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賀茂御祖神社
(略称・下鴨神社)
京都市左京区下鴨泉川町
祭神−−玉依姫命・賀茂建角身命

 延喜式神名帳に、『山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座 大 月次相嘗新嘗』とある式内社。

 京都市の北東部、賀茂川と高野川の合流点北側に鎮座する古社で、正式にはカモミオヤと訓むが、通称・下鴨神社と呼ばれる。当社の北約3kmの賀茂川左岸に賀茂別雷神社(上賀茂神社)がある。
 京阪電車・出町柳駅の西、高野川を渡り、糺(タダス)の森を通って北へ約1km。

※祭神
  玉依姫(タマヨリヒメ)−−東殿に鎮座−−タケツヌミの娘で、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷(カモ ワケイカツチ)の母神。
  賀茂建角身(カモ タケツヌミ)−−西殿に鎮座−−神魂命(カミムスヒ)の孫(新撰姓氏禄)で、玉依姫の父神。賀茂氏の祖神
   (賀茂氏の当地への進出伝承・カモワケイカツチの出生伝承などは、別稿・賀茂別雷神社参照)


 当社の祭神について、当社由緒記はもとより諸資料でも上記二座としているが、古くから、一座をカモタケツヌミとするには異説があり、山城名勝志(1711)は、
 ・神名帳頭注に「一社大己貴子大山咋神、一社玉依日女也」(ただし、管見した神名帳には見えず)
 ・二十二社次第に「御祖社・別雷神御父 大山咋神也。松尾日吉同体也」
とある例をあげ、大山咋神(オオヤマクヒ)とし、他にも神社覈録・古事記伝(本居宣長)・四季物語(鴨長明)などがあるという(未確認)

 オオヤマクヒとは、古事記にスサノヲの御子・大年神(オオトシ)の御子で、
 「大山咋神、亦の名は山末之大主神(ヤマスエノオオヌシ)。この神は、近つ淡海国(アフミ)の日枝山(ヒエノヤマ=比叡山)に坐し、また葛野(カヅノ)の松尾に坐して、鳴鏑(ナリカブラ)を用(モ)つ神なり」
とある山の神(書紀には出てこない)
 “鳴鏑を用つ神”とは、“鳴鏑(鏑矢)に化して神妻(巫女)に御子を生ませる神”を意味し、山城国風土記逸文にいう丹塗矢の神と同じという。

 神名帳・二十二社次第などが祭神の一座をオオヤマクヒとする由緒は不明だが、
 ・当社・御祖神社の御祖とは上賀茂神社の祭神・ワケイカツチの親神を指すのが妥当で、母神はタマヨリヒメとしても、父神・丹塗矢については2説があり、風土記では丹塗矢を火雷神となっているが、丹塗矢が賀茂川の上流から流れ下ってきたことから、川上に位置する貴布祢の神として、これを父神とする説がある。
 これに対して
 ・当社が鎮座する糺の森のタダスが、朝日の直射す(タダサス)地を意味するように、糺の森・即ち下鴨神社(河合神社を含む)は東方・四明岳(比叡山最高峰・838m)に昇る朝日がタダサス線上・夏至の朝日を遙拝する線上に位置し、その比叡山に坐す神はオオヤマクヒであること、
 ・この直線を西に延ばすと、元糺の森と呼ばれる木嶋坐天照御魂神社を経て、松尾神社の旧蹟・松尾山(233m)に至り、松尾神社の神も同じオオヤマクヒであることから、
 ・上賀茂神社でいう貴布祢−神山−上賀茂という聖なるラインに対して、比叡−糺の森(下鴨神社)−松尾のラインを重視して、父神を、比叡の神・松尾の神であるオオヤマクヒとみてのこと、という。

 ただ、これに対して、御祖を父母神と限定する要はなく、先祖神とみて祖父神・カモタケツヌミとする説も有力という。(以上、日本の神々5所載・賀茂御祖神社・2000)

※創建由緒
 当社の創建年代は不詳だが、社頭に掲げる“賀茂御祖神社由緒記”には、
 「創祀  日本書紀・神武天皇2年(BC658ごろ)条に当神社の御祭神タケツヌミ命を奉斎したことが記されている。また当神社の最古の祭である御生神事(ミアレ・現在の御蔭祭)が綏靖天皇の御代(BC581ごろ)に始められたこと、崇神天皇7年(BC90ごろ)瑞籬の造営、垂仁天皇7年(BC29ごろ)御神宝が奉られたこと、成務天皇のころ(131ごろ)神宮に鴨県主の姓を賜るなどの所伝によって、二千年以前に創始されたとされている」
とあり、神社配布の参詣の栞などにも同趣旨の記述を載せている。

