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上賀茂神社/摂社
片山御子神社(片岡社・式内社)・新宮神社・若宮神社・奈良神社・
賀茂山口神社
(式内社)・須波神社(式内社)大田神社(式内社)久我神社(式内社)

                                                         2010.10.22参詣

 賀茂別雷神社(上賀茂神社)は摂社8社(境内6社・境外2社)を擁し、内5社は延喜式内社。今の社殿は、いずれも寛永5年(1628)の造営という

【境内摂社】

※片山御子神社(片岡社)--式内社
  祭神--玉依比売命(タマヨリヒメ)
 楼門の向かって右手・御物忌川を隔てて川の左岸(南側)・片岡山の西麓に鎮座する第一摂社で、延喜式神名帳に『山城国愛宕郡 片山御子神社 大 月次相嘗新嘗』とある式内古社。略称・片山社。また片岡社(片岡山-鶴ヶ丘ともいう-に因む)とも記す。

 現在の祭神・タマヨリヒメについて、資料・上賀茂神社(2003刊)には
 「御祭神は賀茂県主族の祭祀権を握っておられた最高の女性。本宮御祭神賀茂別雷神を感得せられた神で、つねに別雷神の御側に侍ってお仕え申し上げておられた。云々」
と記す。
 タマヨリヒメとは、上賀茂神社の祭神・ワケイカヅチの母神で、下鴨神社の祭神だが、神霊が依り憑く巫女・神に仕える巫女を指す一般名称でもあり、資料の記述は、祭神の母神というより神に仕える巫女としてのタマヨリヒメに重点が置かれている。

 ただ祭神については、以下の異説がある。
 ・大己貴命--上賀茂神社の地主神とみて、全国の総地主神であるオオナムチとする--尊号諸家之説(上賀茂社蔵・時期不明)
 ・事代主命--御子神ということから、地主神・オオナムチの御子・コトシロヌシとする--同上
 ・別雷神御子神--社名を“片山に坐すワケイカヅチの御子神”の意(神名不詳)--特選神名牒(1925)
 ・玉依比売命--社名・御子は“神の御子”ではなく、神に仕える“巫女”(ミコ・ミカンコ)の意で、最高の巫女すなわちタマヨリヒメとする(ワケイカヅチの母神としてのタマヨリヒメではなく、神霊が依り憑く巫女としてのタマヨリヒメを意味する)--座田司氏(昭和初期の上賀茂社宮司)
 ・玉依彦命--賀茂県主の祖神・タマヨリヒコ(タマヨリヒメの兄神)とする--神名帳考証(1813)

 当社の創建時期は不詳。青史上では、文徳実録・斎衛3年(856)条の
 「山城国片山神を官社に列し、兼ねて相嘗祀に預かる」
が初見で、同貞観元年(859)には、出雲井於神社・鴨川合神等とともに従五位に叙せられ、その後も昇階し寛仁元年(1017・平安末期)には正二位まで昇階している(以上、式内社調査報告・1979)

 本殿--一間社流造・檜皮葺
 拝殿--切妻造妻入・割拝殿

※新宮神社
(別称:貴布祢神社・貴布祢新宮)
 祭神--高龗神(タカオカミ)
 本殿の東側、塀に囲まれた神域の東南隅に鎮座する境内摂社で、拝殿(切妻流造・檜皮葺)と本殿(流造・檜皮葺)が南北に並ぶ。

 通常は、拝殿南にある“新宮門”(四脚門)が閉まっていて、一般者は入ることができない(たまたま関係者の出入りがあって門が開いていて写真は撮れた)
上賀茂神社・摂社/新宮神社・拝殿
新宮神社・拝殿
上賀茂神社/新宮門
新宮門
 資料・上賀茂神社には、
 「貴布祢神社または貴布祢新宮ともいう。鎮座年代不詳。社務補任記・永承3年(1048)8月条に神社名が記されているので、それ以前の鎮座と思われる」
とある。

 古くから、賀茂神社・特に上賀茂社と貴船神社(左京区鞍馬貴船町・祭神:高龗神)との関係は深く、江戸時代までは上賀茂社の境外摂社とされ、貴布祢社と呼ばれていた。
 それは、朝廷の特別な庇護のもとで勢力を拡大した賀茂神社が、貴布祢社を支配下に収め摂社化したのだろうが、その裏には、上賀茂社の祭神・ワケイカヅチの父神(丹塗矢の神)が賀茂川の川上から流れきたことから、丹塗矢を、その上流に鎮座する貴布祢の神の化身と見て、貴布祢社の摂社化が図られたとも思われる。
 また、そこから当社の本来の祭神は、丹塗矢の神すなわち火雷神との見方もある。

