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鹿島神宮(鹿島市)
茨城県鹿嶋市宮中
祭神−−武甕槌大神
                                                               2009.11.29参詣

 茨城県・東南部、鹿島灘と北浦(流の海)にはさまれた細長い鹿島台地の先端部に鎮座する古社で、延喜式神名帳(927撰上)
  「常陸国鹿嶋郡 鹿島神宮 名神大・月次新嘗」
とある式内社。
 西南方、水郷で名高い潮来をはさんで千葉県佐原市には鹿島・香取と並び称される香取神社がある。
 なお古く、鹿島は香島とも記していたらしい。

 JR成田線・香取から分岐する鹿島線・鹿島神宮駅の駅前から、案内表示に沿って南へ(途中に剣聖・塚原卜伝の像あり)、最初の信号を左(東)へ曲がると、蕎麦店などが連なる商店街の先に大鳥居が見える。
 鉄道(JR)利用だと成田経由で大回りとなるが、東京駅から直行高速バスが時間3本ほど往復している(約2時間)

 境内西側に立つ大鳥居(御影石製・H=10m)から東へ参道が延び、朱塗りの楼門(寛永11年・1634、水戸藩主徳川頼房寄進、重要文化財)を過ぎると北面して拝殿・本殿が建つ。本殿が北面する神社は珍しい。
 本殿前には、参道をはさんで高房社と仮殿・宝物殿・社務所が並び、その先、奥参道の周りには鬱蒼たる“鹿島神宮の森”(天然記念物)の中に、奥宮・要石・御手洗池などの摂末社などが点在する。

鹿島神宮/大鳥居
鹿島神宮・大鳥居
鹿島神宮/楼門
同・楼門
鹿島神社/境内略図
同・境内略図

※創建由緒
 鹿島神宮の創建について、参詣の栞(以下「神社栞」という)には、
 「神代の昔、アマテラスの命をうけた武甕槌大神(タケミカヅチ)は香取の経津主大神(フツヌシ)とともに出雲に降り、わが国建国に挺身された。特に東国における神功は極めて大きく、関東開拓の礎は遠く大神に溯る。
 また神武天皇が熊野で窮地に陥ったとき、大神が降した霊剣・師霊剣(フツノミタマ)の神威により救われた。この神恩に感謝した天皇は、即位の年、大神を鹿島の地に勅祭された。皇紀元年・紀元前660年という」(大意)
とある。

 祭神・タケミカヅチは、イザナギが、その妻・イザナミ逝去の因となった火の神・カグツチを斬った剱の本に付いた血から生まれた神で、フツヌシ(香取神社祭神)とともに国譲り交渉のため出雲に降ってオオクニヌシを説得し、天つ神に従わない諸々の神々を誅し、また神武東征に際しては、己の代わりに霊剣・フツノミタマを降して、神武を助けたとある(日本書紀)
 いわば高天原の葦原中国平定に尽力した天つ神という位置づけで、当社は、このタケミカヅチが創建当初からの祭神だという。
 この由緒は、これら記紀神話などを繋ぎあわせ文飾したもので、特に、当社の創建年とする紀元前660年は、中国伝来の讖緯説によって仮想された建国年で、由緒にいう紀元前660年は、当社創建を古く見せんがために創作されたものといえる。

 由緒は、出雲へ派遣された主將をタケミカヅチとしフツヌシを副将としているが、書紀(9段)には
 ・本文−−タカミムスヒが主将:フツヌシ・副将:タケミカヅチ(自ら名乗り出たとある)として派遣した
 ・一書1−−アマテラスが主将:タケミカヅチ・副将:フツヌシとして派遣した
 ・一書2−−天つ神が主将:フツヌシ・副将:タケミカヅチとして派遣した
とあり、由緒は一書1によったものであろう。
 高天原における司令神は、時代を追って@タカミムスヒ→Aタカミムスヒとアマテラス→Bアマテラスと変わっていったというのが定説であり、当伝承も、本文の書き方が最も古く、一書1が最も新しいとみられ、本来はフツヌシ一座であったところにタケミカヅチが加わりに且つ主将に変えられたのは、この神話を物部氏(フツヌシは物部氏の氏神)でなく藤原・中臣氏のものとするための改作であろうという。
 なお古事記では、主将:タケミカヅチ・副将:アメノトリフネとあって、フツヌシの名はみえない。

