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賀茂御祖神社(下鴨神社)へリンク

下鴨神社/摂社
河合神社・出雲井於神社・三井神社・賀茂波爾神社(境外)・御蔭神社(境外)
日吉神社(三井神社に合祀)・貴布祢神社(河合神社に合祀)
                                                        2010.11.11参詣

 賀茂御祖神社(下鴨神社)には、境内摂社5社・境外摂社2社があり、日吉社・貴布祢社を除き延喜式内社(論社あり)という。

【境内摂社】

※河合神社(カハヒ)--式内・鴨川合坐小社宅神社(カモノカハヒニマス オコソヤケ またはオコソベ)
 祭神--玉依姫命(神武天皇の母神)

 延喜式神名帳に、『山城国愛宕郡 鴨川川合坐小社宅神社 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社で、下鴨神社の最も重要な摂社として、第一摂社とされている。

 河合(川合-カワイ・カワアイ)とは、賀茂川と高野川の合流点(合流点にできた州)に祀られるから、とするのが一般だが、糺(タダス)の森の中に鎮座し、古くは、河合社を“タダスノヤシロ”・河合宮を“タダスノミヤ”と訓んだように、河合と書いて“タダス”と訓むのが慣例だったという。
 なおタダスとは、朝日の“直射す”(タダサス)の意で、当地が比叡・四明岳に昇る夏至の朝日が“直に射し込む地”であることからという(神社と古代王権祭祀所載-賀茂神社・1989)

 当社祭神はタマヨリヒメだが、ワケイカツチの母神としてのタマヨリヒメではなく、神武天皇の母神であるタマヨリヒメ(記紀では、海神の娘で、天孫ニニギの孫・ウガヤフキアヘズの后)という。
 本宮西殿の祭神(カモタケツヌミ)を神武天皇とする説もあり、そこから神武の母神としたのであろうというが、賀茂社と神武天皇との接点は見えず、疑問。

 タマヨリヒメについては、神武の母神とする説以外に、
 ・山城名勝志(1711・江戸時代)に、「社家説云、河合玉依姫(タダスタマヨリヒメ) 上社片岡同体」とあることから、賀茂別雷神社の第一摂社・片山御子神社(片岡社)と同じく、巫女神としてのタダスタマヨリヒメとする説。
 因みに、タマヨリヒメとは、神霊が依り憑く女性(巫女)を意味する一般的呼称で、当社の場合、本宮の神(カモタケツヌミ・タマヨリヒメ)に仕える巫女神を意味し、同じタマヨリヒメでも出自が異なる同名異神となる。

 ・年中行事秘抄(鎌倉時代)に、祭神御祖別雷両神苗裔神とあること、
 ・タマヨリヒメといいながら、公から納められる御神服は古より男体のそれであること、
 ・社名の“宅神”を家毎に祀られる屋敷神と解すれば、鴨県主の宗家泉亭氏の邸宅に祀られた神(氏神)と推測されること、
などから、下鴨神社の祭神・カモタケツヌミの御子の玉依日子(タマヨリヒコ-タマヨリヒメの同腹神)ではないかという説
などの異説がある。

 当社の創建時期などは不詳だが、年中行事秘抄には、
 「件の神社(河合社)の創立時期・祭の始まりの由縁などの所見なし。
 但し、天安2年(858)8月7日太政官符により大社に預かる。・・・河合神は御祖・別雷両神の苗裔神也。・・・大神への幣帛を奉るの時、先に此神に幣帛を奉ず・・・」(大意)
とあり、平安前期以前からあった神社で(下鴨神社との先後関係は不詳)、祭神は賀茂氏の祖神(ここからタマヨリヒコ説が出る)で、祭祀に際して、下鴨神社本宮より先に幣帛が奉られるという。

 これらを承けてか、賀茂社祭神考(1972)は、
 「何時の頃の鎮座であるかは明らかでないが、此の神社は元鴨県主の宗家泉亭氏の邸宅内に建立された神社ではなかったかとも考えられる。・・・当社の最初は現在の吉田の泉殿即ち京都大学の西南西附近に泉亭氏の邸宅があり、その邸内に鎮座していたのが、高野川河床の変遷の結果、現在の所へ移ったのではないかと思われる」
とある。ただ、これはあくまでも推測の域を出ていないともいう(式内社調査報告・1979)

