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賀茂別雷神社
(通称−−上賀茂神社)
京都市北区賀茂本山
祭神−−賀茂別雷神
                                                              2010.10.22参詣

 延喜式神名帳に、『山城国愛宕郡 賀茂別雷神社 亦若雷 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社。わが国最古の神社の一つ。正式呼称は“カモ ワケイカヅチ”だが、通称は上賀茂神社。

 京都盆地の北部、賀茂川と高野川合流点(京阪・出町柳駅)から賀茂川沿いに約4km遡上した左岸(東側)に鎮座する(合流点の北・約1kmに賀茂御祖神社−下鴨神社−あり)。JR京都駅・烏丸口から市バス(9系統)にて上賀茂神社前下車。地下鉄烏丸線・北山駅から西へ出て、賀茂川沿いに約1km北上してもいい。

※祭神
 祭神・賀茂別雷神(カモ ワケイカヅチ)の誕生について、山城国風土記(和銅6年・713)逸文には
 「賀茂の建角身命(タケツヌミ)の娘・玉依姫(タマヨリヒメ)が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、川上から丹塗矢(ニヌリヤ)が流れてきたので、姫が持ち帰って寝床の近くに挿しておいたところ、妊って男の子を生んだ。
 その子が成長したとき、外祖父・タケツヌミが八尋の館を建て八腹の酒を醸し、神々を招して宴を催し、その子に『父と思われる人に、この酒を捧げよ』と告げた。その子は酒杯を捧げて天に向かって礼拝し、屋根を突き破って天に昇っていった。そこで、外祖父の名によって可茂の別雷命と名づけた。
 丹塗矢(父神)は、乙訓郡の社(乙訓神社・現向日市向日神社に合祀)に坐す火雷命(ホノイカヅチ)である」(大意、風土記・東洋文庫版)

 その後、(ワケイカヅチが天に昇ってしまったので)タケツヌミが悲しみ慕っていたところ、ワケイカヅチが夢に顕れ、
 「吾に逢いたくば、天羽衣・天羽裳を造り、火を焚き鉾を捧げ、走馬を飾り、奥山の賢木を採って阿礼に立て、種々の綵色を垂れ、また葵楓の蔓を造り、厳しく飾って吾を待つならば、来む」(賀茂旧記・鎌倉後期)
と告げたので、教えのままに神祀りをおこなったところ、ワケイカヅチ神が当社北方(約2km)にある神山(カウヤマ・H=301m)に降臨したという(上賀茂神社・2003)

 玉依姫とは神の降臨をまって神霊を宿し、御子神を生む女性(神妻)を指す一般的な名称で、逸文にいう丹塗矢を日光の変形とみれば、この説話は日光感精説話の一類型といえる。
 また神山は、今、禁足地となっていて一般者の入山はできないが、頂上には磐座があるという。

 延喜式以来、当社の祭神はワケイカヅチ一座となっているが、
 ・賀茂氏が当地に進出する以前の拠点、山城の岡田に岡田鴨神社(木津川市)、同乙訓に久何神社(伏見区)、北の山基に久我神社(北区)などがあり、それぞれ祖神・タケツヌミを祀っていること
 ・山城国風土記逸文に賀茂の社(現上賀茂神社)・三井の社(現下鴨摂社・三井神社)はあるが、下鴨社は見えず、その当時(8世紀初頭)には下鴨神社はなかったと思われること(下鴨社の創建は和銅6年から天平勝宝2年-750-の間と推測されている)
 ・下鴨神社は、奈良朝中頃(8世紀前半)に当社から分社されたとみられること
などから、創建時の賀茂社には祖神・タケツヌミも(あるいはタマヨリヒメも合わせて)祀られていたと思われる。

 上下賀茂神社の祭神は、賀茂氏の祖神3代(祖父・母・御子)を祀るが、何故か父神の姿は見えない。
 風土記によれば、父神とされる丹塗矢の神すなわち火雷神は、乙訓郡の社に鎮座するとされ、今、京都府向日市にある向日神社に合祀されている式内・乙訓坐大雷神社(名神大 月次新嘗)が、それだという(隣接する長岡京市の角宮神社とする説もある)

