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飛 来 神 社
大坂府守口市佐太中町1-3
祭神--天之御中主神・菅原道真公
                                                 2020.06.09参詣

 京阪電鉄・門真駅から発する大阪モノレール・大日駅の北北東約800m、民家密集地の仲に鎮座する。
 庭窪小学校の西に当たるが、目印となるものなく地図必要。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「佐太天満宮 旧御旅所  飛来神社
 当社の創建年月日は詳らかではない。
 しかし、佐太天満宮の宝永4年(1707)の古文書によると、『往古より佐太天満宮の夏まつりには、五番御旅所まで御輿の渡御をしていたが、道路も悪いうえ御輿も損じたので、境内壱の鳥居の浜にて渡御祭をしたい』と、大阪番所に届けた記録があります。
 これからいくと、宝永4年当時には既に斎場が整い、佐太天満宮の御旅所であったことになります。
 その後江戸中期に、天之御中主神が勧請されて祀られてきましたが、昭和35年に菅原道真公を合祀した」
とあり、
 その横に大阪番所へ提出した口上書(写し)
 「恐れ乍ら口上覚
 河州茨田郡佐太天満宮夏祓、往古より六月十五日相勤の則ち五番村御旅所え出御にて御座候処、御輿損じ申すに付、行幸近年怠り申候。茅輪の祭(五穀豊穣の祭)等は今に執行仕り候。
 御輿修覆仕候間、鳥居の浜(天神浜)に御輿かきて右御安座の内水辺にて名残の祓(御旅所の祭)仕度願奉候 以上
                宝永四年亥五月卅一日  宮本庄屋善助(4名連記)
   木寺源右衛門殿
   中嶋瀬兵ヱ殿
 右之通り大阪御番所え願申度存じ奉候」
との写しが掲げられている。

 これらによれば、佐太天満宮(佐太天神社ともいう)の御旅所が当社の前身で、江戸中期初頭まで御旅所であったのは確かだが、口上書に「御輿修覆仕り候間・・・」とあり、御輿修覆以降も御旅所として存続したかどうかは不祥。

 ただ、案内に「江戸中期、天之御中主神(アメノミナカヌシ)を勧請」とあることからみると、宝永4年以降の近い時期に御旅所から独立し、天之御中主神を祭神とする神社へと変貌したかと推測される(ただ、社名・飛来が何に由来するのかは不明)
 また、佐太中町7丁目に鎮座する佐太天神社の一の鳥居からつづく参道の脇に御旅所と称する小祠があり、これが案内にいう“壱の鳥居の浜”の跡かもしれない(別稿「佐太天神社」参照)

 なお、案内がいう天満宮の夏祭りとは、口上書に“天満宮夏祓”・“6月15日”・“茅輪の祭”とあることからみると、毎年6月末に行われていた“夏越の祓”(ナゴシノハライ、半年間に貯まった穢れを祓う神事、今でいう茅輪くぐり、暮れにも同様の神事がなされたという)を指すと思われ、口上書がいう“名残の祓”とは夏越の祓いのことであろう。


※祭神
  天之御中主神(アメノミナカヌシ)・菅原道真公

 天之御中主神とは、古事記に
 「天地(アメツチ)の初めて発(ヒラ)けし時、高天原に成りし神の名は、天之御中主神・高御産巣日神(タカミムスヒ)・神産巣日神(カミムスヒ)
  この三柱の神は、みな独神と成りまして身を隠したまひき」
とある神で、神名からみると“天界の中にいる主となる神”となるが、同時に成りでた高御産巣日・神産巣日神とは異なり、何らの事蹟も記されておらず、古い神社の中でこの神を祀る社はない(書紀には、神代紀1段一書4に天御中主尊としてみえるが何らの事蹟は記されていない)

 ところが、記紀神話を神仏習合・本地垂迹説あるいは反本地垂迹説などから解釈した中世神話になると、天之御中主神は世界を創造し支配する最高神とみなされるようになる。
 その一つ、伊勢神道系(外宮神官を中心とするもので、度会神道・外宮神道ともいう)では伊勢外宮の神・豊受大神の異名同神ともいうが、これは、天之御中主神の事蹟がないことから自由度が高く、外宮の神・豊受大神に付会したものと思われる。

 当社が江戸中期に天之御中主神を勧請したのも、このような風潮の中でのことだろうが、妙見信仰(星辰信仰)では、主神・北辰妙見菩薩(北斗七星の化身)が神道と習合して天御中主神となっているから(仏教系では北辰妙見菩薩)、当社でも妙見さんとして祀られたのかもしれない(別稿・妙見信仰とは参照)


※社殿等
 道路脇にある小さな森の中に鎮座する。
 鳥居はなく、注連縄を渡した門(祭の時に提灯が下がると思われる)から境内へ入る。
 小さな境内の奥に、小さな鳥居が立ち、その奥すぐに切妻造・平入りの社殿が東向して鎮座する。
 社頭の案内に“旧御旅所”とあり、今、佐太天満宮との関係がどうなっているかは不祥。

 
飛来神社・全景
 
同・入口
 
同・境内
 
同・鳥居
 
同・社殿

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