 しかし、独自の創建由緒をもつ貴布祢社としては、摂社化を不本意として両者間で紛争が繰りかえされ、賀茂神社からの離脱が試みられたが成就せず、寛文4年(1664)、江戸幕府により“貴布祢社は上賀茂社の摂社”とするとの採決がくだされたという。
 なお、貴布祢社は明治3年に勅祭社となり、同4年、官弊中社に列せられて上賀茂神社から独立し、社名を貴船神社と改称し今に至るという(日本の神々5・所載-貴船神社・2000)

 当社は、古く平安中期から後期の頃に境外摂社・貴布祢社を自社の境内に勧請したもので、それが貴布祢新宮と呼ばれる由縁だろうが、詳細は不詳。

※若宮神社
  祭神--若宮神

 本殿が鎮座する中門内の神域東寄りに鎮座する摂社。一般者の参詣不能(写真撮影不可)

 資料・上賀茂神社には
 「鎮座年代不詳。鳥羽天皇保安元年(1120)行幸の際、官符に預かり、官弊が捧げられている。本殿(一間社流造・檜皮葺)は重要文化財」
とあるだけで、若宮神の具体神名を含めて詳細不明。

※奈良神社
  祭神--奈良刀自神(ナラトジ)
 境内の南(参道の東)を流れる“楢(ナラ)の小川”を背に、東面して鎮座する摂社。当社の東に接して、神饌の調理場である贄殿北神饌所がある。

 祭神・ナラトジ神とは、古代の神饌を盛るのに楢の葉を綴じ合わせた容器を用いたところから、神饌を掌る神の御名とされたように、神饌饗膳に関する一切のことを司る神をいう、とある(資料・上賀茂神社)
 神に捧げる神饌に関連する神、ひいては料理飲食の守護神のようだが、ナラトジ神の出自・鎮座由緒など詳細不明。
上賀茂神社・摂社/奈良神社
 本殿--一間社流造・檜皮葺
 拝殿--入母屋造・檜皮葺

※賀茂山口神社
(別称:澤田社)--式内社(論社あり)
  祭神--御歳神(ミトシ)

 ナラの小川から東へ分流する小川の畔、片岡山の南側山裾に鎮座する摂社で、延喜式神名帳にいう『山城国愛宕郡 賀茂山口神社』に比定される古社。
別称(古称)・澤田社という。

 小川の山側に、朱塗りの簡単な瑞籬に囲まれて本殿(一間社流造・檜皮葺)が鎮座、その対岸に拝殿(切妻流造・檜皮葺)が建つ。
 社頭に掲げる案内には、
 「祭神 御歳神 本宮の御田をはじめ神領地・田畑守護の神」
 賀茂祭神考(昭和初期・座田司著)には
 「本宮年内行事の御田植祭の場合、必ず当社にも祭典を奉祀して御田に参行し、御田植の儀をおこなふこととなっている」
とあり、今でも、当社前で五穀豊穣を祈願するという(特選神名牒-1925-にも同種の記述あり)
 なお御歳神(御年神)とは、スサノヲの御子・大歳神(オオトシ)の御子で、穀物守護の神・田畑の神とされる。

 延喜式によれば、“○○山口神社”(○○には地名が入る)と呼ばれる式内社は、当社を含めて14社を数えるが、当社のみが山城国にある小社で、13社は大和国にあって月次・新嘗の奉幣をうける大社となっている。
 山口神社は、延喜式・祈年祭の祝詞に「山の口に坐す皇神等の前に曰さく、・・・」とあるように、山の入口(山裾)に祀られた“山の神の社”であって、式内・山口神社の主祭神は大半が大山祇命という(オオヤマツミ-イザナギがイザナミ逝去の因となったカグツチを切ったときに生まれた御子で、山の神という

 山口神社のうち、祭神をミトシ神とするのは当社以外に見えないが、山の神は水の神・田の神でもあり、ミトシ神はオオヤマツミと同じ神格ともいえる(わが国民俗譚では、山の神は春になって里に下り田の神となって稲作を見守り、収穫が終わると山に帰るという)。当社が、片岡山裾を流れる小川の畔にあるのも、田の神であるとともに山の神・水の神でもあることを示唆している。