 ただ、風土記によれば、丹塗矢は瀬見の小川(賀茂川)の川上から流れてきたのに、乙訓郡は賀茂川の下流域であって、川上からとする風土記とは平仄があわない。
 乙訓郡を当社の川上とするのは、賀茂氏の山城進出の順路が葛城→岡田→乙訓→賀茂とされることからの観念上のもので、実体としては、丹塗矢(火雷神)は鴨川の上流に位置する貴布祢(貴船)から流れてきたとみるのが自然で、上賀茂の祭神・ワケイカヅチは貴布祢の山の神(丹塗矢の神)と里の女(巫女・賀茂県主の女)との神婚によって生まれた御子とすべきだろう、ともいう(山の神は水の神であり雷神でもあり、春になって里に降りれば農耕神となる)

 このことは、上賀茂本殿と神山を結ぶ線を北に延ばすと貴船神社奥社に至ることからも傍証され、当社の祭祀は神山を通して貴布祢奥社に坐す父神を拝するともいえる。

 また上賀茂社には、貴布祢の神をワケイカヅチの“元つ神”とする伝承があり、神官たちは貴布祢社を“川上社”とも呼んでいたともいわれ、古く、鞍馬の貴布祢社が上賀茂社の摂社(新宮神社)とされたのも、こういった由縁からであろう。
 上賀茂神社にとっての貴布祢−神山−本社というラインは、神が降臨する“聖なるライン”といえる。

※創建由緒
 当社の創建にかかわって、山城国風土記逸文には、
 「加茂の社。加茂と称するわけは、日向の曾の峰に天降った神・タケツノミが、神武天皇を先導して大倭の葛木山の峰を経て山代国の岡田の賀茂に至り、山代川(木津川)に従って下り、葛野川と賀茂川の合流点においでになり、賀茂の川を見わたして、『この川は狭く小さくはあるけれども石川の清川ではあるよ』と仰せられた。それで石川の瀬見の小川という。
 その川からお上がりになって、久我の国の北の山基に住居を定められた。その時から名を賀茂という」(大意)
とある。

 この伝承は、タケツノミを祖神とする賀茂氏の当地への進出を神話化したもので、賀茂氏は、雄略朝の初期に大和国の葛城から山城国南部の岡田(木津川市加茂町付近)へ移住し、そこから木津川を下って淀川との合流点を経て北上し、桂川と賀茂川が合流する羽束師(ハツカシ)・久我の地(伏見区西部)に至り、更に賀茂川を溯って、雄略から清寧朝の頃(5世紀後半)に当地に進出したという。
 なお、賀茂氏の山城進出は一氏族の恣意的行為ではなく、ヤマト王朝に匹敵する勢力をもっていた葛城氏の滅亡(雄略朝)後、山城にあった葛城氏の権益を王権の支配下に置くという、政治的使命をもった移住ではないかともいう。

 この賀茂氏が齋き祀ったのが賀茂社(現上賀茂神社)だが、当社参詣栞に記す由緒によれば、
 「神代の昔、賀茂別雷神が現在の社殿の背後にある神山(コウヤマ)に御降臨になり、天武天皇の御代・白鳳6年(678)には、山背国により賀茂神社が造営され、現在の社殿の礎が築かれた」
とあり、諸資料も白鳳6年の社殿造営ということでは異論はみえない。

 ただ、創建期の社殿は通常の神殿ではなく、遠く、ワケイカヅチが降臨した神山(山頂に磐座あり)を拝する“遙拝殿”だったといわれ、本朝月令(10世紀初頭編纂か)が引用する秦氏本系帳に
 「欽明朝の御代(539--71)、天候不順のため五穀が稔らず、卜部伊吉(壱岐)若日子に占わせると、賀茂神の祟りと出たので、四月吉日を選んで馬に鈴を掛け、人には猪頭を被せて駆けさせる祭をおこなったら、豊作になった」
との伝承を記すことから、遅くとも欽明朝の頃(6世紀)、早ければ賀茂氏が当地へ進出した5世紀後半頃から、神山の磐座前での祭祀にはじまって、次第に南へ下って現在地に常設の社殿(遙拝殿)が設けられたのであろう。