※祭神
  武甕槌大神
 
 古事記によれば、タケミカヅチについて表記(漢字名)が異なる二つの系譜を記している。
 @ 迦具土神(カグツチ)−−甕速日神(ミカハヤヒ)−−樋速日神(ヒハヤヒ)−−建御雷神[亦の名:建布津神−タケフツ・豊布津神−トヨフツ](建御雷之男神とも記す)−−書紀は武甕槌神と記す
 A 大物主命−−櫛御方命(クシミカタ)−−飯肩巣見命(イヒカタスミ)−−建甕槌命−−意富多多泥古(オホタタネコ)−−書紀にこの系図はない

 系図@にいうタケミカヅチは、国譲り交渉や神武東征時に登場する天つ神で、当社祭神はこの神を指す。
 一方、系図Aにいうタケミカヅチは出雲系の神だが、この神の事蹟について古事記は何も語らない。

 今、当社祭神は系図@のタケミカヅチで、それは藤原氏の氏神というが、正史上で鹿島神をタケミカヅチとする初見は、続日本後記・承和3年(836)5月9日条の
 「常陸国鹿島郡従二位勲一等 建御賀豆智命 正二位」
で、これよりよりやや早い古語拾遺(忌部氏系史書・807)には
 「武甕槌神[是、甕速日神の子、今常陸国鹿島神是也]」
とあり、これら古文献で見るかぎり、鹿島神宮の祭神をタケミカヅチとするのは9世紀以降で、それ以前の祭神名は不詳という。

 ただ、続日本紀・宝亀8年(777)7月19日条に、
 「内大臣藤原朝臣良継(716--77)病あり、其の氏神鹿島社(神の誤記か)を正三位、香取神を正四位に叙す」
とあり、8世紀には、鹿島神は香取神とともに藤原氏の氏神と認められていたことを示唆する。

 9世紀以前の当社祭神に係わると思われる史料として、常陸国風土記(751頃)・鹿島郡条に、
 「孝徳天皇・大化5年(649)、当地に神郡(カミノコホリ−特に重要な神社の神域として置かれた郡)を置き、そこに坐した天の大神の社と坂戸の社・沼尾の社との三社を合わせ、総称して香島の天の大神と称える」(大意)
とあり、ここでいう香島天大神(カシマノアメノオオノカミ、大は多−オウで大和の多氏にかかわるともいう)が鹿島神の原姿ではないかという(但し、タケミカヅチではない)

 この香島天大神の出自は不詳だが、風土記は続けて
 「天地が開けはじめるより前に、諸祖天神(カミルミ・カミルギ)が八百万神を高天原に集められ、『吾が御孫神を豊葦原水穂国を治めにお降りになる』と仰せられた。
 このとき降ってこられた大神は香島の天の大神と申し、天では日の香島宮と号し、地では豊香島宮と号す」
と、記紀の天孫降臨神話とよく似た伝承を記している。

 これを受けてか、当社元宮司・東実著の鹿島神宮(1987、以下《鹿島神宮》という)には、
 「この鹿島にタケミカヅチが降りられたのは、鹿島の北約70kmの大甕(オオミカ、現日立市大甕)に住む香々背男(カカセオ)を討伐するためで、その経路ははっきりしないが、行方郡にある大生神社(オウ)を経由し、船で流海(現北浦)を下って太平洋に出て明石浦に上陸、沼尾を通って鹿島に至ったのであろう」(大意)
として、天降ったのはタケミカヅチというが、風土記にはタケミカヅチとはなっていない。鹿島神宮宮司であった東氏としてはタケミカヅチとせざるを得ないのであろう。

 常陸国風土記は、その編纂当時(養老3年・719)常陸守・按察使であった藤原宇合(ウマカイ・694--737、不比等の三男)らが係わったと推測され、為に、風土記に記紀神話的記述がみられるわけだが、香島天大神が高天原から降ったとする風土記の記述は、大神が在地の神ではなく、天つ神であることを示唆するためになされた藤原氏側からの文飾ではないか、ともいう。

 8世紀代のタケミカヅチは、既に藤原氏(中臣氏)の氏神として認識されていたようで、風土記編纂に宇合の関与があったとすれば、当社の祭神をタケミカヅチとしてもおかしくないのに、そうなっていない。
 これは、天つ神としてのタケミカヅチは新来の神であって、それを奉じる藤原氏の力をもってしても、古くからの在地の神(香島天大神)を無視できなかったことを示唆している、という。

 なお、坂戸社・沼尾社とは、今、当社の北約2km(坂戸社・鹿島市山之上)および4km(沼尾社・鹿島市田野辺)にある境外摂社を指す。風土記によれば、この辺りにあった沼尾池の北に沼尾社が南に坂戸社、その南に離れて香島天大神社があったという。三社の位置関係からみて、坂戸社の南にあったという香島天大神社が、鹿島神宮の前身と思われる。