 社名・小社宅はオコソヤケまたはオコソベと訓むが、いずれも“社”を“コソ”と訓んでいる。
 コソとは、古代朝鮮(新羅)語で、“聖なる人または土地”・“マツリゴトをおこなう人または場所”を意味し、転じて“神社”(特に新羅系神社)を指すという。
 また“社宅”は“社戸”と同じで、いずれも“コソベ”と訓むが、ヤマト朝廷が朝鮮からの渡来人たちの集団を“○○戸”と呼んだことから、社戸(社宅-コソベ)とは神社に奉祀する渡来人集団を指すともいう。
 これらのことから当社は、渡来人・特に新羅系とされる秦氏が関係した神社ではないかともいう(前掲・賀茂神社)

◎社殿等
 糺の森の南部、下鴨神社・一の鳥居を入ったすぐの左(西側)、瀬見の小川を渡った先、社殿前を通る参道の東西両端に朱色の鳥居が立つ。
 当社は、参道の右側(北側)の土塀で囲まれた中に鎮座するが、中門(四脚門)を入ったすぐに舞殿(入母屋造・檜皮葺)が、その奥、唐風破風をもつ弊殿(入母屋造・檜皮葺)とその左右に続く東西渡廊によって区切られた神域中に、本殿(三間社流造向拝付・檜皮葺)が南面して鎮座する。
 本殿の左(西)に貴布祢社(下鴨神社摂社)と任部社(トウベ、末社)が鎮座する。
 本殿は文久4年(1864)の造替、その他は寛永元年(1704)の造替という。

川合神社/鳥居
川合神社・鳥居(東側)
川合神社/四脚中門
同・四脚中門
川合神社/舞殿(拝殿)
同・舞殿
川合神社/弊殿
同・弊殿
川合神社/本殿
同・本殿

◎貴布禰神社--下鴨神社・摂社
 祭神--高龗神(タカオカミ)

 河合社・本殿の左(西側)に鎮座する社(一間社流造・檜皮葺)で、下鴨神社の摂社。
 祭神のタカオカミは竜神(龗・オカミは雨かんむりに龍と書き、龍の古名)

 その摂社が河合社の神域内にある由緒は不明だが、社頭の案内には
 「神殿屋舎等之事(1161・院政末期)に、川合神社の御垣内に祀られていたことが収録されている」
とあり、平安時代から河合社に併祭されていたらしい。
下鴨神社・摂社/貴布祢社
 賀茂神社・特に上賀茂神社と貴布祢神社との関係は深く、上賀茂神社本殿の右手に摂社・新宮神社(貴布祢新社)が独立社として鎮座する。
 これは上賀茂神社の祭神・ワケイカツチの父神(丹塗矢)を貴船神とみるためで、当社もそれをうけてのことと思われる(別項・上賀茂神社/摂社参照)。ただ下鴨神社では貴布祢社より日吉社が重視されるという。

◎任部社(トウベ、古名・専女社-トウメ)--河合社・末社
 祭神--八咫烏命(ヤタカラス)

 神域内、貴布禰神社の左(西)に鎮座する小祠(一間社流造・檜皮葺)で、古名を専女社(トウメノヤシロ)という。

 社頭の案内には、
 「河合神社創祀のときより祀られている社である。古名・専女(トウメ)とは、稲女とも書き、食物を司る神々が祀られていることを示している。
 のちに百練抄(鎌倉後期-13世紀末-頃の私撰日記集)の安元元年(1157)10月条にある小烏社と合祀された」
とある。
川合神社・末社/任部社
 当社古名にいう“専女”(トウメ)とは、老女を指す古称で、老狐の異称ともいう。案内に「稲女とも書き、食物を司る神」というように稲荷神のお遣いである“狐”を意味する。
 このことから、当社の本姿は食物を司る稲荷神を祀っていたものが、小烏社を合祀することによって、下鴨神社の祭神・カモタケツヌミの別名とされるヤタカラスを祭神としたものか、とも思われる。

◎六社(ムツノヤシロ)合祀殿--河合社・末社
 祭神--諏訪社--建御名方神(タケミナカタ)--信州・諏訪神社の祭神
       衢 社(ミチ)--八衢毘古神(ヤチマタヒコ)・八衢比売神-道・道の分岐点の守護神
       稲荷社--宇迦之御魂神(ウカノミタマ)--稲荷の神
       竈 社(カマド)--奥津日子神(オクツヒコ)・奥津比売神--カマドの神
       印 社--霊璽(レイジ)--印鑑の神格化らしいが詳細不明
       由木社(ユウキ)--少彦名神(スクナヒコナ)--農耕・医療の神