※社殿等
 上賀茂神社前バス停前広場の北に一の鳥居が、長い参道の先に二の鳥居が立ち境内に入る。
 当社は、東から流れ来る御物忌川・西からの御手洗川の合流点(この下流がナラの小川)にはさまれた三角州に立地し、参道の東にはナラの小川が南流する。

 二の鳥居を入った正面に次の3殿舎が建つ。
 ・橋殿(舞殿)−−御手洗川を跨いで建つ縦長の殿舎。
            葵祭に際して、勅使が当舎から御祭文(宣命−−天皇が賀茂の神に対して
                 天下泰平・五穀豊穣を祈る祈祷文)
を奏上する。当社葵祭案内には、
            「勅使は内蔵使より御祭文を受け、橋殿に昇段して奏上」とある。
            −−文久3年年(1863)造営−−重要文化財
 ・細殿(ホソドノ)−−橋殿の左に建つ横長の殿舎で、案内には「行幸の際及び斎王の
            御着到殿」とある。−−寛永5年(1628)造営−−重要文化財
            殿舎の左右前に浄めの砂を円錐形に固めた“立砂”が並ぶ
 ・土舎(ツチノヤ)−−祭典奉祀者の祓所。橋殿の右−−寛永5年造営−−重要文化財

左より、細殿・橋殿・土殿

細 殿

橋殿(正面)

橋殿(側面)

 ・岩上(ガンジョウ)
  橋殿の背後(北側)、御物忌川との間の山裾に、大きな岩石(影向石・ヨウゴウイシ)がある。昔は自由に乗れたが、今は簡単な注連縄で囲まれている。

 傍らの案内には、
  「岩上 賀茂祭(葵祭)には宮司この岩の上に蹲踞、勅使と対面し、御祭文に対して神の御意志を伝える“返祝詞”(カエシノリト・橋殿で奏上された天皇からの祈祷を、神が受納したという返辞)を申す神聖な場所である。
 太古、御祭神が天降りされた秀峰神山(コウヤマ)は本殿の後方約2kmの処にあり、頂には降臨石を拝し、山麓には御阿礼所(ミアレショ)を設け、厳粛な祭礼が斎行された。
 この岩上は神山と共に賀茂信仰の原点であり、古代祭祀の形を伝える場所である。神と人との心の通路でもあり、“気”の集中する場所である」
とある(以前には、この説明はなかった)

岩 上

 この岩上(影向石)について、五来重氏は次のように記している(石の宗教・2007)
 「御本殿の神門の外に大きな影向石がある。一年に一回だけ、葵祭の時、宮司がこの上に座る。これは勅使が橋殿で御祭文を読み上げたのに対して、返祝詞を読むためである。
 これは、神がこの石の上に出現(影向)して、人間の願いごとを聞くという信仰があったからであり、この御祭文と返祝詞が葵祭当日の儀式の中で、もっとも神秘的な瞬間とされる。
 賀茂別雷神社は平安遷都以前には、この影向石の上に祀られていたと思われ、壮麗な神殿を営むために、一段と高く平坦な現本殿の位置に引き上げられたことは間違いない。
 ところが、この影向石も最初の磐座ではなかった。影向石から本社と一直線上にある山が神山で、そこには三段に自然石の露出があって、降臨石と呼ばれている。そこが最初の磐座で、次に今の影向石で祀られ、最後に現在の本社が建てられたのであろう」(大意)
 この一文と上記の案内には符合するところが多く、参詣者が注視するような石ではないものの、当社の原姿を示唆するものといえる。

 御手洗川に架かる樟橋あるいは御物忌川に架かる玉橋を渡ると正面に朱塗りの楼門が建ち、その中、緩い石段を上った先に本殿等が鎮座する神域へ入る中門(四脚門・檜皮葺−−重要文化財)が建つ。
 中門内の最奥に並ぶ2棟の社殿は、右が本殿、左が権殿だが、中門との間に建つ透廊(スイロウ)・祝詞舎などの殿舎のため拝観不能(撮影禁止)

