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市杵島神社
大坂府守口市橋波西之町3-11
祭神--市杵島姫神
                                                    2020.03.18参詣

 京阪電鉄・守口駅の東北東約450m、駅南から東へ延びる道路の南側住宅地の中に鎮座するが表通りからは見えない。
 道路左側の創価学会会館を過ぎた辺りから南(右)への小路を入り(目印になるものはない)、次の角を左折した処に鎮座するが、入口を間違うとうろうろすることになる。

※由緒
 社頭に掲げる案内(銅板)には
 「当社御祭神は、東山天皇の御宇・貞享4年(1687)丁卯8月朔日、牧野越中守り下賜せらる天乃神社に合祀せらる。
 其の後、中御門天皇の御宇・正徳2年(1712)壬辰8月故あって当社に遷座せられる。
 以後、此方御宮極めて御質素なるが、郷土の鎮守として御神徳を顕し住民の信仰を高め遙か地方の人々よりも深く御崇敬せられ、又は安産の神様として時に女人の祈願多く、霊験の真に顕著なりし由申し伝えている。

 之れ乃ち大古にして既に男女自由平等の護権を尚び、福徳円満商売繁昌の理は即ち家庭にあり、女人こそ聡明にして殊に強くあるべしと宇宙倫理の大本を示し、有縁衆生済度の御誓願を起し様々のお姿を現して下界に御出現し給う。かかる大慈悲の御願こそ真に奇特なるとは申すべけれ。

 そもそも弁財天とは俗に弁天様と愛敬せられ、大自在天にて、天宮では大日、須弥上では弁財、下界では天照大神と顕れ給い、曼陀羅の八葉の中にあり、四仏四菩薩中央大日の九尊を以て九生如来と云い、九生如来の御再誕なりとも申される。(以下略)
とある。

 当社は、貞享4年に天乃神社に下賜・奉斎されていた厳島神社(市杵島姫神)を、正徳2年に“故あって当地に遷座せられた”というが、そこに如何なる経緯があったのかは不明。
 通常、ある神社が他所に遷った場合、元の地にも何らかの形で残るのが普通だが、今の天乃神社に厳島神社の痕跡は見えない。

※祭神
   市杵島姫神(イチキシマヒメ、別名:瀛津島姫-オキツシマヒメ・狭依毘売-サヨリヒメ)

 市杵島姫とは、天の安川でのアマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって成りでた所謂・宗像三女神の一柱で、宗像神社・辺津宮の祭神。
 元々は航行安全(特に玄界灘の海上交通)の守護神であったが、次第に海の神・水の神・安産子育ての神などの神格が加わり、特に弁財天と習合することによって財宝・蓄財の神へと変貌したという(その典型が厳島神社)

 弁才天とは、ヒンドゥ-教での河川の神(サラスヴァティ河の化身という)・水の神である女神・サラスヴァティが仏教に取り込まれたものだが、次第に芸術・学問等をも司るようになり、奈良時代に中国を経てわが国に伝来したという。

 わが国では、神仏習合のなかで同じ水の神である市杵島姫と同一視されるようになり、特に財宝・蓄財を司るとの側面に信仰が集まった弁財天(辨財天)と記されるようになり、江戸時代になると、七福神中唯一の女神としての弁財天が定着したという。
 (上記案内に、「そもそも弁財天とは大自在天にて・・・」というのは、神仏習合思想からみた弁財天をいうのだろうが、その内容は「曼陀羅八葉・・・」というように密教的色彩が強く、四仏四菩薩大日とは胎蔵界曼陀羅の中央部に描かれた9仏を指す)

 当社でも、上記案内に「そもそも弁財天とは・・・」といい、社頭に辨財天と刻した社標が立つように、市杵島姫神というより福の神としての弁財天として信仰されてきたらしい。

※社殿等
 民家に囲まれた小さい小区画の南側小路脇に鳥居が立ち、境内に入る。境内は狭い。
 鳥居の右前に立つ社標には、正面に市杵島神社、側面に辨財天と刻してある。


市杵島神社・社頭 
 
同・境内
 
同・社標

 拝殿は、入母屋造・銅板葺きの簡素な社殿で、その裏、拝殿に接続して間口二間・奥行き三間の社殿が突き出ている。
 この部分が本殿の覆屋で、中に小さな本殿(一間社流造らしい)が鎮座している。


同・拝殿 
 
同・本殿(覆屋)
 
同・本殿(拝殿の奥)

 本殿右、朱塗りの鳥居の奥に小さな社殿があり、正面格子戸から覗くと、小さな鳥居と白狐像をもつ稲荷社が鎮座している。

 
同・稲荷社
 
同・内陣 

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