◎香島天大神(カシマノアメノオオカミ)
 香島天大神の神格ははっきりしないが、その中心と思われる坂戸神から類推すれば次のようになる。
 ・坂戸の“坂”は“境・界”(サカイ)“戸”は“門”であり、坂戸神とは境界に祀られるカミ(塞の神−サエノカミ)を意味する。
  7・8世紀の常陸国は、北方蝦夷の地へ(異境)への進出を図るヤマト勢力と北方勢力との接点=境界であったことから、坂戸神すなわち香島天大神は、境界に坐して異境・異界から入ってくる邪神邪霊を遮り、且つそこを通る旅人の道中安全を守護するカミ・境界の守護神的神格をもっていたと思われる。

 また鹿島の地には、
 *香島の海底に一つの大甕があり、その上を船で通れば、下に鮮やかに見える。
    この大甕は、太古の頃豊前にあったもので、神武天皇が大和に移し、景行天皇がこの地に移したものと伝える。
    この大甕は香島明神の先祖を祀る壺で、香島第一の神宝として甕速日(ミカハヤヒ)という。
 *鹿島本社の西の海辺の田の中に一つの小島がある。昔は海中だったが、今は陸地となっている。この島に神代よりの壺がある。・・・ また傍らの甕山なる島にも壺がある。
など、甕(ミカ)・壺に係わる伝承が幾つか残っているし、
 *近隣日立市には“大甕”(オオミカ)との地名があり、大甕神社(祭神:タケハツチ)が鎮座している。

 古代の甕あるいは壺は、空洞の容器・玉・卵などと同じく神霊の籠もる聖なる容器であり、それを境界に埋めるのはカミを祀ることだったという(境界である坂に忌甕を埋めてカミを祀ったとの伝承は、各地に残っている)

 これらからみて鹿島の神の原姿(香島天大神)は、境界にあって異境の荒ぶる神を遮る塞の神であり、それを示唆するのが坂戸神(沼尾神は坂戸神の后神ではないかという)で、それを象徴するのが鹿島の地(蝦夷地との境界であるとともに、海陸との境界でもある)に埋められた大甕ではなかったかと思われる。
 この塞の神・甕神としての神格を引き継ぐのは、同じ甕の字をもつ国つ神の《タケミカヅチ》であって、記紀にいう天つ神・タケミカヅチではないといえる。

※祭祀氏族
 今、鹿島神宮の祭神はタケミカヅチであり、この神は藤原氏(中臣氏)の氏神として奈良の春日大社にも祀られている。

 氏神とは、その氏族が奉斎する神・祖神であり、その氏族の出身地・本貫の地に坐すことが多い。
 中臣氏の本貫については、大和説・河内説・摂津説・常陸説などがあるが、祖神とされるアメノコヤネが河内の枚岡神社(現大阪府東大阪市出雲出町・式内名神大社)に祀られていることから、河内国とする説が有力とされる。

 これに対して《鹿島神宮》では、
 「いまのこる津の東西社の北に国道を隔てて鎌足神社がある。これは藤原鎌足の生誕地と伝えられている」
と記し、史書・大鏡(11世紀初頭)に、鎌足の生誕地を常陸国とすること(父・大食子が常陸・鹿島にいたときの子との伝承ありというが、未確認)から、中臣氏の本貫を常陸とする説がある。

 しかし、藤氏家伝には
 「鎌足は大倭国高市郡の人なり。・・・御食子(ミケコ)の長子なり。推古天皇34年(626)藤原の第に生まれき」(大意)
とあり、その私邸が大和国高市郡藤原(現橿原市、現明日香村との説あり)にあったことなどから、常陸生誕説には疑問があるという。

 古史料にみるかぎり、常陸国に中臣系氏族の名が登場するのは7世紀後半以降のことで、それ以前には確たる史料は見当たらないという(書紀・天智10年-671-条に中臣部若子の名がみえる)
 史料に見えないから居なかったとはいえないが、中臣氏の前身が卜占による吉凶判断を業とする卜部(ウラベ)であったことから、たとえ居たとしても、鹿島神宮の祭祀氏族に属する卜部としてのそれで、祭祀氏族とは見なせないという。
 氏神が、その祭祀氏族の祖神だとすれば、鹿島の神=香島天大神は中臣氏の氏神ではなかったことを意味する。

 鹿島神宮の祭祀氏族として中臣氏が有力になったのは、卜占技術をもって奉祀する卜部としての中臣部に中臣鹿島連の氏姓が与えられた天平18年(746)頃といわれ(続日本紀・3月24日条に「常陸国鹿嶋郡の中臣部20戸と卜部5戸の者たちに中臣鹿嶋連の氏姓を賜る]とある)、それには中央における国家規模の祭祀集団としての中臣氏の権威が影響しているという。

