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交野の神社-1

機物(ハタモノ)神社・郡津(コウヅ)神社・川東神社・菅原神社・小松神社(別稿)

※機物神社--交野市倉治1丁目
 JR学研都市線・津田駅の南約800m、交野久御山線・倉治交差点のすぐ東に「機物神社」との石標が立ち、すこし入った参道途中に大鳥居が見える。
 参道には、江戸末期の文政2年(1819)・同11年(1828)といった紀年銘を刻した常夜燈(石燈籠)数基が立っている

機物神社・参道入口
機物神社・参道入口
機物神社・常夜燈
文政11年銘の常夜燈

  祭神--本殿:天棚機比売大神(アマノタナバタヒメ)・栲機千々比売大神(タクハタチヂヒメ)
            ・地代主大神(トコシロヌシ)・八重事代主大神(ヤエコトシロヌシ)
        末社-東宮:八幡大神・春日大神
             西宮:住吉大神・大山咋大神(オオヤマクヒ)・比留子命(ヒルコ)・菅原大神

 当社は“機:ハタ”を含む神名をもつ女神2柱を主祭神とするように、機織りに関係する神社だが、その創建年代ははっきりしない。
 社伝では、京の都が焦土と化した応仁の乱(1467~77)収束直前の文明8年(1476)に、後土御門天皇が天下平安を祈願するため神祇管領の卜部兼倶を遣わしたことをもって創始とするが、それ以前からあったとみるのが自然だろう。

 交野町史(昭和38年-1963編、以下「町史」という)によれば、古墳時代に養蚕・機織りの技術をもって渡来し、寺村・倉治・津田辺りの山麓一帯に村落を営んだ機織り集団が(秦氏系ともいう)、その統率者(あるいは祖先)の“漢人庄員”(カンジンショウイン)を祀ったのが始まりという。
 新撰姓名録(815撰上)に「交野忌寸(イミキ)は漢人庄員より出ず」とあることから、当地に漢人庄員の流れをひく有力な渡来人集団がいたことは確かで、彼らが齋き祀ったのが当社であろう。

 平安時代になると、桓武天皇をはじめとする多くの大宮人等が交野の野に遊猟するようになるが、敬天思想・七夕伝説などに親しんでいた彼らは、当地で見聞きする地名・山川名などに天上にからむ文学的な美称をつけて呼ぶことが流行し、そのなかで当社の祭神も、機織集団の祖先・漢人庄員から七夕伝承の織女星・機織り姫へと替えられたと思われる。
 それが今の主祭神アマノタナバヒメ・タクハタチヂヒメである。今は2柱の女神となっているが、古くは“天棚機千幡栲機千々波比売”との長い名をもつ1柱の女神だったともいう。

 併祭神のトコシロヌシは古くからの地主神と思われるが、詳細不明。祭神が替わるときに、本来の祭神が脇に貶められた事例も多いから、古くからの祭神・漢人庄員の名をトコシロヌシと替えたのかもしれない。
 また明治8年に、倉知の南にある神宮寺宮山の鎮守宮(祭神:スサノヲ命)を合祀したというから、その鎮守神かともおもわれる。

 同じくヤエコトシロヌシは、通常、出雲神話の主神・オオクニヌシの子で託宣神とされるが、葛城・鴨を本拠とする託宣神ともいう。
 書紀に「また曰く」として、コトシロヌシがミゾクイタマクシヒメのもとに通ってヒメタタライスズヒメを生んだとの説話があり、この2姫を祀るのが淀川の対岸・茨木の溝咋神社であることからみて、葛城系の人々が奉祀していた神を合祀したのかもしれない。
 また、コトシロヌシは海に関係することから同じ海神であるエビスと習合しているから、エビスとして祀ったのかもしれない。コトシロヌシは斯様にややこしい神である。

機物神社・拝殿
機物神社・拝殿
機物神社・末社(西宮)
機物神社・末社合祀殿(西宮)