 由緒記冒頭の神武天皇2年の条云々とは、
 ・即位前記−−神武東征に際して、紀伊熊野の山中で道に迷った神武軍を、八咫烏(ヤタカラス)と化したカモタケツヌミが大和まで先導したとの伝承
 ・2年条−−神武が橿原の宮で即位し、東征時の功績に対して論功行賞をおこなったとき、
 「ヤタカラスも賞にはいった。その子孫は葛野主殿県主(カズノトノモノアガタヌシ)がこれである」
とあるのに由来すると思われるが、次の綏靖朝での御生神事のはじまりとともに伝承であって史実とはみられない。

 また、崇神7年の瑞籬造営とは、崇神紀7年条に、
 「オオタタネコをオオモノヌシを祀る祭主とし、長尾市を倭のオオクニタマを祀る祭主とし、別に八十万の群神を祀った」
との記事を拡大潤色したものだろうし、記紀には、垂仁・成務朝における事項を示唆する記述は見えない。
 当社に伝来する別伝承かもしれないが、確認不能。

 この創建年代(伝承)に対して、資料によれば、
 ・和銅6年(713)撰上の山城国風土記(逸文)に、賀茂の社(現賀茂別雷神社)項の後尾に、
 「加茂のタケツヌミ命と丹波の神伊可古夜比売(カムイヤコヤヒメ・タケツヌミの后)と玉依比売と三柱の神は、蓼倉(タデクラ)の里(下鴨社の東に隣接する現左京区蓼倉町付近)の三井の社に坐す」
とあって、三井社(式内社・現御祖神社摂社)の名はみえるが、御祖神社(下鴨社)はみえないことから、当社は8世紀初頭にはなかったと思われること、
 ・続日本後記・承和15年(848)条に
 「賀茂御祖神社禰宜他が、天平勝宝2年(750)2月、御戸代田一町を頂いて以来加増がなく、年中用途に困っている。別雷神社に准じて戸代田一町の加増を請ふ。勅により之を許す」(意訳)
とあることから、天平勝宝2年には存在していたと思われること、
から、当神社の創建は和銅6年から天平勝宝2年に至る間(奈良中期後半頃)と推測されている。

 これに関連して、座田司氏(昭和前期の上賀茂神社宮司)は、賀茂社祭神考(1972)のなかで、
 「下社は和銅6年以後、平城時代天平勝宝頃までの間に、賀茂県主族の土地開墾の進捗につれて、中賀茂の南・三井社の境内地に続いた場所を選定して、御祖神等の神霊の降臨を希ひ、鎮際したのであろうと思惟する」
と記し、
 井上光貞氏は
 「カモ社は古の昔から、いまの上賀茂の地にあって、奈良時代のはじめまで、カモ社といえばこの社一つだけであった。・・・・
 おそらく天平の末年から天平勝宝2年にいたる間に、カモ社の分社がとりたてられてもう一つのカモ社・下鴨社ができあがった」
と推測し、
 その理由として
 「上カモ社の祭の盛大に手を焼いた国家の、宗教政策の結果とみられるだろう」
といっている(カモ県主の研究・1962)、という(賀茂御祖神社・2000)

 なお、“カモ社の祭の盛大云々”とは、奈良時代の賀茂祭(葵祭)が、人々が自由に参加する荒々しい祭事で騒乱が絶えず、それの鎮圧に手を焼いた朝廷が禁止令を多発し、最後には自由参加を全面禁止し(天平10年-738)、国司認可の祭を見物するだけになったことを指すと思われる。

 なお、新抄格勅符抄(平安時代の法制書・成立時期不明)
 「鴨御祖神 廿戸 山城十戸、丹波十戸、天平神護元年(765)九月七日」
とあることから、天平時代(729--767)末期に下鴨神社があったことは確実という。

 当社創建時の鎮座地について、山城名勝志には、
 「御本社比良木の森の西に在り、其地今の御社の北五六町、高野川の西也」(大意)
とあり、北から南へ移ったという。
 これに対して賀茂社祭神考は
 「昔の高野川は今より東を流れ、より南で賀茂川と合流していた。下鴨神社は今より南にあったが、洪水の都度河床が次第に西へ移動したため、(合流点附近にあった)社殿も暫時北へ移動して現在地へ遷った」(大意)
として、南から北へ移ったとする。
 いずれにせよ、平安末期頃に創建時の場所と余り離れていない現在地へ遷ったのではないか、という。