 河合社境内左(西側)に東面して建つ6社合祀殿(一間半社相殿流造・檜皮葺)
川合神社・末社/六社(合祀殿)
 社頭の案内には、
 「鴨社古図(1201・鎌倉前期)によれば、河合神社の垣内に、それぞれ別々に祀られていた。江戸時代の式年遷宮のとき各社が一棟となった。いずれも衣食住の守護神」
とあるが、これら末社の鎮座由緒は不明。

◎三井社(別名・三塚社)--河合社・末社
 祭神--中社--賀茂建角身命(タケツヌミ)
       西社--伊賀古夜比売命(イカコヤヒメ-タケツヌミの后神)
       東社--玉依媛売命(タマヨリヒメ-タケツヌミ・イカコヤヒメの御子神)

 河合社中門の前、参道をはさんで、朱色の瑞籬に囲まれて北面する3社合祀殿(三間社相殿流造・檜皮葺)で、下鴨神社の主祭神・タマヨリヒメとその両親神を祀る。
 社頭の案内には、
 「古く、下鴨神社の領地・山代国愛宕・葛野郷には下鴨神社の分霊社が祀られていたが、当社もその一社で、蓼倉郷の総(祖)社として祀られていた神社。
  山代国風土記(逸文)・鴨社の条にいう“蓼倉里三身社(タデクラノサト ミミノヤシロ)とは別の神社”」(大意)
とある。
 蓼倉里三身社とは、風土記(逸文)の賀茂の社・三井の社条にいう三身(ミミ)の社をいう。
 案内では、“当社は、蓼倉里三身社とは別”というが、下鴨神社・摂社の三井神社(下記)とともに、三身社すなわち式内・三井神社の論社となっている(※三井神社参照)

◎鴨長明の方丈
 境内の一画に、随筆・方丈記(1212)の著者・鴨長明(1155--1216)が隠遁後の栖(スミカ)としていた方丈を復元した小さな家屋がある。
 間口・奥行ともに一丈(約3m)四方・約273坪程度の簡素な小屋(庵)で、東・南面の庇が張り出している。移動に便利のように全て組立式となっているという。

 下鴨神社禰宜の次男として生まれた鴨長明は、幼少の頃から神職としての修行を始めたというが、神職としての事蹟ははっきりしない。和歌に秀でていたことから、46歳のとき後鳥羽院の和歌所寄人として出仕するが5年間で辞し、出家して洛北大原に隠遁。
 隠遁の理由として、一般には、望んでいた河合神社禰宜の地位に就けなかったからというが、真相は不明。
鴨長明・方丈(想定復元)
(2012.10.再訪時、周囲に柴垣が廻らしてあった)
 その後、各地を転々として58歳のとき山科の日野山(現伏見区日野町)に落ちつき、方丈記・無名抄などを著し、建保2年(1216)62歳で没したという。なお、著名な著書・方丈記(1212)とは、方一丈の小宅(方丈)で書かれたからの呼称という。

※出雲井於神社(別名・比良木社)--式内・出雲井於神社(イズモイノヘ、論社あり) 
 祭神--建速須佐乃男命(タケハヤスサノヲ)

 延喜式神名帳にある『山城国愛宕郡 出雲井於神社 大 月次相嘗新嘗』に比定される古社だが、論社4社(下記)がある。当社では、論社の一・比良木社(ヒラキ)を以て出雲井於神社とするが、確たる根拠は不詳。

 社頭の案内には、
 「日本書紀・神武天皇2年の条に、葛野主殿県主部(カドノトノモリアガタヌシベ)とある人々が祖神として祀った神社です。
 古代山城北部に住んでいたこの県主部たちは、鴨氏と同祖で、・・・
 大宝令(700)以降、山代国葛野郡は四つに分割され、鴨川と高野川の合流点より東山・北山までの地域が愛宕郡(オタギ)となり、鴨川の東岸が蓼倉郷、西岸が出雲郷となった。
 “井於”(イノヘ)とは、賀茂川の畔のことで、出雲郷の鴨川の畔の神社という意味。太政官符(844)に定められた鴨社領出雲郷の総社で、その地域の氏神社・地主社として信仰が厚く、通称・“比良木社”と呼ばれている」(大意)
とある。

