろう

 曾ての寺村・傍示村では、旱天が続くと龍王山頂での雨乞いがなされたが、その時は、必ず各戸一名が参加し、峡崖道を太鼓を叩きながら龍王山へと登り、山頂で火を焚き、全員で雨乞い呪文を唱えながら雨乞い石のまわりを回った、という。
 近年では、大正13年と昭和14年に雨乞いがおこなわれたとある(交野市史)

 頂上には幾つかの巨岩が座り、そのひとつに壊れかけた一間流造銅板葺の小祠が鎮座している。
 上記伝承からすれば祭神は八大龍王のはずだが、祠の前には陶製の白狐が並んでいる。後世の人にとって、雨を降らす龍王より商売繁昌の稲荷信仰が馴染みやすかったのかもしれない。
 祠の中には何もなく、岩のまわりには倒れた石塔などが散在している。雨乞いという行事がなくなった今、ここまで参拝に来る人はいないらしい。

龍王山/磐座と龍王社
龍王山・磐座と龍王社
龍王山/龍王社
龍王社


⑦:ごみの木地蔵
 峡崖道が傍示に近くなった道の左手、崖下の草に埋もれた石段の上にある三角形の大石(高≒1.5m)に、深く彫られた舟形光背を背にして、弥陀の定印を結んだ“阿弥陀仏”(H=34cm)が蓮華座の上に坐している。室町時代の作と推測されている。

 今の峡崖道は山腹の尾根筋を通っているが、昔、傍示からきた道は、この辺りから谷筋へと降りていたとのことで、その降り口にあったらしく、石仏は道の方というより斜めとなる南西方を向いている。
 その立地から見て、道の曲がり角にいて旅人の安全を見守る道祖神が、地蔵と習合したものであろう。

かいがけの道/ごみの木地蔵1
ごみの木地蔵
かいがけの道/ごみの木地蔵2
ごみの木地蔵

 当石仏は、“ごみの木地蔵”と呼ばれているが、“ぐみの木地蔵”が本来の名で、近くにグミの大樹があったともいう。また、像面が荒れていいて地蔵かどうかは不明。
 道からやや入った崖下に、草木に囲まれているため、注意しないと見過ごす。

⑧:金比羅大権現の伏拝
 ごみの木の東、傍示の里近くの左手に『金比羅大権現』の石標が立っている。
 山の中に海の神を祀る金比羅宮の遙拝所がある理由は不明。
かいがけの道/金比羅大権現の伏拝


⑨:八葉蓮華寺
 峡崖道を過ぎ、傍示集落内のハイキングコースを進むと『八葉蓮華寺』への案内表示がある。寺は、矢印に従って集落内の石畳の道を上がり、右に曲がった先に建っている。

 交野町史によれば、
 「開基の年は分からないが、昔、この附近でこんな高所(標高280m)の寺院建立は山岳仏教の外にはないのだから、天台か真言宗の寺だったろう。当寺附近の溝や畑地から出る瓦は藤原期とみられるから、創立もその頃かと思われる。
 そして塔中八坊と伝えられているが、元はここより谷をへだてた東の丘上に盛大な寺院(原八葉蓮華寺)があって、この寺はその一支院だったように思える。
 その後いつの頃か融通念仏宗に改められたが、江戸時代一時衰微したのを、寛政2年(1790)僧良意によって復興した。その頃の建物は梁二間半、桁五間の本堂兼庫裏と外に薬師堂があった。
 本尊は阿弥陀仏、両脇に融通念仏宗開山の聖応、中興の法明の像があった。現在は無住」
という。なお、原八葉蓮華寺の開基伝承は、龍王山の項に記している。

 今、狭い敷地に本堂と他1棟(庫裏か)、本堂右前の観音菩薩立像、薬師堂の代わりに、少し離れて2躰の地蔵尊を祀る小祠があるのみ。
 建物の形・規模は町史記載とは異なり、近年になっての建て替えであろう。

八葉蓮華寺・外観
八葉蓮華寺・外観
八葉蓮華寺/本堂
同・本堂(右前に観音像が立つ)

 当寺の本尊・阿弥陀如来立像(H=82.4cm)は、足のホゾにある署名から、鎌倉時代の名仏師・快慶前期(推定・建久3~14年頃-1192--1203)の作品とされ、国指定の重要文化財。

 蓮華寺前の道を東へ山道を進むと、右手に藪に囲まれた小さい畑がある。この辺りが当初の原八葉蓮華寺の跡と推測され、今、藪の中に“廃蓮華寺地蔵”(通称フットボール地蔵)及び“水神の祠”があるというが、見つからず。


⑩:菅原神社
 ハイキングコースに戻って東進した道端の、崖の真下に古びた鳥居が立っている。
 鳥居には
 「奉寄進 天満宮□前 延享三年(1746)丙寅九月」
とあり、菅原道真を祀る菅原神社である。
 交野町史によれば、
 「明治3年の神社調べには、石鳥居・拝殿・神楽殿および石段があり、その上に神社がある図が載っている」
とあるが、今は、雑木が茂った道端に古びた鳥居と石燈籠一対が建つのみで、道からは社殿は見えない。

