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交野の神社

郡津神社・住吉神社(私部)・住吉神社(寺)・菅原神社(傍示)
・天田神社・川東神社・若宮神社・星田神社
(上記以外の磐船神社織物神社星田妙見宮は別稿参照)

※天野川と住吉神社
 交野市内には住吉四神を祀る神社が11社のうち7社を数え、うち住吉四神を主祭神とするものが5社で、併祭神とするものが2社あるが、これら7社の元々の祭神は饒速日命(ニギハヤヒ)であったという。

 祭神が饒速日命から住吉四神に変わった理由について、交野町史(1963)には
 「古代の天野川沿岸一帯を支配していた交野物部氏は、天野川上流・磐船谷にある舟形の巨岩を祖神・饒速日命の降臨に際して乗ってきたの天磐樟船と見立て、これをご神体として祖神・饒速日命を祀った。
 それが当地方の惣社としての磐船神社である。

 その後、天野川沿岸の低湿地での稲作農耕による開発が広まるにつれ、各集落には氏神として饒速日を祭神とする分社が勧請されていったが、その後身が上記7社である。

 その後、仏教伝来にはじまる物部氏・蘇我氏の抗争で物部氏本宗が没落し、各地の物部一族が弱体化するにつれて、饒速日の降臨伝承も人々の記憶から薄れ、
 特に、平安時代に入って都の大宮人の多くが交野の地に遊猟などで訪れるようになると、彼らが親しんでいた敬天思想や七夕伝承あるいは詩歌などといった文芸趣味とあいまって、この地で見聞きするものに文学的・耽美的な名称を付けることが流行し、美味しい稲が実る甘い田が天田へ、稲作に必要な水をもたらす甘の川が天野川へ、稲作に適しない乾し田が星田へ、渡来人の祖神を祀る機物神社の祭神が機織りの女神へと替えられていった。

 そういう風潮のもと、物部氏が祖神として崇拝していた饒速日も、その舟に乗ってきたという伝承から同じ海神・航海神である住吉四神と習合し、磐船神社に住吉四神が合祀されてこれが主祭神化し、それにともなって沿岸各社の祭神も饒速日から住吉四神へと替えられていった」
とあり、これが当地に住吉四神を祀る神社が多い理由という。


※郡津神社--交野市郡津 1-7-1  (2021.02.11再訪・改訂)
 京阪交野線・交野市駅の北北東約650m、駅北を通る東西道路を東へ、交野郵便局前交差点を左折・北へ進み、小川に架かる橋を渡って二つ目の角を左(西)へ入った北側に鎮座する。
 地名・郡津は“コウヅ”と読む。

※由緒
 社頭に掲げる案内によれば
 「当社は郡津の氏神様で、その創建年代は詳ではありませんが、もと一の宮といわれ、白鳳時代(696~710)に当時交野地区で権力をふるっていた交野郡衛の郡司により、この地に建立された大堂山長宝寺と共に、奈良・平安にかけて神仏習合の形で栄えておりました。
 ところが鎌倉時代の初め長宝寺が焼失廃寺され、一の宮だけがこの地の氏神信仰の中心として栄えていたようであります。

 明治初年に神社の統廃合がおこなわれ、東高野街道西側の住吉明神を祀った『二の宮』、および現郡津大塚地区の丸山古墳の東で天照大神を祀っていた『大神宮』が当社に合祀され、名も郡津神社と改められて、今日にいたっております」

 また交野町史(1963)には、
 「この宮は郡津の氏神であるが、郡津部落の南端に部落を背にして南面している。
 祭神は素盞鳴命と住吉四神すなわち表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯姫命および天照皇大神と多くの神々である。
 こんなに祭神が多いのは、元この宮を郡津一の宮といっていたが、又別に高野街道の西に二の宮があって、明治維新にそれを廃し、その神々をもこちらへ合祀したからである。
 中野実家所蔵明治5年(1872)の当社の図面には、正面拝殿で周りを塀で囲んだ中に二社軒を並べて、南から妻入りになった神殿が描かれているが、合祀当時の姿であろう。

 この神社の由緒はわからないが、明治の初め頃では境内北の方、社の裏手に宮寺の長宝寺があったと伝えられて、今も空地になっている。
 ところが昭和35年この境内のあちこちで古亙を発見し、調査の結果、この宮の境内はすべて古代長宝寺の遺跡であることがわかった。
 してみると、昔長宝寺が焼失し、その後次第に衰微したのを幸いに、寺を裏手に押込めて、お宮が寺屋敷を占領してしまったということになる。(以下略)
とある。

◎長宝寺
 当地にあったという長宝寺は、古代の交野郡衙(グンガ、地方統治の拠点)跡と推定される倉山(クラヤマ)の東にあったという古寺。

 戦後の調査によって、当社境内のほぼ全域から寺の遺構・遺物が発掘され、現社地が長宝寺の跡であることが確認されているものの、寺の建立縁起・沿革など詳細は不明。 

 なお倉山とは、郡衙があった頃、この地に物資貯蔵の庫があったと思われることからの呼称という。

倉山と当社との
位置関係図

※祭神
   素盞鳴命・住吉明神・天照大神
 社頭の案内に、住吉明神及び天照大神は明治初年に合祀されたというから、当社本来の祭神は素盞鳴命であろう。
 ただ、当社および当地と素盞鳴との接点はなく、素盞鳴を主祭神とする由縁は不明。
 あるいは、元々は疫病除けの神・牛頭天王であったが、明治初年の神仏分離で牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから、同じ神格をもつとされる素盞鳴に替わったのかもしれない。
 また住吉明神の原姿は饒速日命かもしれない。