 書紀・神武2年条には、葛野主殿県主氏は八咫烏(ヤタカラス)の子孫とあり、ヤタカラスとは、神武東征のときヤタカラスと化して神武の軍を先導して、神武の大和入りを助けたカモタケツヌミを賞して与えられた異名という(新撰姓氏禄)
 これからみると葛野県主氏は、案内にいうように賀茂氏と同族とみられるが、賀茂氏の山城進出以前から葛野地域に居住していた氏族で、6世紀頃に賀茂氏に吸収されたとの説もあり、はっきりしない。

 式内・出雲井於神社とは、案内にいうように、出雲郷にある井戸(霊泉)の上、もしくはその畔に鎮座することからの呼称といわれ、今も井戸の上に鎮座するというが未確認。

 案内では、大宝令以降の出雲郷は賀茂川の東岸一帯を指すというが、古代の出雲郷は、鴨川を越えて東に拡がり、現左京区高野付近まで及び、賀茂川をはさんで左岸(東側)が上出雲郷、右岸(西側)は下出雲郷と呼ばれていたともいう(辰巳和弘氏)
 出雲郷には、古く、出雲系氏族が居住していたからと思われ、新撰姓氏禄には
  「山城国神別(天孫) 出雲臣 天穂日命子天日名鳥命之後也」
とあり(他に、左京神別・出雲宿禰、右京神別・出雲などがある)、今も、賀茂川右岸に出雲路の地名、賀茂川に出雲路橋との橋などがある。
 ただ、これら出雲系氏族と葛野県主氏との関係は不明。葛野県主以前の居住氏族かもしれず、その出雲族が水神(あるいは祖神)を祀ったのが当社の創建ともとれる。

 式内・出雲井於神社には論社が4社あるが、その一つである当社の前身・比良木社は、古くは一乗寺村の西・比良木の森(柊森-現在地不明)にあったという(鳥邑県纂書・式内社調査報告他)。一乗寺村の西とは、現叡山電鉄一乗寺駅の西側附近かと思われ、辰巳氏のいう上出雲郷に属する。

 この比良木社が当社の前身とすれば、今、その祭神をスサノヲとするのも、曾ての出雲族が祀った祖神をひきついたとして理解できるが、他にも
 ・地主神素盞鳴説(山城名勝志・1711)
 ・下社社人・在地人の氏神説(鳥邑県纂書・1720)
 ・井於(霊泉上)に鎮座することから、水神とする説(神名帳考証・1733)
 ・葛野県主が奉斎したことから、賀茂氏の祖神・カモタケツヌミとする説(特選神名牒・1925)
 ・水に縁故深き女体の神で、地主神(賀茂社祭神考・1972)
などがある(式内社調査報告)
 社名に井於・泉井の上(畔)というから、本来の祭神は水神かとも思われる。

◎社殿等
 楼門を入った左手に見える拝殿(入母屋造・檜皮葺)の背後、朱色の瑞籬に囲まれた中に大きな本殿(一間社流造・檜皮葺、重要文化財)が鎮座する。寛永5年(1628)の再建。
 社頭の表示には“厄除け開運 比良木社(出雲井於神社)”とあり、式内・出雲井於神社というより別名・比良木社を重視しているようにみえる。

出雲井於神社/拝殿
出雲井於神社・拝殿
出雲井於神社/本殿
同・本殿(側面)
出雲井於神社/本殿(正面)
同・本殿(正面)
 本殿の
  左に、末社・橋本社(祭神:玉津島神)
  右に、同・岩本社(祭神:住吉神)
の小祠が鎮座する。

 両社とも、上賀茂神社にも境内末社として祀られている社だが(ただし、橋本社の祭神は衣通姫)、この2社が当社の末社となった由緒などは不明。
出雲井於神社・末社/橋本社
末社・橋本社
出雲井於神社・末社/岩本社
末社・岩本社

◎論社
 式内・出雲井於神社には、論社として次の4社がある。
 ・比良木社--当社
 ・御手洗社(井上社-下鴨神社境内末社)--祭神:瀬織津比売命
 ・上御霊神社(上京区上御霊堅町)--祭神:崇道天皇他7座
 ・下御霊神社(上京区下御霊前町)--祭神:崇道天皇他7座

