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神奈備神社(京田辺)
京都府京田辺市薪甘南備山
祭神−−天照大神・鵜葦葺不合命・大国主命・天児屋根命
                                                          20100102参詣

 延喜式神名帳に、「山城国綴喜郡 甘奈備神社」とある式内社。
 JP学研都市線(片町線)・京田辺駅の西約1.3kmにある薪神社(近くに酬恩庵一休寺あり)から南西へ約2.4km、京都府と大阪府との県境(山城国と河内国の境)に位置する甘南備山(カンナビ、H=217.5m)の頂上に鎮座する。

※祭神 
 皇祖神・アマテラス、神武の父・ウガヤフキアヘズ、出雲の神・オオクニヌシ、藤原(中臣)氏の祖神・アメノコヤネとあるが、いずれもその鎮座由緒は不明。ウガヤフキアヘズはアマテラスの玄孫(神武の父)で連なるものの、オオクニヌシとアメノコヤネとは関連なく、記紀・風土記の神々を寄せ集めたとの感が強い。

 今の祭神はこの4座となっているが延喜式では一座であり、本来は一座(神名不明)だったのが何時の頃かに4座に替わったと思われるが、その経緯など詳細不明。

 神奈備山とはカミが降臨する聖なる山を指し、当社の北約4kmに鎮座する月読神社(式内社・京田辺市大住)には、その祭神・月読神が当甘南備山に降臨したとの伝承があり、また、その月読神が降臨したという磐座(石)が、東北約4km余りに鎮座する薪神社に祀られている(別項・薪神社参照)

 月読神といえば、アマテラスとともに生まれた三貴神の一柱とみるのが普通だが、月読神社がある大住の辺りには、古く、薩摩大隅地方の隼人族が定住していたことから、ここでいう月読神は隼人族が奉斎した潮の干満を左右する月神を指すともいう(別項・月読神社参照)

 当社本来の祭神と推測されるものとして、神社覈録(カクロク、明治3年・1870)に「甘南備真人祖か」とあるという(ネット資料)
 甘南備真人とは、新撰姓氏禄・左京皇別に『甘南備真人 敏達天皇(572--85)皇子・難波王之後也』とある氏族で、続日本紀・孝謙天皇・天平勝宝3年(751)条に、
 「(その後裔)従五位上・伊香王とその息子らに甘南備真人(カンナビ マヒト)の氏姓(カバネ)を賜った」
との記事がある。

 当社が、山城国・左京にある甘南備山に鎮座することから、この辺りに住んだ甘南備真人氏族の後裔が、その祖神(難波王か)を祀った可能性もあるが、推測であって確証はない。

※創建由緒
 当社の創建由緒・時期など不明。神武東征の折この地を通られ、天神地祇を祀られたとの伝承がある(山城国神奈備記)というが、未確認。ただ記紀の記述で、神武が当地を通ったとは読めない。創建を古くするため、神武東征に仮託した伝承であろう。

 延喜式内社にあることから10世紀初頭に鎮座していたことは間違いなさそうだが、管見のかぎりでは、当社の神に対する神階叙位の記録など見当たらず、はっきりしない。忘れられた神社との感が強い。

 式内社云々は別としても、当社の原姿は、姿のよい当山をカミの降臨する聖山(神奈備山)として崇める周辺住民の素朴な信仰が始まりで、それを窺わせるのが月読神(あるいは月神)の降臨伝承ではなかろうか。
 また距離はあるものの、当社と麓の薪神社は、神奈備山に坐す山宮と、それを拝するために人里に設けられた里宮という関係かもしれない(ただし、両社の祭神は異なる)

※社殿等
 今、甘南備山は全山が公園化され、山中には幾本かの管理道路・登山道・尾根道などが巡り、途中に広場・花木の森・展望台などが点在している。
 当社は、管理道路添いに案内に従って登りきった叢林の中、道の突き当たりに立つ鳥居の先に、東面して鎮座する(要所に案内表示あり)

 林の中、簡素な板塀に囲まれた中に小さな古い祠が鎮座し、これが本殿。その前に拝所があるだけで他には何もない。何時もは詣る人もないようだが、正月ということで周りも清掃され、参詣人も三々五々見かけた。 

甘南備山・登山口
甘南備山登山口
(左の舗装道が登山道)
神南備神社/鳥居
神奈備神社・鳥居
(奥に社殿が見える)
神社の森
神社の森
神南備神社/拝所
神南備神社・拝所
神南備神社/本殿
同・本殿
神南備神社/側面
同・側面

◎甘南備寺跡
 神社から東南に降った通称・薬師谷にある古寺の跡(道案内表示あり)。山腹のちっとした平地に『甘南備寺跡』の石標と案内が立つ。

 案内によれば、「奈良・天平年間(729--48)行基の創建、それ以前役行者がここで柴灯護摩(サイトウゴマ)を修したともいう。

 平安中期の本朝法華験記(1040頃)や今昔物語(推測1120頃)には加美奈井寺・神奈比寺の名で記されている。
甘南備寺跡
甘南備寺跡
甘南備寺跡/石標
同・石標
 これらの話しや平安時代作の薬師如来像から、神の鎮座する霊山につくられた天台宗系の寺院だったことがわかり、平安京の真南に位置した護国寺院だったと想像される。
 中世の頃には荒廃したようで、元禄2年(1689)麓の薪山垣外に移転し、現在は黄檗宗に属している」とある。 

 神南備神社に属した神宮寺的存在かもしれないが、それを示唆する資料はない。今、京田辺市薪山垣外の地に、当地から降ろしたという医王山甘南備寺があり、本尊の薬師如来は耳の仏として信仰されているという。

 今昔物語に、法華経の功徳を説く次のような仏教説話がある(第14巻25話)
 昔、山城国綴喜郡の飯の岳の戌亥(イヌヰ)方の山に神奈比寺という山寺があり、一人の僧が居た。
 この僧は、常にもっと大きな寺に移りたいと思っていたが、ある夜、夢のなかに老僧があらわれ、「汝の前世は、この寺の庭土の中に居たミミズであったが、日夜法華経を聞いていたため、その善根によってミミズの身から人となって生まれ僧となった。汝はこの寺に縁がある身だから、他の処へ行ってはならない。我はこの寺の薬師如来である」と告げた。
 僧は、自分の前世を知ったことから、他寺へ行くことを止めてこの寺に留まり、法華経を読誦し続け、来世は人界を棄てて浄土に生まれることを念じた(大意)

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