 中臣氏以前の鹿島神宮祭祀氏族としては、多氏(オウ−大・太・意富とも)が有力という。
 多氏とは神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミ)の後裔とされる。カムヤイミミは皇位を弟(綏靖天皇)に譲り、自らは神祇を司って天皇が執り行う政(マツリゴト)を助けたという皇子で、祭政一致のマツリゴトで祭祀を司った皇子である。

 多氏の子孫とされる氏族は各地に広がっているが、常陸国・那賀国造(後の常陸国造)もその一族といわれ、鹿島の地におかれた神郡(カミノコホリ)が、“那賀国造の管内から五里と下総国海上国造管内から一里を割いて設けた”とある(風土記)ことからみて、神郡の大部分は那賀国造の支配地であり、そこに祀られる香島天大神社(後の鹿島神宮)の祭祀氏族も那賀国造すなわち多氏とみるべきという。

 このことは、風土記・行方郡条に多氏の祖神される建借間命(タケカシマ−カムヤイミミの苗裔)が登場すること(先代旧事本紀・国造本紀に、「成務朝の御世、多氏の一族・建借馬命を仲国造−後の常陸国造に任じた」とある)、あるいは元鹿島と呼ばれる大生神社(オウ、潮来市大生)に伝わる伝承に「大生宮者南都大生邑大明神遷座、故号大生(多)宮」とあり、そこでいう南都大生邑大明神とは多氏が奉斎する大和国の多神社(奈良県田原本市、祭神:カムヤイミミ他)を指すことからも、古代氏族の雄・多氏が早くから(5世紀頃か)当地に進出していたことが傍証される。

 香島天大神(鹿島神)の祭祀氏族が、何時の頃、多氏から中臣氏へ移ったかははっきりしないが、タケミカヅチ以下を勧請して春日大社が創建された8世紀中頃ではないかという(但し、文献で見る限り、鹿島神をタケミカヅチとするのは9世紀以降という)

 この祭祀氏族の変更は、その祭神が境界を守護する甕の神(塞の神)・《タケミカヅチ》から、国家神的剣の神(武神)・タケミカヅチへと変身したことを意味し、藤原・中臣氏が甕を雷に変え、剣の神として国譲りや神武東征神話で活躍させ、自家の氏神として春日大社に遷したのだろうという。

 この祭神変更にかかわる伝承として、三代実録(901撰上)貞観8年(866)条に、次の記述がある。
 「延歴から弘仁まで(782--823)、陸奥国にある鹿島神宮の苗裔神(陸奥国には鹿島神宮からの勧請社が38社あったという)に対する鹿島神宮からの封物が絶えたため、陸奥国の鹿島神が祟った。(これを宥めるため)嘉祥元年(848)彼の地に奉幣に向かったが、陸奥国は関内に入ることを許さなかったので、宮司たちは関の外に弊物を置いて祓いを行って帰った。しかし、その後も神の祟りは病まず、神宮の境内でも疫病が広がった。・・・」(大意)

 延歴・弘仁間とは、鹿島神がタケミカヅチとなり春日大社に奉斎された後だが、この頃、陸奥国の鹿島苗裔神が祟ったのは、鹿島神宮からの封物が春日大社へは送られるものの、陸奥国には届かなかったので、神が祟ったことを意味する。
 また、それを宥めに向かった宮司たちも陸奥国に入れなかったとは、陸奥国の鹿島苗裔神とは多氏が祀っていた《タケミカヅチ》であり、新来の神であるタケミカヅチからの奉斎を受けないと拒絶したことを意味する。

 この話しからも、鹿島神宮の本来の神は在地の神・《タケミカヅチ》であって、新来の国家神・タケミカヅチではなかったことが伺われる。

※鹿島の神から春日の神へ
 春日大社の創建は、一般に称徳天皇・天平神護元年(768、皇年代記)とされるが、その3年前の神護景雲元年(765)に、「常陸国鹿島社から封戸廿戸を奉じた」との記録(新抄格勅符抄)があり、この頃から社殿造営に取りかかり天平神護元年に造営が終わりタケミカヅチ・フツヌシ以下を勧請したとみられる。

 この春日大社創建時には、鹿島神宮の祭神は既にタケミカヅチとなっていたというが、それは、国家的祭祀氏族として勢力を広げていた中臣氏とそのバックにいた藤原氏が、ヤマト朝廷の東北進出の奉斎神となりつつあった鹿島の神を武神・タケミカヅチとして自家の氏神に取りこみ、あわせて物部系の神であった香取の神・フツヌシをも取りこんで併祭したのではないかという。