 御手洗社は、下鴨神社境内東隅・御手洗川の水源となる霊泉上に鎮座する末社で、祭神・セオリツヒメは、大祓で祓われた罪穢れを大海原に祓いやるとされる祓い神(女神)という。
 祭神が速川に坐すことから、霊泉の上に鎮座するという式内・出雲井於神社に比定されるのも由あることだが、古書に「昔は井許(バカリ)にて社なし。文禄4年(1595)祝秀延社を建つ」(鳥邑県纂書)とあり、式内社とするには疑問も呈されている。

 上御霊神社とする説(大日本地名辞書・1907)は、比良木社あるいは御手洗社の鎮座地は旧出雲郷ではないとして、出雲郷にあることが確かな上御霊神社とするものだが、辰巳氏説によれば比良木社・御手洗社は旧出雲郷の中とも解せられる。
 また、御霊神社は不慮の死を迎えた人々の怨霊・御霊を祭る神社であることから、祭神からみて式内・出雲井於神社とするには疑問がある。

 下御霊神社とする説(式内社の研究・1977)は、上御霊神社の比定理由とともに、神名帳の記載順では出雲井於神社が下鴨神社の前にあり、摂社が本社の前に掲げられて式内となっている例はない、として下御霊神社(上御霊神社は式内・出雲高野神社として、当社は下御霊神社とする)とするが(式内社調査研究)、式内社の研究には他にない特異な説が多々みられる。

※三井神社--式内・三井神社(論社あり)
 祭神--賀茂建角身命・伊賀古夜媛命(イガコヤヒメ、タケツヌミの后)・玉依媛命

 当社は、延喜式神名帳にある式内社・『山城国愛宕郡 三井神社 名神大 月次新嘗』に比定され、山城国風土記(逸文)に、
 「蓼倉里三身社、三身(ミミ)と称するは、賀茂建角身命・丹波の伊可古夜日女・玉依日女の三柱の神が坐す故に、三身社と号す。今、三井社(ミイ ノヤシロ)と云う」
とある古社で、賀茂社祭神考に
 「下社(下鴨神社)は和銅6年以降、平城時代天平勝宝頃までの間に、賀茂県主族の土地開発の進捗につれて、中賀茂三井社の境内地に続いた場所を選定して、御祖神等の神霊の降臨を希ひ、鎮祭したのであろうと思惟する」
というように、賀茂御祖神社鎮座よりも古くから祀られていたと思われる。

なお、当社社頭の案内には、
 「風土記・山城国賀茂神社の条に『蓼倉里三身社』、延喜式には『三井ノ神社』とある神社です。
 奈良時代から平安時代にかけて、このあたり一帯は蓼倉郷と呼ばれていました。三身社戸は、本宮の賀茂建角身命とその妻・伊可古夜日女命、その子・玉依姫命のことであり、三神が祀られています」
とある。

 風土記にいう蓼倉里・三身社は、古く、下鴨神社の東方・高野川西方の蓼倉の地(現蓼倉町付近か)にあったとされるが、その旧社地は不明。高野川の河道変動などにより、現在地に遷ったと推測されている。
 なお、三身社の旧社地は旧蓼倉郷の田地字塚廻で、現下鴨塚本町とする考証(鳥邑県纂書・式内社の研究)があるが、信憑性は不明という。

 今、摂社・三井神社は中門内・左(西側)の一画を占めている。参詣時、社殿の改称工事中のため参詣不能だったが(2012.10.14再参詣)、楼門を入った境内中央に拝殿(入母屋造妻入・桁行二間梁間一間・檜皮葺)、その北側に本殿3祠(一間社流造・檜皮葺)が南面して並び、西側に末社3祠(一間社流見世棚造・檜皮葺)が東面して並ぶ。

 今の祭神は上記3柱であり、所謂、ヒコ・ヒメ神とその御子神を祀っているが、古くは諸説があったようで、まとめると以下のようになる。なお、中社には下鴨神社摂社・日吉社(大山咋命)が合祀されているという。

(現 在) (山城名勝志) (一説) (鳥邑県纂書)
中 社 賀茂建角身命 若宮 別雷命 若宮
東 社 伊賀古夜媛命 貴布祢社 比咩神 木船社
西 社 玉依媛命 玉依姫 賀茂御祖 片岡社