 当社祭神をミトシ神とするのがほとんどだが、ミトシ神以外に
 ・オオヤマツミ命説--神社覈録
 ・倉稲魂命(ウカノミタマ)説・太玉命説(フトタマ)・経津主神(フツヌシ)説 --尊号諸家之説
 ・澤田大明神・賀茂山口神など一般的な神名とする説--賀茂注進雑記他
などがある。

◎論社
 当社は、上賀茂神社の境内に鎮座する摂社・“澤田社”を式内・賀茂山口神社に比定したものだが、これに対して
 ・上賀茂神社の末社・“山森社”とする説(今、ナラの小川の東側に鎮座--別稿・上賀茂神社/末社参照)
 ・下鴨神社の摂末社の一社という説(社名不明)
などの論社がある。
 ただ当社(澤田社)を含めて、いずれも式内・賀茂山口神社に比定するには根拠薄弱とされ、近世には式内・賀茂山口社の所在不明となっていたが、明治になって、特選神名牒の説をとって澤田社を式内・賀茂山口社として奉斎したのであって、正しくは、神社覈録にいうように“在所詳ならず”とすべきであろう、ともいう(式内社調査報告)

※須波神社
(スワ)--式内社(論社あり)
  祭神--阿須波神(アスハ)・波比祇神(ハヒキ)
       ・生井神(イマイ)・福井神(サカイ)・綱長井神(ツナナガイ)
 楼門の右手、御物忌川を隔てて片山御子神社の右手(南側)の高台に鎮座する小祠(一間社流造・檜皮葺)で、延喜式神名帳に『山城国愛宕郡 須波神社』とある古社。

 当社は明治以前には“諏訪社”と呼ばれる“境内末社”だったといわれ、江戸末期の国学者・伴信友(1773--1846)が、これを“式内・須波神社”に比定し(神名帳考証・1813)、明治10年(1877)内務省によって末社・諏訪社が“境内摂社”に指定され、“須波神社”と改称したという。(式内社調査報告、以下同じ)

神賀茂神社・摂社/須波神社
 今の祭神5座は、延喜式神名帳に『坐摩巫祭神(イカスリのミカンナギが祭る神)五座 並大 月次新嘗』とある神々で、宮中の神祇官西院に祀られていた神々(坐摩神と総称する)
 ・阿須波神・波比祇神--宮廷や神社敷地を守護する神
 ・生井神・福井神・綱長井神--清らかな井泉の守護神で、当社では御物忌川・御手洗川の守護神という。(資料・上賀茂神社、詳しくは、別稿・坐摩神社参照)

 なお、祭神については次の異説がある。
 ・建御名方神(タケミナカタ)--信濃国・諏訪神社と同体--神祇宝典(1646)・神社覈録(1870)
 ・阿須波神(アスハ)--神名帳考証(桑原弘雄・1670頃)・神名帳考証(伴信友・1810)・座田司
  座田司氏は、「阿須波神は大宮地の霊で、宮殿・社殿・邸宅の建てられている土地を守護する神で、須波神社は賀茂別雷神社の鎮座に際し、大宮地の守護のために大宮地の霊を奉斎した」という(賀茂社祭神考)

◎論社
 今、当社が式内・須波神社に比定されているが、論社として次の3社があるが、いずれも根拠不詳。
 ・賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内摂社・三所社(現三井神社)の末社・諏訪社に比定し、“上ノ諏訪といい、本社は信州須羽社也”とする説。祭神:建御名方神--鳥邑県纂書(時期など詳細不明)
 ・同・摂社河合神社の末社にも諏訪社があlり、下の諏訪と呼ばれる。祭神:建御名方神--同上
 ・京都市北区静市静原町にある静原神社を当てる説。祭神:イザナギ・ホノニニギ--山城志(1734)
 ・下鴨神社摂社・河合神社とする説--須波(スハ)は州浜(スハマ)の転化で川合の神社を指す--式内社の研究(1977)、語呂合わせ的色彩が強い。 

【境外摂社】

※大田神社--式内社
 祭神--天鈿女命(アメノウズメ)
 京都市北区上賀茂本山

 上賀茂神社の東約600mに鎮座する境外摂社で、延喜式神名帳に『山城国愛宕郡 大田神社』とある古社。賀茂における最古の神社で、古来、長寿福徳芸能上達の神として信仰され、恩多社ともいう(資料・上賀茂神社)