※社殿等

 南の大鳥居を入り参道を進んだ先に2層建・檜皮葺の楼門(H=30m)が聳え、目の前に舞殿(葵祭の時、勅使が祭文を奏上する殿舎)、右に橋殿(御手洗川の上に建つ、御蔭祭の時、御神宝を奉安する殿舎、天皇の行幸・御行の祭、公卿・殿上人等の控えの場となった)と細殿(歌合わせ・茶会などが行われる殿舎)、左に神服殿(天皇の行幸の時、玉座となった殿舎。夏冬の御神服を奉製することからの呼び名)が建つ。
 舞殿の奥に中門(四脚門)、一言社をはさんで弊殿が建ち、左右に連なる回廊内の神域には、縦に長い祝詞殿の奥に左右2棟の本殿が鎮座するが、外からは見えない。
 当社社殿は、長元9年(1036)の勅により、上賀茂神社とともに式年造営の制(21年毎)が定められたという。その後何度かの火災による被災はあるものの荒廃することなく近世を迎え、寛永5年(1628・江戸初期)一切の建物の造営がおこなわれたという(次の遷宮−改修は平成28年という)

 本殿−−東殿:タマヨリヒメ・西殿:カモタケツヌミ奉斎
   三間社流造・檜皮葺−−文久3年(1862・江戸末期)の造替−−国宝
 弊殿−−桁行7間・梁間2間、入母屋造、正面中央軒唐破風付き、檜皮葺−−寛文5年造営−−重要文化財
 四脚中門・楼門・祝詞殿・舞殿・橋殿・細殿・神服殿・・・摂末社など53棟は寛延5年造営で、重要文化財。

下鴨神社/南鳥居
下鴨神社・南鳥居
下鴨神社/楼門
同・楼門
下鴨神社/社殿配置略図
同・社殿配置略図
下鴨神社/中門
同・中門
下鴨神社/弊殿
同・弊殿

※御蔭祭(ミカゲ)
 賀茂祭(葵祭)の3日前(5月12日−古くは、旧暦4月の中の午の日)におこなわれる祭で、上賀茂神社の御阿礼神事(御生神事−ミアレ)に対応する祭だが、御阿礼神事が深夜・暗闇の中でおこなわれるのに対して、御蔭祭は昼間におこなわれるのが異なる。

 賀茂波爾神社で頂いた“神々の再生 御蔭祭”との栞(下鴨神社社務所刊)には、
 「当祭は、賀茂御祖皇大御神の若返りを願うため、御蔭山に御生(ミアレ)された神霊・荒御魂(アラミタマ)を再びお迎えし本宮の和御魂(ニギミタマ)と一体になって頂く祭儀。・・・賀茂祭に先立って大御神の神威の甦りを祈るもの」(大意)
とあり、
 御蔭祭次第によれば、大略
 下鴨神社において、宮司以下による神事のあと本宮を進発、御蔭山の御蔭神社で祭神・荒御魂を依代の御生木に移し、神馬に乗せて帰路につき、賀茂波爾神社及び糺の森の切芝での神事のあと本宮に帰着、荒御魂を本宮に移して祭事終了
とあり、おおきく前半の御行神事と後半の還幸神事に分かれる。

 しかし、御蔭祭の初見である下鴨社蔵の古文書(正慶2年−1333・南北朝)には、
 「御蔭山御行があった」
とのみ記されていることから、古くは、後半の還幸神事はおこなわれていなかったのではないかともいわれ、一説として、還幸神事は“元禄以降に、下鴨社の神官らによって付加された”神事ではないかという(賀茂御祖神社・2000)
 ただ、還幸神事がなければ下鴨神社祭神の御生神事・再生神事としては中途半端で、後年の付加というには疑問もある。

 また御蔭祭の起源について、上記栞は
 「遠く綏靖天皇(欠史9代の一)の御代に始まるといわれ、康冨記(中原康冨記ともいう・室町中期)に『嘉吉 3年(1443・室町前期)4月21日、是日鴨社御蔭山祭祭礼也』とあるのが文献に見える初め」
という。
 しかし、平安中期の公卿の日記・小右記(平安中期の公家の日記)に、賀茂賀茂社との間での御蔭山の所属争いに関係して、
 「旧記を尋ねると、皇御神初めて小野郷大原御蔭山に天降り給ふ」
とあるのを根拠に、御蔭山は下鴨社領だと主張している記録があるが、より有力な根拠になる思われる御蔭祭について記していないので、平安時代には未だおこなわれていなかったのではないかという。

 御蔭祭は、わが国最古の神幸列ともいわれているが、御蔭山御行についての初見が正慶2年であること、上記栞に嘉吉3年とあることから、上賀茂神社の御阿礼神事に対抗して、南北朝の少し前、鎌倉時代頃に始まった、というのが妥当であろう。

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