 参道を入って左手、鳥居の奥に拝殿が見える。当社最初の社殿建造は卜部兼倶奉斎以前であるには違いないが詳細不明。現在の社殿は、豊臣秀次新築(文禄3年-1594)の社殿が永保5年(1708)に大破したため再建したものという。最近では、平成元年に修復したそうで(修築記念碑あり)、美麗である。
 南面する本殿の左右(東西)に末社合祀殿が各1棟ある。覆屋の中の小祠は古びているが、覆屋は平成元年修復とかでしっかりしている。末社に祀られる祭神の鎮座由緒などは不明。
 境内の一画に鳥居と石柵で囲まれた聖域があり、中に簡単な岩組と石燈籠数基が立っている。社殿建造以前の祭祀場・磐境(イワサカ)の跡かもしれない。


※郡津神社--交野市郡津1丁目
 京阪交野線・郡津駅の東南約700m、平安時代の交野群衛(グンガ、国の下の郡役場)と推定される台地上に鎮座する。
 当社は郷津の氏神社というが、その由緒など詳細は不明。社名は“コウヅ”と読む。

 社頭に掲げる案内によれば
 「元一の宮と呼ばれ、白鳳時代(696~710)に交野地区で権力を振るっていた交野郡衛により創建され、同じ時期に建立された長宝寺とともに奈良・平安にかけての神仏習合の社寺として栄え、鎌倉時代初期に長宝寺が焼失し廃寺となった後は、この宮だけが氏神信仰の中心として栄えた。
 明治初年に神社の統廃合がおこなわれたとき、東高野街道西側にあって住吉明神を祀っていた『二の宮』および郡津大塚地区の丸山古墳の東にあってアマテラスを祀っていた『三の宮』を合祀し、名も郡津神社と改め、今日に至っている」
とある。
 当地にあったという長宝寺はいわゆる神宮寺(宮寺)だろうが、戦後の調査によれば、境内のほぼ全域からその遺構・遺物が発掘され、現社地が長宝寺の跡であることが確認されている。

 祭神--本殿:素箋雄命(スサノヲ)・住吉大神・天照大神
       末社:金刀比羅大神・天神地祇・稲荷大神・貴船大神
 本殿に祀る祭神は、旧一・二・三の宮の祭神を合祀したもの。
 ただ、旧一の宮の祭神。スサノヲは明治以降の神名で、本来は疫病除けの神・牛頭天王(ゴズテンノウ)が、明治の神仏分離でゴズテンノウを祀ることが禁止されたため、同体とされるスサノヲに差し替えられたものであろう。
 また旧二の宮の住吉大神の原姿はニギハヤヒかもしれない。

 拝殿右手に末社4社をまとめた合祀殿があり、中に古びた祠が4基(大小各2基)が安置されている。ただ、各祠と祭神との対応、その鎮座由緒など不明。また町史では、末社名を牛場・瑞本・丸山・艮野とあるが、現在の末社との対応もまた不明。

郡津神社・拝殿
郡津神社・拝殿
郡津神社・末社合祀殿
郡津神社・末社合祀殿


※川東神社--交野市森南2丁目
 京阪交野線・河内森駅の東約250m、天田神社の隣に鎮座する。天田神社境内の東を流れる三つ叉川(幅約1m強)を渡り、川と道に挟まれた狭い土地に祀られた小祠で、樹木に覆われているため注意しないと見過ごす。

 当社の創建由緒など不明だが、社殿はまだ新しい。脇の社標柱に「昭和61年12月吉日 森氏子」とあり、その頃修復されたらしい。
 祭神を『品陀和気命』(ホムタワケ、応神天皇)とするが、当地にホムタワケを祀る由緒は不明。
 明治の神仏分離の時、それまでの祭神を記紀神話や風土記などの著名な神に替えた事例が多いことからみて、ホムタワケとあるのは明治以降のことで、古くは名の知られない地主神だったのかもしれない。

