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交野の神社-2

住吉神社(私部)・住吉神社(寺)・天田神社・若宮神社・星田神社

※天野川と住吉神社
 交野の天野川沿いには住吉四神を祀る神社が11社中7社を数える。
 うちニギハヤヒを主祭神とするものが上記5社で、併祭神とするもの2社(磐船・郡津)がある。
 他に上流の京都府生駒に2社(いずれも田中社)、下流の枚方に1社(村野社)がある。

 その理由として、交野町史(昭和38年編、以下「町史」という)は次のようの記している。
 古代の天野川沿岸一帯を支配していた交野物部氏は、天野川上流・磐船谷にある舟形の巨岩を祖神・ニギハヤヒの降臨に際して乗ってきたの天磐樟船と見立て、これをご神体として祖神・ニギハヤヒを祀った。それが当地方の惣社としての磐船神社である。
 その後、天野川沿岸の低湿地での稲作農耕による開発が広まるにつれ、各集落には氏神としてニギハヤヒを祭神とする分社が勧請されていったが、その後身が上記5社である。

 その後、仏教伝来にはじまる物部氏・蘇我氏の抗争で物部氏本宗が没落し、各地の物部一族が弱体化するにつれて、ニギハヤヒの降臨伝承も人々の記憶から薄れ、
 特に、平安時代に入って都の大宮人の多くが交野の地に遊猟するようになると、彼らが親しんでいた敬天思想や七夕伝承あるいは詩歌などといった文芸趣味とあいまって、この地で見聞きするものに文学的・耽美的な名称を付けることが流行し、美味しい米が生まれる甘い田が天田へ、稲作に必要な水をもたらす甘の川が天の川へ、稲作に適しない乾し田が星田へ、渡来人の祖神を祀る機物神社の祭神が機織りの女神へと替えられていった。

 そういう風潮のもと、物部氏が祖神として崇拝していたニギハヤヒも、その舟に乗ってきたという伝承だけから同じ海神・航海神である住吉四神と習合し、磐船神社に住吉四神が合祀されて主神化し、それにともなって沿岸各社の祭神もニギハヤヒから住吉四神へと替えられていった。

 これが当地に住吉神社が多い理由だというが、神社の祭神は時代とともにその時々の流行神へと替わっていった事例も多く、一概にはいえない。


※住吉神社・私部(キサベ)--交野市私部1丁目
 京阪交野線・交野市駅の東約700mに位置する。
 社頭の案内には
 『当社は住吉四神と末社八社が祭祀されている元郷社で、近傍近隣の崇拝が篤い古社であるが、創建年代ははっきりしない。江戸末期まで境内に宮寺(神宮寺・現社務所付近)があって、その住職がお守りをしていた』
とある。
 神仏習合期には、神社境内に寺が建ち、僧侶が神事に当たっていた事例は多く、人々は神も仏も同じものとして参拝していた。

 祭神--本殿:住吉四神(元はニギハヤヒ命)
       末社:八幡大神・恵美須大神・菅原大神(3神合祀殿)--本殿左にあり
           天照大神・金比羅大神(2神合祀殿)・稲荷大神--境内右手にあり
           高龗大神(タカオカミ)・市杵島姫大神(イチキシマヒメ)--境内右手の池端にあり
 住吉四神を主祭神とする当社社殿は住吉造のはずだが、江戸時代に奈良・春日大社の式年遷宮により撤去された旧社殿を譲り受けたため、朱塗りの春日造となっている。近年になって修復されたようで、美麗。

住吉神社(私部)・拝殿
住吉神社(私部)・拝殿
住吉神社(私部)・本殿
住吉神社(私部)・本殿

 拝殿左の後方に八幡・恵美須・菅原の3神を祀る朱塗りの末社合祀殿があり、境内右手には末社のアマテラス・金比羅2神の合祀殿と稲荷社が、また境内右手奥の池端にはタカオカミ・イチキシマヒメを祀る小祠が並ぶ。
 タカオカミの“オカミ”は水を司る龍を意味する古語。またイチキヒメは宗像3女神の一で海神・航海の神。いずれも水神として祀られたのだろうが、鎮座由緒など不明。