※社殿等
 前面道路からの石段上に鳥居が立ち、境内にはいる。

 
郡津神社・社頭

同・入口石段 
 
同・鳥居

 境内正面に入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して建ち、その背後、金網塀の中に、弊殿を介して本殿が鎮座する。
 本殿は、切妻造・妻入りで前面に向拝(庇)が見えるから春日造かと思われるが、金網の外から見えるだけで詳細不詳。


同・拝殿 
 
同・拝殿
 
同・本殿

◎境内社
 拝殿の右に切妻造・平入り・亙葺きの横長の社殿が西面して建ち、中に小祠4宇が鎮座するが、勧請由縁などは不明。
 小祠は、左側2宇が同形(一間社流造)でやや大きく、左側2宇も同形(切妻造)だが小さい。
 各小祠の社名・祭神名は不明。交野町史には末社として牛場・瑞本・丸山・艮野とあるが、それがどの小祠にあたるかは不明。
 ただ左端の小祠は、その前に白狐の小像が見えるから稲荷社と思われる。


同・末社合祀殿 
 
同・末社(左2社同形)
 
同・末社(右2社同形)


※住吉神社(私部)--交野市私部 1-36-2  (2021.02.11再訪・改訂)
 京阪交野線・交野市駅の東南東約700m、駅南から少し離れた東西道路・府道736号線を東へ、その突き当たりに鎮座する。
 地名・私部は“キサベ”と読むが、“キサイベ”ともいう。

※由緒
 頂いた「住吉神社略記」には
 「当社は住吉大神・神功皇后と末社八社が祭祀され、元郷社で近郷近在の崇敬特に篤い古社であるが、創建年代は詳らかでない。
 江戸時代末期まで、境内に宮内現光寺があって、その住職がお守りを兼ねていた。(以下略)
と簡単にある。

 また大阪府全志(1922)には
 「住吉神社は交野村大字私部の北方字向野にあり、表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯姫命を祀れり。
 旧社なれども創建の年月は詳ならず。
 本地の産土神として産土神社と称し、宮寺ありて奉仕し来りしが、明治維新の後に至りて分離し、社は同5年村社に列せられ、同20年今の社名に改む」

 大阪府神社庁第三支部HPには
 「当神社は住吉大神・神功皇后をお祀りする。近郷近在の崇敬篤い古社であるが、創建年代は詳ではない。
 本地の産土神であり、産土神社と称した。
 江戸時代末期までは境内に宮内現光寺があり奉祀してきたが、明治に至りて分離し、明治6年に郷社に列せられた。
 御本殿春日大社の旧本殿〔第一殿〕を式年遷宮(天保15年-1844)に賜りたるため春日造りである。
 境内には、末社『乾神社(戎大神・八幡大神・菅原大神)/巽神社(天照皇大神・金刀比羅大神)/稲荷神社/貴船神社/厳島神社』を祀る」
とある。

※祭神
   底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長帯姫命(神功皇后)

 今の祭神は住吉四神となっているが、本来は交野地方に多かった饒速日命であったものが、平安以降に現祭神に変わったものと思われる。

※社殿等
 府道736号線が西から北へ曲がる屈曲点に大鳥居が西面して立ち、入って左に境内が広がる。
 社頭の大鳥居について、神社略記には、
 「石の大鳥居は、文政8年(1825)に建立されたが、その後大風で倒れ、万延元年(1860)高さ二丈四尺(7.27m)柱廻り六尺九寸(2.09m)の雄大なものが、氏子総出で私部山より運び再建されたもの」
とある。
 境内は広く、拝殿・本殿の外に北・東・南に末社が鎮座する。

 
住吉神社(私部)・社頭
 
同・正面
 
同・大鳥居
 
同・配置図
 
同・境内(鳥居脇から北を望む) 

 鳥居を入った左手、一段高くなった正面に入母屋造・朱塗り・亙葺きに拝殿が南面して鎮座する。


同・拝殿 

同・拝殿 

同・内陣 

 拝殿・弊殿の背後に、春日造・朱塗り・銅板葺きの本殿が南面して鎮座する。
 住吉四神を主祭神とする当社社殿は住吉造のはずだが、江戸時代に奈良・春日大社の式年遷宮により撤去された旧社殿を譲り受けたため春日造となっている。近年修復されたようで美麗。


同・本殿(左より) 
 
同・本殿(右前より)

◎末社
 略記には、末社祭神として 天照皇大神・金刀比羅大神・恵美須大神・八幡大神・菅原大神・稲荷大神・高龗神・市杵島姫命の8座を挙げ、これらが3ヶ所に別れて祀られている。
 ただし、これら末社の勧請由来・年代等は不明。

*乾神社
 拝殿の左奥に南面して鎮座する3社合祀殿(切妻造・平入)で、社頭の案内には、
  ・八幡社(品陀和氣命ー応神天皇)・蛭児社(蛭児大神-えべっさん)・天神社(菅原道真公-天神さん)
とある。