 ・本殿−−三間社流造・檜皮葺。文久3年(1863・江戸末期)造替。国宝(昭和28年3月30日付指定)
   創建当初(伝・天武6年)の本殿は、北方の神山、あるいはそれを通して貴船奥社(貴布祢山)を拝する“遙拝殿”であって、古くは、本殿の背後にも扉があり、祭事の毎に後ろの扉を開いて祭祀をおこなっていた。その後、扉が廃され扇形の板が取り付けられたが、天正(1573--92)の造替のとき除去され、普通の神殿様式になったという。

 ・権殿(ゴンデン)−−構造・殿内調度等すべて本殿と同じで、本殿非常の際に神儀を遷す御殿。−−国宝

 ・楼門−−丹塗唐造・重層入母屋造・檜皮葺、左右に東西回廊が連なる−−いずれも重要文化財
   創建年代不詳。鎌倉時代の古図に見える。寛永5年(1628)造替。
 上記以外にも社殿舎が多く、国宝・重要文化財の社殿はあわせて36棟に及ぶという(資料・上賀茂神社)

上賀茂神社/一の鳥居
上賀茂神社・一の鳥居
上賀茂神社/二の鳥居
同・二の鳥居
上賀茂神社/楼門
同・楼門
上賀茂神社/中門
同・中門
上賀茂神社/透廊正面
同・透廊正面
上賀茂神社/本殿
同・権殿(左)本殿(右)(資料転写)

同・鳥瞰図(資料転写)
上賀茂神社/殿舎配置略図
同・殿舎配置略図(資料転写)
上賀茂神社/本殿図
上賀茂神社・本殿(正面・側面)
(資料転写)

※葵祭と御阿礼(ミアレ)神事
 毎年5月15日(元は旧歴4月の中酉の日)、都大路で優雅おこなわれる賀茂祭は、神前に葵を供え、全社殿を葵で飾り、神官以下奉仕員全員が冠(挿頭・カザシ)に葵をつけることから葵祭と呼ばれる。

 賀茂祭は、
 「欽明朝の御代(539--71)、天候不順のため五穀が稔らず、卜部伊吉(壱岐)若日子に占わせると、賀茂神の祟りと出たので、四月吉日を選んで馬に鈴を掛け、人には猪頭を被せて駆けさせる祭をおこなったら、豊作になった」
との伝承からみると、欽明朝に始まったと思われる(伝承の信憑性を疑問視する説もある)
 ただ、その祭事内容からみて、元々の祭は、賀茂氏の進出によって絶えていた在地氏族(山代首ら)の祭が、それを不満とする神(賀茂神というより、在地氏族が奉祀する山の神)が祟りとして顕れたことから、それを宥めるために復活したのであろう、という。

 今の賀茂祭(葵祭)は華麗・悠長な王朝絵巻となっているが、奈良時代までの賀茂祭は、騎走・騎射・猪頭走など狩猟神事的色彩の強い荒々しいものだったといわれ、多くの人々が自由に参加することから騒乱が絶えず、文武2年(698)3月には、朝廷から
 「山背国賀茂の祭の日、衆を会め騎射することを禁ず」(続日本紀)
との禁止令が出されている。
 その後も何度かの禁止令が出され、国司臨検のもとでの祭事執行を目指すが、いずれも効果なく、天平10年(738)には
 「勅す。この年以来、賀茂の祭の日に、人馬を集め会すことを悉く皆禁断す、・・・」(類聚三代格−11世紀頃の法律集)
と令して、人々が自由に参加する狩猟神事的祭事は全面禁止され、祭は国司の認可によるとしたことから、それ以降は、人々が自由に参加する祭ではなく、国司管理の祭を見学するだけになったという。

 なお、この度重なる騒乱に手を焼いた朝廷が、政治的判断として賀茂社を二つに別け、分社として下鴨社を創建したともいう。

 奈良時代の賀茂祭は、乱暴すぎて禁止されたが、平安時代のそれは風流を尽くす車や供人装飾が華美なものへと変化し、建久2年(1191)には華美禁止の勅令が出されたものの止まず、文亀2年(1502)4月には祭の催行そのものが禁止されて中断していたが、元禄7年(1694・江戸前期)に幕府から賀茂祭料の下付を得て再開され、現在に至るという。

