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天乃 神 社
大阪府守口市橋波東之町2-11
祭神--素盞鳴尊・誉田別尊・菅原道真
                                                       2020.03.18参詣

 京阪電鉄・西三荘駅の南約350m、駅南から南への道(守口・門真の市境)を道なりに進み、大通りに出る手前の小道を西(右)へ入った処に鎮座する。北に接して南詢寺と称する寺院がある。
 社名は“アマノ”と読むが、古くは“天農神社”(アマノ)とも記していたらしい。

※由緒
 鳥居脇に掲げる案内(銅板)には、
 「当天乃神社の創建年月は不詳であるが、奈良朝時代橋波集落が開発された頃、創建されたものと思惟され、少なくとも鎌倉時代既に信仰を集めていた。

 有名なる四條畷の戦は正平2年(1347)11月、楠木正成の子・楠木正行が山名時氏・細川顕氏等を住吉・天王寺に破り、翌年1月、門真に一番・二番・三番・四番、守口に五番・六番・七番・八番・十番の陣を築いた。
 この時の戦いで東橋波(現守口市橋波東之町)当天乃神社を本陣としたために当社は焼失された。
 後村上天皇の御宇正平の乱で社頭兵火を蒙ったが、霊元天皇御宇寛文10年(1670)領主・竹内門主良尚親王より菅原道真公の木像を下賜、再建せられ、合せて素盞鳴尊・誉田別尊を御鎮座せらる。

 東山天皇の御宇貞享4年(1687)8月朔日、牧野越中守より御祭神・市杵島姫神を下賜せらる。
 この御祭神は、その後、中御門天皇の御宇正徳2年(1712)8月、故あって摂社市杵島神社(現橋波西之町)として遷座せられる」

 大阪府全志(1922)に、
 「天農神社
 当社は字細久にあり、素盞鳴尊・誉田別命・菅原道真を祀れり。創建の年月は詳ならず。
 伝へいふ 正平の乱(1347--48)に社頭兵災に罹りて神霊は讃良郡に移り、後小祠を存したりしが、寛文10年(1670)、竹内門主良尚親王より、菅原道真の木像を下賜されて再建せりと。
 明治5年に村社に列し、大正4年神饌幣帛料供進社に指定さる。
 境内は346坪にして本殿・拝殿・社務所を存し、末社に厳島神社あり」
とある。

 これらによれば、当社は四條畷の戦いに際して社殿焼失というから南北朝以前からあったのは確かだろうが、その創建由緒・時期・祭神名等は不明。
 案内は、奈良時代の橋波集落の形成にともなう創建を想定しているが、これに関連して守口市HP(守口市の文化財)に、
 「当地・橋波東之町一丁目周辺には“橋波東遺跡”があり、弥生時代の甕の破片、奈良時代の墨書土師器、近世の下駄など弥生から近世のまでの遺物が出土している」
とあり、このあたりには奈良時代以前から人々が居住していたようで、そこから橋波集落が形成されたとみてもいいかと思われる。
 ただ、その時代に如何なる形態での神マツリがおこなわれていたかは不明で、この遺跡の存在あるいは集落の存在と当社とが如何なる関係にあるかは不明。

 案内は、楠木正行の本陣が当社に置かれたのが被災の原因というが、資料によれば、四條畷戦の主戦場は当社東方の現大東市北条(旧河内国讃良郡北四条)の辺りといわれ、当社とはだいぶ離れていることから当社被災が戦闘によるものかどうかは不祥で、戦後の残党刈りなどの混乱に中での被災かもしれない

 また、四條畷の戦いと当社再建時期との間が300年以上も開いているが、その間の当社がどうなっていたのか、また如何なる経緯で菅公の木像を下賜されたのかなども不明。

※祭神
 今の祭神は
  素盞鳴尊 ・誉田別尊(応神天皇) ・菅原道真
というが、
 案内によれば、この三神は霊元天皇・寛文10年に、領主・竹内門主良尚親王から菅原道真木像を下賜されて再建されて以降の祭神で、再建以前の祭神は不明。

 なお、竹内門主良尚親王(トミヒトシンノウ・1623--93)とは、第106代正親町天皇の孫・八条宮智仁親王の御子で、寛永11年(1634)に親王宣下、正保3年(1646)に天台座主、その後、明暦2年(1656)に曼寿院に入り院を洛北(現左京区一乗寺竹ノ内町)に移転して伽藍を整備、天和元年(1681)に曼珠院門主に任じられ竹之内門跡と称されたという(Wikipedia)

※社殿等
 瑞籬に囲まれた境内正面から入った参道の中程に鳥居が立ち、神額には天乃神社とある。

 
天乃神社・社頭
 
同・境内

同・鳥居

 参道の突き当たり、境内正面に大きな唐破風向拝を有する拝殿が南面して建ち、その奥に続いて流れ造の本殿が鎮座するが、拝殿右手に回り込んだ処から側面が見えるだけで、本殿構造等の詳細は不祥。

 ただ拝殿の奥、本殿区画に当たるとおぼしき処に社殿が安置され、これが旧本殿という。
 この旧本殿について、社頭に掲げる案内には、
 「現在の本殿に安置されている旧本殿は柿葺(コケラフキ)の一間社春日造で、向拝に慕股二個を並べた類例のない形式をもつなど、桃山ないし江戸初期の特徴がよく示されている貴重な建造物である」
とある。

 
同・拝殿

同・本殿(側面)
 

同・拝殿内陣
(奥に旧本殿がみえる) 

◎境内社
 当社には境内社3社がある。
 *祖霊社
  本殿の向かって右(東側)に鎮座する小祠で、参道奥に一間社流造の社殿が鎮座する。
  祭神--楠木正行・竹内門主良尚親王・牧野越中守・氏子祖霊

 
祖霊社・鳥居
 
同・社殿 

 *稲荷社
  本殿の左(西側)、朱塗り鳥居の奥に鎮座する小祠で、参道奥の覆屋の中に一間社流造の社殿が鎮座する。
  祭神--鳥居の神額には、正権大夫大神・正一位八助大神とある。

 
稲荷社・鳥居
 
同・社殿 

 *芸能神社
  本殿の左(西側)に鎮座する小祠で、朱塗りの鳥居列奥の覆屋の中に一間社流造の小祠が鎮座するが、一旦鳥居を出て鳥居の横から入ることになる。
  覆屋の右に「道開き 芸能神社」との石標が立つ。
  祭神--猿田彦命(道開きの神)・天宇受売命(アメノウズメ・芸能の神)

 
芸能神社・社標柱
 
同・鳥居
 
同・社殿

 なお、大阪府全志に「末社に厳島神社あり」とある。

 これが案内にいう、貞享4年 牧野越中守より下賜された市杵島姫をまつる社と思われるが、いま境内にはそれらしき小祠はない(本殿にも祀られていない)
 ただ、芸能神社から鳥居をはさんで反対側に柵に囲まれて数本の樹木が立つ叢があり(右写真)、その位置から、この場所に市杵島姫神を祀る厳島神社があったかと推測されるが、その痕跡はみえない。

 今、橋波西之町にある市杵島神社が厳島神社の後継社というが、これが当社の境外摂社なのか、当社と縁が切れた神社なのかは不明。(別稿・市杵島神社参照)

 

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