乾神社 
 
同・内陣 

*巽神社・稲荷神社
 大鳥居を入った正面に鎮座する小祠2宇で、向かって左が巽神社、右が稲荷神社

 社頭の案内には
  ・巽神社(天照皇大神-皇室の祖神、大物主神-金刀比羅さん)
  ・稲荷神社(保食神-ウケモチお稲荷さん
とある。 

 
左:巽神社・右:稲生神社
 
稲生神社 

 巽神社は天照皇大神・大物主神の2座合祀殿で、内陣には左に大物主神(金刀比羅神)を、右に天照皇大神を祀る小祠が並んでいる。


巽神社 
 
金刀比羅社

天照皇神宮 

*貴船神社・厳島神社
 境内の南に鳥居が立ち、その奥、玉垣に区画されたなかに池があり、池東側の一画に朱塗りの小祠2宇が西面して鎮座する。
 社頭の案内には
 ・貴船神社(高龗神-旧龍王社)
 ・厳島神社(市杵島姫命-旧弁天社)
とある。


境内南の池前に立つ鳥居 

(左上に小祠2宇がみえる) 
 
左:貴船神社、右:厳島神社

*遙拝所
 境内東側に鳥居が立ち、遙拝所とある。
 鳥居脇の案内には、「朝日並びに交野山・伊勢神宮・皇居などを遙か遠くから拝礼する所です」とある。
 鳥居の奥に石組みの基壇があり、周りに大小の石灯籠が数基立っているだけ。


遙拝所・鳥居 
 
遙拝所

【住吉神社御旅所】 (2021.02.11再訪・改訂)
 住吉神社の北西約400m、交野市役所西側の角を南に入った右側にあるが、正面入口脇に「住吉神社御旅所」とあるのみで、案内等はない。
 境内は綺麗に整備されているから、祭礼時の御旅所として使用されているらしい。

 玉垣に囲まれた境内西側に一対の門柱が立つが、扉が閉まっていて中には入れない。
 境内正面に四阿風の茅葺き建物が建ち、正面扉の隙間から覗くと、建物奥の白壁に囲まれた中に「住吉神社行宮」との石柱がみえる。


御旅所・全景 
 
同・正面
 
同・社殿


※住吉神社・寺--交野市寺1201  (2021.02.06再訪・改訂)
 JR学研都市線・河内磐船駅の東1.2㎞。駅前広場南東角から東へ約900m程行った角を右折(目印なし、角に立つ電柱に「寺2丁目6」とある)、道なりに進んだ先の「かいがけ道」とある角を右へ、くねくねした農道を進んだ左側に鎮座する。

 神社背後に山が迫り、前の狭い谷間には小さな棚田が重なる。
 境内右手に、奈良へ通じる“かいがけの道”への入口があるが、交通不便ということもあって人の往来はハイカーがほとんど。

※由緒
 境内に案内等なし。
 交野町史(1963)には、
 「この宮の古い由緒は伝わっていないが、明治5年(1872)6月神仏整理の際に私市村天田の宮に合祀せられたが、同12年7月にはもと通り返って村社となった。

 山添文造家記録にみえる元禄5年(1692)の寺村寺社改帳に『神主 無御座候』とあるように、当社は昔から神主がなく、村中の氏子三座(正座・山添座・畠山座)の内からそれを出し、人数を11人と定め、その人たちが廻り持ちで神事役にあずかった。これを神守(カンモリ)という。
 新しく神守になると、その家で成披露(ナリヒロウ)の宴を開き、村役と三座の神守を招き、厳しい古格による酒盛りをした。
 神守がこのようであったから、宮座も怠りなく続けられ、年がたつにしたがって次第に変遷はあったが、現在もなおその伝統は守られている」
とある。

※祭神
   住吉四神(元は饒速日命か)

※社殿等
 農道から一段高くなった境内の端に鳥居が立ち、正面に横に長い入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して建つ。

住吉神社(寺)・鳥居 
 
同・拝殿
 
同・拝殿

 拝殿背後の高い石垣の上に一間社流造・朱塗り・銅板葺きの本殿が南面して鎮座する。
 拝殿との間が狭く下からはよく見えない。また石段は旧だが手摺等なく昇降には注意が必要。


同・石垣上の本殿 

同・石段 
 
同・本殿

◎末社

 鳥居を入った左手と拝殿の右に小祠2宇が鎮座する。
 社名等の表示なく、如何なる神を祀るのかは不明。

 本殿もそうだが、末社2宇の正面階段部に“筵”(ムシロ)が掛けられている。
 何らかの意味があると思われるが、詳細不明。




 

境内左手の末社 

拝殿右の末社 

◎古石灯籠(常夜燈)

 拝殿の右前と鳥居右脇に大きな古い石灯籠2基が立ち、棹部に「常夜燈」と刻してあるが、建立年代は読み取れない。

 交野町史には
 「石材が近くて採れるためか、石垣・石鳥居・石段など石ばかりは豊富に使われている」
とあり、境内にはこの古石灯籠の他にも通常形の石灯籠が幾つかある。




拝殿右前 

鳥居右脇 

[付記]
 かいがけの道(峡崖道)
 境内の右手に“かいがけの道”への入り口があり、「左 やまと道」と刻した道標(古びた形はしているが古式道標を模したものという)、「かいがけの道」の石標及び峡崖道略地図を記した案内板があり、そこには、
 「この道は、大和と河内を結ぶ重要な交通路として、古代には修験道として、奈良平安時代には紀州熊野へ詣でる熊野街道として、また天正時代(1573--92)には織田軍と戦った武将どもの馬駆けの道として、多くの者が行き交った」
とある。
 案内板前を左に入ってすぐ右に「かいがけ道→」との表示があり、狭い山道が延びている。