◎御阿礼神事(ミアレ)
 今、賀茂の祭といえば、葵をかざして行列する葵祭として知られているが、本来、その中心となる神事は、大祭の3日前の夜におこなわれる“御阿礼神事”(ミアレ)といえる。御阿礼(御生)・ミアレとは神の子の誕生であって、当神事ではワケイカツチの誕生を意味する。

 御阿礼神事は、5月15日の大祭(所謂・葵祭)を前にした12日の夜、火をともさない暗闇の中でおこなわれるが、秘儀として一般には公開されないため、詳細は不詳。
 資料を要約略記すれば、
 ・上賀茂社の北約600mの丸山山中に設けられる御生所(ミアレトコロ・神籬)の中央に、紙垂(シデ)を付けた榊・阿礼木5本を立て、この阿礼木に神の降臨を乞う神事がおこなわれる(降臨儀礼)。ここで立てられる榊・阿礼木は、神が降臨される依代(ヨリシロ)である。
 なお神事がおこなわれる御生所は、古くは神山に設けられたが、やがて本社に近い丸山に移ったと考えられる、という。
 ・神が降臨した阿礼木(榊)は、神官によって本宮に御幸(榊御幸)し、新宮神社など所定の順路を廻った後、中門脇の棚尾社に2本、東切芝内の遙拝所(頓所・場所不明)に3本が立てられ、榊御幸が終了する。
 ・榊御幸が終了と同時に、それまで消されていた火が灯され、本宮と片山御子神社に葵桂が献じられ、祝詞が奏上され、それが終わると、本宮神座の扉を閉めて神事は終わる、という。

 この神事次第からみると、阿礼木に降臨する神は当社祭神のワケイカツチと思われるが、曾て、降臨儀礼の次ぎに神婚の儀礼があったことからみると、ワケイカツチの父神・ホノイカヅチとみるのが本来かもしれない。

◎斎王(イツキノミコ)
 曾て、御生所には“神舘”(コウダチ)と称する仮設の場が設けられたといわれ、そこで、降臨儀礼の次ぎに、降臨した神との神婚儀礼があったのではないかという。
 神婚儀礼とは、降臨した神とそれを迎える女性との間におこなわれる婚姻儀礼で、当社では、風土記にいうワケイカツチの父神・ホノイカヅチとタマヨリヒメとの神婚を再現する儀礼であり、そこで生まれた御子・ワケイカツチの誕生を祝うのが賀茂の祭(葵祭)であるという。

 この神婚儀礼で神を迎える女性が“斎王”(斎院・イツキノミヤ、阿礼乎止女・アレオトメともいう)で、それはホノイカヅチとの神婚によってワケイカツチを生んだタマヨリヒメを意味する。
 賀茂の斎王は、弘仁元年(810)の嵯峨天皇の皇女・有智内親王にはじまり、元久元年(1204)の後鳥羽天皇皇女・礼子内親王まで35代続いたという。
 この斎王が、神婚儀礼にかかわったことは、斎王だった後白河天皇の皇女・式子内親王の和歌
 「斎院に侍れる時、神舘にて
   忘れめや あふひの草をひき結び かりねののべのつゆの曙」(新古今集)
 や、兼載雑談にいう
 「賀茂の祭の時は、(斎王は)斎院神舘にて庭に筵を敷て、二葉の葵を枕にして寝給ふなり」
との説明などから、事実と解されている。

 この神婚儀礼は、斎王派遣以前から続く神事で、以前は賀茂氏の未婚の子女がアレオトメとして神を迎えたと推測されている。
 また、今の賀茂祭に当たって京都在住の一般から選ばれる“斎王代”と称する女性は、昭和31年(1956)、賀茂祭に女人列が加わったことから設けられたもので、“斎王の代わり”を務めるという意味で“斎王代”と呼ばれるが、本来の斎王がもつアレオトメの役割はもっていない。

参考資料 ・賀茂神社−−神社と古代王権祭祀(1989)所載
       ・式内社調査報告(1979)
       ・上賀茂神社(2003)

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