 現在の祭神はアメノウズメ命一座となっているが、他に
 ・猿田彦大神・天鈿女命2座--尊号諸家之説
 ・猿田彦大神--同上
 ・大田命(猿田彦の別名)--神社覈録(1870)
 ・御年神(御歳神)--社名から、賀茂社の御田に関係するとみて--特選神名牒
などがあり、本来は農業神だったのでは、といわれ(特選神名牒)、それがアメノウズメとなったのは、
 「猨女(サルメ)君系の鎮魂の呪儀が里神楽として伝わり、祭神が中世以降方除の神あるいは長寿の神として人々の信仰を得た結果と思われる」
というが、よくわからない。

 鎮座の時期・由緒ともに不詳。口伝によれば、
 「賀茂氏以前の当地に居た壬生・丹生・小野・六人部等の氏族が奉斎していたが、後に、賀茂氏がこの地に入ってから、賀茂社の摂社となった」
ともいうが、それを証する史料はないという(以上、式内社調査報告)

 境内全域が雑木林に囲まれ、境内入口に朱塗りの鳥居が、参道の先に拝殿(入母屋造・妻入・檜皮葺)・朱塗りの瑞垣内に本殿(一間社流造・檜皮葺)が建つ。

 境内・参道右に白髭社、左に百太夫社・鎮守社が、境内入口左脇に福徳社がある(別稿・上賀茂神社/末社参照)。いずれも本社の境外末社とされる小祠で、賀茂氏移住以前からの先住民が祀った福神という。
 なお、境内入ってすぐの右にある沢池はカキツバタの群生地として有名という(以上、資料・上賀茂神社)

上賀茂神社・摂社/太田神社・鳥居
太田神社・鳥居
上賀茂神社・摂社/太田神社・本殿
同・本殿
上賀茂神社・摂社/太田神社・拝殿
同・拝殿

※久我神社--式内社(論社あり)
  祭神--賀茂建角身命
  京都市北区紫竹下竹殿町

 上賀茂神社の南南西約1.6km、紫竹の住宅地内に鎮座する境外摂社で、延喜式神名帳に記す『山城国愛宕郡 久我神社』に比定されている古社。

 上賀茂神社の奉斎氏族・賀茂氏は、大和葛城から南山城の岡田(現木津川市)に入り、次いで桂川(葛野川)と賀茂川の合流点付近(現京都市伏見区附近)を経て、賀茂川を北上して“久我国の北の山基”(現上賀茂付近)に定着したとされ、その途上、拠点の地に岡田鴨神社・久何神社(クガ)といった社を創建し祖神を祀ったという。そのひとつ久我国の北の山基に祀ったのが当社で、そこから祭神は祖神・カモタケツヌミとされる(日本の神々5所載-久我神社・2000)

 当社の起源は不詳だが、
 「上賀茂神社が朝廷の崇敬を受けて、その祭祀も官弊によることとなったため、別に氏神社を設け、一族の私的な祭を行ったのではないか」という。
 事実、当社は近世までは“氏神社”または“大宮”と呼ばれていて、久我神社とは呼ばれていなかった。このことから、当社を式内社とするには疑義もあるともいわれ、また、その祭神も、国常立尊・天児屋根命・天太玉命・大物主神・武甕槌神などの諸説があるという。

 今の当社は、東西両方に朱塗りの鳥居(明神型鳥居)が立ち、境内中央に南面して拝殿(切妻造・檜皮葺)・本殿(一間社流造・檜皮葺)が並ぶ。寛永元年(1741)の造営で、その後も本社改修にあわせて屋根の葺き替えなど補修がおこなわれたという。

上賀茂神社・摂社/久我神社・社頭
久我神社・社頭(西側)
上賀茂神社・摂社/久我神社・本殿
同・本殿
上賀茂神社・摂社/久我神社・全景
同・全景(左:本殿、右:拝殿)

◎論社
 式内・久我神社には当社以外にも論社があり、
 ・賀茂御祖神社(下鴨神社)の摂末社で、“本宮(下鴨神社)の北に坐す”とする説--山城名勝記・神名帳考証・神社覈録
 ・河合社(下鴨神社・摂社)の西にあって、大二目命(タケツノミから13世の孫)の子孫が奉斎する。古く乙訓郡にあり、桓武帝の京都遷都時に下鴨に遷した、とする説--鳥邑県纂書
などがある。
 下鴨神社には、近世まで久我社と称する小祠があったようだが、今は消滅していて実体は不明。いずれも式内・久我神社とする根拠は不明という。(以上、式内社調査報告)

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