 当社の末社3社は以下の通りで、社頭の案内には
 「平安時代の当神社社頭絵図・鴨社古図に描かれている神社です。各社の位置などは現在なお変わりません。これらの神社は糺すの森を禁足地とし、ご社殿前の斎庭の葵草と苔庭など自然のなかに祀られる、古代神社の姿を伝える貴重な神社です」
とある。
 ・諏訪社--建御名方神(タケミナカタ-信州諏訪神社の祭神)--式内・須波神社の論社の一“上ノ諏訪”ともいう。
 ・小杜社(コモリ)--水分神(ミクマリ-水神)
 ・白髭社--大伊乃伎命(タケツヌミ11代の後裔) 別名・猿田彦神(タケツヌミの子孫をサルタヒコとする理由不明)
   合祀--賀茂斎院歴代斎王神霊社
        (歴代斎王の神霊は、元当所の西方にあった賀茂斎院御所に祀られていたが、文明の乱-1407-により焼失、
            その後、糺の森の鴨社神宮寺境内に遷座していたものを、昭和元年頃白髭社に合祀したという--社頭案内)

 なお、いずれかの祠に下鴨神社末社・澤田社が合祀されているというが、詳細不明。

下鴨神社/摂社・三井神社社殿
三井神社・社殿
下鴨神社/摂社・三井神社・末社殿
同・末社殿

◎論社
 式内・三井神社には、当社以外に論社として、摂社河合神社南に鎮座する河合社末社・三井神社(祭神は当社と同じ)があり、論社としての社名は、当社を“三所社”、河合社末社を“三塚社”と呼んでいる。

 河合社末社・三塚社とする資料としては、山城名勝志・鳥邑県纂書などがあり、両書ともに
 「元下鴨の東北、高野川の西、蓼倉にあったが、今、河合社の南に北面する三塚社がそれである」(大意)
とするが、この両書が三所社を否定するのは、三所社の祭神を本宮(下鴨社)の若宮と解し、本宮に属する社であるため式内社とはされなかったという。

 これに対して、三所社(当社)とするのは、特選神名牒で、
 「御祖神社では本社の西に鎮座する三所社が是と云っており、当社の古書に、『御祖神社・三所社の遷宮に要する用材云々・元応2年(1320)8月』とあり、その当時、既に御祖神社の摂社として今の地に鎮座していたという。
 また両賀茂社の摂社の多くが式内社に預かっていることから推測すれば、三所は三井から転じた称であって、蓼倉里から今の地に遷ったと云うのに従う」(大意)
と記し、また賀茂社祭神考は
 「三所社に専属の禰宜・祝が置かれていたように、早くから、格別の取扱をうけていた。三塚社が元の三身社であるとするのは、何の根拠もない所説である」(大意)
として、いずれも摂社・三井神社(三所社)が式内・三井社としている。(以上、式内社調査報告)

 今の社殿位置・規模・取扱などからみて、当社を以て式内・三井神社とするのが妥当であろう。

【境外摂社】

※賀茂波爾神社(カモハニ)-通称:赤の宮--式内・賀茂波爾神社(論社あり)
 祭神--波爾安日子神(ハニヤスヒコ)・波爾安日女神(ハニヤスヒメ)
 所在地--京都市左京区高野上竹屋町

 叡山電鉄・一乗寺駅の西約400m、一乗寺の町中にある神社で、下鴨神社の境外摂社。
 延喜式神名帳にある『山城国愛宕郡 賀茂波爾神社』に比定されているが、確証はない。市販の地図など一般には、“赤の宮”として知られている。

 祭神のハニヤスヒコ・ヒメについて、社頭に掲げる案内には、「アマテラス皇大神の御弟神」とあるが、記紀にいみえる弟神はツクヨミとスサノヲであってハニヤスヒコの名はみえない。
 崇神記に、孝元天皇の御子・建波爾夜須毘古(タケハニヤスヒコ)の反乱記事があるが、同名異神であろう。