 “かいがけ道”は“峡崖道”と書くように山の中を通る道である。
 京都から淀川または東高野街道を経由して交野に入り、峡崖を登って傍示を過ぎ、生駒・葛城・五条と南下して十津川の上流に出、川を下ると紀州・熊野に達したという。
 “十津川道”と呼ばれる熊野詣路で、昔は、大和・紀州への近道として多くの人に利用されたらしいが、今は、くろんど池から府民の森・傍示を経て当地へ至るハイキング道の出口となっていて、参詣時にも快晴のもと3組ほどみかけた(ただ、当社を礼拝される方はほとんどなし)
(別稿・かいがけの路から傍示の里参照)

 
峡崖道・入口(左の道のすぐ先に入口がある)
 
同・案内石標
 
同・峡崖道略地図(左下が当地)


※菅原神社
--交野市傍示 (2021.02改訂)
 交野市寺から竜王山南麓を東西に走る“かいがけの道”と、府民の森くろんど園からの“さわたりの道”との合流点のやや西に位置する。
 いずれも山間を通る狭い地道で、今はハイカー以外の往来は希。東へすこし進んだ峠が奈良県との県境。

※由緒
 案内等なく由緒・年代等不明だが、大阪府全志(1922)には
 「菅原神社は磐船村大字傍示字垣内にあり。菅原道真を祀る。由緒は詳ならず。
 もと紅梅神社と称せしが、後 今の社名に改め、明治5年に村社に列せらる。
 境内は267坪を有し、本殿の外に拝殿・神楽殿を存す」
とあるが、創建由緒・年代等は不明。

 また交野町史には、
 「菅原神社はもと紅梅神社、又は天満宮社といい、菅公を主神とし、脇に戎社があった。
 明治3年(1870)の神社調では、石鳥居・拝殿・神楽場及び石段あり、その上に神社を設けた図が残っている。境内390坪。
 明治維新まで、当社の宮座は奈良県領東傍示図宮社の座頭たちが、河内傍示の人とともに当社の神前に供え物をして株座を勤め、その後更に東西傍示の座が揃って、大和傍示図宮社の神前で株座を勤めるのが古来の式となっていた」
とある。

 これによれば、かつての当社は広い境内のなかに本殿・拝殿・神楽殿があったようで、昔は河内側・大和側を問わず傍示一帯の氏神として篤く奉斎されていたというが、今は、雑木が生い茂った道端に古びた鳥居と石燈籠一対が立つのみで、参道・社殿ともに荒れていて祭祀が為されている様子は見えない。

※祭神
   菅原道真
 河内と大和の境界であり分水嶺でもある峠近くに祀られていることをみると、当社の道真は学問の神というより、その前身である水神・雷神を従える御霊神としての道真かもしれない。
 ただ、急な石段の上に建つ社殿のうしろに大きな岩があることからみると、当社の起源は磐座信仰であり、そこに菅原道真をかぶせたともみえる。

※社殿等
 道路脇に樹木に覆われて鳥居が立ち、その前に石燈籠2基(天満宮との銘あり)が立つだけで、背後の崖上に神社があると知っていても注意しないと見落とす。
 なお、鳥居には「奉寄進 天満宮□前 延享三年(1746、江戸中期)丙寅九月」との紀年銘が読める(□は判読不能)

 鳥居の少し左手に神社へ至る坂道(参道)があり、“く”の字に折れた坂道を登った左山腹の石段の上に一間社流造・朱塗り・銅板葺きの社殿が鎮座する。
 竹藪と雑木林に囲まれた社殿は、大きな岩の上に鎮座し、背後にも大岩を背負っていることから、当社の原点は磐座信仰かもしれない。

 社殿の位置は鳥居の真上に当たるが、道からは見えない。

 
菅原神社(傍示)・鳥居
 
同・社殿への入口 

同・石段 

同・社殿 
 
同・社殿が乗る大岩

 当社前の峡崖道については上記。

*八王子社跡

 資料によれば、「峡崖の道を東に進み坂を登りつめた国境いの峠には小広場と休憩所があり、明治維新の頃までは熊野の八王子を祀る小祠があった」といわれ、
 今、鳥居前を奈良方に進んだ道端に、『中世熊野街道傍示八王子』との石碑が立っている。

 この八王子社について、交野町史には、
 「現在当社では、菅原神社の外に、明治維新まで大和道の峠の頂上付近にあった八王子社を合祀している。
 この峠付近は、河内大和の国境で、平安時代より以前から境界に牓示木(ホウジキ・境界を示す標木)を立て並べた処で、此処は大和富雄川の谷を北へ向かって河内へ通る、古代の上鳥羽路(カミツトロジ)の一として、磐船道とともに重要通路になっていた。
 平安朝の頃、皇室の熊野信仰が盛んになると、京都・熊野間の往復にこの道をとられることが多かった。そして街道の緒要所には、熊野遙拝所として八王子を(素盞鳴尊の皇子)を祀った小祠と休憩所が幾ヶ所も設けられた。これがこの宮の最初であった」 
 