◎大生神社(オウ)
 鹿島神宮の西北西・北浦をはさんだ潮来市大生の地に“大生神社”(祭神:タケミカヅチ)があるが、この神社は“元鹿島の宮”と呼ばれ、それは、鹿島神宮の祭神が大生神社から遷ったとの伝承によるという。

 大生神社社蔵棟札(明治7・1874)裏面の由緒書きに
 ・(大生神社の神が)御鎮座しこと神代の太古昔なり。神護景雲2年(768)和州城上郡春日の里に御遷幸。大同元年(806)2月11日、藤原氏東征御護として此の里に御遷還、同2年同国見目の浦鹿島郡に御遷幸、その御跡を別宮と称し、大御神の分け御魂を斎き奉りき
との伝承が記されていたという。
 これによると鹿島の神(タケミカヅチ)は、大生神社→春日大社→大生神社→鹿島神宮と遷ったとなるが、春日大社を介して、その前後の大生神社の祭神が異なるとも解される。

 それにかかわって、鹿嶋大明神御斎宮神系代々(1473頃か)との系図に
 ・大生宮は南都大生邑大明神の遷座 故に大生宮と号す
とあり、南都大生邑大明神が大和の多神社(奈良県田原本市)を指し、大和の多の地(多神社)から遷したのが大生神社という。

 伝承は、多神社から勧請された神の名については何ら記していないが、多神社は大和の三輪山の真西に位置し、冬至の朝、三輪山頂上から昇る朝日を拝する地であって(頂上に神坐日向神社がある)、多氏が古代の三輪山(御諸山)祭祀にかかわることから、その神は国つ神(出雲系)の建甕槌命だったと推測され、
 当社にかかわる一連の伝承からみて、その国つ神系の建甕槌命が藤原・中臣氏によって天つ神としての武甕槌命に変えられて春日大社に遷座し、藤原氏の氏神とされた武甕槌命が大生神社に復座し、改めて今の鹿嶋神宮に祀られたということかもしれない。ただ、これらを傍証する史料等はない。 

※社殿
 参道入口に立つ大鳥居(鹿島鳥居、石製・昔は木製)から東西に直進する参道が楼門(寛永11年・1634造)を過ぎた右手に、北面して拝殿と本殿が鎮座する。参道軸に対して、社殿は横を向いている。
 “当社例伝記”(中世の頃か)
 「本朝の神社多しといへども、北方に向ひて立ち給ふ社は稀なり。鬼門降伏・東征静謐の鎮守にや」
とあるというから、古くからの社殿様式といえる。

 延喜式によれば、当社の本殿は20年に一度改築とあるが、今はおこなわれていない。今の社殿は、元和5年(1619・徳川2代将軍秀忠の寄進という)造営のもので、極彩色の権現造(本殿と拝殿を“石の間”で繋いだ様式)
 本殿・拝殿その間を繋ぐ“石の間”ともに国の重要文化財。

◎本殿−−重要文化財
 本殿は三間四方の流造で、その外側に外廊が巡り、檜皮葺の大屋根で覆われている。透塀や狭間から覗き見する本殿は、やや古びて色あせしてはいるものの、朱色を主体とした極彩色で彩られた華麗な観を呈している。
 当社の本殿が変わっているのは、社殿は北面しているのに、内陣に設けられた“神座”は南西隅に東面していることで、《鹿島神宮》には、
 「社殿の中で一番重要な御祭神は、ふつうの神社のように中央にいて、参拝者に相対するようには置かれていない。横向きに、しかも中央ではなく、田の字形に区切って考えると、入って右側の奥に鎮座しておられる」
と記し、この内陣構成は出雲大社と共通するという。
 ただ、出雲大社が妻入りで中央に“心の御柱”があるのに対して、当社は平入りで中央の柱がないところが異なる。

 本殿社殿が北面しているのは、当社がもつ北方の蝦夷鎮圧という役割からかと思われるが、神座が東面しているのはわからない。
 当社の原点とも解される坂戸社の鳥居が東の海岸にあり、板戸社の正殿も神座も東面するが、香島天大神が太平洋側に上陸して当地に至ったという伝承から、朝日の昇る太海原に向いているのだともいう。

 本殿背後に、樹齢1200年ともいう杉の大樹(ご神木)が立つ。幹廻り・目通り11m、高さ約43m。


鹿島神社・本殿(側面)

同・本殿(西端部)

