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八 幡 神 社
大阪府寝屋川市八幡台11-5
祭神--誉田別命
                                                     2020.01.06参詣

 京阪電鉄・寝屋川市駅の東北東約1.7km、駅北を東西に走る府道18号線を東へ、国道170号線(外環状線)を越えて進み、打上川治水緑地の北西角から北へ橋を渡り、打上川北岸沿いの道を東へ進んだ北側、民家に挟まれて〆鳥居らしきものが立ち参道へと続く。

※由緒
 境内に立つ案内には、
 「秦河勝の勧請と伝えられている。
 元和9年(1623)の棟札には、『奉管上(勧請)宇佐八幡宮御社』と書かれている。
 明暦3年(1657)の灯篭、寛文2年(1662)の鳥居がある。
 明治5年(1872)、旧秦村(東は池の瀬村、西は本町までの広い範囲)の氏神として村社に列せらる。
 昭和10年(1935)、大雨で裏山が崩れ神社も倒壊、同11年(1936)10月再建。
 平成24年(2012)9月5日焼失、同28年(2016)12月20日再建」
とある。


 案内によれば、当社は“宇佐八幡宮から勧請した神社”であって、秦河勝の勧請と伝えられているというから、古く、当地一帯に居住していた秦氏が関係した神社であろう。
 秦氏とは、5世紀から6世紀にかけて朝鮮半島からやってきた渡来人で、書紀・応神14年条に、
  「この年、弓月君(ユヅキノキミ、別名・、融通王)が120県の人民を率いてやってきた。・・・」
とある弓月君を祖とする渡来系氏族で、新撰姓氏録(815)
  「左京諸藩 太秦公宿禰 秦始皇帝三世の孫・孝武王より出る也」
とあるように、中国秦の初代・始皇帝(紀元前3世紀末)からでた氏族という(異論あり)

 秦氏は、山城国葛野郡太秦(現京都市右京区太秦)を本拠として広く各地に展開していたといわれるが、姓氏録に
  「河内国諸藩 秦宿禰 秦始皇五世孫融通王の後也」(融通王=弓月君、他にも5氏あり)
とあるように河内国にも展開していたようで、寝屋川市内に“秦”・“太秦”(太秦元町以下6ヶ所)の地名が残る(江戸時代:秦村・太秦村あり)ことからみて、この辺りに居住していたのは確かなようで、彼らが氏神社として奉祀したのが当社と思われる。

 案内は、当社は“伝秦河勝勧請”という。
 秦河勝(ハタ カワカツ)とは、聖徳太子(574-622)に仕えた秦氏の長で、書紀・推古天皇(在位:592--628)段に
 ・11年(603)10月1日 天皇は諸大夫に『私は尊い仏像を持っているが、誰かお祀りする者はいないかといわれた。
  そのとき、秦造河勝が進み出て『臣がお祀りしましょう』と申しあげ、仏像を頂いて蜂岡寺(今の広隆寺)を造った。
 ・18年(610)10月8日 、新羅・任那の使者が都に到着した。この時、秦造河勝と土師連兎に新羅の導者を命じられた。
 また皇極天皇(在位:642--45)3年(644)条に
 ・富士川の辺りで、大生部多という男が、長さ4寸ばかりの虫を指して、『この虫を祀れば、貧しい人は富を得、老人は若返る』といってこの虫を祀ることを勧めた。この信仰は広がり、都でも田舎でも多くの人がこの虫を祀ったが、何の利益もなく損失が多かった。
 河勝はこれを憎み、大生部多を捕らえて打ち懲らしめた。
等の逸話があり、7世紀前半頃に実在したのは確かといえる(その後、いろんな伝説が付会され半ば神話的な人物となっている)

 ただ、7世紀前半頃の八幡神は豊前国宇佐の地方神に過ぎず、未だ中央には知られていなかったはずで(八幡神が中央に知られたのは8世紀中程の東大寺大仏開眼以降)、河勝が八幡神を勧請したというのには疑問がある。
 あえて強弁すれば、秦氏は中央に進出する前に豊前国(今の大分県北部一帯)に居たとの伝承があり、その頃から崇敬していた地方神・八幡神を勧請したといえなくもない。
 (中国古文書・隋書東夷伝の、倭国に遣わされた使者・文林郎斐清の記録のなかに、『次に東の秦王国に至る。その人々は華夏(中国)と同じようで、云々」とあり、ここでいう秦王国には秦氏一族が住んでいたとの説がある)

※社殿等
 打上川沿い道の北側に2本の角柱が立ち、竹竿が横に掛かっている。所謂〆鳥居の類かと思われるが注連縄は掛かっていない。
 八幡神社と白抜きした紫色の幡が立ち並ぶ参道の途中に、一の鳥居が南面して立つ。

 
八幡神社・入口
 
同・参道
 
同・一の鳥居

 社殿は、案内に記すように平成24年焼失、同26年再建ということから未だ新しい。
 ただ、社殿構造はコンクリート造で、朱塗りの柱・梁に白壁、屋根は緑かかった銅板葺きという近代的な建築で、嘗ての面影はない。

 拝殿は、切妻造平入り三角屋根の向拝付きの建物が西面して建ち、こぢんまりとしているが、神社拝殿としては近代化過ぎてちょっと違和感を覚える。


同・拝殿(正面) 

同・拝殿(側面) 
 
同・拝殿内陣

 拝殿の裏、弊殿を介して切妻造平入りの本殿が西面して鎮座するが、内陣を伺う術はない。


同・社殿全景(左:拝殿・右:本殿) 
 
同・本殿(側面)

 境内奥に朱塗りの稲荷社が西面して鎮座するが、どの神社にもある稲荷社で特記するものはない。

 また、本殿の左に井戸があり、傍らの案内には、
 「井戸の中の地蔵さんと雨乞い
 雨が降らず、池の水も干上がって旱魃が起こると、八幡神社で雨乞いが行われました。
 井戸の底におられるお地蔵さんに、雨を降らせてくださるようお祈りするのです。
 近隣の住職や全村民が交替で参加し、数日間行われたようです。
 元治元年(1864)の『秦村雨乞い日記留』によると、地蔵さんを引き上げ、お供えや注連縄を張って準備ができると、一つの大きな数珠を繰り回しつつ皆で念仏を唱える百万遍をしたり、宮さんと鳥居の間を太鼓を叩いて『雨たんと降ってんとん』と言いながら五百度を踏んでお祈りしたことが書き残されています」
とある。

 井戸には竹製の蓋が掛かっているが、勝手にあけて見ると円い井戸の上端近くまで水で満ちていたから、今もって水が湧いているらしいが、今、この底にお地蔵さんがおられるのかどうかは不明。

 
末社・稲荷社

雨乞いの井戸 
 
同 左

 雨乞い井戸の左に苔生した古い石灯篭が立っているが、ここで数年前に珍しい現象が起こったそうで
 傍らの案内には、
 「現場事務所で八幡神社再建工事の打ち合わせをしているとき、何気なく外をみると、灯篭の後ろにまるで日輪のような神々しい光りの塊が見え、一瞬、地中から光りがあふれたかと思いました。
 ほんのひとときの出来事で、カメラに収めるのがやっとでした。平成26年10月16日 16時16分
とあり、その時の写真が添えられている。
 その写真によれば、確かに灯篭後ろの山裾に光りらしい塊(下右写真の赤い処)がみえるが、これが如何なる現象かは不明。


石灯篭 
   
光塊の写真(部分)

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