住吉神社(私部)-末社
 末社-左:アマテラス・金比羅合祀殿
      右:稲荷社
住吉神社(私部)-末社(水神)
  末社(水神)-左:タカオカミ
           右:イチキシマヒメ

 境内の一画に高さ1mほどの石積みがあり、周りには石燈籠数基が立ち樹木が茂っている。正面に鳥居が建っているから何かを祀った聖地だろうが、社殿建立以前の祭祀場・イワサカの跡かもしれない。

住吉神社-磐境跡?
住吉神社(私部)・磐境跡?
住吉神社・お旅所
住吉神社・お旅所

 当社の西、交野市役所1ブロック西(私部2丁目)に『住吉神社お旅所』がある。石柵に囲まれた敷地の奥に四阿風の茅葺き建物が建っているが、詳細不明。


※住吉神社・寺--交野市寺
 JR学研都市線・河内磐船駅の東1.2㎞、交野市東部の竜王山地の麓に鎮座する。
 神社背後に山が迫り、前の狭い谷間には小さな棚田が重なる。右手脇に、奈良へ通じる“かいがけの道”への入口がある

 農道から一段高くなった境内の端に鳥居、奥に拝殿、その奥の石段上に本殿の祠が鎮座する。
 境内には古びた大振りの石燈籠2基と小祠がある。静かな雰囲気の神社だが、交通不便ということもあってか、忘れられかかった神社との印象が強い。

 町史によれば、
 「当社は寺村の氏神だが、古い由緒は伝わっていない。明治5年(1872)の神社の整理統合により私市の天田神社に合祀されたが、同12年には元に戻って村社となった。当社には昔から神主になく、氏子三座から出た11人の神守が持ち回りで神事を務め、その伝統は今も続いている」
とある。
 元禄5年(1692)の寺村社寺改帳に「氏神 住吉神社」とあるから、江戸時代以前からの古社である。因みに、氏子三座とは、いわゆる“宮座”といわれる古式の祭祀制で、特定の氏子集団による祭祀および維持管理制度を指す。交野・枚方には多かったらしい。

 祭神--住吉四神(元はニギハヤヒ命か)

住吉神社(寺)・拝殿
住吉神社(寺)・拝殿
住吉神社(寺)・本殿
住吉神社(寺)・本殿

石燈籠
(左奥がかいがけの道入口)

 当社背後の竜王山山頂には『八大竜王社』の祠があるという。
 町史には
 「勧請時期は不明だが、弘法大師創建の京都神泉苑に坐す竜神の分霊と伝える。その原姿は山頂にある磐座に寄せられた人々の信仰がはじまりだろう」
とある。
 山頂の磐座に祀られる神はいわゆる山の神で、それはまた水の神・田の神でもあった。水の利便が弱い山地・山麓にあって、豊かな水の供給を願ったのであろう。
 因みに弘法大師云々とは、淳和天皇・天長2年(824)、天皇の勅命により弘法大師が神泉苑にて降雨を祈り、インド無熱池の善女竜王(八大竜王)を勧請して、国中に雨をふらせたという伝承をいう。当社境内左隅に古びた小祠が建つが、竜王山頂の八大竜王を祀る祠かもしれない。

 境内の右手に“かいがけの道”への入り口があり、「左 やまと道」と刻した道標(古びた形はしているが古式道標を模したものらしい)と、「かいがけの道」との新しい石標と地図・案内板がある。
 説明板には
 「この道は、大和と河内を結ぶ重要な交通路として、古代には修験道として、奈良平安時代には紀州熊野へ詣でる熊野街道として、また天平時代(1753~92)には織田軍と戦った武将どもの馬駆けの道として、多くの者が行き交った」
とある。