石碑

 町史には、「八王子とは紀州熊野神社の祭神スサノヲの8人の御子神」とあるが、特定の神というより、この道が熊野詣の十津川道に連なることからみて、熊野街道に多い王子社のひとつであって、彼我の境界である峠を越える人々が草花を手向けて旅の安全を祈った“手向けの神”(塞の神・道祖神)であろう。

◎地名・傍示(ホウジ)
 この辺りの地名は“傍示”と書くが、本来の表記は“牓示”(ホウジ)で境界を示す“標識”を意味する。
 交野市史(1981)には、
 「交野町の一集落の名に傍示がある。傍示は、もと牓示と書いたが、字画が面倒だから、いつしか傍示になったものである。
 傍示のもとは地上の目印で、わが国では主に荘園の境界を明示するために立てられた。(中略)
 峡崖越の坂道を登って、河内・大和の国境になるところ、この辺りは交野郡字三宅山荘園と大和高山荘の境になっていたから、ここに牓示が立てられたのだろう。 
 今、その跡といっては、何物も残っていないが、集落名として東西に傍示がある。
 石清水文書によると、延喜17年(917・平安初期)交野郡司から、三宅山の木の盗伐をただすため(大和側からの盗伐が多かったという)、その四至( 境界)反別を明らかにしたいと、河内国司へ願い出た。そしてここに牓示を立てたのが最初で、集落名はその後に出来たものである」
とある。

※天田神社--交野市私市 1-30-11  (2021.02.06参詣・改訂)
 京阪交野線・河内森駅の東約250m、駅北の道を東へ、二股になった右側の道を道なりに進んだ先の左に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる由緒には、
 「当社は私市・森・両集落の氏神社で、住吉四神を祀る。
 古代、この地方は地味肥え作物豊かな野であったので甘野といわれ、川は甘野川、田は甘田であった。
 この甘田に田の神を祀って建てた甘田の宮が当天田神社の起源である。
 交野地方は肩野物部氏の所領で、その先祖・饒速日命(ニギハヤヒ)は天の磐船(アメノイワフネ)に乗って河内の哮ヶ峰に天降った、と先代旧事本紀に記され、長く交野の祭神となっていた。
 その物部氏が西暦577年敏達天皇の皇后・御食炊屋姫尊(後の推古天皇)にこの地を献じて、ここが私市部(キサイチベ)となったのであるが、平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
 その頃住吉信仰が流行し、一方磐船の神も海に関係あると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は饒速日命から住吉神に替わって今日に至っている。

 境内からは祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、また近くに物部氏のものと思われる巨大な古墳群が発見されるなど、当地の歴史の古さを偲ばせるものがある」
とある。

 交野町史には
 「当社の社地は私市領字天田にあるが、昔から私市・森両部落の氏神となっている。祭神は住吉四神である。
 又末社として八幡大神・厳島明神・西宮明神・玉津島明神・八阪明神の五社があり、現在は社務所の側に一社を設けて、そこに合祀している。

 弥生時代はじめて農耕の行われた頃、交野地方にはよい川水があって、稲のよく実る甘野(アマノ)又は甘田(アマダ)の称ある土地が広がっていたので、大和鳥見地方に起こった長髄彦及び饒速日命など鳥見の勢力は、磐船谷を下ってこの地方に伸び、その子孫交野物部一族の支配するところとなった。
 その後敏達天皇(30代)は、皇后豊御食炊屋姫尊(トヨミケカシヤヒメ)のために、全国所々に皇后領としての沃野をもとめたが、物部家が古くから経営をつづけたここの甘田は、その時后の宮の所領として選ばれ、以後この付近の村々が“きさいべ”(私部)及び“きさいちべ”(私市部)となった。

 こんな次第で、当時わが上代人にとっては、種をおせば食料となる稲が実ることさえ不思議だったのに、私部・私市間の田はその稲が豊かに実る、まことに不思議なありがたい田だとの感謝の祈りがこめられて、その田の上流の極まる土地に宮を建て、田の神を祀ったのが甘田の宮の初めであった。

 この宮は現在天田神社と称しているが、その最初は、この地附近の甘田(稲)を神と仰いだ甘田の宮で、それが後に天田神社と変わってしまった。

 昭和35年、当社の社務所附近の土中から様々な土師器片を発見したが、これは当時この宮の祭祀に用いられたもので、当社の古い年代を知る好資料である」
とある。

※祭神
   本社--表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯姫命
 元々は、上記のように自然神・甘田の神(水神か)であったが、平安時代に住吉四神に変更されている。

※社殿等
 当社鳥居は、当社前の道を挟んで南側にある“あまだのみやちどりこども園”の南に立つ。


天田神社・鳥居(右はこども園) 
 
同・社頭 

 広い境内の正面中央に、一間向拝を有する入母屋造・亙葺きの拝殿が南面(正確には南南西)して建つ。

 
同・拝殿(正面)
 
同・拝殿(側面)

 拝殿の背後、築地塀の中に唐破風・千鳥破風を有する二間社流造の本殿が鎮座する。
 外からは屋根部分か見えるだけだが、拝殿内陣からみると奥に本殿正面が見える。

 
同・本殿(右より)

同・本殿(左より) 
 
同・本殿(正面・内陣より)

◎末社
 拝殿右手、社務所の横に末社5社を祀る合祀殿がある。
 交野町史には、
 「明治4年の図には、塀の内に6末社(記録には5末社)が描かれているが、現在は社務所の側に一社を設けて、そこに合祀されている」
とある。
 合祀されてる祭神は下右写真の通りで、明治初年には既に祀られていたようだが、その勧請由緒等は不明。