 鳥居の左手少し先に神社への苔生し草に覆われた石段(参道)があるものの、何らの表示もなく、注意しないと見過ごす。
 “く”の字に折れた参道を登ると、突き当たり左手の山腹・石段の上に、竹藪に囲まれて小さな社殿(祠)が建っている。社殿の後ろに大岩が見える。位置的には鳥居の直上に当たる。

菅原神社/道端の鳥居
菅原神社・道端の鳥居
菅原神社/石段上の社殿
同・石段上の社殿
菅原神社/社殿
同・社殿(後ろに磐座が見える)

 当社は、紅梅神社または天満宮社とも呼ばれるが(鳥居の柱には“天満宮”とある)、その鎮座由緒など不明。
 分水嶺である峠近くに祀られていることからみて、祭神・菅原道真は学問の神というより、その前身である水神・雷神としての道真かもしれない。
 また、急勾配の石段上に建つ社殿のうしろに大きな岩があり、当社の起源が磐座信仰で、そこに道真をかぶせたともいえる。

 昔は河内側大和側を問わず、傍示に住む人々から奉祀されたというが、今は参道・社殿ともに荒れていて、お詣りされている様子はみえない。

◎熊野八王子社
 菅原神社鳥居前を過ぎて少し行くと、左手の草むらの中に『中世熊野街道傍示八王子・・・』との石標が立っている。
 交野町史によれば、
 「平安朝の頃、皇室の熊野信仰が盛んになると、京都・熊野間の往復にこの道をとられることが多かった。そして街道の諸要所には熊野遙拝所として八王子を祀った小祠と、休憩所が幾ケ所も設けられた。これがこの宮の最初である」
とある。

 この先は、大和と河内の国境となる峠で、その峠附近に、道祖神を兼ねた八王子の社(祠)があったことを示す標石で、熊野信仰に伴う王子社の一つであろう。
 峠には、旅の安全を守る道祖神が祀られていることが多かった。
 今、八王子社は菅原神社に合祀されているというが、今の菅原神社にそれらしい痕跡はみえない。


⑪:きとらの双体仏
 八葉蓮華寺前の道を東へ進むと、山あいの田畑が広がり、その中の畦道を進んだ突き当たりの崖下にある立石(H=1mほど)の上に、『双体仏の石碑』が立っている。
 この石碑は、箱形の石(縦56.5cm・横48.5cm・厚9.5cm)の中に2躰の立像(H=36cm)が並んでだもので、向かって左は地蔵尊・右は阿弥陀仏という。
 鎌倉末期か少し下がった頃の作らしい。
 なお、“きとら”とは、この辺りの小字名・北浦(キタウラ)が訛ったものという。

きとらの双体仏-1 きとらの双体仏-2


⑫:ほほえみ地蔵と天正地蔵
 キトラ双体仏前を右へ進んだ先、野外活動センターへの道との合流地点にある石仏。
 曾て、背後の台地上に名称不明の寺があったといわれ、その寺跡南の低い崖の下に、大樹をはさんで右奥に『ほほえみ地蔵』、左手前に『天正地蔵』が立っている。

 “ほほえみ地蔵”とは、お顔が微笑しているように見えることからの呼び名で、“スマイル地蔵”・“笑い地蔵”とも呼ばれる。
 右手に錫杖、左手に宝珠を載せ、舟形光背の中に厚肉浮彫の立像で、古の面影をよく残している。
 光背の左に「永禄4年(1561・織田信長初期)二月四日」、右に「奉造立地蔵尊□□□□」とあるというが、判読不能。

 左手前の“天正地蔵”は、「天正四年(1576・信長盛期)二月十五日」の銘文があることからの呼称で、深めの舟形光背の中に立つ小柄の立像。一般に地蔵尊というが、阿弥陀仏だろうという。

ほほえみ地蔵・天正地蔵/全景
左手前:天正地蔵
 右奥:ほほえみ地蔵
ほほえみ地蔵
ほほえみ地蔵
天正地蔵
天正地蔵

 野外活動センターへの道は、大阪・奈良の府県境沿いに南北に走る道で、ほほえみ地蔵のある附近は奈良県に属すると思われる。


◎路傍の無名仏

*双体道祖神
 ほほえみ地蔵の前を野外活動センターに向けて少し行った右手、崖の下にもたれたように立っている双体仏で、1mほどの板石の上部に、双体仏がかすかに見える。摩耗激しく尊形は不明、双体仏というより“双体道祖神”かもしれない。

道蜂の双体道祖神・板碑
道端の双体道祖神・板碑
双体道祖神・板碑
双体道祖神・板碑

*無名仏

 キトラ双体仏の西、道より高くなった田圃の畦に残る石仏で、
舟形石(1m弱)の上部に、胸から上だけの仏像が彫られている。

 形からみて、これもまた道祖神かもしれない。
無名仏

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