 “かいがけ道”は“峡崖道”と書くように山の中を通る道である。
 京都から淀川または東高野街道を経由して交野に入り、峡崖を登って傍示を過ぎ、生駒・葛城・五条と南下して十津川の上流に出、川を下ると紀州・熊野に達したという。
 “十津川道”と呼ばれる熊野詣路で、昔は、大和・紀州への近道として多くの人に利用されたらしいが、今は、傍示から府民の森を経てくろんど池方面へのハイキング道となっている。

かいがけの道・道標


※天田神社--交野市私市1丁目
 京阪交野線・河内森駅の東約250m、町はずれの叢林の中に鎮座する。
 社頭の案内および町史をまとめると、
 当社は私市・森両集落の古くからの氏神だが、古く、天野川一帯には地味肥えた豊かな田野が広がり『甘田』・『甘野』と呼ばれていた。そこに“田の神”を祀った『甘田の宮』が当社の起源で、ニギハヤヒを祀ったという。

 天野川上流の磐船神社に対応する中流域の氏神社で、そのぶん他の神社よりも古い由緒をもつといえる。

 平安時代に入って、多くの大宮人が交野の地を訪れるようになり、先に述べたように甘田・甘野の地名が『天田』・『天野」となるにつれ、当社社名も『天田神社』と替えられ、祭神・ニギハヤヒも当時流行していた住吉四神に替わったという。

 祭神--本殿:住吉四神(元はニギハヤヒ命)
       末社・合祀殿:玉津島姫明神・厳島明神・八幡大神・戎神・八坂大神

天田神社・拝殿
天田神社・拝殿
天田神社・本殿
天田神社・本殿
天田神社・末社合祀殿
天田神社・末社合祀殿
天田神社・山車
天田神社・秋祭りの山車

 拝殿右手の叢林の中に、5柱の神を祀る合祀殿があるが、社殿が小さくて目立たない。
 厳島は水神、八幡は武神、戎は商売繁昌、八坂は疫病除けの神だが、玉津島姫は不明。
 時々の氏子の要請にあわせて祀ってのだろうが、その鎮座理由などは不明。なお、当社の秋祭りの山車は鄙にも希といっていいほど豪華・美麗である。
 境内東の小川を渡った処に「川東神社」が鎮座する。当社に隣接しているため末社のように見えるが別の神社。


※若宮神社--交野市私市6丁目
 京阪交野線の終点・私市駅の西約250m、磐船街道沿いの集落内に鎮座する。向かいが私市会館。

 祭神--本殿:住吉四神(「起源はニギハヤヒ」と記す)
       末社:秋葉明神
 社頭の案内によれば、
 「当社は私市の氏神で住吉四神を祀る。当地区の氏神としては天田神社があるが、もともとこの宮は産土の神を祀ったものと考えられる」
とある。
 ただ、ここでいう“この社”が当社なのか天野神社なのか文面でははっきりしない。氏神社は一村一社を通常とするのに、私市集落だけが二社というのは珍しいる(若宮神社参照)

 町史によれば、
 「江戸時代の宝永年間(1704~11)に、交野の星田・私市と生駒の田原・南田原村の惣社である磐船神社の宮座(氏子組織)の間で争いが起こり、その解決がつかずに分裂したため、各村は磐船神社の分霊を神輿に乗せて自村に持ち帰ったが、私市には既に天田神社があったため若宮神社と称して祀った」
とある。
 この由緒は、星田神社と同じである。案内に「ニギハヤヒを起源とする」とあるものの、ニギハヤヒそのものは祀られていないらしい。

 この由緒からみると、当社の起源は磐船神社での宮座分裂によると思われるが、社頭案内に、いう“この社”が当社を指すのであれば、宮座分裂以前から、何らかの形で鎮座していたことになる。