 現在の祭神・ハニヤスヒコ・ヒメの出自・神格は不明。具体の神を指すものではなく、波爾に坐す神を意味する一般神名と思われ、式内社調査報告は、「本来の祭神は不詳」という。
 ただ、異説として
 ・玉依彦命--当社を賀茂氏の同族・西埿部氏の氏神とみて--伴信友(1773--1846)の瀬見小河
 ・埴安彦命--当社を土師氏と関係ありとみる(管見のかぎり、土師氏系譜に埴安彦はみえない)--神名帳考証
 ・野見宿禰--同上(野見宿禰は土師氏の祖神)
などがあるが、その根拠など詳細不明。

 なお社名・波爾(ハニ)については、
 ・当社の西を流れる高野川の古名・“埴川”の“埴”(ハニ)に依る、とする地名説
 ・下鴨神社に奉仕する被官・西埿部氏(ニシハニベ)の氏神社(祭神・タマヨリヒコ)とする説
があるが(式内社調査報告)、いずれも確証はない。
 なお西埿部氏とは、新撰姓氏禄に、「山城国神別(天神) 西泥土(埿)部 鴨県主同祖 鴨建玉依彦之後也」とある氏族で(タケタマヨリヒコはタケツヌミの御子)、賀茂氏と同族という。

◎社殿
 西側道路に立つ朱塗りの鳥居を入った先に社務所があり、その前を左折・北へ進むと舞殿が、その背後、一段高くなった弊殿の左右に連なる透塀の中に本殿が鎮座する。ただ塀高が高く、格子の隙間が狭く本殿はよく見えない。
 ・本殿--一間社流造・檜皮葺、嘉永8年(1855)の造営、その後修理改修あり、という

下鴨神社・摂社/賀茂波爾神社・鳥居
赤の宮・鳥居
下鴨神社・摂社/賀茂波爾神社・舞殿
同・弊殿
下鴨神社・摂社/賀茂波爾神社・舞殿
同・舞殿

 境内に、末社として権九郎稲荷神社があるが、これは明治政府指令により赤宮稲荷が賀茂波爾神社と社名変更(下記)した後、昭和23年(1948)に創祀されたもので、曾ての赤宮稲荷とは無関係らしい。

◎論社
 式内・賀茂波爾神社としては、当社・赤の宮以外に、論社として、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の末社・土師尾社(ハジオ)がある。

 赤の宮について、鳥邑県纂書(1720)には
 「今新田河原にあり赤ノ宮と云う。村の氏神なり、但し波爾社は退転、今の赤宮は稲荷神なり、元禄の比(1688--04)伊連勧請云々
とあり、明治元年(1868)の指出(官に提出した書面か)には
 「赤宮稲荷大明神  延歴7年(1667)下鴨社司田中和泉守の勧進也・・・修学院村 庄屋杢右衛門」
とあるという。
 これによれば、賀茂波爾神社は江戸前期には消滅しており、その跡に勧請されたのが赤宮稲荷で、波爾神社とは別の社ともとれる。
 しかし、特選神名牒(1925・大正末)には
 「神名帳考証(1733)に、此の社は高野村の東なる新田村に赤宮と云う是なり。其の証は、下鴨神社社家が蔵する古図に、“波爾社は今赤宮と云う古伝あり”と記せるなるべし。・・・」
とあり、ここでは新田村の赤宮を波爾社としている。

 賀茂波爾社を現赤宮とするには賛否両論があったらしいが、これに決着を付けたのは、明治10年の京都府への伺いに対する同11年の回答書面で、そこには
 「賀茂波爾神社の儀は新田鎮座赤宮と想うべしとの御指令之有り」
とあり(特選神名牒)、この指令により赤ノ宮の社名を賀茂波爾神社と改め、下鴨神社の摂社となったという。

 これに対して、上賀茂神社・末社の土師尾社とするのは、
 ・山城国式社考(1711)--在所不明。或云、土師尾社乎、若宮(三井社)傍に在り
 ・神名帳考証(1813)--波爾社を土師氏の関連社として、今上賀茂社土師尾社か
 ・特選神名牒--上賀茂社回廊内の土師尾社とはするものの、
            上賀茂社旧記に建保年中今の地に遷座すると載せるが、波爾の地から此の地に移せるか、猶よく考えるべし
などの諸資料(以上、式内社調査研究)だが、いずれも断定はしていないようにもとれる。