同・本殿内配置図

*御戸開神事−−現白馬祭
 当社本殿は“不開殿”(アカズドノ)と呼ばれ、正月7日のみに扉が開けられる(御戸開神事)という。

 古く、この御戸開神事に奉仕するのは、物忌(モノイミ)と呼ばれる若い女性一人で、当社大宮司著の古文書(1266・鎌倉時代)には、
 「物忌女官一人が、毎年正月七日(旧暦)の御戸開きの夜、内陣に入って去年納めた幣帛を取り出し、今年の弊を納める。未婚の女性二人あるいは三人を選び、百日間潔斎させた後、大宮司が亀卜(キボク)により一人を選ぶ」(大意)
とあるという。

 物忌とは伊勢神宮の斎宮や上・下賀茂社の斎院(斎王)と同じで、阿礼乎止女(アレオトメ)ともいうから、御戸開神事は御阿礼神事(ミアレ、神婚神事)ともいえる。
 ミアレとは神と巫女との神婚による御子の誕生であり、モノイミであるアレオトメは、ただ一人で本殿に入って幣帛を新たにして神の訪れを待ち、神の御子を生む神の妻である。

 年に一度(年の変わり目−新年−が多い)、“神に選ばれた未婚の処女が、神殿で神の訪れを待つ”との伝承は、古代メソポタミアなど世界各地にあり、それは賀茂社に残る伝承、川(水)の畔で神の降臨を待ち神の御子を生んだ乙女(巫女)・タマヨリヒメとも連なる。
 ただ鎌倉時代になると、物忌女性2〜3人が本殿に入り、新旧の幣帛をとりかえるだけになったともいわれ、そこには神の妻としての面影はない。

 この御戸開神事にかかわって、“旧臘除夜から7日夜まで大宮司が御供所で忌籠もり、その間、一切の鳴り物が禁止され”、この忌籠の7日7夜を“大神の御鎮まり”と称し、忌籠が開けて丑の刻(午前2時頃)に御戸を開くことを“大神のお目覚め”と称したという。

 “大神の御鎮まり”とは神の死を、“大神のお目覚め”とは神の復活・再生を意味する。
 太陽の活動が弱くなる冬至のころを新年としていた古代、冬至からの6日間は神の籠もり即ち死の期間であり、太陽が動き出す7日頃は神の目覚め即ち復活・再生の日と受け止められていたという(「7日正月」ともいう)。この復活した神と神婚するのが神殿処女としての物忌であり、そのために物忌のみが不開殿(本殿)に入るのだという。

 神宮栞によれば、今、新暦の1月7日におこなわれる白馬祭(オウメサイ)を、別名・“お目覚め神事”という、とある。
 江戸時代までの宮廷では、正月7日(旧暦)に“白馬節会”(アオウマノセチエ)がおこなわれ、天皇が紫宸殿の南庭で白馬(アオウマ)を見て、その年の邪気を祓ったという。
 白馬とは葦毛(白色または青みかかった灰色)の馬を指し、陰陽五行説で青色は春を指すことから、春を迎える新年の行事として執り行われたという(明治以降、廃止された)
 この白馬行事が、後堀河院の御代(1221--32)、藤原頼経が征夷大将軍(鎌倉幕府第4代将軍)として東国へ下向(1226)して以来、鹿島神宮でもおこなわれ、そのとき白馬7頭を引きまわしたという。

 今、かつての御戸開神事の形を変えた正月神事を“白馬祭”と称し、“お目覚め神事”と別称するのも、かつての御戸開神事をひきついだためといえる。

◎拝殿−−重要文化財

 間口五間・奥行三間の入母屋造・檜皮葺。特記事項なし。
鹿島神社/拝殿
鹿島神宮・拝殿
鹿島神宮/拝殿内陣
同・拝殿内陣

※摂末社・その他
 当社栞によれば、境内に“奥宮”・“高房社”・“三笠社”、境外に“息栖神社”(鹿島郡神栖町)・“跡宮”(鹿島市神野)・“沼尾神社”・“坂戸神社”(上記)の7摂社、他に15社の末社があるという。

◎奥宮(摂社)−−重要文化財
 祭神−−タケミカヅチの荒御魂(アラミタマ)

 本宮から奥参道を約250mほど進んだ終点近く、鬱蒼たる鹿島神宮の森の中に、鹿島鳥居(木造)に連なる透塀に囲まれたなかに、北面して鎮座する。
 慶長10年(1605)、徳川家康が本殿として奉納したものを、秀忠による元和の社殿改築の祭、当地に移したという。
 古くはなっているが、現本殿の華麗さに比べて簡素で清々しく、古社の面影を留めている。内陣の様子(神座の向きなど)は不明。
 タケミカヅチの荒御魂を祀るというが、古くは当社本来の祭神・香島天大神を祀る社だったかもしれない。 
鹿島神社/摂社・奥宮
鹿島神宮・奥宮(摂社)