川東神社・全景
川東神社・全景
川東神社・本殿
川東神社・本殿
川東神社・社頭
川東神社・社頭

 社殿の前に、笠石を被った燈籠のような円筒石柱一対が立ち、左の1基には“寿永寺元皓”との僧名が刻まれている。
 町史によれば、僧・元皓は江戸・寿永寺の住職で森・向井氏の出自、寛延年間(1748~51)に父母の墓参のため郷里に帰り、当社に鳥居を寄進したが、後に倒壊したため、その残材を用いて立てられたものという。


※菅原神社--交野市傍示
 交野市寺の辺りから竜王山南麓を東西に走る“かいがけの道”と、府民の森くろんど園からの“さわたりの道”との合流点のやや西に位置する。いずれも山間を通る狭い地道で、今はハイカー以外の往来は希。東へすこし進んだ峠が奈良県との県境。
 町史によれば、
 「明治3年の神社調べには、石鳥居・拝殿・神楽殿および石段があり、その上に神社がある図が載っている」
とあるが、今は、雑木が生い茂った道端に古びた鳥居と石燈籠一対が立つのみで、道から社殿は見えない。
 鳥居には「奉寄進 天満宮□前 延享三年(1746、江戸中期)丙寅九月」との紀年銘が読める(□は判読不能)

 鳥居のすこし左手に神社への坂道(参道)があるが、表示などなく、上に神社があると知っていても注意しないと見過ごす。“く”の字に折れた坂道を登ると左手の山腹・石段の上に小さな社殿(祠)が建っている。位置的には鳥居の真上に当たる。
 昔は、大和川・河内側をとわず傍示当たりの人々に奉祀されていたというが、今は参道・社殿ともに荒れていてお祀りされている様子は見えない。

菅原神社・道端の鳥居
菅原神社・道端の鳥居
菅原神社・社殿
菅原神社・社殿(祠)

 当社の祭神は菅原道真で、紅梅神社または天満宮社とも呼ばれたというが、鎮座由緒など不明。
 分水嶺である峠近くに祀られていることをみると、当社の道真は学問の神というより、その前身である水神・雷神を従える御霊神としての道真かもしれない。
 ただ、急勾配の石段上に建つ社殿のうしろに大きな岩があることからみると、当社の起源は磐座信仰であり、そこに菅原道真をかぶせたともいえる。
 町史には「傍らに戎社がある」というが、今は見当たらない。

 昔の“かいがけの道”は、大和と河内を結ぶ重要な交通路として利用されていた。当社前を東に進み坂を登りつめた国境いの峠には小広場と休憩所があり、明治維新までは熊野の八王子を祀る小祠があったという。
 町史には、「八王子とは紀州熊野神社の祭神スサノヲの8人の御子神」とあるが、特定の神というより、この道が熊野詣の十津川道に連なることからみて、熊野街道に多い王子社のひとつであって、彼我の境界である峠を越える人々が草花を手向けて旅の安全を祈った“手向けの神”であろう。

 また町史では、祭神をスサノヲの御子とするが、本来のそれはゴズテンノウの8王子であって、峠という境界にあって邪霊・疫神の往来を遮る“塞の神”とみることもできる。
 町史には、「八王子社は当社に合祀された」とあるが詳細不明。
 今は鳥居前を奈良方に進んだ道端に、『中世熊野街道傍示八王子』との石碑が立っている。

 この辺りの地名は“傍示”と書くが本来の表記は“牓示”(ホウジ)で、境界を示す“標識”を意味する。当社前を東に進んだ峠はかつての河内・大和の国境で、昔、河内方の山中に住む人がなかったため、大和方からの盗伐などが多く、困った河内郡司が延喜17年(917、平安初期)に河内の国司に願い出て、国境の標識として牓示石を立てたのが“ほうじ”のはじまりという。

※小松神社(星田妙見宮)--交野市星田9丁目→別稿・妙見信仰(星田妙見)参照

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