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熱田神社
(熱田大明神社)
大阪府寝屋川市太秦中町4-13
祭神--日本武尊
                                                  2020.01.06参詣

 京阪電鉄・寝屋川市駅の東約1.6km、駅東広場の北東角・早子交差点から北東方へ、道なりに直進して国道170号線(外環状線)を越えた先、打上川治水緑地北西角を右折(南へ)、左側3っめの角(ちょっと分かりにくい)を左折(東へ)した先に鳥居が西面して立つ。

※由緒
 境内に案内なし。
 大阪府神社庁第三支部HPによれば、
 「太秦の字山崎に鎮座する熱田神社は、太秦の氏神であり、日本武尊を祭神としている。
 神社には、次のような言い伝えがある。
 古くは太秦には氏神がなかった。ところが室町末期の石山本願寺方に属していた一浪人が、秦の地に落ち着いて寺小屋の師匠をしながら、折にふれ自分の郷里(尾張国熱田)の熱田神宮の尊さを説いた。
 その話に感銘した太秦の人々は、相談のうえ尾張国熱田から神霊を氏神として勧請したという」
という。

 当社の創建時期についての記述はないが、“石山本願寺方の一浪人云々”ということから、この浪人は、織田信長の大坂・石山本願寺攻め(天正4年-1576)の際に本願寺方について戦った武士と思われ、これからみると、当社の創建は16世紀末から17世紀初頭にかけての頃かと思われるが(江戸前期)、資料なく詳細不明。

◎太秦廃寺跡(ウヅマサハイジアト、国府市指定文化財)

  当社は太秦廃寺(ウズマサハイジ)跡といわれ、境内隅に立つ 案内(鉢かづき姫)には
 「ここ熱田神社境内からは、昔から古亙が出土し、礎石に使用されたとみられる巨石が多く認められ、付近一帯が古代の寺院跡であることが知られています。
 出土した古亙には重圏文丸亙・唐草文平瓦があり、奈良時代後期から平安時代前期に属するものです。

 秦(ハタ)・太秦(ウズマサ)の地は、寝屋川市域でも早くから人々が足跡を残した地域の一つであり、役1800年前の弥生時代には、丘の上に全国的にも有名な高地性集落が営まれていました。
 その後形成された太秦古墳群は、わが国の古代史に多大な影響を及ぼした秦氏の人々の墓と考えられています
 また昭和37年(1962)には、神社の東の山の土採り工事中に全国でも珍しい牝鹿の埴輪(頭部)が出土しました。

 太秦廃寺跡の実体については不明な点が多くありますが、広隆寺末寺別院記に記載されている『河内秦寺』にあてる説もあります。寝屋川市
とある。
 
太秦廃寺跡 ・案内

 当地付近には秦氏が居住していたというから、彼らが建立した寺があってもおかしくはないが、今、当地にその痕跡はなく、又これに関する資料もみあたらず詳細は不明。(東大阪市河内町との説もある)

※祭神
  日本武尊(ヤマトタケル)

 当社の勧請元である尾張の熱田神宮は日本武尊に関係する神社であることから、当社が日本武尊を祀るのは順当といえる(別稿・熱田神宮参照)


※社殿等
 道路の北側に鳥居が西面して立ち、神額には“熱田大明神”とある。
 当社の鳥居には中程に注連縄が張られ、鳥居をくぐることはできないという珍しい形をしている(正月だけのことか)
 鳥居をはいっての小さな広場の左奥(東北部)に〆鳥居が立ち、石段を上って境内に入る。


熱田神社・社頭
 
同・鳥居
 
同・小広場

 広場東北隅の石段を上った上が境内で、正面に入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して立つ。
 拝殿奥に短い弊殿を介して入母屋造・瓦葺きの本殿が南面して鎮座するが、周りの樹木が邪魔をして詳細はみえない。

 
同・拝殿
 
同・拝殿

同・本殿

 境内左側に、本殿側(右)から『忍穂耳尊社』・『若宮社』の2社が並び、覆屋の中に一間社流造の小祠が鎮座しているが、
 勧請由緒・時期等は不明。


末社・若宮社 
   末社・忍穂耳尊社

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