◎高房社(摂社)
 祭神−−建葉槌命(タケハツチ)
 本殿の対面に参道をはさんで鎮座する小祠。この社のみが西面しているが、その理由は不明。
 書紀・国譲りの段(本文・注)に、
 「タケミカヅチとフツヌシの二神は、オオクニヌシから葦原中国を譲り受けた後、各地の邪悪な神々や精霊を平らげられ、従わないのは、星の神・香香背男(カカセオ)だけとなった。そこでタケハツチ命を遣わして服させた」(大意)
とあり(書紀・一書2では、フツヌシ・タケミカヅチの2神がカカセオを討ったとする)
 《鹿島神宮》には
 「タケミカヅチが鹿島に降りられたのは、鹿島から約70km北の大甕に住むカカセオを討伐するためであった。・・・タケミカツチは見目浦の磐座にましまして、タケハツチ神を遣わしてカガセオを討たしめた。・・・タケハツチは命令によって北に進み、大甕(オオコカ)のカガセオを瓜浦(ウリウラ)で討ちとり、そのまま瓜浦に止まり、静神社(シズ、茨城県那珂市瓜連町・常陸国二の宮)として祀られた」(大意)
とある。
鹿島神宮/摂社・高房社
鹿島神宮・高房社(摂社)

 カカセオとは天津甕星(アマツミカボシ)とも呼ばれる星の神で、書紀では天つ神に最後まで抵抗した神として登場するが、古事記には出てこない。
 タケハツチを主祭神とし、討伐されたカカセオの荒魂を封じ込めた大巌(宿魂石)の上に鎮座するとされる大甕神社(オオミカ・現茨城県日立市)の栞によれば、
 「常陸国に悪神がおり、名を天津甕星またの名を天香々背男といった。大甕の地に陣取り東国の陸地はおろか海上まで一大勢力を持っていた」
とある。古代ヤマト勢力の東北拡張に際して、これに抵抗した在地勢力(豪族ら)をカカセオの名で代表させたものであろう。。

 タケハツチ命は、古代の機織りにたずさわった倭文氏(シトリ)の祖神とされる(古語拾遺に「倭文遠祖・天羽槌雄神=タケハツチ」とある)
 倭文布(シトリ・シドリ・シズ)とはわが国古代の織物の一種で、麻・苧麻(カラムシ)などの繊維を染色して織った縞模様の織物というが、その実体は不明。衣服であるとともに、呪力を帯びた布として神に捧げる幣帛にも使われたという。

 常陸国風土記には、
 「久慈郡に静織(シドリ)の里がある。上古の昔には綾(シヅ)を機(ハタ)を知る人がなかったとき、この村で始めて布を織った」
とあり、延喜式には「常陸国は倭文二疋を納むべし・・・」とある。
 また万葉集・防人歌のなかに、タケハツチの後裔とみられる倭文部可良麻呂(シトリベ カラマロ)の歌(4372)が納められていることから、常陸国にタケハツチを祖神とする倭文部なる機織り集団がいたことが証される。なお、静神社のシズはシトリが訛ったものという。

 機織りの祖神であるタケハツチがカカセオ討伐の武神とされる由緒は不明だが、倭文布は衣服だけでなく、神に捧げる幣帛にも用いられた聖なる布で、「御幣の材料である倭文布で織った衣服を着ることで、罪や穢れがその衣服に付着して祓い清められる、と考えられていた」(大意)とあるように、この布のもつ呪力によって悪神を討伐するためにタケハツチが登場したのではないか、ともいう(「日本の神々11」・大甕神社)。 

◎跡宮(境外摂社)
 資料(鹿島神宮・大和岩雄)によれば、本社の南(鹿島市神野)にある境外摂社で“荒祭宮”ともいう。
 今の祭神はタケミカヅチとなっているが、古くは大曲津命(オオマガツ)を祀ったという。オオマガツの“曲・マガ”は古事記にいう八十禍津日命(ヤソマガツヒ)・大禍津日神(オオマガツヒ)の“禍”である。
 荒祭宮を跡宮というのは、当地が香島天大神の最初の降臨地とする伝承によるもので、鹿島神が奈良の春日大社に遷座したとき、当地から出発したともいわれ、最初の社殿造営地だったのではないか(大意)、という。

 なおマガツヒ神とは、黄泉国から逃げ帰ったイザナギに付いていた穢れから生まれた神で、人々に禍をもたらすとされるが、これを祀れば災厄が福に転じるともいう。いいかえれば、神霊がもつ二面性(和魂・荒魂)のうちの荒魂に当たるともいえる。
 時間の都合で参詣はしていない。