 
末社合祀殿
   
合祀殿・祭神名

*奉納絵
 拝殿軒下の左右に2枚の絵が奉納されている(平成23年奉納)
 左の絵には、当社前面に田畑が広がる様を描いたもので、現在の当社附近は住宅地となっているが、当社の原点である“甘田”を描いたものであろう。
 右は当社祭礼の絵。


甘田の絵 
 
祭礼の絵

 なお、境内東奥の小川を渡った処に「川東神社」が鎮座する。当社に隣接しているため末社のように見えるが、無関係の別社。

※川東神社--交野市森南 2-2  (2021.02.06参詣・改訂)
 天田神社の東北約40m、天田神社の東を流れる三つ叉川(幅約1m強)を渡ってすぐの左に鎮座する小祠で、樹木に覆われているため注意しないと見過ごす。

※由緒
 境内に案内等なく創建由緒など不明だが、 
 交野町史には
 「森の氏神・川東神社は、西に天田の宮と隣り合って、三叉川の東側にまつられている。祭神は品陀和氣命。
 森林をうしろにして砂白く清楚な社である。その由緒は伝わっていない。

 当社の前に円柱状の灯籠の変形のようなもの一対が立っており、“寿永寺元皓”と僧名が刻まれている。
 この人はもと森向井家の出で、須弥寺本隆和尚に導かれて佐太来迎寺に入り、後江戸浅草の幡随院で修学し、遂に宗学の奥を研めたので、芝増上寺走誉によって江戸寿永寺の住職とせられた人。
 寛延年間父母の墓参のため森に帰り、当村領主大久保家のため大いに尽くすところがあったので、同家より、その宗家向井五衛門に扶持・馬・槍を許した。
 よって向井家では当社の前に長い広場を設けて、そこを調馬場とした。
 又この人は氏宮へ石鳥居を寄進したが、後それが倒壊したので、その材を用いて立てたのが現在社前にある石柱である」
とある。

 大阪府神社庁第三支部HPには
 「当社の創建年代は詳らかではないが、森地区は古来石清水八幡宮の所領であったことが知られ、平成12年には区域内の河内磐船駅北側より、平安時代の三宅山荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続くことが確認された。 
 また森地区の氏子は石清水八幡宮の勅祭石清水祭に御先払神人として毎年奉仕しており、未だに強いつながりを持っている。
 このような事から氏神として八幡大神である御祭神をお祀りしたものと思われる」
とある。

※祭神
 祭神は『品陀和気命』(ホムタワケ、応神天皇)で、第三支部HPにいうようにな石清水八幡宮との関係から勧請されたものであろう。


※社殿等
 境内北側の道路脇に鳥居が北面して立ち境内に入る。
 境内は南北に長く、中程で膨らんでいて由緒にいう“調馬場”の面影を残している。
 社殿の右側は森となっているが、これが当社の境内かどうかは不明。 

 
川東神社・鳥居
 
同・境内(中央に社殿あり)

 境内奥の右側(西側)基壇の上に一間社流造・銅板葺きの社殿が東面して鎮座する。
 社殿はまだ新しく、昭和の中頃に改築されたものらしい。

 社殿の前に笠状のものをかぶった石柱一対が立つ。
 由緒がいう“円柱状の灯籠の変形のようなもの”が是で、寿永寺元皓が建立し、その後倒壊した鳥居の柱を利用したもので、開いている四角い坑は鳥居の貫(ヌキ)を通した坑であろう。
 両柱とも文字が刻まれているが、摩耗していて判読不能。

 
同・社頭
 
同・社殿

同・円柱 


※若宮神社--交野市私市 6-618  (2021.02.11再訪・改訂)
 京阪交野線の終点・私市駅の西約250m、駅南の東西道路を西へ、国道168号線(磐船街道)へ出る一つ手前の角を北へ少し進んだ二又路(右に私市会館あり)を右へ入った先に鎮座する。

 祭神--本殿:住吉四神

※由緒
 拝殿前に掲げる「若宮神社略記」によれば、
 「当社は私市の氏神で、住吉四神を祀ってあります。
 当地区には天田神社(住吉神社を祀る)が古来より祭祀してありますが、元々この社は産土神を祀ったものと考えられます。
 上古、天孫・饒速日尊が天の磐船に乗って之の地方から(磐船宮)降りられ大和に入られ、その子孫が天乃川を中心として大和・河内地方に勢力を伸ばし、交野物部氏の強大な部族を形成したのでありますが、この部族の総社として磐船宮も船に乗って天降った天乃川文化圏との考え方と住吉信仰が混同し、いつの間にか住吉四神を祭神と過って伝承してきたのでありましょう。

 その後、宮座の事が解決せず、約290年前各村々(大和・河内)は磐船明神の分霊を御輿に乗せて持ち帰り祭祀しましたが、私市は古くから天田神社がありましたので、若宮神社と称号したのであります」

 また、交野町史には、
 「若宮神社は私市の南、磐船街道附近に参道をもつ南面した私市の氏神である。祭神は住吉四神。
 本殿及び拝殿あり、末社に春日明神及び外一社があったが、今はその礎石ばかり本殿の左右に残る(今、それらしい痕跡はない)