※御蔭神社(ミカゲ)--式内・出雲高野神社(論社あり)
 祭神--賀茂建角身命荒魂・玉依姫荒魂
 京都市左京区上高野東山

 叡山電鉄叡山本線・八瀬比叡山口駅の南西約300mの東山山中に鎮座する摂社。駅の東側、車折病院前から山道へ入り、途中にある御蔭神社への案内表示を左折し少し行くと、朱塗りの鳥居が立ち参道(山道)がはじまる。

 社頭の案内には、
 「この社地は、太古鴨の大神が降臨された所と伝えられるところから御生山(ミアレ)と呼ばれており、東山三十六峰第二番目の山である。また、太陽の直射す(タダサス)所、すなわち御蔭山とも呼ばれ、社名はこれに因む。・・中略・・
 天武6年(677)、山背国司が造営したと伝えられる賀茂神社(上賀茂神社)は、当社であろうとの説があるとおり、この地は、古代から山代北部豪族の祭祀の中心地であり、近隣には数々の遺跡が存在する」
とある。
 式内社調査報告によれば、小右記(平安時代の公卿・藤原実資の日記)・寛仁2年(1018)11月25日条に、
 「下社司久清解文を進めて云う、旧記を尋るに、鴨皇御神初めて小野郷大原御蔭山に天降り給ふ」(大意)
とあるという。
 平安時代には、“下鴨社の神がはじめて御蔭山に降臨した”との説が流布しており、そこから、当地を御生(ミアレ)の地として、当社を“下鴨社の元宮”とも呼んでいたという。

 なお当社を、延喜式神名帳にいう『山城国愛宕郡 出雲高山神社』に比定する説があるが、他に論社もあり、当社とする確証はない。また案内には、その旨の記述はない。

 当社の創建時期は不詳。社伝では御祖神社と同時とするが、御祖神社の創建時期も奈良朝中期頃というだけで確実な時期は不明。当地が、比叡山から昇る朝日が直射す日知り(日読み)の地であったと推測されることから、恐らくは、御祖神社ができる以前から在地豪族による祭祀(日読神事か)がおこなわれていたのであろう。

◎御蔭祭
 下鴨神社の大祭・御蔭祭のとき、下鴨神社から当社への御行神事、及び当社から下鴨神社への還幸神事がおこなわれる。上賀茂神社の御阿礼神事に相当する祭りといえる(具体は別項・下鴨神社参照)。

◎社殿
 御蔭山山頂付近の、石垣を積んで開いた平地に鎮座する。静謐な雰囲気が漂っているが、訪れる人はいないらしい。

 中門の左右に続く朱塗りの瑞垣内に、本殿(一間社流造・檜皮葺)2社が南面して鎮座し、東社にタマヨリヒメ、西社にタケツヌミが鎮まる。
 社頭の案内には、
 「現在の本殿は、元禄6年(1693)の本宮式内遷宮の際に造替されたもので、それまでは、現在の本殿北東の麓(位置不明)に鎮座していたが、地震等の災害によって殿舎が埋没したので現在地に動座した」
とある。
 災害によるとはいえ、麓にあった神社(里宮)を山上に移転するのは珍しく、本来の鎮座地である山宮の地(現在地)に戻したのかもしれない。

御蔭神社/鳥居
御蔭神社・鳥居
御蔭神社/中門
同・中門
御蔭神社/本殿
同・本殿

◎論社
 式内・出雲高野神社には、当社を含め論社4社がある。
 ・御蔭神社--当社
 ・崇道神社--左京区上高野西明寺山町--祭神:崇道天皇(早良親王)
 ・御霊神社--上京区上御霊前通烏丸東入上御霊堅町--崇道天皇他7座、
 ・猿田彦神社--上京区上御霊町--猿田彦命

 式内・出雲高野神社は愛宕郡出雲郷の高野村に鎮座する社を意味するが、その祭神・由緒・鎮座地など不詳。
 当社の所在地が現左京区上高野に近いことから、旧出雲郷高野村だった可能性はあるが、旧小野郷だったともあり、当社を式内社とする確証はない。
 また崇道神社(当社の西北約600m)は上高野にはあるものの、上京区の御霊神社とともに崇道天皇(早良親王)などの御霊を鎮めるために創祀された神社で、式内社とするには難がある。
 猿田彦神社は論社として挙がってはいるものの、これを積極的に推す資料はみえない。
 これらのことからみて、式内・出雲高野神社は所在不明とするのが妥当であろう。

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