◎末社群
 楼門の左手、叢林中に入ったところに
 ・坂戸社・沼尾社遙拝所
 ・須賀社−−スサノヲ(ゴズテンノウともいう)
 ・津東西社−−タカオカミ・クラオカミ−北浦に天降った水神で、港の守護神
 ・祝詞社−−フトタマ命−祝詞を司る神
 ・熊野社−−イザナギ・コトサカノオ・ハヤタマノオ−熊野の神
が建つ。遙拝所には社殿はなく、須賀社以下には古びた小祠が並んでいる。
 坂戸・沼尾両社(境外摂社)は、当社創建以前、当社と一体とされた古社(前述)だから、その遙拝所があるのは理解できるが、その他社の勧請由緒は不明。
 なお、奥宮の手前にも“熱田社”(スサノヲ・クシイナダヒメ−農業の守護神とある)との末社がある。これら以外の末社については不明。


坂戸社沼地社遙拝所

須賀社

津東西社

◎要石(カナメイシ)
 奥宮前の三叉路を右にとった先にある聖域。
 黒木鳥居(樹皮を付けたままの鳥居)と簡素な木製柵に囲まれた中に立つ幣帛の前に、平たい丸石の頭頂部がわずかに露出している(径≒30cm、高≒7cmほど)
 脇に立つ案内によれば、
 「神代の昔、香島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも、古代における大神奉斎の座位としての磐座とも伝えられている。この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まるところ知らずという。水戸黄門仁徳録に、7日7夜掘っても掘りきれずと書かれ、地震押さえの伝説とあいまって著名である」
とある。
 太古の昔、カミが降臨する磐座として崇敬された聖石と思われるが、地中に深く埋もれるとかで全体像は不明。

 俗信では、この要石は地震を起こすナマズを押さえ込んでいるとされ、これを鯰石ともいった。当地に至る三叉路にはナマズを踏みつけて立つ鹿島大神を刻した石碑が立っている。
 水底に潜み強靱な生命力を持つとされるウナギ・ナマズ・サンショウオなどは水界の主とされたが、特にナマズは地震を起こす霊力があると信じられ、そのナマズを押さえ込む鹿島神への信仰が、江戸時代の暦(伊勢暦・江戸暦)の表紙に描かれた地震鯰絵、同じく「ゆるぐとも よもや抜けじの要石 鹿島の神のあらんかぎりは」との地震歌などを通じて広く喧伝されたという。

鹿島神宮/聖地・要石
聖地・要石
鹿島神宮/幣帛と要石
幣帛と要石
鹿島神宮/ナマズ石碑
ナマズを押さえる大神

 傍らに、自然石に 「枯れ枝に 鴉とまりけり 穐(アキ)の暮」 と刻した芭蕉の句碑が立っている。
 説明によれば、「この句は、この地で詠まれたものではないが、状況が似ているから建てられたと推察される」とある。
 状況が似ているから、というが、鬱蒼たる神宮の森と、この句から受ける雰囲気とは結びつかない。なお、穐は秋の古字。

◎御手洗池(ミタラシイケ)
 奥宮前の三叉路を左にとった先にある泉池。池の中ほどに鳥居が立ち、その左右に玉垣が延びている。池の背後に、山から流れ出る泉がある。

 傍らの案内によれば、
 「古来、神職並びに参拝者の潔斎の池。清美な水が四時滾々と流れ出て、どのような旱魃にも涸れることがない霊泉で、神代の昔、御祭神が天曲弓(アメノマガユミ)で掘られたとも、宮造りの折一夜にして湧出したとも伝えられ、大人子供によらず、水位が乳を越えないという伝説により、七不思議の一つに数えられている。
 大昔は、当神宮の参道がこの御手洗を起点として、この池で身を浄めてから参拝するので、御手洗の名が今も残る」
とある。
 透き通った池には色鯉が泳ぎ、池前の小さい広場の先には鳥居が立ち、廻りには茶店数軒がある。

鹿島神宮/御手洗池
御手洗池
鹿島神宮/御手洗池の遊水池
同・湧水地点

*参考資料
 ・鹿島神宮−−東実(トウ ミノル・鹿島神宮元宮司)・1968
 ・鹿島神宮・香取神宮・大生神社・大井神社(日本の神々11所収)−−大和岩雄・1984
 ・鹿島神宮・香取神宮(神社と古代王権祭祀所収)−−大和岩雄・1989
 ・藤原不比等−−上田正昭・1986
 ・春日明神−−上田正昭・1987
 ・神々の流竄−−梅原猛・1985
 著名な神社にしては、(関西で)入手できる資料は少ない。

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