若宮神社・社頭
若宮神社・社頭
若宮神社・本殿
若宮神社・本殿
 本殿左手、覆屋の中に古びて壊れかかった祠がある。社頭案内の末尾に
 『末社 秋葉明神社 元獅子窟寺境内にあり、長慶天皇御霊社として祀ると思われる』とあるのがこれで、明治の神仏分離によって寺院から神社へと遷ったのであろう。

 長慶天皇(在位1368~83)とは、南北朝時代の天皇で、北朝(北条氏)勢力が強大だった時代にあって南朝方の天皇として苦労され、各地を転々とされたという天皇で、その陵墓ははっきりしない。南朝方としては、後醍醐天皇の2代後に当たる。

 この天皇には、私市山中の獅子窟寺に逼塞されていたとき北朝方の攻撃を受け(元中7年1390)、その地で崩御されたという伝承があり(大正13年に発見された竹内文書)、北朝方の目をはばかる南朝方が密かに葬ったのが陵墓が「百重原大神宮」で、その後、更に「秋葉明神社」と改称したという(町史)
 なお百重原大神宮を、今、獅子窟寺参道脇にある“王の墓”とする説もあるが、この墓は後亀山天皇の供養塔とするのが定説。
 因みに秋葉明神とは、江戸時代に流行した“火伏せの神”(火災予防)で、長慶天皇とは何の関係もない。
秋葉明神社
秋葉明神社


※星田神社--交野市星田2丁目
 JR学研都市線・星田駅の東南約1.2㎞の住宅地内にある神社で、地図があってもわかりにくい。
 境内正面に大きな拝殿、白壁に囲まれた奥に本殿、その右に末社5棟が建つ。社殿は、主祭神が住吉神なのに朱塗りの春日造となっているが、これは奈良・春日大社の式年遷宮で出た古い社殿を遷したもので、春日造。

 祭神--本殿:住吉四神
       末社:交野社(ニギハヤヒ・スサノヲ・オオサザキ:仁徳天皇)
           八幡社(ホムタワケ:応神天皇)・戎社(エビス・コンピラ)
           天照社(アマテラス・イナリ)・天神社(スガハミチザネ)
 社頭の案内には、
 「星田の氏神は宝永年間(1704~11)まで磐船神社だったが、宮座間の軋轢あるいは宮主職の選出などで争いが起こり分裂したため、磐船神社のご神霊をこの地に遷して奉祀した」(大意)
とある。
 また町史によれば、
 「当社では、大昔からこの地に小さな祠(これを「古社」という)を建ててニギハヤヒを祀っていたが、磐船の惣社をこちらに遷すということで、古社よりも大きい社殿を建てて住吉四神を祀った」
とある。

 この古い祠の後身が、今、本殿の横にある『交野社』という。磐船の住吉四神遷座理由は私市の若宮社と同じだが、古くからの祭神・ニギハヤヒを別殿として残したところが違っている。

 なお古社について、別伝として
 「当地にあった杉の大木を氏神として崇めていたが、枯れたので、その芯をご身体として祀ったのが古社のはじまり」
ともいう。当地には、樹木をご神体とする古信仰(巨樹信仰)があり、それが同じ古信仰である磐座信仰を原姿とするニギハヤヒと一体化したものであろう。ただ、ニギハヤヒを祀る交野社にスサノヲ・オオサザキを合祀した理由は不明。
 
 八幡社は、もと星田集落南の高台・新宮山にあった八幡社(平安時代に石清水から勧請した社)を明治の神仏整理統合により当社に合祀したもので、戎社は、もと慈光寺境内にあった琴平宮を明治の神仏分離で当社の遷したものという。
 天照社・天神社の遷座理由は不明。なお、星田妙見として知られる『小松神社』は当社の境外末社とされている。

星田神社・拝殿
星田神社・拝殿
星田神社・本殿
星田神社・本殿
星田神社・末社-交野社
星田神社・末社-交野社

 交野における住吉四神の前身、ニギハヤヒを祭神とする惣社・磐船神社については、別稿・『磐船神社』参照のこと。

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