 私市には天田の宮があるのに、さらに若宮神社があり、昔から一村に二社となっている。

 江戸時代の宝永年間(1704~11)に、交野の星田・私市と生駒の田原・南田原村の惣社である磐船神社の宮座(氏子組織)の間で争いが起って解決せず、とうとう別れ話となって、村々は磐船神社の分霊を神輿に乗せて自村に持ち帰り、それぞれの村に、これ見よがしの立派な社を建てて住吉神を祀った。

 この時私市では、以前から住吉神の天田の宮があることから、田原から来る人によく見えるようにと、村の南の入口に鳥居を立ててこの宮を祀り、天田の宮に対して、こちらを若宮としたということになるだろう」
とある。

※祭神
  略記には
  祭神 住吉四神(但し天孫饒速日尊を起源とする)
とある。

※社殿
 二叉路右側の道路の突き当たりに鳥居が立ち、右脇に「若宮神社」との標柱と、「磐船神社配所・秋葉神社」と刻した小さな標石が立つ。


若宮神社・入口 
 
同・一の鳥居

同・境内 

 境内の北奥に二の鳥居が立ち、一段高くなった処に入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して立ち、その前に古い石灯籠数基が立っている。

 
同・社殿正面
 
同・拝殿

同・拝殿(側面) 

 拝殿背後、高い塀の中に春日造・銅板葺きの本殿が南面して鎮座するが、外から見えるのは屋根の一部のみ。
 ただ、内陣から奥をみると、春日造本殿の正面を見ることができる。

 
同・本殿(屋根のみ)
 
同・本殿(正面、拝殿内陣より) 

◎末社
*秋葉神社
 本殿左に切妻造の社殿があり、中に一間社流造の小祠が鎮座している。
 略記末尾に、「末社 秋葉明神社 元獅子窟寺境内に在 長慶天皇御霊社として祀ると思われる」とあるのが是で、明治初年の神仏分離によって獅子窟寺境内から当地へ移されたものであろう。


秋葉神社 
 
同・小祠 

 略記に「長慶天皇御霊社云々」とあるが、長慶天皇(在位1368~83)とは、南北朝時代の天皇で、北朝(北条氏)勢力が強大だった時代にあって南朝方の天皇として苦労され、各地を転々とされたという。南朝方としては、後醍醐天皇の2代後に当たる。
 この天皇について、交野町史には概略
 ・その在位については一般に知られていなかったが、大正初期の研究により在位が公認され、大正15年(1926)に98代天皇として皇統に加えられた
 ・その陵墓の場所は不祥だが、現茨城県北茨木市の竹内家が所蔵する古文書(大正13年発見)に「長慶陵は河内国交野郡私市村獅子窟寺内にあり」との記事があった--これが長慶天皇御霊社云々の出所であろう
 ・しかし調査の結果では、当寺内に長慶陵があったと決定するには至らなかった
とある。(今の獅子窟寺には長慶天皇に関連する痕跡はない)

 なお、この天皇が獅子窟寺に逼塞されていたとき北朝方の攻撃を受け(元中7年1390)、その地で崩御されたが、北朝方の目をはばかる南朝方が密かに葬ったのが陵墓が「百重原大神宮」で、その後、更に「秋葉明神社」と改称したという伝承があるという。

 因みに秋葉明神とは、江戸時代に流行した“火伏せの神”(火災予防)で、長慶天皇とは何の関係もない。


※星田神社--交野市星田 2-5-14  (2021.02.11再訪・改訂)
 JR学研都市線・星田駅の東南約1.2㎞、駅南から府道20号線へ出て、星田交差点から府道154号線を東へ、その突き当たりを南に折れ、星田会館前の細い道を東へ入った先に鎮座するが、最後の処がわかりづらい。

※由緒
 拝殿前に置かれていた「星田神社由緒書」によれば、
 「星田神社の創建の年月は詳らかではありませんが、伝えによると、現在本殿の住吉 四神をお祀りしたよりも遙か以前に、ここに一本の大杉があって、そこに当地の氏神として 当地方の交野物部の御祖である饒速日命(交野大明神)をお祀りしておりました。
 そして、この大杉が枯れた後も、その芯をご神体として大切に祀られておりました。

 その後、宝永年間(1704--11)総社である磐船神社の御分霊をお祀りするにおよび、交野大明神のお社よりも大きな神殿が建てられることとなりました。
 それ以降、交野社は古宮と呼ばれるようになり、また大杉も枯死したので、その芯を御神体としてお祀りするようになりました。 
 それは鎌倉か室町時代か、いずれにしろ当社最古の神であります。

 西井長和氏所蔵の天文4年(1535)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記載されております。
 また文化2年(1805)の三浦蘭阪著『川内奬撫古小識』には、当神社に正平21年(1366)の銘がある石塔があったと記されております。
 また八幡神社は元新宮山の頂上にお祀りされていましたが、明治維新の神仏習合整理によって、明治7年9月にここに遷されたものであり、昔は山城の男山八幡宮を本宮、こちらを新宮といわれました。
 平安時代、このあたりは石清水八幡宮の寺領荘園となり、この地域の守護神として八幡宮の御分霊を新宮に勧請したのが始まりです。
 明治5年に村社となり、同39年11月に星田妙見宮(小松神社)が星田神社境外末社とりました」

 また交野町史には、
 「星田神社は星田字向井にある。祭神は住吉四神を祀る。
 社殿は住吉造りとはせず春日造りとなっているが、これは奈良春日大社二十年毎建替の時、その旧殿を譲り受けたからである。

 当社には末社の数が多い。本殿の柵外、北に接して交野社あり、饒速日命を祀り、一般に古宮(コミヤ)といっている。
 宝永年間(1704--11)磐船明神の神霊をここに移して、現在本殿の住吉神社ができるよりもはるかに以前、ここに一本の大杉があって、村でそれを氏神として祀っていたが、後それが枯死したので、その芯を御神体とし、この古宮ができたと古老が伝えている。
 それは鎌倉か室町幕府の時代か、いずれにせよ当社最古の神であった。

 この社につづいて石段・鳥居の正面は八幡宮である。この社はもと新宮山の頂上台地にあったものを、明治維新神仏の分合勢理でここに移されたもの。昔は山背の男山八幡宮が本宮で、こちらは新宮だったという人もある。

 又この外に菅原社・西の宮社・琴平社・天照大神社がある。
 このうち琴平社は、もと当村慈光寺境内、本堂の乾にあったが、明治維新の際ここに移ったもの。
 なお当社の境外末社として小松神社がある。俗に妙見さんという。

 星田の古伝として、磐船明神はもと星田・私市・田原・南田原の総氏神だったが、宝永年間、この村々の間に宮座についての争いが起こり、その後磐船の神霊をそれぞれの村に移して祀ったといわれている。

 当社では大昔からここの土地に小さい祠を立てて饒速日命を祀った宮、すなわち現在本社の北側に古宮といわれる祠(上記杉の古木を御神体としたもの)があったが、磐船の総社をこちらへ移すというので、古宮より大きい住吉四神の神殿を建て、それ以来この社が主神の形となったのである。(中略)
 星田では、旧来の宮を故宮と称して一見末社の形として、その南に大きい住吉社を建てたから、この土地の昔からの氏神の存在が、後の人には分からなくなったのである」
とある。

 これによれば、当社は古く杉の古木を御神体とする交野大明神社に饒速日命を祀っていたが、磐船神社宮座の紛争により宮座が分裂したとき、磐船から住吉四神を勧請して新たな大きな社殿を造営し、これを住吉神社と称し、饒速日を祀っていた古社を交野社と称して是を残し、末社に列せしめたということになる。
 ただ、その交野社に素盞鳴命・大鷦鷯命(仁徳天皇)を合祀した理由は不明。

※祭神
 由緒書には
  本殿--表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長帯姫命(神功皇后)
とあるが、当社本来の祭神は饒速日命であったという。


※社殿等
 道路脇から小橋を渡り石段を登った上に鳥居が東面して立ち、境内に入る。
 なお、小橋の両側には小さな“放生池”がある。


星田神社・社頭 
 
同・鳥居

 境内正面に唐破風・千鳥破風付きの大屋根を有する入母屋造・銅板葺きの拝殿が東面して建つ。


同・拝殿 
 
同・拝殿(側面)

同・内陣 

 拝殿の背後、高い塀に囲まれた中に春日造・銅板葺きの本殿(奈良・春日神社より譲り受けた社殿)が東面して鎮座するが、
 塀と樹木に邪魔されて外から見えるのは屋根の一部のみで、拝殿内陣に入ると、その奥に本殿の正面をみることできる。


同・本殿(屋根の一部) 
 
同・本殿 

◎末社
 社殿の右側に小振りな鳥居が立ち、その奥に末社3社、左より交野社・八幡社・惠比寿社が東面して鎮座する。


同・末社群全景 

同・鳥居 

末社3社(左より交野社・八幡社・恵美須社) 

*交野社
 由緒書に
  ・祭神--天照国照彦天光り明櫛玉饒速日命・建速須佐之男命・大雀命オオササギ・仁徳天皇)
  ・当地の氏神として饒速日命を祀っていた交野大明神社が、住吉四神勧請により末社に貶められ古宮と称した
とあるのがこの小祠で、当社の元宮で最古の社。
 ただ、須佐之男命・大鷦鷯命2座を合祀する由来は不明。

*八幡宮
 由緒書に
  ・祭神--誉田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・大雀命(仁徳天皇)・竹内宿禰
  ・元新宮山頂上に祀られていたが、明治7年に此処に遷された
というのが是。

*惠比寿社
 由緒書には惠比寿・琴平社とあり
  ・祭神--事代主命(惠比寿社祭神)・大物主命(琴平社祭神)・三輪明神・市杵島姫命
とあるだけで、勧請由緒等は不明。

 
交野社
 
八幡社

惠比寿社 

*天照社・天満宮
 上記3社の右に小祠2社が西面して鎮座し、左の小祠は天照社(天照皇大神・稲荷大明神)、右は天満宮(菅原道真)とあるが、その勧請由来等は不明。

*祖霊社・庚申塚
 また、鳥居右手の低地に祖霊社と庚申塚(コウシンツカ・猿田彦大神)がある。
 庚申塚とは、60日毎に廻ってくる庚申の夜に徹夜して神を祀り延命長寿を願うという民俗信仰で、それが何回か続いたときに記念として築かれた塚で、この庚申塚は当地附近の何処かにあったものを移したものと思われ、当地附近でも庚申講が盛んであったことを示唆する(別稿・庚申信仰とは参照)

 
左:天照社、右:天満宮
 
祖霊社

庚申塚 

 なお、当社左に隣接して星田寺がある。

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